ハーバート・ノルマンがエジプトのカイロで自殺した(1957年4月4日)とする報道が
新聞に掲載され、日本の政治思想史学者である丸山真男(1914~1996)は、非常に
驚き、追悼文「ハーバート・ノルマンを悼む」を二日間に渡り、毎日新聞に掲載した。
Herbert Norman(1909~1957)ハーバート・ノルマンは、日本から届けられた映画
修禅寺物語(1955年7月12日公開)を、シネマ・オデオンで観た後、カイロの街を歩き
ナイル川通りを抜けて、建物の上から飛び降りて自殺。47歳だった。ハーバート・ノルマン
は、1909年9月1日、在日カナダ人宣教師ダニエル・ノルマン(1864~1941)を
父として、長野県軽井沢町で生まれた。ダニエル・ノルマンは、メソジスト派の宣教師として
1897年に来日し、1902年から1940年まで長野市に定住し、廃娼運動や禁酒運動に
尽力した。その後、長野県軽井沢に別荘を持ち、外国人避暑客らと共に、別荘地開発に協力
した。来日した1897年に、軽井沢合同協会(ユニオン・チャーチ)を設立し、多くの信徒
を集めた。1929年に、長野福音学校を設立し、賀川豊彦(1888~1960)を招いた
ダニエルは、農家出身だったので、農業にも詳しく、稲作以外の換金作物として、地域に
トマト栽培を紹介した。ダニエル・ノルマン邸は、現在、長野市の指定文化財として、保存
されている。母は、キャサリン・ノルマン、姉は、グレース・ノルマン。兄であるハワード
ノルマン(1905~1987)は、軽井沢で生まれ、トロント大学を卒業し、アメリカの
ユニオン神学校で神学を修め、1932年に、父の跡を継ぐために来日し、1939年に、
神戸市のカナディアンアカデミーの施設長に就任したが、太平洋戦争が勃発し、カナダ人に
帰国した。戦争後の1947年に再来日し、関西学院大学文学部英文科の教授に就任した。
1952年に神学部の教授に就任。1961年に再び、来日し、長野県塩尻市に塩尻アイ
オナ教会を設立し、妻グエンと共に、日本におけるカナダ・メソジスト派の宣教の歴史を
まとめた著作を出版した。その他、芥川龍之介の作品の英語訳を著した。弟のハーバート
ノルマンは、15歳まで日本で暮らした。その後、父が卒業したトロント大学に入学し、
1933年にケンブリッジ大学で歴史学(中国史・日本史)を研究し、1935年に同大学
を卒業した。それから、ハーバード大学に入学し、1939年に同大学を卒業した。軽井沢
の教会で両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワー(1910~1990)の元
で日本史を研究し、「社会主義者」を自称したハーバード大学講師の都留重人(1912~
2006)と親交を結んだ。大学を卒業した後、カナダ外務省に入省し、1940年に東京
の公使館に語学官として赴任した。公務を勤める傍ら、東京帝国大学を頻繁に訪ねて、近代
日本史の研究に没頭し、羽生五郎(1901~1983)に師事し、明治維新について学んだ
丸山真男と親交を結んだのもこの頃である。1941年12月、日本は太平洋戦争に突入し、
ハーバート・ノルマンは、日本政府により、軽井沢で軟禁状態に置かれたが、翌年、日米間
で行われた交換船でカナダに帰国した。第二次世界大戦後の1945年9月、アメリカ合衆国
政府の要請を受けて、カナダ外務省から、GHQ の対敵諜報部調査分析課長として出向し、同
年の1945年9月27日付けで、GHQ 側の日本語通訳として、昭和天皇との交渉に当たっ
た。政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民生局次長チャールズ・L・ケーディス
の右腕として活躍した他、戦争犯罪人容疑者調査を担当し、当初は戦争犯罪人に指名されない
と見られていた近衛文麿(1891~1945)と木戸幸一(1889~1977)をA 級
戦犯と認定し、起訴する為に「戦争責任に関する覚書」を作成した。近衛に対して逮捕令状
が出されたのは1945年12月6日、近衛は出頭日の同年12月16日に自ら命を絶った。
国際連合軍占領下の日本の民主化計画を推進し、日本研究の学者として、安藤昌益(しょうえ
き)(1703~1762)を再評価する論文を発表した。その後、第二次大戦後の冷戦下
にあって、Red Purge 赤狩り旋風が吹き荒れる中、ハーバート・ノルマンは、共産主義者
であり、ソビエトのスパイではないかとの疑惑が浮上し、合衆国政府の圧力を受けたカナダ
政府が数回に渡って審問をおこなった。1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議の
カナダ代表主席随員に就任。アメリカ合衆国政府の圧力から逃れさせるべく、1953年に
駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、1956年には、駐エジプト兼レバノン大使に
任命され、同年に起きたスエズ動乱では、現地の平和維持と監視の為の国連緊急軍導入に寄与
し、高い評価を得たが、都留重人を取り調べた FBI 捜査官による合衆国上院における証言に
よって、再度、ハーバート・ノルマンは、共産主義者であり、ソビエトのスパイであるとの
疑いを持たれ、追い詰められて、カイロで自殺した。カナダ外務省は一貫して、ノルマンの
スパイ説を否定し、功績を称えて、2001年5月29日に、在日カナダ大使館の図書館を
E.H.ノルマン図書館と命名した。ハーバート・ノルマンが新憲法起草を指示されたのは、
1945年10月だった。ノルマンがハーバード大学の博士論文として執筆した著書「日本
における近代国家の成立」は、GHQ が日本理解のバイブルとして活用した。それは、戦前
の日本人を、人民の生活と諸権利を犠牲にし、封建的要素を色濃く残す歪んだ近代社会と指弾
する内容だった。ノルマンは、マルクス主義の憲法学者である鈴木安蔵(1904~1983
を訪ね、「今こそ、日本の民主化のために、憲法改正を実行に移す好機だ」と述べて、憲法
草案作成を働きかけた。治安維持法適用第1号の京都学連事件で検挙された鈴木安蔵は、この
ノルマンの助言を受け、天皇制廃止を主張していた元東大教授の高野岩三郎(1871~
1949)と憲法研究会を結成し、1945年12月26日に、政府の改正案より一か月早く
憲法草案要綱を発表した。GHQ は、この草案をベースにして、最終草案を策定した。その過程
でノルマンは、鈴木に質問した。
「君たちの憲法草案も天皇制を廃止とする共和制ではないが、どういうわけか」
鈴木はノルマンに答えて言った。
「今の状態では、天皇制廃止の国民的合意を得るのは難しい」
ノルマンは、鈴木に反発して言った。
「今こそ、チャンスであるのに、またしても、天皇が存在する改革案であるのか」
また、1945年10月5日、東京府中刑務所を訪問し、志賀義男(1901~1989)
と徳田球一(1894~1953)ら共産党の政治犯に GHQ 指令における釈放を告げた。
ハーバート・ノルマンは当時、アジア太平洋戦争の原因を知る唯一の人だったので狙われた
のではないか。日本では1949年から1950年にかけて、共産党員を公職から追放する
Red Purge 赤狩りが GHQ 主導のもとで、大規模に行われたが、ハーバート・ノルマンは、
共産主義者であり、ソビエトのスパイであるとの疑惑を持たれて、GHQ を背後で操る CIA
に追跡された。昭和天皇とダグラス・マッカーサーの交渉の仲立ち役を勤める通訳であり、
重要な機密を知る立場にあり、昭和天皇の戦争責任を免除とした GHQ の決定に対して自死
を以って抗議したのではないかとも推察される。追記として、安藤昌益とは、
(1703~1762)出羽の国の人。江戸時代中期の社会思想家、医者であり、封建社会
と儒学・仏教を批判し、万人が生産に従事し生活する「自然の世」を唱えたことで知られる。
結果論であるが、戦勝国は自分たちの祖国と世界人類の存続を放棄してまでも、日本の皇室の
存続を希望したのである。自分たちの祖国と世界人類の没落は甚だしくて目も当てられない。