イスラム文明からは、日本は、「腐った仏教徒の国」として馬鹿にされている。日本仏教は近代化
(西欧化)の妨げになるという理由で、「邪魔」として排斥されたために(1868年、神仏分離令、
廃仏棄釈)衰退した。以上のような歴史上の経緯があるので、「暴力によって腐らされた仏教徒の国」と
言っていただいた方がより正確である。アフガニスタン中部に位置するバーミヤンは、6世紀から8世紀
にかけて、仏教が栄えましたが、2001年3月、イスラム原理主義のタリバンによって、仏教遺跡は爆破
されてしまいました。イスラム文明から批判や嘲笑を受けて、ぐうの音も出ないので、西欧文明批判に向
かうことになる。日本人としては、「裸のマハ」などで知られるフランシスコ・デ・ゴヤ(1878~1921)が悪
いためにと直感的には考えるが、学術的には、Leonardo Da Vinci (1452~1519) 作で、原画破棄のため
に、弟子のチェザーレ・ダ・セストの模写とされる、「レダと白鳥」に対する人気(業者の思惑もあるが)と人
生の苦悩・不正に対する義憤の巨匠である有名な Michelangelo Buonarroti (1475~1564)ミケラン
ジェロに対する無関心さに深く関心を抱くべきである。ルネッサンス期には、人々の生活を混乱させる作
品に対して教皇庁は、投獄、原画、原版の破棄令という文化政策・秩序政策を行っていたが、当時として
は、投獄ではなくて、二種類の内の一種類のギロチン刑が適用されるべきであった。西欧文明は、15世紀
から18世紀にかけて、およそ4万人から6万人を魔女狩り裁判で処刑しましたが、女性に対して、差別で
はなく、観察で臨む態度である仏教文明にあっては、女性の成仏が困難である5つの理由を提婆達多品
第十二において、3番目の理由として、舎利弗が三には魔王なり。と述べていることが感慨深く思われる。
レオナルドの戦いの背景には、ローマ数字とインドアラビア数字の激しい覇権の争いがあったと推理する
ことができる。南ヨーロッパが腐ってしまったら、北ヨーロッパまでも腐ってしまう。しかし、教皇庁の関心
はすでに15世紀には、正義を放棄していたのかも知れない。ギロチン刑より、火あぶり刑より世界商業
通商主義に関心をいだいていたとも推理される。ミケランジェロの苦悩も深まるばかりであったことだろう
とも。上述、考察も、アメリカの国際政治学者サミュエル・フィリップス・ハンチントン(1927~2008)
からすれば、西欧文明の文化に対する、経済成長が進展した日本文明からの、挑戦的な態度と判定さ
れるかも知れない。冷戦後、非西欧文明は、西欧文明の支配から脱出しようとしているのである。ハンチ
ントンは、1996年に出版した「文明の衝突と世界秩序の再構築」の中で、現在の諸国家を現存する7、
または8の主要文明に区分することを提案しました。その主要文明の一つが、西欧文明であり、8世紀に
成立し、キリスト教を母体とする文明圏で、19世紀から20世紀にかけては、世界の中心的文明として
栄えたが、冷戦終結後は、台頭する中国文明及びイスラム文明に対抗するためには、団結する必要が
あると指摘しました。冷戦期は、二つの超大国アメリカとソビエトに対して、世界の諸国家は、同盟国、
衛星国、依存国、中立国、非同盟国のいずれかに属していたが、冷戦終結後は、文明を構成する構成
国、文明の中核国、文化を共有しない孤立国、二つ以上の文化的集団によって引き裂かれた分裂国か
ら成る。イスラム文明は、7世紀に出現したイスラム教に基づく文明圏であり、その戦略的位置、人口の
増加、石油資源等により勢力を拡大している。そして、日本文明であるが、2世紀から5世紀にかけて、
中国文明の影響を受けて成立した一国のみで構成されている孤立文明である。この見解については、
「日本はジャマニー(ドイツ)と似ている文明である」とするエマニュエル・トッドの反論があります。
中国文明は、紀元前15世紀頃に成立し、儒教(孔子を祖とする教学で、四書・五経を経典とする)に基づ
く文明であり、中国国外に在住する華人の勢力とともに拡大している。この文明圏は、中国を中核国とし
て、北朝鮮・韓国・台湾・ベトナム・シンガポールから成る。インド文明は、紀元前20世紀以降に、インド
において成立したヒンズー教を基盤とする文明である。ロシア正教文明は、16世紀にビザンチン文明か
ら発展した文明で、ロシアを中心とする旧ソビエト圏の文明である。ラテンアメリカ文明は、西欧文明と
先住民インディオの文化が混交して生まれた文明である。アフリカ文明は、多様な文化状況の展開か
ら、主要文明には含まれない可能性がある。ハンチントンによれば、文明は広範な文化の束であり、文
明の輪郭は、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度、自己認識に現れる。様々な行為主体に方向性を
与える文明は、文化のまとまりであり、政治のまとまりではない。文化は、人間が社会の中で、自分が
他者や共同体から所属人格として識別される機能として政治を必要とする。西欧化を受容した文明は、
例外なく、文化について、価値観、生活習慣、社会制度の変更が行われている。さて、西欧文明は、現在
優位性と長期的な衰退の二側面があり、特に、領土、経済生産、軍事力などは衰退が明白である。この
ような衰退の兆候の一つに、「地域主義」の台頭がある。その原因は、社会変革に対する反動、西欧の
衰退に伴う「西欧化」への反発、冷戦後のイデオロギーの力の低下が挙げられる。文明と文明の衝突は
一つは、文明と文明の境界である断層線(fault line)の紛争であり、もう一つは、主要な文明の中核国と
他の文明の中心的国家の対立によって引き起こされる形態である。断層線の紛争は、国境地帯で勃発
する他、国内の異民族によっても発生し、民族浄化等の事件を引き起こす。バルカン半島における民族
問題などが、その典型的な事例である。主要な中核国の対立による文明の衝突は、世界的な政治的影
響力、軍事力、繁栄と経済力、人間、価値観、文化、歴史、領土などの認識の相違が原因となって発生
する可能性がある。西欧文明と最も衝突する危険の高い文明は、イスラム文明と中国文明である。世界
平和のためには、文明の衝突を予防する新しい世界の政治秩序を構築する必要がある。以上、ハンチン
トン氏の学説です。西欧文明日本文明中国文明ロシア文明インド文明イスラム文明アフリ
カ文明ラテンアメリカ文明なお、アフリカは、英語では、「カルタゴの地」が原義で、チュニジアの
首都チュニスの北東12kmの所に、フェニキア人が建設した植民都市国家で、紀元前6世紀以降、西
地中海を制覇し、前3世紀から前2世紀にローマ帝国と覇権を争い、第二次ポエニ戦争で、ローマ帝国
のスキピオに包囲されて滅亡(前146年)した歴史があります。西欧では19世紀、仏教についての研究
が、ヘーゲル、ショウペンハウアー、ニーチェなどにより行われ、その結果、仏教は、「神のいない信仰」
すなわち、ニヒリズムであるとして恐れられるに至ったのであります。中東 (Middle Eastern) における
イスラム教の勃興(610年~632年頃)は、アジアの仏教文明には大きな痛手となりました。その影響
は、日本文明にも及び、神道勢力を押し上げ、飛鳥時代(6世紀末~7世紀前半)を終わらせ、奈良時代
(710年~784年)及び平安時代(794年~1185年、1192年頃)を現出させたと考えられます
神話から始まる日本最古の歴史書である古事記(712年)、日本書記(720年)、出雲風土記(733年)
などがそれぞれ成立しました。西欧文明に於ける仏教研究については、「神のいない信仰」ではありません。
神はたくさんいます。仏(ほとけ)が主君、神は所従ということなのです。アジアの文明は一神教ではありま
せん。この点において、西欧文明はアジアの文明を脅威と捉えた。日本文明もまた、仏は主君、神は所従とい
うことです。主従の転倒により、物凄い大不幸が幾たびも日本民族を襲いましたが、気が付かない。ほとけが
主君であり、神は所従である日本文明の特質は聖徳太子親筆の十七条憲法によって明確にされて来ました。
追補
イスラム文明は、ムハンマド(571年頃~632年)に続く正統カリフ時代に、帝国として始まり、ウマイヤ
朝からアッバース朝(サラセン帝国)にかけて栄えましたが、イスラム国家であるオスマン帝国は、
第一次世界大戦で敗れた後、トルコ革命によって、1922年に滅亡しました。ウマイヤ朝は、661年に
現在のシリアーアラブ共和国の首都ダマスカスに立てられましたが、アッバース朝に滅ぼされました。
この内の一人がスペインに逃れ、コルドバで王朝を開き、16代存続しました。756年~1031年。
スペインのアンダルシア地方の都市コルドバは、古代は、フェニキア人の植民都市の一つであり、
中世は、イスラム王国の首都となりました。イスラム教及びイスラム文明を、アイベリア半島から駆逐する
キリスト教徒による、レコンキスタの闘争は771年に始まり、1492年、グラナダ陥落で、レコンキスタ、
再征服は達成されました。このように、西欧文明とイスラム文明の衝突には長い歴史があり、現在も、
アフリカ大陸で文明の争奪戦を繰り広げているかの観を呈しております。そして、イスラム文明の文化的
浸透力は強く、西欧文明をおびやかすまでに至っております。中国文明と日本文明の衝突については、
紀元前11世紀の中国の政治家である呂尚の言葉とされる、「覆水盆に返らず」の状態にあります。
中国文明圏諸国と修復を試みるも上手くゆかず、日本は農業分野などで大変な痛手を受けています。
中国には、日本との問題の他に、国内の仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の反乱によって、分裂する
危機があります。ハンチントン教授は、それぞれの文明は、互いに干渉を慎み、文明の多様性を認め、
住み分けることの必要性を指摘いたしましたが、文明と文明は、いつまでも衝突を繰り返し続けるが
如くの様相を呈しております。再び、アイベリア半島からグレイトブリテン島、アイルランド島、までも、
イスラム文明、インド文明、中国文明に席巻されてしまう危機も想定されます。しかしながら、北米及び
ラテンアメリカ文明圏は、他の文明に対して対抗し続けるでしょう。特別に、アングロ・プロテスタントの
文化は保持されなければならないとも教授は指摘いたしました。イスラム社会の西欧化も進展しておりま
すが、これは、今や、およそ千もの宗派に分裂し、相争い、弱体化しているイスラム文明の他文明への
浸透力を強めることになりかねません。イスラム文明は、日本文明を軽視しますが、日本の神社勢力と
合体すると、再度、西欧文明を分裂させる危険があります。現代の日本人は神道と神社について詳しく
は知らないのですが、国民による制御が出来ない危険な状況下にあります。日本の人口減少は、深刻で、
このままでは、中国の一部にされてしまうと危惧されております。アジア地域では、フィリピンで、イスラム
文明と西欧文明の紛争の危機があります。西欧文明圏及びロシア文明圏衰退の原因は、人口の減少、
移民の需要、他の「よく知られていない重要な衰退要因」によると考えられます。ロシアを中心とする
旧ソビエト圏の文明の衝突については、国境線の線引きが明確ではなかったことによるものです。1917年
11月7日、ロシア帝国を倒したロシア革命から始まるソビエト連邦は、1991年8月、ミハイル・ゴルバ
チョフ氏の政策に反対するクーデターをボリス・エルツイン氏が鎮圧し、1991年12月25日、ソビエト
連邦最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフ氏は辞任し、共産党は解散させられ、ソビエト連邦を構成
していた12の共和国は独立しました。しかし、その12の共和国のの中に、国境線が明確ではない共和国
が幾つかあります。それらの共和国が国境をめぐる激しい争いを起こす可能性が高いと言えます。
Comment : (1)
国境をめぐる争い及びペルシャ湾の覇権をめぐって、同じイスラム文明圏の国であるイランとイラクが
争った戦争であるイランーイラク戦争(1980年9月、イラク軍のイラン侵攻で開戦、1988年8月停戦)
に参加したイランの青年にインタビューしたことがあります。インタビューの最後のイランの青年は、
「イラン人もイラク人も母は同じ」と答えました。この認識は、イスラム文明 と 西欧文明、特に、
アングロ・アメリカの文明は共通していると思われます。文化に基づく自己同一性(アイデンティティ)
の堅持のたまものである、均質性の美、個性の輝きは、とても重要です。伝統的な文化及び
価値観を大切に出来なくなった場合、社会は細分化され、崩壊に至ってしまう。この点において、
イスラム文明と西欧文明は、確かな危機に直面している。同じ文明圏であっても、領土・領海・
主権については、一歩も譲れない。前世紀と同じ。頑固一徹。21世紀の人類は、利益の共有を
目的としての共同開発などが争いに勝ることについて認識を一致させるべきであると思います。
私は、現代の文明についての考察に於いては、序盤・中盤・終盤に分けて考えると良いと思います。
これは、特に、イスラム文明と日本文明に於いてこの三区分が明確に示されたために他の文明に
影響を及ぼしたと考えられるからです。具体的には、ムハンマド(マホメット)と聖徳太子が序盤
源頼朝と日蓮大聖人が中盤、そして終盤に至って、ナチスドイツと同盟を結び、世界大戦を引き起
こして失敗してしまった。日本人は終盤についての構想力が完全なまでに不足していたと思います。
Comment : (2)
イスラム文明と西欧文明の衝突、及び西欧文明の長期的な衰退の兆候を指し示すと思われる大事件
が、2011年7月22日、ノルウエー王国で発生したことは、人々の記憶に新しいところですが、いま一度
簡単に振り返ってみたいと思います。その日、ウトヤという名の小島では、与党労働党青年部の夏季合
宿が行われていました。10代の若者約700名が研修発表している所に、突如、警察の制服姿の男
アンネシュ ブレイビク(当時32歳)が現れ、爆破テロ捜査を告げて、参加者を整列させ、午後5時頃
から銃殺を始めました。オスロの政府庁舎爆破で8人が犠牲になり、ウトヤ島では69人、計77人が
殺害されました。事件後、ノルウエーの捜査当局はブレイビクについて、「移民の受け入れを推進してい
た元首相の暗殺も計画していた極右勢力に近い人物」と発表しました。動機についてブレイビクは、
「イスラムの乗っ取りから西欧を守るために」「残忍非道ではあるが、必要な行為だった」「自分は生きる
べき者と死ぬべき者を決定する権利がある」等と延べ、無罪を主張しました。インターネットには、「自分
は、民族としては、ノルウエー人で、多文化主義に反対するキリスト教原理主義者である」等、投稿し
ていました。金髪で背の高い青年将校が最後の最後まで抵抗と闘争を続けたナチス・ドイツ親衛隊の
映画が思い出されました。北欧には、16世紀に北イタリアで考案されたバイオリン(ビオロン)を、
「悪魔の楽器」として使用禁止にしたほどの、キリスト教に基づく情操堅固の歴史があります。国王を
中心にして、左翼と右翼を振り分ける、"正直弥次郎兵衛ヨーロピアンスタイル" の国では、暴力によ
って、人々のすべてが決定されてしまう危険があることを再認識させられた恐ろしい事件でした。
イスラム文明は、イスラム教信者数増加率などからして、他の文明を圧倒している上に、貧富の格差が
拡大し続ける21世紀の環境変化にも対応可能な文明であり、やがては他の文明は滅ぼされてしまうと
すれば、西欧文明だけに危機感を持たせてはいられないはずであります。さらに、西欧文明とイスラム
文明の衝突について、特筆すべき象徴的な事件が世界中の人々に視覚的に示されたのが2001年9月
11日に発生した同時多発テロであり、それに続くイラク戦争でした。9.11テロでは、2977人
が犠牲になり、イラク戦争では、イラク側が約3万人、アメリカを中心とする多国籍軍は、2万4219
人が犠牲になりました。9.11テロは世界中の人々に、日本のカミカゼ攻撃を思い起こさせました。
その時、ジョージ.W.ブッシュ大統領は第二のカミカゼ攻撃だと叫んだことなどがよく知られています。
Comment : (3)
20世紀は、戦争の結果としてもたらされた平和が、ある程度の国際的な地位を占めましたが、残念なこ
とに、その平和を守るために、悪質な隠蔽工作が行われてしまいましたので、何だか怪しい平和となって
その価値が揺らいでいます。そのような無念な思いから、21世紀の人類は、文明の副産物としてもたら
される高品質な平和を受けるべきであると考えます。世界の文明が集まるアジア地域にあっては、
「ユニークではあるが普遍的な文明とは言えない西欧文明」と述べたハンチントン教授の言葉が当ては
まるでしょうか。アジア地域は、自制・抑制・忍耐の徳のような態度が必要であると考えられます。
Comment : (4)
ハンチントン教授は、日本文明について、「世界の諸文明からはかけ離れた世界の孤児である」とも
述べましたが、「孤立文明を孤独にして、暴走させてはならない」21世紀のアメリカの対日戦略の
基本姿勢が良くわかります。しかし、日本人としては屈辱的に感じられます。日本国は、きちんとした
意思決定の一つも出来ない国であるのでしょうか。江戸時代までは、精密で、孤高の日本文明。
そして、現代では、孤児の日本文明と言えるかも知れません。江戸時代の日本人は、きっと憤慨
するでしょう。「孤高というのは、ひとりかけ離れて高く偉いということだ」現代の日本は、アメリカの
サポートがなければ、反日や愛国の定義も曖昧であるので、世界一の核ミサイル大国になってしまう
かも知れません。日本政治の衆愚性のボロを見せる、この辺りも、少し淋しく、残念にも思われます。
日本文明の長く苦しい道のりを思う時、換骨奪胎(骨を取り換え、胎を奪ってわが物として使う)などと
称して、日本文明を捨て去り、西洋文明を崇拝した輩は、日本に対する愛国心などを口にしてはならない。
Comment : (5)
「江戸は諸国の入り込み」江戸は諸国の人の入りまじり。日本は初めから「合衆国」だった。そして、
それぞれの国には、それぞれの文化が栄えましたので、多文化単一文明は、ただ単に世界の諸文明
から孤立しているだけではなく、世界の諸文明に重要な意義を与えていた可能性があると私は考えて
おります。1862年に学問奉行が創設され、1864年に廃止された歴史がありますが、近代化をどのよ
うに考え、どのように受け入れるかについて相当な判断力が試されたことが伺えます。その後、異文化
を保持し、自国文化は保持していない程の同化状態に陥り、「日本全国単体二重構造一極垂直統合」
みたいな文明国になってしまいました。これは、日本の痛い大失敗の歴史であると私は考えております。
東西冷戦以降に出現した世界の新秩序である「文明の衝突」世界に対応していく日本人の決意は固い
と見えますが、国の性能が劣悪であるために、世界の競争から脱落していく確率もまた高いといえます。
上述、日本は近代化の過程で、日本文明の輪郭と母体を捨ててしまいましたので、その文明自体が分裂
するリスクのある21世紀の大競争時代に対応するのは困難であるのです。それでも、国内の無料で高
度な情報資源を用いて、日本国自体のバージョンアップ(改版)を、悪条件を押し切り敢行することによ
って、国家破綻を回避すべきであると思われます。失われた日本文明と失意の日本人では残念過ぎる。
Comment : (6)
デモクラシーにおける衆愚政治が世界で最初に確認されたのは、西欧文明発祥の地である古代ギリシャ
文明における栄光のペリクレス時代が終了した当時である。ペリクレス(前490~前429)は、優れた
リーダーシップを発揮して、ペルシャ戦争(前492~前449)で、ペルシャ帝国に勝利し、都市国家アテナ
イに繁栄をもたらした。しかし、アテナイを盟主とするデロス同盟とともに対ペルシャ戦争を戦ったスパル
タを盟主とするペロポネソス同盟の反感を買い、開戦に至った。ペロポネソス戦争(前431~前404)
ペルシャの援助を受けたスパルタが勝利を収め、ペリクレスはアテナイに籠城中に病没した。ペルシャ
の侵略からギリシャを守るための資金の管理をデロス島からアテナイに移して、その資金による公共
工事によりアテナイ市民の生活を豊かにしたのであるが、この方針は、他の都市国家の離反を招くに
至ってしまった。キーワードは、「陶片追放オストラシズム」「15年連続でストラテゴスに選出」「パルテノン
神殿」ペリクレスの格調高い演説は、現代の西欧にまで伝えられている。今日にまで伝えられている名言
の一つに、「アテナイでは、政治に関心を持たないものは、市民として意味を持たない」等がある。
ペロポネソス戦争後、ギリシャ全土が、政治的経済的に急速に衰退した。この時に、何が起きているのか
なぜ起きたのか、それをどのように捉えて、どのようにすべきか考えられて、堕落した政治形態である、
衆愚政治オクロクラシーが確認された。プラトン(前427~前347)は、デモクラシーは衆愚政治に陥る
危険性の高い政治システムであるとして、哲学の素養のある者が政治のリーダーになるべきであると主
張した。それから時を経て、20世紀、ドイツのヴァイマール憲法下のデモクラシーについて、これを衆愚
政治であるとして否定し、国民社会主義ドイツ労働者党率いたアドルフ・ヒトラーが世界恐慌の混乱の
中で、国民の支持を受け、1933年、独裁政権を合法的に樹立した。1938年、オーストリアを併合し、
第三帝国を実現した。この当時のドイツ国民の心理は、エーリッヒ・フロムによって、「自由からの逃走」
とみなされた。さて、日本文明については、プロの政治集団から大いなるアマチュア集団へと国政の委譲
が行われ(大政奉還1867年11月9日第15代将軍徳川慶喜)、後に、政治学者丸山真男によって、
「無責任の体系」と評される政治システムがスタートしたことは、日本の歴史上極めて重大な政治史と
なった。有権者が知的訓練を受けていても、或いは、高潔な人格者が多数であっても、リーダーシップ
に問題があれば、国政においては衆愚性をあらわすのであり、第二次世界大戦後の日本国民は、大衆
迎合型リーダーに国政を託すのが政治行動の上限だった。21世紀に至ってもなお、その傾向にある。
1946年公布の憲法もまた、「無責任の体系」の二度目のスタートだったことは極めて残念である。
Comment : (7)
ナチの独裁政治による多数の犠牲者の一人に、20世紀を代表するキリスト教神学者であるディートリッ
ヒ・ボンヘッファー(1906年2月4日~1945年4月9日)の名を挙げることが出来る。ボンヘッファーは、
ベルリン大学医学部教授を勤めた父カール・ボンヘッファーの8人兄弟の6番目の子として生まれ、21
歳(1927年)、最優秀の成績を修め、ベルリン大学から神学博士号を与えられた。1930年から1931
年にかけて、米国に留学し、アフリカ系アメリカ人の置かれた過酷な状況を目の当たりにした。マハトマ・
ガンジーの思想の影響を受けたのもこの頃だった。1931年に帰国後、ベルリン大学の講師となった。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがナチ党を第一党として、首相に就任した。ボンヘッファーは、
ラジオ放送で、ナチ党の指導者原理を厳しく批判したが、放送は強制的に中止させられた。1934年、
ヒトラーが総統に就任し、独裁権を掌握した。1936年8月、ナチスに対する反対者であることを理由
に、ベルリン大学から解雇された。1939年6月2日、ドイツを離れ米国に向かった。米国では、亡命の
準備が整えられていたのであるが、わずか一ヶ月後には、ドイツに戻った。1939年、ドイツ国防軍の将
校を中心とした反ヒトラーグループに参加し、グループの精神的な拠り所となった。1943年1月、マリア
フォン・ヴェーデマイヤーと婚約したが、同年4月5日、ユダヤ人の亡命を助けたことにより逮捕された。
ドイツーソビエト不可侵条約は、1939年8月23日に締結された期限10年の条約で、両国はこの条約
に従い、同年9月ポーランドを分割したが、1941年6月22日、ドイツ軍がソビエトに侵攻し条約は破棄。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺計画は失敗に終わり、仲間の多くが逮捕され粛清された。1945年
4月、暗殺計画にボンヘッファーの関与が発覚し、4月8日、獄舎の囚人たちのための日曜礼拝を行った
その直後に呼び出され、150㎞離れたフロッセンビュルク強制収容所に送られ、翌日の夜明け前に、
絞首刑に処せられた。満39歳没。ボンヘッファーは、若い婚約者と年老いた両親から遠く離され、小さな
窓とベッドと便器だけの独房で、思索をノートにしたためていた。幸いにも、ノート類は秘密裏に獄外に運
び出され保管されていた。ナチ党の思想下におけるドイツ国民について、ボンヘッファーは、「良心は葛
藤を避けるために、自律を放棄して他律に陥り、それが、「ヒトラー崇拝」という形になった」と分析した。
「神は、我々が神なしに生活を処理出来るものとして生きなければならないということを我々に知らせる。
神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、我々が絶えずその前に立っているところの
神なのだ。神の前で、神とともに、我々は神なしに生きる」ボンヘッファー獄中書簡集ベートゲ宛の手紙
ヒトラーが総統地下壕で自殺し、ナチス体制が崩壊したのは、ボンヘッファーが処刑されてから3週間後
のことだった。ディートリッヒ・ボンヘッファーは、正義のために最後まで闘ったクリスチャンだった。
Comment : (8)
「政府が間違いを犯している時、正義を貫くことは危険だ」 フランソワ=マリー・A・ヴォルテール
It is dangerous to be right when the government is wrong (1694~1778)
その危険な状況下にあって正義を貫いたディートリッヒ・ボンヘッファー。アレマニア(ドイツ)は、大日本
帝国に同調したのはあまりにも軽率だった。このような反省の念は強いそうです。確かに、失敗だった。
西欧文明は、どうして人類の存廃には決定的となった第一次世界大戦と第二次世界大戦の勃発を防げ
なかったのかという残念な思いを抱く人も世界には多いと思われますが、原因の一つとして、日本文明
の大変容を挙げることが出来ます。第二次世界大戦においては、アジアの一般市民・民間人の犠牲者
は二千万人を超えましたが、これは極めて異常であり、アジアの仏教文明を壊滅させる企図があったた
めにと考えることが出来ます。1868年の廃仏毀釈・神仏分離令などにより日本文明は大変容を遂げた
のですが、これをアジアの諸国は防ぐことは出来ませんでした。他国の政治については干渉出来ません。
ナチス・ドイツは信仰心がない為に、日本は信仰を間違えた為に、第二次世界大戦を引き起こしました。
日本の仏教文明とは、その一面から端的に言い表せば、「女人の御罪は漆(うるし)の如し。日蓮大聖人
決して、女性蔑視や軽視ではありませんが、イスラム文明やインド文明とも共通する女性観であります。
Comment : (9)
西洋文明に触発されて始まった日本の近代化の歴史ですが、あまりにも急ぎ過ぎあわて過ぎて、ホップ
ステップ、崖の下(1945年)。それからの戦後の高度経済成長も今から思えば、イソップ寓話のウサギ
が居眠りをしていた期間でしかない。21世紀の日本に残されている選択肢は 「お国戻し」 以外にはない。
日本の歴史の栄光は全て極めて稀な僥倖だった。一方、悲惨な歴史は全て無知と慢心から発生した。なお、
イソップ寓話は、紀元Ⅰ世紀のファエドルスのラテン語本、Ⅱ世紀のバブリオスのギリシャ語本などにより、
ローマで流行し、中世の西洋では、キリスト教会で説教として利用され、近世の宗教改革の時代にも大いに
利用され、聖書の次の書物としての地位を占めるに至りました。21世紀に至っても、アリとキリギリスは
どちらが選ばれるべきか、アメリカのニューヨークでは議論が活発に行われているほどです。西欧文明の
文化的アイデンティティを知る上で欠かせない書物であります。聖書の次の書物がイソップ寓話ですので、
政治や憲法については、おおよそが可であるのです。39代合衆国大統領ジミー・カーター氏が竹下登首相
に、政治はアバウト(おおよそ)で良いと語ったことなどが知られています。西洋文明は、それで良いのです
が、日本文明にあっては、一に聖書、二にイソップ寓話にかわるものとして、十七条憲法と仏教文明が栄えて
来ましたので、2002年度のノーベル平和賞受賞者でもあるカーター大統領のご親切なアドバイスについて
も、日本文明が西洋文明の物まねに走る危険性などもあって、もう少し慎重な姿勢が必要だったと私は思います。
万人周知の事実として、合衆国大統領就任式は、宣誓者が左手を配偶者が支える聖書の上に置いて行われます。
西欧文明とイスラム文明は、文化的アイデンティティに於いて、双子の兄弟のように似ていると私は思います。
コーラン、バイブル、儒教、ヒンズー教、などは文明の核心であり、眼目でありますが、それでは日本文明は
ということでは、聖徳太子親筆作憲法十七條こそが日本文明の中核であり本質であり眼目であると考えます。
特別に日本文明は憲法が重要であり、西欧の人々にその程度を伝えるとすれば、聖書の「生命の木」と同じ
くらい重要だということになります。日本は、幸せな人も、善良な人も一人もいなくなりつつあります。
Comment : (10)
20世紀には、二度に渡る世界大戦が行われました。第一次大戦は、西欧文明の分裂戦争に、イスラ
ム文明から、オスマントルコ帝国(1299~1922)が加わりました。第二次大戦は、アジアの中国や
日本も主要な参戦国となりました。第二次大戦は、文明と文明の大規模な衝突の様相を呈していま
すが、それは見せかけであり、表面的な観測であり、実際は、西欧文明の文化的アイデンティティ
の本質的対立が、形を変え、国境を越え、文明や宗教を装い、激しく闘争したと私は考えております。
アジアの仏教文明は大日本帝国軍の侵略と略奪のために壊滅的な打撃を受け、今も回復出来ません。
アジア太平洋戦争は、アジアの文明である日本文明とドイツ・イタリア以外の西欧文明の衝突であり、
日本は敗戦国になったのですが、日本が受けた痛手は、物的損失、人的損失の上に、文明の特性の相違
から来るものが大きいと考えられます。つまり、徹底的に原因を解明し明らかにしなければならない、
因縁と果報がすべてであるアジアの文明は、一神教の西欧文明の「神のおぼしめし」に圧倒されたのです
これは、日本のみならず、中国にまで深刻な影響を及ぼしました。韓国も中華民国台湾も他のアジア諸国
も「神のおぼしめし」に圧倒されました。そして、不幸がもたらされました。
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1552年(天文21年)周防国山口で、イエズス会宣教師 Cosme de Torres が日本人信徒とともに、
降誕祭のミサを執り行った。これが日本で最初のクリスマスである。ザビエルは日本滞在2年が過ぎ
ていたが、一旦インドのゴアに戻る必要があると考え、トーレス神父とフェルナンデス修道士を日本
に残し、1551年11月15日、種子島から出帆し、1552年2月15日、インド の ゴアに到着した。
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明治新政府は、新しい日本を構想するにあたって、仏教文明を完全に破壊する必要があると考え実行した。
それが、1868年4月5日発令の神仏分離令、1870年2月3日発令の廃仏毀釈。同年、推古36年
(628年)に出現し、大化元年(645年)に勝海上人により、御本尊を秘仏と定めてから1225年
の明治2年、明治新政府が秘仏を無理にもこじ開けて辱めた。1872年4月25日、自今、僧侶妻帯蓄
髪等可為勝手事。明治5年。太政官布告133号。「肉食妻帯勝手たるべし」僧侶の長髪は道理に反する。
これらの布告によって、正応3年1290年10月12日、宗祖日蓮大聖人の法嫡・第二祖白蓮阿闍梨日興
上人開創の富士大石寺の622年もの長きに渡る清僧の歴史は終わり、妻帯僧へと堕落させられた。これは、
日本仏教が受けた暴力の僅かな例である。しかし、マクドナルドのハンバーガーが植物由来のタンパク質か
ら作られるようになる日は遠くないだろう。日本文明とは何かが再び明瞭になる時代が来るだろう。