朝日記210129 橘樹住香 つづりかた10 三保の松原と国立商船大学
つづりかた10 三保の松原と国立商船大学
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ー随想―
三保の松原と国立商船大學
会員 荒井康全
あたまを雲の上にだし
四方の山をみおろして
かみなりさまを下にきく
ふじは日本一の山
青ぞら高くそびえたち
からだに雪のきものきて
かすみのすそをとおくひく
ふじは日本一の山
眉目秀麗であることということが入試要綱に入っていると聞いたことがあるがほんとか、と訊いたひとがいる、わたくしの顔をチラッと見たようだった。 裸眼で視力1.0 とか、綱に片手でぶら下がって10秒以上とか、あるいは、性病検査とか海洋日本の伝統的な独特の体力試験があった。「紅顔可憐の美少年」で知られる寮歌が、事実を虚飾するのかもしれないが、わかいときはだれも、それなりに、意気がいい。
商船大学は 当時東京と神戸にあった学校が戦時統合され静岡県清水市にあった。伝説羽衣で知られる三保の松原の砂浜のなかにあった。満月の夜は、駿河湾の海がきらきら光り、遠く伊豆の対岸や達磨山の灯が見えて、切なくもうつくしい。 「完全就職、陸の倍の給与、たばこも酒も免税で、しかも外国が見られる」、たしか雑誌蛍雪時代での紹介であった。
そして、1956 年(昭和31年)目出度く機関科に入学する。そして 低空飛行で1960 年(昭和35年)秋に5年半の過程で東京越中島の地にて卒業。 卒業実習は6ヶ月、最初の3ヶ月は三菱日本重工横浜造船所 いまの‘みなとみらい’の場所である。 あとの6ヶ月は運輸省航海訓練所の生徒になり航海実習にでる。 練習船大成丸という3千トンクラスで日本列島を周航して、瀬戸内海で特訓を受けると、ニュージーランドへの遠洋航海にでる。 長駆赤道を越え、熱帯スコールに身を洗い、ブーゲンビルの夕日を望見し、いくつか南十字星を仰ぐとやがてクック海峡に投錨する。 折りしも雨雲が切れて陽が射す、波洗う崖の海岸線に鮮やかなみどりの丘陵が目の当たりに現出する。 赤い屋根のバーンやサイロがある、たくさんの羊の群れがある。首都ウエリントンに着いたのだ。
ときに、”六十年安保” 東京はデモの渦で騒然としいたときに出航したが、国際放送は、池田勇人内閣の発足を報ずる。
康
いま思うと、自分の生きるべき道筋と現実の学問・教科にしっくりしないものがあったのだと思う。 それを認めたくないから困ったものであった。 この辺のところは、いずれ、もう一度整理しておこうと思うが、物理にも数学も その他もあまりこころ踊るものではなかった。それ以上に基本的には、外国を無料で行きたいというところにあったから、相対的に手段としての位置づけになる学業が軽くなってしまったのかもしれない。 初めて家を離れたという開放感とみずからの責任で方向を定めるという自意識との葛藤があり、思索は旺盛であるが、意欲に敏でなく、なんとなく身を浮き漂わせていたように思う。
石原慎太郎の芥川賞作品である「太陽の季節」に障子を破る下りがあったが、持てるエネルギーが向かうべき何か、当たるべき壁の喪失感のあった時代だったように思う。 思えば日本が経済大国として離陸しようとして必死にもがいている時代でもあった。 成績のよいクラスメートに対する競争心はあまりおきなかったし、むしろ冷ややかにみていたと思う。
蒸気タービンの実験の時間に、側の十メートルほどの水槽を、往復して帰ってくる賭けを引き受け、実際に実行して担当教官を烈火のごとく怒らせたことがあった。この教官には、後に就職した会社からの米国派遣の件につき、大変助けてもらうことになったが、当時はそのような状況であった。 つまり、自分探しの青春であった商船大学であったと思っている。
~荒井康全の 練習船日本丸実習の記憶
昭和33年(1958) 航海実習 東京商船大学機関科学生 3年の時
東京港→小樽港→新潟港→神戸港→東京港 期間 1か月間
國重要文化財日本丸 あをがきの日々よ
附録
わが兄康全とわれを産みたまひし母百壽のすがた 住
草いきれをしのぶ日のこと 音羽ゆりかご会ゆかりの寺で大名家のなごりを留むるをとめ流茶会に、われが奈良慈光院の奥方を誘ふ。國寶の城を唯一お持ちの犬山城成瀬家は今は娘が当主 その娘と石州の方を徳川家康の先祖筋の松平夫妻にひきあはす。
あをがき大和しうるはしの日にまた成瀬さんとめぐりあひ、慈光院の茶の宴が催さる。はじめてめぐりあひし日はあふれんばかりの若草のむすめと いまもなほ娘なのと。
成瀬さんに家元がこの方の母上ほど立派な方を見たことがないと。
米寿をむかへしころ地中海に渡り そして スウエーデンの高貴な方々を前に石州の作法を国営放送がおさめ、さらにふたたび張りつめたる作法をくりひろぐ、家元が三國一と成瀬さんに語る。
元結のあでやかな着物姿と三味線で嫁ぎし、近くの奥方たちが新橋芸者かもとささやきしと、いにしへをふりかへらぬ母が世が世ならと。叔母がことあるごとに何しろお江戸日本橋だから。
康
そらも みなとも よははれて
月に かずます ふねのかげ
はしけの かよい にぎやかに
よせくる なみも こがねなり
はやし なしたる ほばしらに
はなと みまごう ふなじるし
つみにの うたの にぎわいて
みなとは いつも 春なれや
住
つづりかた橘樹住香
(初出し:「HEARTの会」会報 no.104, 2021,新年号;NPO法人 人間環境活性化研究会)
Comment from reader;
Viewed your brother’s Sumika essays 10 (Ms.Beth Gordon)2021-02-03 15:34:03Viewed your brother’s Sumika essays 10. Commented on another site not knowing. Also read the loving letter from your daughter again and could feel the special relationship you share with her. You are a fortunate man.🥰
Beth sent Today at 12:23 PM
3:26 PM
Beth sent Today at 12:23 PM
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