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朝日記230616 Humeanism ヒューム主義哲学(その2)

2023-06-16 21:36:10 | 自分史

朝日記230616  Humeanism ヒューム主義哲学(その2)

 

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朝日記230616  Humeanism ヒューム主義哲学 (その1)

(続き)

4.Practical reason

実践的理性

 

Humeのpractical reason(実践的理性の理論)のスローガンは"reason is...the slave of the passions"「理性は…情熱の奴隷である」というものである。それは事前にpre-given ends.(あたえられた終結)を現実化するための means (手段)を見出すためのthe function of practical reason(実践的理性機能)というthe idea(観念)を表現している。

この案件にとって重要なのは means and ends.[33](手段と目的(終結))との間の区分である。Ends(終結)は intrinsic desires(それ固有の願望)にもとづいていて、それ自身にとってのたすけとして求められるようなものごとについてであり、または valuable in themselves(それ自体価値のあるもの)である。

 

 

現代哲学では、Humeの実践理性の理論はしばしば rationality(合理性)の規範として理解される。一方、この課題はわれわれが持っているthe ends(終結)のために必要なthe means(手段)を採用するためのmotivated(動機化)されるべきものである。それを執り行われることの失敗はirrational(不合理)となるであろう。[36] 

実践的な理性の意味で表現されて、もし機関がan end(終結)をrealize(現実化)するreason(理由)をもつなら、その理由はan end(終結)からmeans(手段)へと転換されることを述べている、すなわち機関もまたそのmeans(手段)とするにderivative reason(方便誘導)された理由をもつのである。[22][37] 

この課題は競合することは滅多にない、それが全く直観的に見えるからである。

この要求に添うことが出来ないということは誤謬であることということになり、それは外部からの思弁からばかりでなく、機関自身の思弁からも取り扱いの誤謬と判定される。

その機関は対応する終結のために、ある願望をすでに持っているなら、機関としてはそれにこだわり続けないことに対して一定の態度をとり続けることができなくなる。[22][20]

 

 

一方で、現代的ヒューム派の実践的理性では初期の理性としてどのようなものを持っているかでわれわれの願望は決まるという主張を含んでいる。[22][36][38]

海岸でおよぐ願望をもつとしよう、それが機関にそうすることへの理由を与えるが一方、それが彼にその海岸への旅行への理由を与える。

この見解では、その機関がこの願望をもつかどうかが、合理的であるか、ないかの問題ではない。

合理性とはここではその海岸でおよぎたい機関がそこへの旅行の動機付けであるべきことを要求する。

 

この課題は非常に異論含みであることを証明している。[22]

あるものは論議する、そこでは願望はなんら理性与えず、もしあっても特定の場合に限られる。

この位置はしばしば合理性についてのexternalist view(外側にたつひとの見解)と結合する:その理性はその機関のpsychological states(心理的状態)からの来るものではなく、その世界についてのobjective facts(客観的事実)から、たとえば最良なのは何かということから来るのである。[39][40]

 

これはつぎの見解を反映している、たとえば、ある願望が悪くまたは非合理的でありそしてこれらの基盤について批判されているような場合である。[36]

この位置については、心理的状態たとえば願望はmotivational reasons,(動機的理性)といえよう、これはその機関を動かす、しかしそれはなにが行われるべきかを決定するnormative reasons,(規範的理性)ではない。[41][42]

他には願望はしかるべき適切な意味での理性をあたえることを、しかしこの役割りは願望によってのみ行われることを許すものである。

斯くして other psychological states or processes(他の心理的状態やプロセス)があるかもしれない、それは吟味した信仰や熟慮のようなものでそれは何をわれわれはすべきかをも決めるのである。[43] 

 

これは実践的理性が終結とするに何を持って、かたるべきかの課題と結合している、たとえば、他の状態によるのか、もしくは直接的願望にか、そのインパクトをどちらに置くかにかかってくる。[20]

ヒューム派と反ヒューム派との間での実践的理性の場での共通の論争点は morality(道徳性)の地位に関するものである。

 

反ヒューム派からはしばしばすべてのひとは道徳的であるべく理性をもつと主張する。[22] 

しかし、これはヒューム派の位置と不整合になるようである、後者によれば理性は願望に依存しており、しかもだれでもが道徳的であることを願望するわけではないからである。

 

これは次の危険性をもちこむ:その機関が道徳的願望をなんら持たないことを言明することによってその機関が単純にその非道徳的行為を正当化する場合の事例にもちこむことであろう。[20] 

この問題への責任へのひとつの道は合理性と道徳性の区分を明確に線引くことにある。

 

もし合理性というものがその機関自身の思弁にもとづいてなされるべきなにかと関わるならば、そのときそれは非道徳的に行動するための合理性を首尾よくゆるすことになろう、ここではその機関が道徳的願望を欠如しているケースとなっているのである。[22]

そのような行動はそこでは合理的に判断されが、しかしそれにも関わらず非道徳的である。

しかし、それはそこに現実に合理性と道徳性のあいだのギャップがあるかを問う競合的な案件である。[44]

 

5.Metaethics[

メタ倫理学

 

metaethics (メタ倫理学)におけるHumeの位置中心は is-ought distinction(存在-当為)にある。

それはis-statementsと ought-statements,との間での重要な違いがあるという観念によって導かれるのである。前者は自然世界についての事実に関心ある言明であり、後者は何がなされるべきか、何が価値をもつかということについての道徳的もしくはevaluative claims(慎重評価的要求)である。

 

この違いの鍵になる観方は is-statements はought-statementsを含まないということである。    [45][46][47][48] 

Humeによればこのことは重要であって、それはmistaken inference(誤った推論)の型

が哲学の歴史の誤謬の源となってきたからである。

この区分によって翻訳者はしばしば現代でのメタ倫理学にかかわる議論においてHumeのさまざまな哲学的課題に帰着させることが多いのである。[45][46] 

これらの課題のひとつはcognitivism(認知主義)と non-cognitivism(非-認知主義)間での論争に関わるものである。認知主義者はought-statements はtruth-aptのものであることを主張する、それは真とも偽ともなるという意味である。

 

それらはこの意味でis-statements に似ているのである、非-認知主義者はこれを排除する。[49][50]

或るnon-cognitivists非-認知主義者はought-statements が、より多くの共通のアプローチが他の道すじで吟味を与えるものにもかかわらず、ひろく意味をもつことを否定する。

ルールの管理者は ought-statements をprescriptions(ルール心得)もしくはcommands(命令)として扱う、それらは真の価値への心をもたずに意味ありとするのである。[51]

 

一方、Emotivists、はought-statements は単に話者の感情的態度に賛成するか不賛成であるかのanti-realistsの形式表現を支持した。[52]

cognitivism と non-cognitivismとの間でのこの論争は言明の意味と真-価値の意味論的な水準に関わるものである。[46] 

それは規範的事実についての論争としては形而上学的レベルをあらわしているが、ここでのケースで何がリアリティの一部である(realists が要求する)か否(anti-realistsが満足する)が問われる。[53][54] 

ought-statements がfacts(事実)に関するものであることにはHumeは否定したのである、それにもとづいて、かれは通常anti-realist(反リアリスト)として見なされる。[46]

しかしHumeの翻訳者は彼を位置付けるにanti-realist(反リアリスト)としても、そしてnon-cognitivist(非認知主義者)としても分類ラベリングすることにさまざまな疑念を抱いている。[47]

 

6.Bundle theory of the self[

それ自身の束理論

See also: Personal identity

 

こころの哲学においてHumeはthe self(それ自身)のbundle theory (束理論)の開発者としてよく知られている。

彼の分析では、かれは "self"(自己)、"mind"(こころ)、および"person"(ひと)という語を区別せずに使っている。

かれは伝統的な概念を否定し、とくに、デカルトに結びついた概念を否定する。

René Descartes(デカルト)の主張は、mind(こころ)がa substance(物の基質)[1]やan immaterial soul(物質以外のなにか、普段のたましい)によって構成されるとし、これがits mental states(こころの状態)すべてをthe bearer(背負う者)[2]として活動するというものである。[57] [3]

 

この概念についてのHumeの分析評価の鍵はかれの empirical outlook(経験的外貌)からくるものである:そのようなsubstance(基質)はけっして我々の経験の部分として与えられるのではない。そのかわりintrospection(内観)のみがメンタル状態のつながりを示すのであって、これはHumeによって"perceptions"(知覚)として位置付けられている[58][59]

Humeのためには、epistemic finding(認識的なみつけ)は semantic conclusion(意味論的結論)を含むのである: 

ことばとしての"mind"(こころ)や"self"(自身)とはsubstance of mental states(メンタル状態の基質)を意味するのではなくbundle of perceptions.(知覚の束)を意味するべきだとするものである。

 

これはそのケースにある、なぜならHumeによればwords(ことば)がideas(観念)と連合し、そしてideas(観念)はimpressions(印象)の上にのっているからである。

したがって、mental substance(メンタル基質)の印象がないところでは、我々はcorresponding idea(対応観念)を欠くことになる。[58] 

 

Humeの理論はしばしば ontological claim(オントロジー的要求)を含むとして解釈されている、それはなにが実際上にselves(それ自身)であるか、"self"(それ自身)ということばが意味するものについての意味論上の要求をこえていくものはどれか。

しかし別のひとからはこれはHumeについての誤った解釈であるとされる、かれは認識論的および意味論的水準への要求としてのみに制約しているからである。[59]

 

 

それ自身のbundle theory(束理論)への問題はthe unity of the self(それ自身の単一化)のための勘定の仕方にある。

diachronic unity(通時的単一化)の意味で通常理解されるが、すなわちそのこころが、どのように異なる時間でもそれ自身が一体化され、どのように通時的にそれが保持されているかである。

しかしそれはsynchronic unity(同時的単一化)の意味で理解されることもできる、すなわち、指定したひとつの時に、如何様にして、same subject(同じ主観)が異なるメンタル状態のなかでの単一化にあるかである。[55][57] 

ある基質は、単なる集合ではなく、単一のなんらかのタイプを説明するものである。これは束が単なる集合とは等しくなく、その違いとは束となった要素がある関係によって相互につながっていることなのである。ここでのある関係とは  "compresence"共在性、"co-personality"共人格性、"co-consciousness".共意識性として参照されるものである。

 

 

Humeはこの関係を resemblance(類似性)および causality(因果性)の意味で理解することをこころみた。[55][56]

この勘定では、二つの知覚が相互に類似していてそして/または相互にただしい起因関係に立っている場合ならそのふたつの知覚はおなじこころに属しているとするのである。Humeのこのアプローチの特定版は通常は拒否されているが、この束理論と矛盾しないこの課題をどのように解くかについてさまざまな提案がある。

これらはpsychological continuity (心理学的連続性)の意味での単一化勘定、もしくは compresence-relation共在性-関係)の素朴な観点としてみることに含まれるのである。[60][61][57]

 

おわりに

Arai Btiefメモ ヒューム派主義哲学(June 2023) 荒井康全 asumasa Arai

 

これはスコットランドの哲学者デービッド・ヒュームの哲学の概説である。

Humeanismヒューム主義哲学はDavid Humeデービッド・ヒュームの哲学を意味し、彼から起こされたthought(思考)の伝統を指している。  

彼はスコットランドの哲学者であり、empirical approach(経験主義的アプローチ)が哲学のさまざまな応用のfields(場)をあたえたという点でよく知られている。このアプローチは、私見よればスピノザとカントにおいて決定的な影響を与えている。

大陸の思弁的アプローチと統合され批判主義哲学として金字塔がたてられたのであり、現在も強力なる影響力を与えている。

今回、筆者が着目したのはたまたまかれのHumean a-priorについてしらべることにあったが、この記述欄で彼の哲学の要点の説明して秀逸なので以下翻訳としてのこすことにした。

 

Consciousness(意識)についての哲学は19世紀末以来、そして前世紀をとおして合理主義哲学と分析主義哲学、もしくは観念主義と物理主義の乖離があってきたこと、そしてその解消への願望とゆるやかな統合知的回復実現が双方からの焦眉であり、今世紀の一大課題してひろくみとめられるものである。

 

その動機を与えたひとつとして、これもまた私見であるが非線形・動的・非平衡現象やフラクタル現象など現代の力学系理論が投げかける生化学系現象での自己復元性(ホメオスタシス)の消失や多様な状態への分岐などの数学的論理構造がまた、人間のメンタルな主観系意識の動態類型現象論理としての説明構造を主観系としての存在パラダイムを、および知としての向かうべく方向性を示唆している観を抱かせるものである。

このままでいくと予想もつかない超カオスとそれによる巨大破壊や破滅に遭遇するかもしれない。

それは自然系ばかりでなく、社会系それ自体のなかに、そして双方の複合系のなかからくるものであろうことを人類は予感しているがその複雑性からの文明破滅の機構や現象流を捉える糸口すら見えない。これに対してもういちど、近代人間に与れているという思考と存在からの知識と行動の仕組みの原理を見直そうという人たちがいる。

たとえばMeillerssoux等ににみる最近のSpeculative Realism思弁的現実論にみるような、たとえば人類出現以前の化石と人類知の関係から出発するのもそのひとつである。人間が目撃しえない事実をいかにして知として主観のなかでわかったと意識できるのかと言う次元から出発する。これには知りたいという目的意識とはなんであるかということでもある。*ところで、われわれがあること、つまり事態を自らが意識するのは、因果関係での「原因」が知覚や意識ではなく、入るのは「結果」である。これが我々の意識のなかの情動の部分を駆動し、つぎにこれを結果目的「標的」としてその手段としての行動原因「弓」を使うことになる。通常の熟知した事態のものであればそれでよいが、事態が何であるかわからない、それが意識として起きた場合には、その事態がなんであるか、なにが原因であるか、それはこれまでの経験のなにに似ているかという感覚や思考判断が必須であろう。Humeはあくまでも原因を経験によって探索し、それによって得た原因の候補と選別により原因「矢」と目的(標的)を構成しこれによって行動をとることを教えている。

実際は「原因」ではない事態からの「結果」であったのであり、思考錯誤がともなうであろうがこれが人間の知であることを哲学的に説いたのである。

これをHumean a-priori(Hume的アプリオリ)として"perceptions"(知覚)の基本的な態度して現在にいたるまで影響を与えたである。

因みに、これに対するアプリオリとしてはKantean a-prioriを上げておく。これはintuition(

洞察)からのものである。

これらはまた、「事実命題」と「価値命題」との行動的知区分として知られ、近代での教育啓蒙に資したことを容易に想像できよう。

この過程では得るepistemic finding(認識的なみつけ)は semantic conclusion(意味論的結論)を含むからである。

筆者の個人的経験で恐縮であるが、わが人生における、その実践的徳恩には多大なる謝意を表することをを記すものである。 

 

Humeanismヒューム主義哲学

Causality and necessity起因性と必要性

Theory of action行動の理論

Practical reason実践的理性

Metaethics[メタ倫理学

Bundle theory of the self それ自身の束理論

 

 

 

 

[1] Substance :ひとやモノを構成する基質とする(荒井)

[2] Soul: ひとや動物などがもつ非物質的な部分、不死としてみられる部分とする(荒井)

[3] Decartesは目覚めているときの思考が dreams(夢)と区別できるというと考えること、そしてひとの感覚のまえに、ひとのこころがevil demon (悪い霊)によってまぼろしなど外的世界によってハイジャックされえないと考えることに対してreasons(理由)を与えた。[91]そして わたくしが私の眼でみていたと考えたそのあるものは私のこころにある判断の力によってのみ把握されるのである。[95]: (From Wikipedia René Descartes,)

 

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