朝日記180403-b 映 画「KU-KAI 空海」 別名 「妖猫伝」ときょうの絵
きょうは孫むすめと映画にいった話です。絵は、栃木県太田市黒羽です。
徒然こと 映 画「KU-KAI 空海」 別名 「妖猫伝」
ときは中国、 盛唐 玄宗皇帝の寵妃 安史の乱にて命を絶つという伝。
遣唐でその地にある若き学僧の空海が、後年大詩人と評される白楽天と
親交を結ぶ。
「一方は、叡智を持ち理性的な」空海と、「他方は、感性と才気も富み、熱血的な」白楽天の二人の組みあわせとなる。
玄宗以降の皇帝がしばしば突然の病に倒れる。 白楽天は詩才をめでられ側近のなかにいるが、
一連のこの皇帝の死に疑念をもち、親友となった空海を宮廷に呼ぶ。
楊貴妃の美を謳う「長恨歌」の仕上げの時機であったようだ。
空海が倭国ですでに秀才のほまれたかいことを知っていてのことであったという。
空海は、皇帝寝所にのこされた猫の毛に目を留める。 空海と白楽天は都の処々にもあらわれるという黒猫が同一の猫であることを想定して、調査を開始する。
これが、楊貴妃の死のなぞへと肉薄していく。 玄宗皇帝の豪華絢爛たる酒池肉林の宴、映画はここでの幻術のさまをコンピュータグラフィックの威力を発揮する。 「千と千尋」や「ハリーポッター」を彷彿させる。 楊貴妃の美に憧れをいだく貴顕、側近官僚たち、そのなかには、安倍仲麻呂もある。 やがて、安史の乱、動乱の根源であるとみる楊貴妃への死の要求する群雄大群。 場面は交互にいれかわる。 二人の目の前にある廃墟と埋もれる楊貴妃の石棺。 随所であらわれる黒猫の存在。 結局 空海の謎解きと密教のちからで 呪いが解消するか。
原作は夢枕獏 「沙門空海唐にて鬼と宴す」である。
監督は張 凱歌で中国の大監督という。6年かけて襄陽に壮大な長安のセットを作った。
日本人のキャストとしては多彩であるが、安倍仲麻呂に阿部 寛。 安倍夫人に松阪慶子である。そして空海には染谷将大。 筆者の目には、染谷の空海は、監督の好みであろうが、少々ふやけて、きりっとしない。
しかし幻術を見破る識眼には、筋目のよい秀才として、さらに正眼にての修行で鍛え上げた大知性に期待する。 白楽天の鋭い感性との絡みで、無事終着にみちびくであろうという 安堵感を観客に与えるものがあるのかもしれない。これをどのように演技表現するかである。そういう智慧を「叡智」とよんでいるのかもしれない。 しかし具体的には そういう知があるらしいという期待に落ち着く。 あらためて、この空海の「叡智」ってなんだろうかに思いを致す気になりそうだ。他に手段を持たないので一寸、カントさんの哲学モデルをつかって対応をめぐらす。「悟性」や「理性」という二大知性を境を接しその先の領域は、「超越」として哲学の外におく。 カントは宗教的な世界としてあえて触わらない。 空海の境界はこの「超越」を思考や想念のなかで具体化する。ロゴスとパトスの渾然一体の世界であろうか。これに達するためには、感性的力(反省的判断力)では射程がとどかないことになるか。 これよりも上位の「感性」を敢えて主張するなら、これに、前二者「悟性」と「理性」が加わった高度なる知覚意識状態(超越界)をいうのかもしれない。
さて、蛇足ではあるが、映画にはふとそんな思いに至たしめるものがある。「超越界」は、高度な人間知を可能にする動態知(ゲスタルト環)のさらに深化した知であろうか。(筆者はいま読書中のヴィクトールv. ヴァオイツゼッカー 「ゲシュタルトクライス」 みすず書房 にはまりすぎた観ありです)
映画として、いささか不満であったのは主役の存在の欠如であり、制作者の意識の芯が猫なのか、空海なのか 白楽天なのか。これが蒙としていて、あとでこの映画は何を語ろうしたものであったかを考えさせてしまった印象となってしまった。 映画題名は、「KU-KAI 空海」であるが、 別名 として中国名として「妖猫伝」とも表示されているところにもその迷いが現れているみた。
とはいえ、中学校を卒業して、数日後には高校生になるわが孫娘と見る映画としては、ポップコーンとベバリッジ、帰りのマックバーガーにも付き合ってもらって、’じじい孝行’をしてもらったのであった。朝8時15分開演で10時30分には終演であった。