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朝日記190108 「その1 酒神礼賛と私の夏の午後」本文

2019-01-08 22:17:52 | 自分史

 

(朝日記190108 「その1 酒神礼賛と私の夏の午後」本文)

目次 朝日記190809 目次 『酒神礼賛と私の夏の午後』

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その1 酒神礼賛と私の夏の午後

 

 

 

Tシャツデザイン 1 アンディ・ウォホールへのオマージュ)

 

 

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話題 「酒神礼賛と私の夏の午後」[1]  

 

 雑誌に掲載された わたくしの偶感です。アメリカ留学の思い出ことなどである。

 すこし古い話になってしまうが、夏に遠縁から吟醸酒「浦霞禅」という名前の米ワインが届く。 米寿をこの春に迎えられた家内の伯父からである。 このお祝いを迎えるころは、ようやく気軽に語るべき身内やお仲間もいつ しかひとり、ふたりと去られ、やはりおさびしいことであろうと勝手な思いをもつ。 それは、そう遠くないわが身のこととかさなってくるからでもあろう。 とあれば、歳めぐりでちょっと後の世代である我々が親の代のお付き合いを継承させていただく栄に浴することになる。 わが身は先年に声帯を痛めて、お会いしてもお話を聞く一方で、愛想のことばのひとつもないのであるが、お酒というのは ありがたいことで、酌み交わせば、けっこう心がつたわる。 ただ、にこにこ飲んでいればいいのである。 ところで、お酒の銘柄については、もともと無頓着な性質で、勉強もしてない筆者を先方が察してくださり、さり気なく、このお酒について、雑誌での品評記事が添えられていた。 1960年代おわりに、臨済の禅宗の坊さんがフランスはパリの仏教縁者に持ち込んだという。その企画が功を奏して、当地でのワインの地位をしっかり獲得しているようだ。     

この年代が目にはいると、もうそれで偶感をめぐらすスイッチがはいったようで、結構、酒の肴になってくれる。 しばしほろ苦き酩酊へ誘われ、自分がすごした時代の回想を味わうことになる。酒神に礼賛でもある。 以下は 書簡形式でのわたしの60年代へのホマージュである。

 

(目次)

. 米国ウイスコンシン大学留学のこと

. コースワークの思い出で

. 「数学芸者」といわれた部員たち

. 思いは巡ること、酒神礼賛・・・

 

 

 

 Tシャツデザイン 2 イサベル・トレド等アメリカン・オマージュ)

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. 米国ウイスコンシン大学留学のこと

 

いつもかわらずご壮健にてあられ 安堵しております。 こちらも後期高齢者二年生になり、それなりに変化を感じており、家内からも小言がおおくなったかなとおもうこのごろであります。 吟醸酒「浦霞禅」の由来のおはなしを興味深く拝読いたしました。 このお酒が1960年代の後半で、フランス筋で好評を博したというのが勝負どころであったのかなと解説を楽しみました。 東京オリンピックが終わって、日本の経済大国への本格的な興隆期にさしかかる時代背景や私が化学会社に職を得て、そして家庭を持って間もなく、まだ留学の制度も整っていない状態で、会社が派遣してくれ、乳飲み子であった娘を携えて家族三人で過ごした米国ウイスコンシン大学での留学生生活など、ひと飛びに思いが馳るものでありました。 一ドル360円の時代でした。出発のときから、実家はもとより、義父には、タイプライターからテープレコーダー、電気炊飯器など、こまごま随分応援してもらいました。義母からも様々な日本のものを送ってもらいました。

 

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* 会社に留学制度ができる前でもあったので、ひと月300ドル内生活費で、知人からの生活保護制度適用水準といわれました。ということで人一倍、貧乏であったので夏休みもなく、いつも大学の中にいました。それが、目を付けられるところとなり、すぐに日本人会の会長になってしまいました。ベトナム戦争への厭戦空気がようやく出始め、若者の間で反体制的風俗のヒッピーが全盛でした。それを曳いたか、こちらも長髪でとっくりセーターのGパン姿です。その大学院の一学生が突如200名をこえる日本人の会の会長となります。英語で The President of Japan AssociationMadisonWisconsinの表記になりますので あらためて、その字面に、感心しました。

*さあ、どうするか? 当時、御多分にもれず、この日本人会も貧乏で、財政危機に瀕していたので 会の活動資金獲得に焦点をおきました。そして、大学での日本映画上映シリーズを企画します。決定は単純で第1回は黒沢 明-三船敏郎「七人の侍」としました。 映画「生きる」もそうですが、アメリカのひとたちはいい作品は、なんどでも見てくれるということがわかりました。  若い学生会員が必死で券をうり、6百人の大講義室が満員です。

* 前日フィルムが他所の空港にとどまったりして、それがようやく解決して、これでよしとおもったら、当日定刻がちかづいても映写技師が会場に現れてない。さあて、ともかくその合間をなんとか埋めなければならない、会長さん、なんでもいいから場をもたせてくれとなります。 内ポケットに用意した原稿とは別のはなしをする羽目になりました。 やむなく、両腕をひらいて、この事態を率直に披露すると、なんと会場がどっと沸いてくれました。 そうだ、オネストがいいのだ。こういうときのあの国のひとたちの温かさがいまでもジーンと感ずるものが残ります。話しは日本の中世、戦国期の背景など一生懸命の解説です。そしてその話のおわりのころには、道に迷った学生アルバイトの映写技師も到着してくれました。理由は、途の標識がわるかったことによるという弁明でした。 たしか昼夜公演で、結果は大成功でした。何よりも戦後の縮こまっていた我々が、やればできるとすこし自信を感じたことが収穫であったとおもいます。 

 

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* ところで、日本人会の会長ですから、中国やインドや さまざまの国の団体の催しに招待をうけお祝いを述べにいきます。 会場に着いてみると、先方から遠慮がちに、会長はいつお見えですかと聞かれます。すかざす、私が会長ですと答えて にこっと手をさしのべ握手を交わします。 あとで知ったのですが、 他の国では、こういう会の会長は大体ノーベル賞級の大物のクラスが選ばれているようでした。 片やこちらは大学院の一学生・・・そしてふと気がつきます。  もしかしたら いま日本は もっとも健全にしてよい勢いを迎えていると直観しました。 これでよいのだ。そのときに、場に居合わせ、背景の肩書きなどでなく、ともかくできるものがためらわずに当番でやればよい、それをみんなが応援すればよいという思いです。おもうに、戦後の二十年を経たころの「平和日本国の興隆期」でもあったのです。

 

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. コースワークの思い出で

 

*研究留学としてテーマは当然持っていきましたが、ここで頭を切り替えて学生として登録したのでした。 猛烈なコースワークで、一週間を三日くらいの高密度ですごしたように実感を経験しました。最後のコースで、仕上げに化学工学上級応用数学をねらいました。 マージナウ・マーフィーの「科学者のための数学」やヒルデブランドの「高等応用数学」がテキストでありました。 「移動現象論」で世界的に著名な物理化学者バイロン・バート教授のコースです。

反応や熱流など化学現象を数学モデル式に誘導して解析解を求める問題で延々一晩かかるような宿題が出ます。

宿題の終わりまでの途中に、いくつかの山を越えなければならない巧妙な問題構成です。ドイツからきたクラスメートであるRichard Weil君、フランスのエコールポリテクニークからきたPaul Auclair君などと競って 夜中にどの辺の山を越えたか互いに電話でポイントを確かめあったりします。そしてようやく明け方に宿題のゴールに達します。また、定期試験は24時間試験というのがありました。どこにいてもいい、なにをみてもいい、ともかくその時間以内に答案を提出しろというのでありました。きちんと勉強していれば あとは体力で勝負できるところが、この国らしい特徴を備えているとおもいました。

 

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. 「数学芸者」といわれた部員たち

 

*アメリカの大学での受講ノートは、カーボン紙を差し入れてコピーをつくり会社におくりました。 ノートを売るのかと同級のアメリカ人の学生が感心します。いずれにしてもこれらのノートは日本に帰ってから仕事でおおいに役に立ちました。当時としては日本ではめずらしい数学で製品開発や製造品質を支援する研究所を作ります。たとえば化学反応器やアルミ精錬炉などのなかでおきている物理化学現象を数学によるモデルで表現して、これをコンピュータ・シミュレーションします。おおげさになりますが、これによって、開発から製造、そして製品品質や省エネルギーなどの広範な問題解決に直接に貢献しました。ここの部員たちは「数学芸者」といわれたこともあって、技術的な困難に直面している現場に駆けつけて 支援活動するところからそう呼ばれたのだとおもいます。

*また、英国リーズ大学からの博士課程をおえた新卒、アメリカ・ピッツバーグからモデル計算の技術者などが 同僚として加わり大いに活躍してくれました。

*こういう系統の技術は 通産プロジェクト「材料設計プラットフォーム」(土井正男プロジェクトOCTA)という形で我が国の材料設計システムとして花開くことになります。 日本におけるこの一連のうごきが、いまはスーパーコンピュータの時代となって、天気予報や、製薬・材料の開発の大型、加速化などの形で、一般のわれわれの前にさりげなく登場しています。 広い意味でのこういうソフトウエアの技術とインフラが 将来のこの国の繁栄に対して、常時決定的な分水嶺をもつことになるであろうと思っています。「聞いても、わからないからよいのだ、だからやろう」と励ましてくれた仲間の「侍」もいました。我が国は、それぞれの科学技術のポイントで世界で一番でなければ生き残れないとおもいます。 

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. 思いは巡ること、酒神礼賛・・・

 

*そんな事を回想して、手紙はここで投函してしましたが、私の文章はさらに以下つづきます;1960年代は、日本全体が製造技術の革新の時代の最中で、私は、化学工業開発へのコンピュータ応用技術の研究の中心にいました。一方、そのなかでも、日本の製造業は、平凡ではありますが、デミング博士の指導による統計的品質管理を吸収します。 さらに現場にはたらく従業員も自分の職場の仕事の仕方を品質としてとらえて、問題解決のQCサークル活動などが展開されました。日本独特の全社的自主管理が展開です。これは、ものづくりに徹底的に愛情をそそぐという文化へまで成熟していきました。そういう意味では、この時代は、日本のもつ潜在的な力に注目され、世界がそれを学ぼうとした時代にさしかかっていました。  

*音楽や文芸の例でも、ながらく、西洋の猿真似とか、技巧はすごいが、味がないと密かに揶揄された時代もありましたが、いつしか熟成してきたとおもいます。 二年ごとにあるイギリス日本年やフランス日本年、イタリア等々 文化の面でも日本の存在がおおきくなっていくのをたのもしくおもったものでした。

*特に十九世紀の中葉パリ万国博覧会を契機としてフランスからのジャポニズムは西側世界に日本の深い精神文化の影響をあたえ続けました。 フランス料理の芸術的料理(アート・クイジンヌ)などもまさにその派生であろうとおもいますが、そうです、「浦霞禅」に至ってフランスのワイン文化にもあらたなジャポニズムを生んだと拝察します。吟醸という高級米ワインと理解しました。

*このような至福のお酒をたのしむことができて大変うれしく感謝もうしあげます。

ところで、私の末弟である荒井住夫は 大和絵の絵師で前田青邨画伯のながれの故守屋多々志画伯の弟子です。これが箱根にアトリエがあり、彼とときどき大観山での富嶽のスケッチをします。 そしてバスで、椿ライン経由で、お住まいの湯河原スケッチを何度かしたことがあります。昭和のなごりがある街の風情が好きです。先の夏は、家にとじこもり、公募展の絵の制作やカント哲学取り組み三昧で日中すごしました。そして、そうです、日の陰る夕刻には、この至福のお酒などをいただきました。酒神礼賛と私の夏の午後でした。

目次 朝日記190809 目次 『酒神礼賛と私の夏の午後』



[1] (初稿: HEARTの会 会報No.81 2015春季号 および

朝日記150422 酒神礼賛と私の夏の午後と、今日の音楽絵画と絵

朝日記150422 酒神礼賛と私の夏の午後と、今日の音楽絵画と絵

2015-04-22 17:38:13 | 自分史

http://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/3f4c10b460a6076da950572aadd2923b

 

 


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