朝日記130518 徒然こと『 「良俗公序」か 』 ときょうの絵をお送りします。
おはようございます。
けさも初夏らしい晴れです。すがすがしいです。
いまバラがきれいですね。
徒然こと
ワシントンポスト紙からの話題ですが、Deval Patrick マサチューセッツ州知事が同性結婚州法施行9周年をむかえて 公開討論をおこなっています。
(SSM(same sex marriage)とよんでもいるようです)
(Devalという名前は それにしても 興味をひく名前です)
*憲法でも、宗教でも禁じていないということで賛意の意見投書が批判派を圧倒している観がありました。
平等権として 勢いを感じさせます。
*これをよみながら、個人が異なる価値観について 興論をすることは 大切ではないかと 思いました。
たとえば「公序良俗」とはなにかということで もう一度 原点から考えてみたらどうかということでもあります。
*ご承知のように、橋下大阪市長の従軍慰安婦必要論が国際的にも違和感をもってみられています。
*私の感想は 個人的の自由(道徳)と 公共的の道徳規範とのかい離のまま 「公序良俗」となってしまっている、 蓋をしたままで あることが 問題の根本にあるとみます。
*つまり、「性問題」という 兵役といえど個人の自由の問題に 公人が立ち入って 同一レベルで語るところに 彼の公人としての資質が問われることになります。
*民主的な自由社会のなりたちとして、結果的に個人の自由や尊厳が冒されることを防ぐ最低限のルールが法律や条例であると考えるのが一般であります。 一方、橋下市長は、そのルールがあるから 事実として存在する、存在するなら その事実を公にただしい(道徳的である)というものになります。
*この発言は 非常に短絡的で、そのルールを管理する公人の立場を逸脱しているとおもいます。
*その結果 橋下氏個人の人間的な品位が問われ、 また、そういう人を 国のリーダーの有力候補に選んでいるという国民の品性にまでが 問われることになるとみます。
*さて、上のSSMの公開討論ですが、問題は一見ちがうが 問題構造の類似性に惹かれました。
*つまり、個人の自由と公的権利問題です。
*マサチューセッツ州が SSMを公的な権利として 認めて 9年経ったいまも 賛否両論がはげしいようです。
*アメリカにもあるから、問題として注目に価する態度が、ただしいかどうかはいえませんが、ふと 「公序良俗」とはなにかを 考えさせられます。 (余談ですが、日本にも 好むと好まざるとを問わず SSMの問題は発生するとおもいます)
*社会学者の橋爪大三郎先生の「旧約聖書を読む」の講義での質疑討論で知ったことですが、欧米にはじまる近代社会倫理の思想背景は 神のまえにある個人が出発点にあり、そのもとで契約社会を形成するという一神教の規範が前提であります。 これが 日本人の倫理価値の潜在意識とどうしてもバッティングしてしまうところがあるようにおもいます。 これに対する解決策は まだみえません。
*わたくしは、年金生活者になって、貧しくも個人として「自由である」社会の恩恵を浴していますが、その「自由」について 日本社会が ほんとうに大事に思っているかが、いま 外国から問われているのだとおもいます。
*一方、『公序良俗』は 伝統的な意識がなじみやすい、そして タテマエとホンネで お互いに分かりそれ以上は不問にするという意識文化がありますね。
*ことばあそびのレベルで恐縮ですが 順序を逆にして 『良俗・公序』の方が 自由社会の本質に近いかもしれません。さて、どのように 乗り越えていくか 弁証法的課題です。
*「おもうことは自由、行動(発言)によって責任」が生ずるといっておきます。
徒然ことおわり
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