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朝日記201013 カントの哲学について「Transcendental(超越性)」と「経験」についての考察 と今日の絵

2020-10-13 16:14:26 | 絵画と哲学

 

朝日記201013 カントの哲学について「Transcendental(超越性)」と「経験」についての考察 と今日の絵

教の絵は lady gaga と赤い果物です。

カントの認識論の構造の図をいれました。 初出しは「朝日記2014-9-6カントの哲学について答案を書くこと」です。よろしければ、絵も、お付き合いください。

========

 

「Transcendental(超越性)」と「経験」についての考察

                 荒井康全 2020-10-13

 

表記に関して、以下友人からの問いかけと それに対する答案の形式で書いています。[1]

 

<1>友人S.A氏からの手紙(a6240 メモ)[2]

貴兄の読みの方が深いようですね。私は純理の初めのところで躓きました。

カントは言います。「我々は全てのことを経験から得る」

では、何故経験とは何かと問わないのでしょうか。カントはすぐ経験によらないものがあると、超経験の世界に飛び込みます。おかしくありませんか。

そのおかしさは、実践理性批判でも引きずっています。

人間は間違うものだということを認めないカントの論理はそれだけでおかしいものです。ふっと思うのは、カントは神の存在を否定し、ひょっとして、人間が神だとしたのではないでしょうか。

神なればこそ、経験の世界を無視し、超経験の世界に飛び込んだのでしょう。

ドイツ観念論者は、皆自分を神だと思っている節があります。

それに比べると、総てを否定した後に、われ考える故に我ありと言いながら、すぐ神の存在証明をして、自己の明証性を、神の明証性にすり替えるデカルトはかわいいものとしか言えません。

要は神というものを置かなければ議論できないヨーロッパの哲学は限界があります。それに比べるとアメリカ人のプラグマチズムはまだましかもしれません。

人間は間違えるものだということを根底に置かない哲学は無意味です。

もっと云えば、人間が考えるということは妄想していることだというべきでしょう。逆に言うと、妄想すること、でたらめを言うこと、うそを言うことによって、人間は自由な思考を身に着けたのではないかと思います。(S.A)

 

<2>友人SA氏への答案 (メモa6250 2014/7/12)

 SAさんからの命題を 定期試験問題の答案として書きます。

SAさん、 おはようございます。

*命題1「経験とはなにか」、命題2「人間は間違わないか」、命題3「超越的なものからなぜ考えるか」

反射神経回路でただ応答するのではなく、自分として、できるだけしっかり考えることができたらいいなあという重要な命題をいただきました。ありがとうございます。

 

<2-1 思考のフレームとその説明>

*自分のノートやメモをぱらぱら見ていましたら ひとつ目にとまったのでひとまず、助走として以下を 置きます。

ここで前提になる思考の文脈をカントにおきお話します。

~~~~

<2-2> 荒井メモa5980  カント 「純粋理性批判」から学んだこと

1.*理性と悟性を導入したこと。

(合理主義と経験主義を統一したこと。)

(可想体(理性の場)と可視体(悟性の場)と分けたこと)

2.*現象を導入したこと。

(時間と空間を主観の側においたこと。)

( 「自由」である人間と 感官からの認識表象である「現象」としての人間)[3]

(「自然因果律」と「自由意志」の無矛盾性を論証したこと)

 ~~~~~~

以下、いま取り組んでいるカントの思考フレームをつかいながら、荒井の考えを進めてみます。

*1 人間は、自ら、生存していくために 思考と行動の意識(自由意志)をもっていることを自覚しているとする。

 (もともと つるつるの裸で そのままでは 自然界で不利)

*2 自らも自然界の一部であるが、自由意識が働くためには 自分(主体)とそれ以外の対象(客体)を区分することをした。

*3 数学の例で語ると、集合論で 紙のうえに閉曲線で閉じた領域を描く、この中にあるものを思考の対象として考える。この閉曲線は その人間(主体)が行わしめるもので 思考としての問題形式を与えることになる。

(開曲線であったらどういうことになるか)

*4 主体が設定した閉曲線そのものは その曲線の中とは 連続していてもいなくてもよい。数学的にいえば 特異な点に相当する。 微分方程式の例でいえば境界条件や初期条件に相当する。以降、便宜的に「境界条件」と呼んでおく。

 

*5 カントは 二つの境界条件を設けた。これらはいずれも、ア・プリオリ(先験的な直観として、存在の証明の仕様のない意識とした。

ひとつは、主体側の境界条件として「超感性的」からの表象(検証のしようのない表象)を、 客体側と主体側の境界条件として 「感官からのうる直観」からの表象(検証の可能な表象)を それぞれ設定することにした。

*6 閉曲線のなかの対象に対して どのような意識表象をあたえるかは本来まったく自由であるが、カントは これに対する「秩序」が存在していることを想定し、これを「現象」として位置付けた。 秩序を 記述分類モデル化して「カテゴリー」としたと考えられる。[2]

*7 前後が逆になるが 主体側と客体側と分けて二つの体をモデル化したが カントは たとえば「自然がある、超越者はいる」という存在論(Ontology)から出発したのではなく、意識した表象を 主体の外で、存在にしても非存在にしても 構わないが ところでそれを どう知るのか、認識論(Epistemology)に着目した。 「現象」として「秩序」の仮説を前提とすれば それを正しく知りうるのかで考えることにたどり着いた。[4] 

*8 結局、カントのモデルは 二つの思考体を対として 設定した。もっぱら主体(人間側)で考える「可想体」(Noumenon)と 感官が境界面(条件)で表象として獲得できる範囲で考える「可視体」(もしくは「可能体」)Phenomenon)である。

*9 認識獲得のための形式としては  5つ( 以下 I から V まで)が、考えられる。

図1は カントの認識の構造を図化したものであり[5]、これを以下の説明に使います。

I (Noumenon系での認識形式)

 境界条件(人間の自らの生存や共存の意識[6] からくる条件)

+ 閉曲線内(思考対象のモデル) 

 この系での 思考の力を「理性」とした。[7]  ここでの 果実は「理念」とした。

II (Phenomenon系での認識形式)

 境界条件(感官を経て獲得した表象の内容[8]) +閉曲線内(現象のモデル) 

 この系での 思考の力を「悟性」とした。[9]  ここでの 果実は「概念」とした。


III 問題形式 境界条件(I  (Noumenon系)) + 閉曲線( II (Phenomenon系))   これを「形而上学」の問題とした。((超越的感性から来る)人間としてあるべき命題に対して、行為の内容を解とする;道徳律)

IV 問題形式 境界条件(II (Phenomenon系))+閉曲線(I  (Noumenon系))

 これが 実証主義哲学(ポジティヴィズム)へと展開していくことになる。(自然認識から 概念の形成を経て 解は、普遍的法則とする。

V ( III と IV の連成問題) (理念にもとづき、自然法則に従った認識とそれにもとづき行為を解とする命題)


<2-3 答案の部分>

*SAさんの命題 筆者が定期試験を受けていると想定しての答案です。

まず*命題3「超越的なものからなぜ考えるか」

思考のモデルとして 問題が閉じた形式になるためには 境界条件として「超越的なもの」が必要になります。

つぎに*命題2「人間は間違わないか」は、 phenomenon系 つまり現象モデルという 秩序や論理を 感官による表象(つまりデータ)の繰り返しの獲得によって 正しい認識にいたるかの判定手段を獲得することになります。その意味で人間は間違います。また、「間違い」はなんであるかを知ることができます。

上のIIIとIVの問題形式で 形式としては存在しても Noumenon系からのくる境界条件が意味あるかどうかは また別問題です。 しかし、科学主義が尊重されたのは、Noumenon系の理性による思弁的な横暴 つまり 「間違い」をチェックできる根拠として 実証主義[9]が期待されて ある部分答えてきたともいえます。(迷信の排除)

Vの命題 つまり IIIとIVの連成命題は 全人格的な命題で 近現代では 希薄になっているのではないかと 考えます。 当たり前のはなしですが、大げさにいえば巨大科学文明を構築して、呻吟している 海蛇と苦闘するラオコーンの連想ですが、人類が たたかいを続けなければならいない基本命題として あらためて、意識されます。

 

*命題1「経験とはなにか」 

カントの哲学も 境界条件のところに主観(自由意志)を導入して アンチノミー(二律背反)として思考のなかで理性の限界の判定(「理性の法廷」)をしています。 自由意志については アンチノミーの二つとも誤りでないことを判定し、選択問題として 「自由意志」と「因果律」との存在を採用しています。

 SAさんの指摘のように、「現象」という言語構造でとらえることのなかに すでにこの主観の尾を引いています。

そういうことを承知のうえで、「経験」は狭い意味では 感性~悟性~理性連携を経て、言語化したこの系統の認識(「現象」)ということになります。

*ところで 広い意味での「経験」は 芸術や 技術のように 上の「現象」系とは別の系列の認識獲得があります。 感性~理性に直接に飛んでいくもの経路は十分に考えることができます。  

*建築家の意匠デザインなどは そのもっとも代表的な例となります。

カントは 純粋理性批判、実践理性批判のあとに 最後に 人間の合目的性のための能力として二つの「判断力」の概念を導入します。 それは「反省的判断力」と「規範的判断力」です。

*「反省的判断力」 この感性~理性経路を 説明します。

(また、感性~悟性経路を「規範的判断力」とします)[10]

*悟性~理性経路[11]も当然ありますが、 彼の晩年の哲学でもあり、十分に整理し、系統的に吟味(批判)が展開しているとは 言い切れないと思っています。

プラグマティズムは カントのながれから生まれたアメリカの哲学で 上のIVの問題設定と理解しています。 (底流にプロテスタンティズムの前提意志があるとおもいます)

*「観念論者は自分を神とおもっているか」に対しては、 なんとも答えられません。

旧約聖書、キリスト教の精神土壌からいうと 基本は被創造物で、自然という「アパートの管理人」というのが一般的な意志ではないでしょうか。

*この管理人がまことに 不遜であることが どうも我慢ならないというところに

つながっていきます。 

お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

以上

[1] 初稿 2014-9-6:朝日記140906 カントの哲学についての答案を書くこと と今日の絵

2014-09-06 06:53:34 | 研究論説

[2] 友人S.A氏からの本校読後のメッセージがきました。敬意をもって掲載いたします;

貴兄がカントをよく読みこんでおられることに感服です。私ももう少し考えてみます。ありがとうございました。S.A. 2014-09-06 11:33:44

 

[3] ( 人間の行動は (自然)「現象」のなかの一部としたこと)

[4] ( 現象の背景には 天地創造への先験的意識を 暗に継承しているとみる)

[5]  カント 「純粋理性批判」岩波文庫から荒井が図化したものである。

[6] (誰があたえたかの問題がのこる? )

[7] (誰があたえたかの問題がのこる? )

[8] データ 標徴

[9] (誰があたえたかの問題がのこる? )

[10] 現象系とは 別の経路を仮定したようです。

[11] 道徳律と格律(個人の価値観)と実践理性の命題経路です。


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