Yassie Araiのメッセージ

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朝日記140910 古田博司著「ヨーロッパ思想を読み解く ―なにが近代科学を生んだか」と 今日の絵

2014-09-10 16:50:06 | 社会システム科学

 朝日記140910 古田博司著「ヨーロッパ思想を読み解く ―なにが近代科学を生んだか」と 今日の絵

(海をみるひと)

おはようございます。
今朝はラジオ体操にいきました。
コスモスが咲き始めたのでこれを二つほどスケッチして
かえってきました。
花などを描いていると ときどき通りがかりのひとから
あいさつの声を受けます。 きまったあたりで芳香が漂うので 気が付いて見上げるとジャスミンであったりします。
夏を越してまだ深い緑色のアジサイの葉や柿の葉などが
いま葉っぱがスケッチしておもしろいです。

徒然こと 古田博司著  ヨーロッパ思想を読み解く -何が近代科学を生んだか を読んで、考えたこと

 総合知学会でこんどの土曜日に「目的関数のupper bound」という話をする予定ですが、まだ原稿が終わっていません。
先日 友人へ送った 定期試験としての答案~「Transcendentalal(超越性)」と「経験」についての考察」でカントの認識モデルをつかって 課題(命題)を5形式まとめてみました。これをもとに 話をまとめたいとかんがえています。
いまいえることは、どの命題を扱うにしても、「超越性」は着いてきます。

そんなことを考えていましたら、先輩筋から つぎの本を挙げてきました;
~~~~~
古田博司著 ヨーロッパ思想を読み解く ―何が近代科学を生んだか  ちくま新書ISBN978-4-480-06793-7

本の見出しは、次の通りです。なぜヨーロッパに近代科学を生み出す思想が発達したのであろうか。 それは「この世」の向こう側を探る哲学的思考が、ヨーロッパにのみ発展したからなのだ。人間の感覚器官で接することのできる事物の背後(=向こう側)に、西洋人は何を見出してきたのであろうか。バークリ、カント、フッサール、ハイデガー、ニーチェ、デリダらが繰り広げてきた知的格闘をめぐって解説を加えて、思想史再構築をこころみるとしている。

~~~~~
「向こう側」と「こちら側」の用語使いは、このひとのものですが きほんてきに、カントの認識モデルを前提にしていると理解します。
図式もつぎのように置いています。
 (神域)~(向こう側)~接点(直観、超越)~(こちら側 科学するこころ)
彼のモデルでは(向こう側)は この世であってよいとしています。 つまり認識問題としてとらえれば、主観のなかで、(感官からの外的な接点からの経験を伴わない)純粋思考の世界です。カントがいう Noumenon(可想体)とおなじです。
この可想体としての課題(命題)を成立するために (超越的)感性からの境界条件が必要で、これによって問題が(閉じた形式として)成立します。 この境界条件はなにかというと 「超越性」もしくは「普遍性」であり、著者は、そううもの哲学的な態度を、この本で延々と展開するものであります。 著者は、英国のバークリなどの経験主義のながれがお好きなようで、ドイツ哲学のように 「普遍性」などといったところで、カントの勝手な「普遍性」として、思考のドメインから外そうとしますが、そう簡単ではないようです。
かれのこのモデルの説明は、大切なところで 理性、悟性、超越性、直観、現象の説明が一本筋がとおったものにしていないのが残念です。

一方、私の作った図式は以下でした;
  超越的世界~接点(超越的感性)~(Noumenon(可想体);
 理性 理念 自由意志)~接点(?記号化した条件)~(Phenomenon(可視体); 悟性 概念(現象) 経験)~接点(直観)~外界

これの構造は この本の著者のものと本質的に同じであると考えます。 彼の(向こう側)というのが 思考体としての(Noumenon)であり、ここでの境界条件が 「超越」的なものです。また 彼の(こちら側)といいうのが思考体としての(Phenomenon)で、境界条件は 感官経由で「直観」でえた「経験」とします。

しかし、上の状態だけでは問題(命題)はまだ閉じていません。NoumenonとPhenomenonがつなぐ条件が必要です。
西側世界では、Noumenonに作用する超越的感性は、キリスト教倫理であるという前提であり、それを理性の働きによって、人間の実践行動の規範つまり実践「目的」を設定すると考えます。
これを、Phenomenonにつなげる接合条件(境界条件のひとつ)にすると考えたはずです。
時代背景としては ニュートンの物理学を頂点とする人間の知性(理性+悟性)への信頼感と希望があります。

Noumenonからの接合条件としては Phenomenonにおける
自然認識に焦点があったと考えます。
科学への哲学的根拠をあたえたのは カントの超越論(特に、空間・時間・人間意志自由・超越者の存在の四つの主観への位置づけ)であったといえます。
キリスト教の倫理観の基盤のもとで、人間意志の自由によって 自然からの経験と現象を概念化に専念します。 科学研究が道徳と表面的には切り離されて進行していったと、すくなくともわれわれ日本人には見えます。

 さて、ここまでは 上の著は 特にあたらいしことを提示していないとおもいますし、その先も 確たる提言をしていません。 (私もまだなにも提示していません)
カントのNoumenonとPhenomenonの接点のところは、日本人には形式的には わかりやすいモデルであるとおもいます。欧米人がやっていることを横目でみて Phenomenonですぐれた功績をあげることは 現実に成功していますし、非欧米世界にも大いに啓示的であったとおもいます。
問題は この本の著者がいうように Noumenonとその接点の「超越」の部分であるおもいます。
ここは 人間が、この社会が、(この国が)、人類が、・・・という次元への広がりで、いかに生きるかという部分です。
この問題を 科学者の問題は、phenomenonを思考ドメインとするとき、その境界条件として 至高ベストとはいえぬまでも実践的ベストを、苦闘して共有のものにすることは 科学者としての基本的素養であって、避けて通れない「must」
であると 書いておきます。(これがないと 日本の知識人が非モラル的な存在として孤立してしまうかもしれません)

この本で気になったところのひとつに 著者の数理論への期待が延べられますが、この辺の知識は あまりにも表面的であり、材料をならべてお茶を濁している観があります。
たとえば 「非線形」の時代というときに 人間思考が
線形であることを踏まえて、非線形にどう向かい合うのかという数理哲学的な思索と向かい合う真摯さがもとめられるとおもう。
また、「直線は2点をとおる」や「負数と負数をかけると正になる」というのをまとめて「超越」と括ってしまって、それが概念仮説であるのか、本来てき超越であるのかを、思考のメスを入れないでいるところが、いかにも論理が粗いとおもいました。
 こういうところに 目的関数のupper-boundを見ていくことにも 意味あることであると感じました。
徒然ことおわり (夕顔の朝)


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1 コメント

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Unknown (確かに)
2016-02-14 18:00:22
まあ、カント哲学をよく知ってる人がこの本を読めば、そういう感想になるでしょうね。あと、フッサールもカントと同様にバッサリ切り捨てている割りには、直観だ、超越だと、考え方の基盤はカントとフッサールにあるという印象。その意味では、なんとも不思議な本(笑)
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