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朝日記171106 青春彷徨 練習帆船「日本丸」を訪ねることと今日の絵

2017-11-06 21:18:42 | 自分史

 

朝日記171106 青春彷徨 練習帆船「日本丸」を訪ねることと今日の絵

今日の絵は (海賊船)と(帆船・幻想)です。

徒然こと  青春彷徨 練習帆船「日本丸」を訪ねること

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 ―偶感 ―

青春彷徨 練習帆船「日本丸」を訪ねること

会員 荒井 康全

 私の明治学院中学校時代の仲間4名で横浜みなとみらいに係留してある帆船練習船日本丸をたずねました。私が短期実習で乗ったことがあるということでの案内役でした。

そのためのメモを用意しましたので、掲載します。 絵は(海賊船)と(帆船幻想)です。

メモ2017/09/15 

   (海賊船)      

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練習船・日本丸について 

 

 帆船(4檣バーク型)、 定員138名(練習船時代196名)、総トン数2,278トン、

全長(バウスプリット含む)97メートル、幅 13メートル、平均喫水 5.3メートル、

総帆数 29枚(畳1,245枚分)、最高マストの高さ46メートル 。

1930年年建造 183万キロメートル走航  11千人の実習生を育てる。1985みなとみらいにて保存。 日本丸のエンジンは、池貝鉄工所製。日本初の舶用大型ディーゼルエンジン。日本丸の中で54年動きつづけ、世界一の稼動年数記録を打ち立てる。 

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~荒井康全の 練習船日本丸実習の記憶

 昭和33(1958)  航海実習 東京商船大学機関科学生 3年の時

  東京港→小樽港→新潟港→神戸港→東京港  期間 1か月間

 

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~ニュージーランドへの遠洋航海、自分探しの青春であった商船大学

 

眉目秀麗であることということが入試要綱に入っていると聞いたことがあるがほんとか、と訊いたひとがいる、わたくしの顔をチラッと見たようだった。 裸眼で視力1.0 とか、綱に片手でぶら下がって10秒以上とか、あるいは、性病検査とか海洋日本の伝統的な独特の体力試験があった。「紅顔可憐の美少年」で知られる寮歌が、事実を虚飾するのかもしれないが、わかいときはだれも、それなりに、意気がいい。
商船大学は 当時東京と神戸にあった学校が戦時統合され静岡県清水市にあった。伝説羽衣で知られる三保の松原の砂浜のなかにあった。満月の夜は、駿河湾の海がきらきら光り、遠く伊豆の対岸や達磨山の灯が見えて、切なくもうつくしい。 「完全就職、陸の倍の給与、たばこも酒も免税で、しかも外国が見られる」、たしか雑誌蛍雪時代での紹介であった。
そして、1956 年(昭和31年)目出度く機関科に入学する。そして 低空飛行で1960 (昭和35年)秋に5年半の過程で東京越中島の地にて卒業。 卒業実習は6ヶ月、最初の3ヶ月は三菱日本重工横浜造船所 いまの‘みなとみらい’の場所である。 あとの6ヶ月は運輸省航海訓練所の生徒になり航海実習にでる。 練習船大成丸という3千トンクラスで日本列島を周航して、瀬戸内海で特訓を受けると、ニュージーランドへの遠洋航海にでる。 長駆赤道を越え、熱帯スコールに身を洗い、ブーゲンビルの夕日を望見し、いくつか南十字星を仰ぐとやがてクック海峡に投錨する。 折りしも雨雲が切れて陽が射す、波洗う崖の海岸線に鮮やかなみどりの丘陵が目の当たりに現出する。 赤い屋根のバーンやサイロがある、たくさんの羊の群れがある。首都ウエリントンに着いたのだ。 ときに、”六十年安保” 東京はデモの渦で騒然としいたときに出航したが、国際放送は、池田勇人内閣の発足を報ずる。
 いま思うと、自分の生きるべき道筋と現実の学問・教科にしっくりしないものがあったのだと思う。 それを認めたくないから困ったものであった。 この辺のところは、いずれ、もう一度整理しておこうと思うが、物理にも数学も その他もあまりこころ踊るものではなかった。それ以上に基本的には、外国を無料で行きたいというところにあったから、相対的に手段としての位置づけになる学業が軽くなってしまったのかもしれない。 初めて家を離れたという開放感とみずからの責任で方向を定めるという自意識との葛藤があり、思索は旺盛であるが、意欲に敏でなく、なんとなく身を浮き漂わせていたように思う。 石原慎太郎の芥川賞作品である「太陽の季節」に障子を破る下りがあったが、持てるエネルギーが向かうべき何か、当たるべき壁の喪失感のあった時代だったように思う。 思えば日本が経済大国として離陸しようとして必死にもがいている時代でもあった。 成績のよいクラスメートに対する競争心はあまりおきなかったし、むしろ冷ややかにみていたと思う。
蒸気タービンの実験の時間に、側の十メートルほどの水槽を、泳いで往復して帰ってくる賭けを引き受け、実際に実行して担当教官を烈火のごとく怒らせたことがあった。この教官には、後に就職した会社からの米国派遣の件につき、大変助けてもらうことになったが、当時はそのような状況であった。 つまり、自分探しの青春であ った商船大学であったと思っている。

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 横浜みなと博物館から

荒井様 お尋ねの件につきまして回答いたします。訓練生の名簿は『練習帆船 日本丸・海王丸50年史』に掲載されています。この図書は館内のライブラリーにあります。

「機関長日誌」は所蔵していますが、研究等の場合には手続きをすれば閲覧可能です。

今回は時間的にも困難です。ライブラリーには日本丸等練習船の図書がありますのでご覧いただけます。以上、よろしくお願いいたします。

2017/09/14 () 16:40  写真は(練習船日本丸の実習のときのもの。氏原 諦君と一緒に甲板にて。写真が古いです。)(次のは 商船大学1年生のときのものとおもう)

 2017/11/3稿  (上席化学工学技士)


 

 

 

(帆船幻想)


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1 コメント

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商船大学の時代の級友・立石君からのメッセージ (あらいやすまさ )
2018-09-11 22:28:40
荒井康全様

お久し振りですね。御健勝の御様子何よりです。
絵を始め相変わらず多方面でのご活躍、脱帽です。
小生、横浜みなとみらい地区で展示されている帆船日本丸の
展帆ボランティアをしていますが、貴兄のホームページで
貴兄が日本丸に乗船していたとの記事がボランティア全員の回覧になってをりまして
吃驚致しました。

残念ですがクラス会御欠席の件了解です。
次回の再会を期待致してをります。

呉々もご自愛のほどお祈り申し上げます。

立石健三 拝  2018・9・11

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