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朝日記190204 スタンフォード「集合体責任」(その2)

2019-02-04 17:39:05 | 社会システム科学

朝日記190204 スタンフォード「集合体責任」(その2)

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 3.   Collective Responsibility and the Structure of Groups

集合体責任とグループ構造

 

一方、French、Gilbert、May、等は、知的構造体[1]という意味で、構造体行動とグループ意図の結合性を支持する、これによって集合体としてのCRとしての償いに関心が向う。しかし、彼らには、すべてのグループが、集合的に行動し、意図する可能性があるという主張にまでは至っていない。

 

また、すべてのグループが、危害の責任としてCRを理解しようと主張するまでにも至っていない。

代わりに、特定の種類のグループだけが、集合的行動と意図が可能で、そのグループだけが危害へのCRに帰することが可能であると主張する。

 

最も共通のアプローチでは、その集合体がCRに関して適合であるか否かを想定し、焦点を国家、団体、その他に当てられた。それらが 良好な秩序のもとで意思決定を行う手続き空間[2]を所有しているかにある。この論議は、これらグループが、その良好な秩序のもとで意思決定を行う手続き空間のもつ力[3]により、CRとして必要であると仮定されるつぎの二つについて開示する能力があるかに及ぶ。

 

第一のアプローチは、所定のグループ行動が現に存在して、それを自認する道徳的機関agentを所有するものであること。例えば、統治責任会議体または代表者のいる体があって、その背後に、グループとして行動を遂行する能力を備えていること。

 

Peter Frenchは、つぎの三つの健全なる姿勢を有するときに、そのグループをCRの優れて適合の場をもつ組織であると考えた

第一は、競合する行動が存在して、その必要性は別としても合理的根拠によって選択する一連の組織的機構がある。

 

第二は、個人にたいして、所定の拘束力のつよい指針が適用されている。これは彼らが通常に属していているより大きなコミュニティで、適用されているよりも、強いものであって、なお外部の者にたいして、その指針や規律について公開できる場合である。

 

第三は、「個人が実際に力の発揮の訓練が定められて」配置されている(French 1984, pp. 13–14)いる場合である。

これら三つの姿勢は、Frenchによれば、目的性があり、制御性のある行動の存在の記号化表示するものであり、また、その力によってグループに、危害CRを付与するものであるとする。

 

第二のアプローチはとしては、民族的なコミュニティ、クラブ、そして社会運動のようにその基盤に、共通の興味や必要性を共有するメンバーをもつグループの場合のようにそれと適合するCRの類型ケースとみるものである。CRの適合存在点の位置としてそのようなグループを意味するものである。

 

ふたつの仮定が想定される;

第一は、そのグループが、その一体性のサインをなんらかで示すことができ、それが共通の関心や必要性である場合である。これはJoel Feinbergが示した文脈であり、メンバー相互の興味に[4]強い関心をもつ文脈として定義する。(Feinberg 1968)

 

第二は、一体性のサインを証明する。CRにつながる感覚において可能な道筋で行動し意図が理解できる一体性をもつグループを示すサインを意味する。グループのメンバーは個人である一方、彼らは共通のプロジェクトを追求している場合である。

 

驚くには価しないことでるが、グループの一体性は、一般に、次のいずれかのケースで存在すると考えられる。ひとつはグループメンバーが自身をそのグループにあると認めて、興味と必要性を共有していて、それを外にむかって顕わしている場合である。もうひとつは、グループメンバーが、その意識の結実として集合体としての誇りと恥をみずからが受け止めている場合である。

 

しかし、グループ一体性の概念を使う人たち、たとえばLarry May (1987) および Howard McGary (1986)は、一体性に対して、グループの自己意識[5]を要求しない。

MayとMcGaryによると、グループ一体性は、McGaryが「緩く構造化されたグループ」とよぶような理解とされる。それは特権的な人種グループにみられるように、グループに属しているというだけで、他のメンバーからの支持と便益が供されるというものである。McGaryが指摘するように「お互いが何に関心をもっているかは関係ないものである」(McGary 1986, p. 158)。

 

このグループでは、相互の便益があり、そこに誰が参加しているかわからない状態での催しがあって、人種差別主義や性差別主義のような抑圧的な形式をそこでは残していることをMcGaryは認めている。それはCRが問われる種類のグループ一体性を表示しているとする。

 

第三のアプローチは、ここでは、CR適合の場として、メンバーのなかに共有態度shared attitudesとして何かがそのグループに付与されているようなある場合である。 

 

ここで意味する態度とは、一般には、社会で深刻な危害を生むものであり、かつそれがコミュニティにとって効果的であるよう、多くの個人たちに受け入れを要求する態度である。たとえば、人種差別、性差別、そして反ユダヤ主義のような態度である。

 

May (1987), McGary (1986), Marilyn Friedman (Friedman and May 1985)およびその他等は、つぎのようなグループ、たとえば「男たち」および「白人アメリカ人たち」はCRにあること、ここでは、女性たちと黒人アメリカ人たちに対するCRへの十分な態度であると言及する。しかしいつも適合しな場合も当然ある。

CRの存在を支持するひとたち、たとえば、Peter Frenchがそうであるが、問われているグループが本質的に集合体としての道徳機関としての意識を保持して組織されているかその根底を論ずるまでに至っていない(French 1984)。

 

上の三つのアプローチはみな、異なる方向性を我々に語りかける。かくして、それらは、ときに相互に競合すると考えられる。しかし、彼らはおなじくaggregateとconglomerate集合体との一般的な区別は支持している。

 

Aggregateな集合体性は、「単なるひとびとの集合」であるとPeter Frenchは書く(French 1984, p. 5)。 それは、CRに関していま書く者のほとんどの見解では、これには、CRに適合する場が存在しないとしている。

一方で、Conglomerate集合体は、「各個人がその組織の者であるというidentityの結合がそこに余りなく満たしつくしていない」(French 1984, p. 13) 

 

CRについて書いているほとんどのものの見解として、CRが適合する場は、目的行動を可能にする道徳的機関を我々に与えるものである。すくなくともaggregate集合体ではないとする。

 

道徳の構築体として、CRの考え方を支持する人のほとんどは、構造体ごとの区別[6]をどのようにみていくかに着目する。彼らは、個人の単なる集合の頭数を足し合わせた意味での「頭数集合体」aggregate respoponsibilityとして着目することには同意しない。

 

CRについて書くひとたちのなかで、頭数集合体グループについては、二つの特定の種類のグループを取り上げるが、CRとしては考えるに価しないとする。

 

この種のグループのひとつは、mob(野次馬)である。他はViginia Heldがよぶ「個人のランダム集団」[7]である。

これらの種類のグループは、どれもその場での意思決定手順を持たない。またメンバーは自らの一体性を多く証明していない。

 

かくして、かれらはCRにたいしての候補体としては通常排除される。これにCRの理念を有用であると見いだす多くの人たちも同意する。

しかし上のふたつのグループを集合体適合する場として肯定する人たちがいる。

Virginia Held (Held 1970)は、非組織化グループのメンバーは、危害を防止することができたであろう行動をとらないことへの責任があるという。そこでの彼らは、危害を一緒になって防ぐための何らかの行為をし得たであろう、しかしそれを選択をしなかった場合である。

 

彼女の例は暴動での犠牲者をあげる。この例は、その犠牲者たちが、まわりに集まっていた他人の全視覚のなかで、叩かれ、或いは殺害されている場合である。ここでの他人とは、自身、犠牲者とは関係はなく、また一緒にいるいかなるグループ‐ベースのプロジェクトの部分でもない。

 

Heldによれば、これらの個人たちの誰もが、彼ら自身に関する暴動を防ぐことが出来たかもしれないが、彼らは、彼ら自身がひとつのグループとして組織されたなら、防ぎ得たかもしれない。すなわち、他人どうしと、最小限の協力をするような場合である。かくして、ここで他人と言っている彼らは犠牲者受難そして/もしくは死にたいしてのグループけん責があり得るというものである。

 

個人責任IRのランダムな集合体[8]を保持することは、それと対向になる組織されたグループの責任を保持する以上に困難であることをHeldは認めている。それは後者が、前者とは違い、如何に行動するか、そのための投票や組織的階層の関係から決定する方法を持っているからである。

 しかし、彼女は論及する、我々は前者グループを保持しうる、すなわち彼女はそれを個人のランダム集合と呼んだが、犠牲者になされた暴行に対しての責任があるとする。それは、もし彼らが試みていたならば、彼ら自体で意思決定手順に至っていた可能性があるからでる。

 

「上の例では、個人たちのランダム集合が、その危害の防止に対して、組織化されたグループとなって、非行動の位置から行動を立ち上げる組織化への転換することに失敗したという意味での道徳的責任がある」と彼女は書く。(Held 1970, p. 479.)

 

mobsはしばしば我々がそれへのCRの保持を試みるべき最後のグループである。

彼らは完全に意思決定手順を欠落しており、彼らのメンバーは只々関係がないように見えるし、彼らはしばしば、混沌でありそして非合理的である。

 

Larry May (1987)、 Raimo Tuomela (1989)、他等はしかしながらmobsのCRを保持することができると論及する。それはすくなくとも、かれらのメンバーのある者が直接危害に寄与しており、そして他はこの寄与の場を供与しているか、あるいは危害の防止に失敗しているとみるからである。

 

このケースでは、彼らのなかの者たちが、特定の危害を生み出しもしくは一緒に為すべく組織化した場合であるが、すべてのmobメンバーはmobの行動に「巻き込まれて」[9]いたとする場合である。

Tuomela (1989, 2005, 2006)や、 Le Bon (1896)そして、彼以前の多くがつぎのように論及する、群衆と暴動者は、彼ら自身がことをおこなうと考えなくても、グループのメンバーとして彼らが、行動を遂行するという事実の力によってCR適合とする場であるとするものである。

 

群衆と暴動者は…は多く構造をもたない(そして仕事や行動の分業などもなく)…そのグループのゴールや関心への配慮もない。…しかし彼らは、彼らのメンバー行動力において行動をすると言うことができる。…かくして、暴動では集合体のメンバーは、その代表者としての行動指示なしでも集合体のメンバーmembersとしての破壊行動を典型的に遂行することになる。(Tuomela 1989, p. 476.)

 

これらのケースとも、十分に興味あるのは―mobsとHeldがランダム集合体とよぶものも―  この件のグループは、非関係的ではないとするものでる。一方、Heldと他等は、非関係的であると示唆している。

 

事実、精確にそう言える、なぜならこれらのグループは個人から成り立っているからであり、その個人は、一緒に危害を生む仮定で相互に関係ができてしまったbecome related。(はじめは互いに他人であったにも拘わらず)のであるが、この段階でCR適合能力をもつ場となっているのである。

 

Stanley Batesはかれの論及として、Heldがいうランダムでも非連結でもないひとつのグループを我々に提示した。まさにランダムがことばとして通常意味するとおりであるが、しかし、その延長として「関係がある」[10]とした。これはグループのメンバーが特定の挑戦を共有し、そして相互に連携をとる可能性があるということからである(Bates 1971)。

 

グループの構造とCRについて、ここでのほとんどの論議での例では、件のグループはそこではそのときに生存しているメンバーから成り立っている。

しかし、近年では、多くの研究が、以前の世代による遂行行動にたいする道徳的責任の保持に関するものが出てきている。

奴隷のケースはここでの中心的舞台であり、そしてしばしば償いの論議を伴う。

 

このような努力は一般には法曹界の領域での行われるのであるが、彼らはCRの現代哲学論議から全体からは除外してこなかったのである。

実際、近年では、さまざまな哲学者が、悪しき行動が遂行されたときに、この世にさえいなかった現在のメンバーのグループへの道徳的責任の帰着を設定している。たしかに、一方でJanna Thompsonが指摘するように、「不法が起きたときにはこの世に生まれていなかったことは如何なる責任を否定する非常によい理由のように見える」(Thompson 2006, p. 155)という。

 

如何に我々は前の世代の悪しき行動に対してグループの道徳的責任を保持することを(あえて)望めるであろうか?

Farid Abdel-Nour (Abdel-Nour, 2003)は、論及する、コミュニティ一体性community solidarityは、少なくともある種のグループに、それ以前の世代によってもたらされた危害についてグループ道徳的責任性を付与するに十分(条件)となるというものである。特に世代間で高度に嗣がれ、世代間の同定と先祖の実績[11]にたいする誇りがあるならその責任は付与されるというものである。 

 

このような論及の存在が、機関agencyが取り組む問題とするときには紛糾をもたらすことは驚くに価しない。

一体化と同定の存在[12]があるグループについて、時間を超えて語りそしてその行為が道徳的悪と附箋づけることを我々に許すかもしれないが、一方、彼らはある種の機関agencyを置いて、それらに伝統的な理解としての道徳的責任に取り組むことを許すことはない。

 

Michael Bratmanが彼のCR研究で示すように後者の要求は、個人の意図を共有するにとどまらず、かれらが相互に関与するinteractことを要求するものである。

 (See especially Bratman 2000).

 

CRについて書く者のほとんどはBratmanが、ここでの相互作用interactionが必要(条件)であることに同意するのであるが、必ずしもすべての者ではない。

Linda Radzik (Radzik 2001)の要求は現に存在するグループのメンバーが、その責任を保有している過去の不正義から便益を得ていることを示すに留めている。

Larry Mayは、同様な要求を彼の研究を通じて要求する。 彼の論議では、男性は強姦に対してCRであり、そして米国の白人は人種差別に対してCRであるというものである(May and Strikwerda 1994)。

 

CRの帰属において、危害からの便益とはどこにあるのであろうか?

Janna Thompson (2002, 2006)は、危害からの便益は、危害を起すこと(からの便益)とは同じではないと指摘する。

便益―男性が性差別から、そして白人が人種差別からの便益がうけるときのような―は、過去における他者への行為へのCRの適正なる根源にようにはみえない。

 

しかし便益は、危害の延長性prolongationおよび、もしくは未来にひきずる帰着性[13]へという意味で、CRに適合する根源かもしれない。

別な表現をすれば、それは、現在そして未来に、(過去を含まないとしても、)不正義に対するCR適合する根源かもしれない。これには早期での悪に始まる不正義を含むものである。

 

さらに、人々のグループは過去の不正義への道徳的責任に対する恰好の候補ではないかもしれないが、特定の種類の集合体(態)、たとえば、国家、企業体、そして組織化した宗教は候補かもしれない。意思決定体、執行過程、そして特に、後者は時間をこえての信仰のシステムを所有するからである。

 

J. Thompson (2006)は、したがって論及する、上述の彼らは道徳的責任の合法的場として理解しうること―しかし、彼らが道徳的責任に正常に繋がっている種類の機関であるかは、明確ではない。

もし彼らが道徳的機関でないとするなら、Thompsonや他等は、国家、企業体そして組織化宗教のようなグループに道徳的責任を問うことができるのであろうか?

 

Thompsonは、これらのグループは、かれらが道徳的機関のごとくlike moral agentsにある[14]という基盤において、危害へ道徳的責任があるものとして語ることに安堵感を感じたのである。

Thompsonによれば、「かれらは実際の道徳的な人たちとして数にいれるか、もしくは、彼らがそのような人としてのみ行動するかは、つぎの条件で正当化されるようである。つまり我々が道徳的人々に適用する標準により、集合体を裁くことが、最小限度、正当化されているように見える。」

 

「道徳的機関のように行動すること」は、それが道徳的機関であることとは違う。(そしてもし、ひとが実際に道徳的機関であるなら、いちいちその類似らしさについてながながしく事別する必要はないはずである)

 

我々は以下に述べるように、グループが実際に道徳的機関であるように見えないということは、それが危害に対する道徳的責任保持しないということを意味しない。

しかし、そのことは、我々が、グループにつながる道徳的責任の種々を再考すべきであることを意味するのであるが、しかしその方法としてカント流の道徳的機関の必要をここでは想定しない。

 

 



[1] an intellectual construct

[2] well-ordered decision-making procedures in place

[3] virtue

[4] in each others’ interests

[5] group self-consciousness

[6] (質や様態)の区別を意味する、荒井

[7]  “random collection of individuals”

[8] random collection of individuals responsible

[9]  “implicated”

[10] “related”

[11] cross-generational identification and pride in one’s ancestors’ deeds

[12] solidarity and identification

[13] consequences

[14] like moral agents


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