荒神谷遺跡を後に 次は 西谷墳墓群へ 行ってきました。
《王家の谷》と呼ばれるに相応しく3世紀(弥生時代後半)から古墳時代にかけての500年に渡り 墓地だった遺跡です。
その中でも 6基の日本最大級 四隅(よすみ)突出型墳丘墓は 代々の出雲王の墓地だろうと言われています。
前に読んだ幾つかの本には 高句麗、新羅に類似した墳墓があるので それが伝わり 摸したのだろうと書かれてありました
四隅突出型墳丘墓とは
中国地方の山間部で作られ始め 山陰(出雲)地方を中心に広がり 北陸地方にかけて作られた墳丘墓。
これまで約90基が確認されています。形状は のように方形でコタツに布団をかぶせたような形、
外側の法面には石積みがされ 墓裾は2列の石で囲われていた。また墓上では葬送儀礼が行われたと考えられています。
2号墓(約46m x 29m x 3.5m)
(パンフ)
墳丘墓より発掘された土器の中に 儀礼用の吉備(岡山)や北陸の土器が見つかりました。
それら他地域の土器が発見されたことで それらの地域との交流があったと想像できます。
こちらの2号墓は 中に入ることができます。中は展示室になって 埋葬時が再現されています
3号墓 実際は芝ではなく こちらも石積みだったそうです
今回 訪れた1~4号墳墓の位置 (パンフ)
出雲地方を中心に建造された四隅突出型墳丘墓は
3世紀後半古墳時代が始まると突然消え
大和政権勢力の強力化と並行して
近畿地方で発展した古墳へと姿を変えた。
ということは
・・・大和政権に屈した?神話の国譲りにつながるか?
( 王の墓は 古墳時代から【古墳】と呼び それ以前は【墳墓】と呼ぶ)
四隅突出型墳丘墓の側にある 出雲弥生の森博物館 ( パンフ)
こちらの博物館では 四隅突出型墳丘墓より発掘された
副葬品の展示や 出雲王についての解説、
弥生時代の衣装に着替えるなど
様々な体験もできる施設です。
小学校低学年生が 楽しげに体験学習をしていました
出土したころは きっとお仕事にお忙しい時期だったのでしょうね
出雲は神話が盛り沢山なのに
近世まで 物証となるものの出土が少なく
神話の世界に閉じ込められていたのかもしれません
しかし 神話の元になる出来事が必ずあるはず。
出土すると その数や規模の大きさが想像以上で
だれもが驚きを隠せません