✔きっかけ
天文に興味を持ち始めた頃から誰もが考えるように宇宙の果てには何が有るのだろう、宇宙は一体どうなっているんだろうと考え始めた。
それ以降、今までずっと考えてきた。
突き詰めて考えて行くと哲学・宗教という領域に限りなく近くなってくるだろうと思っていたが、後に知ったアインシュタインの言葉”すべての宗教、芸術、科学は、同じ一つの木の枝である”
は正に自身で思っていた核心をつく言葉であった。宗教、科学でさえ所詮”枝”で、その元には別の幹が存在するのだと。
”我々のいる宇宙ってどうなっているんだろう”という単純な疑問から発した超難題に関し、現時点の自分の独りよがりの“宇宙観もどき”を書き記していきたい。
誰にも何が正解で何が誤りなのか、判断できないこの取り留めのないトピックに関して、ここで誰かに同意を求めたいわけでもなく、もちろん強要できるはずもない。特段書物で勉強してきたことも無いため不勉強を大前提で、ただ自分が感じるがままに書き記してみたい欲求だけが有る(アマチュアミュージシャンの曲作りしたい欲求に似ている)。書いているうちに自身の考え方も紆余曲折しながら様々な矛盾もでてくると思う。あるいはここで仰々しく述べていても、世間から見たら既知の事実である可能性もある。そのせつはご笑納いただきたい。
宇宙ってなんだろう?
私のイメージする宇宙とは、どうも”精神世界と物質世界が融合した世界”であるようだ。
”Spiritualな世界”と”Physical な世界”は全く別次元の話として扱われがちだが、これらがひょっとすると両方を包含する多次元の中で語られるべきものかもしれないし、あるいはビッグバンの直前のような0次元の話なのか、はたまた次元そのものの概念すら超越する存在の可能性もある。
こんな事を考え始めるきっかけとなる出来事が過去を考えてみるといくつか存在する。
1、天文学
小学校3、4年の頃の理科の星座の授業依頼、すっかり天文の世界にはまってしまった。最初は近所の同級生を誘いグループで星座探しにワイワイ言いながら楽しんでいるに過ぎなかった。その後、晴れた夜に友達に声をかけ星座探しを繰り返していると、1人減り、2人減りと段々夜のイベントの参加者が減っていき、最後は1人になってしまった。当時は、何故こんなに楽しい事を敬遠するんだろうと不思議でたまらなかったが、後に面しろがっているのは自分ひとりで、他の人達にとっては星座探しはそれほど楽しい事ではないのだと分かった。この時点で私は始めて趣味という概念を身をもって理解し、自分は天文が趣味なんだと自覚した。
その後一通りの星座探しは卒業し、天体望遠鏡を使って月面のクレータに驚き、木星のガリレオ衛星や表面の縞模様、金星の満ち欠け、深宇宙の世界にのめりこんでいった。すっかり一人になった私は、深夜一人で天体望遠鏡を通して星雲、星団を眺めながら、実は何万年前に発せられたであろう光を見続けながら、今この時間に見ている星々の光とは何だろうと考えた。そばに行くことが出来たならば、まだ存在するものなのか、そこへ到達するまでの時間という概念や、宇宙の果てはどうなっているのだろう、という事を漠然と考えていた。そのころからおぼろげながらではあるが、宇宙の果てとは実は物質的な何かとは違って、精神的なものではないのか、と思っていた節がある。
2、初めてのランナーズハイ
中学3年生の体育の授業の出来事だったと思う。
体育自体は特段苦手という訳でもなく、球技などは特に好きだったが、長距離走だけは嫌いで嫌いでしょうが無かった。マラソン大会が毎年恒例イベントとして開催され、その練習が体育の時間に当てられると何とかずる休み出来ないかを常に考えるほどだった。
そんなある日、天気の良い清々しい午後の体育の授業で、もはやずる休みも許されず、嫌々、本当に嫌々マラソン大会の練習にいった。走る区間は、中学校の裏にある小高い丘で、500mも走ると苦しくなってきて、順位はどんどん後方へと落ちて行った。
きっかけは何だったか記憶にないが、昼過ぎの晴天と涼風か何かで”ああ気持ちがいい”と感じたような気がする。その後は無意識で走り続けていると、周りの同級生達をどんどん抜き去っていることに気付いた。同時にいつものような息苦しさが全く無く、どんどん足が前に出ていることも観察していた。不思議な体験でその日の体育の授業は気持ちよく終えることが出来た。新しい能力の開花かも、と期待して次のマラソン練習に臨んだが、つらく苦しい時間は相変わらず変わらなかった。
不思議に思った体験だが、あの感覚はそれ以来二度とやってくることはなかったが、後にスポーツ雑誌でランナーズハイという事を知り、皆が経験する事なのだと知った。
不思議な感覚だった。そのスポーツ雑誌にはさも当然のごとくランナーズハイについて書き記されていたが、そのメカニズムに関しては一切触れられていなかった。
同時期は、宇宙への興味から、非常に簡単な現象論だけで説明するアインシュタインの相対性理論の入門編などを読んでいた時期である。
3,高僧の言葉
高校生時代、読売新聞でエリザベス女王の訪日の様子が報じられていてたまたま記事を読んでいた。
京都の有名な寺の住職の言葉だが、エリザベス女王が掛け軸に書かれた一文字を指してこれはどういう意味かと尋ねると、その高僧は「あなたの国の言葉でいうならば“God”を意味します。」と。
その漢字とは「無」であった。
これを読んだときに小さな戦慄が走った記憶がある。
4,TM瞑想法
27、28歳のころの米国での体験。
当時、アメリカのカリフォルニア州のSanta Monicaに仕事で駐在している時の事であった。たまたま出張でアイオワ州のFairfieldという小さな町に1泊で行った時の事だった。当時エンジニアであった私は、仕事の打ち合わせが1日で終わり、1人だったこともあり夕食に誘われた。個人の家でのホームパーティに参加させてもらったのである。その時に知ったのは、実はこの地は、瞑想のメッカで、マハリシを媒体としたTM(トランセンデンタル・メディテーション)瞑想法のための大学まであったのである。
1980年代、ここでの多くの住人は、お酒もたばこも肉も食べないベジタリアン、今でいえばビーガン系の人々が多くいた町であった。
キッシュやサラダといったベジタリアンメニューに何種類もの果実ジュースのホームパーティで、TM方の効用を聞かされ、翌日の夕方の帰りの飛行機便までの間で何と大学の瞑想ゼミに招待され、瞑想法に関する講義を受けた。
瞑想用の体育館があり、白いシーツのようなものが床一面に敷き詰めてあり、中で瞑想している学生も目にし、汗と体臭のかすかな臭いに一刻も早くその場から離れたくなった。
後日フェアフィールドの仕事の依頼元であるMさんという方から日本語のTM瞑想法の本を貰って読んでみた。
その時は、多少胡散臭く思っていた私だが、何度か瞑想は試みた。その当時心に残ったMさんのセリフは、“クリエイティブになれる”、“体内時間をコントロール出来、海外出張時の時差の解消も出来る”、で有ったがそれを実感できるまでには至らなかった。
その時はTM瞑想法にはまることなくそれで終わったが、自分の脳裏に”瞑想”という言葉がピン止めされた一連の出来事だった。
5,ユリ・ゲラーの録画番組
ユリ・ゲラ―と言えば一時スプーン曲げや腕時計を念力で止めたり動かしたりして超能力者として大いに話題になった人物だ。その能力に関しての真偽はテレビや雑誌などでも議論されていたが定かではない。彼が出演するテレビ番組中にはいつもスプーンを持って真似をしてみるものの一度として曲がったことは無かった。
1990年前後だったと思う。とある金曜日の晩のテレビ特番で超能力特集が有った。もともと超能力、UFO関連の番組は大好きだったが仕事でオンエア放送が見られないため、当時のVHSビデオデッキに録画予約しておいた。
休日の翌土曜日昼、友人と一緒に楽しみにしていたその番組を早速再生。
番組もいよいよ後半になり、メインイベントとしてユリ・ゲラ―が東京タワーからテレビ電波に乗せて2つのイメージを送るという。視聴者に感じてみてくれという。
録画番組だけに既に東京タワーにはいないユリ・ゲラーから何かが送られてくるわけないだろう、と笑いながら話したものの、軽いノリで友人と一緒に1~2分間目をつむり、思ったイメージを描きだした。
私の描いた絵は、植木鉢に植えられた一輪の花と三角形。花のイメージはふっと思いついたのだが、三角形はしばらく迷いながら描いたものだった。
CMが終わり、彼が送ったイメージの原画を公開した。その絵は、私の正に描いた絵とそっくりな植木鉢に植えられた一輪の花で、花びらの形までほぼ同じ。
そしてもう一枚は三角の帆を張ったヨット!私の三角形があった。
単純に大喜びするかたわら、録画番組から送られる念って一体なんだろう、という疑問と、何故かかっこ悪くて気恥ずかしい思いがした。偶然かもしれない。でも不思議な体験だった。
6,新宿の雀鬼として有名な櫻井章一氏の書籍に掲載されていた逸話
櫻井氏は伝説の麻雀士で、私が興味を持ったのは、全く自分からは見えない相手に対しての手牌があたかも見えているように判るというものだ。これ自体不思議でたまらないが真偽のほどはもちろんわからない。
その事以上に印象的な話が以下である。後に知ったが、“正射必中“というらしい。
正確な記憶には欠けるが、その内容とはおよそ以下のようなものだったと思う。多少誇張しているかも知れない。
とある弓道の達人とその弟子との間のやりとりである。日が落ちて練習を終えたある日の晩、道場で弟子が達人にこう頼んだらしい。
“先生、もはや的も見えませんが、それでも的に当てることが出来ますか”
その達人は弟子の頼みに弓を二本引いた。弓を射た後の的まで歩いていった弟子は驚いた。一本は図星の真ん中に、さらに次の一本は、最初の弓矢の後端を突き刺して矢を割いていたそうだ。驚愕した弟子は改めて師匠に尋ねた。
“なぜ見えない的にこうも正確に当てることが出来るのですか”と。
すると達人曰く”弓は最初から的に当たっているのじゃ。外れるわけがない“
たしか弟子の反応はぽかんとしたものであったように記憶している。
私は、この言葉に驚愕した。やはりそうなんだと。
自分の中でストンと腑に落ちた感覚があった。
精神を研ぎ澄まし、所謂”無の境地”に接すれば、物質世界でもこのような事が可能なのだ、と。
7,20年程前、私の部門へ中途採用の若い女性スタッフが加わった。ある日の終業後、給湯室兼休憩スペースでの出来事。コーヒーを飲みながら何故彼女とそのような話題になったのかは覚えていないが、彼女は“気”が出せるという。
食いつき気味に更に詳しい話を聞こうとした矢先、彼女は自身の両手を合わせ、手と手の間隔を狭めたり広くしたりを繰り返した。しばらくすると、その離れた両手の間に私の手を入れてみろと言う。言われた通り片手を彼女の両手の間に入れると、彼女が片手を私の手に近づける。すると確かに離れているものの何かに押される感じがする。その様子に驚いていると、私にもできると言う。両手を合わせ間隔をわずかに開け、体温を感じ取れるようにする。わずかに温かみを感じたところで手を離したままさするように回したり、両手の間隔を狭めたり広げたりするうちに確かに両手の間にコロコロとした塊を感じるようになる。磁石の同極同士を近づけた時の反発力に似ている。その塊は手の間隔を変えていくことにより大きくなっていく様子も感じ取れるようになる(すっとなくなることもある)。
家に帰ってもこれを繰り返し、その後しばらくはこの話題を会う人会う人に話し続けた。人から発する“気”というものが体感も含めてピン止めされた出来事だった。