- C.G.ユング
スイス生まれの分析心理学の創始者と言って良い。フロイトと共に無意識の世界の存在を提唱している。
いつの頃からか、ユングの考える精神構造、世界観に引き寄せられていた。
彼の考える世界、アプローチが一つ一つ腑に落ちて、自分が言葉に出来ずにぼーっとイメージしていたことを明確に言葉で表してくれた。偉そうな表現をするなら同様な考えをもつ先人がいることに非常にうれしい思いがした。ひょっとすると興味をもった事柄に関する情報収集活動の中で、知らず知らずのうちにユングやフロイトの無意識に関する理論をかいつまんで耳に入れていた可能性もある。
この精神的事象に関して、誰も見た事実も、存在が証明されたことも無いこの世界をどうして共感したり、同様なイメージを持つことが有るのだろうか。
何か普遍的なものの存在の匂いがプンプンするのである。
ユングがこの“心”の構成を、現代科学でも解明されるものではないとしながら、この構成を考えるに至った経緯を、潔く“直感”と言っている。
この点は、同じ心理学者でロジカルな説明を無理に引き出そうと、やや強引なアプローチをとるフロイトと大きく違う点で、私はユングのイメージにおおいに共感する。
心の構造は科学では解き明かせないのは当然だと持っている。アインシュタインのいう科学でさえ、ここから派生する枝なのであるからだ。
ユングの考える心の構成とは、“ユング心理学入門“の河合隼雄氏の訳を引用すると、普段の意識の中心には「自我」が、それと呼応、相補するように無意識が存在し、更に根元に集合的無意識が存在するという。更にその意識+無意識+集合的無意識の中心が「自己」と考えている。
この考えの面白い点は2つある。
1つは無意識の中にも個人専有の無意識と、過去から現代までの民族等に共通の「集合的無意識」(普遍的無意識)が存在すること(私自身は民族すらも超越しているのではないかと思ったりする)。これは人間の情緒性の基盤であり想像力の原点であるとされ、同時に宝箱と表現している。正に人類の英知をも全て包含する世界(Great Mother)なのではないだろうか。
2つ目は、普段意識下にある自我とは別に、無意識も含めた中心が自己であるということ。人間は自我は意識できるが、もっと深い階層に潜む自己に関して、無意識に求めはするが気づかないままの人が大半であると。
我々の普遍的な宇宙とは何だろう。
哲学、宗教、科学の追求の原動力とは、実は自我が、自己に対して、何かの力で引き寄せられるための現象なのではないだろうか。
科学を超越する世界を語るなら、ここは引力ではなく“念や宿命”のような表現の方がピンとくる。
また集合的無意識を語る際に”次元”という概念が存在するのかしないのか、という事にも興味を抱く。
そこは、いわば“念”だけの世界かもしれない。
物質世界から個々が“思う“ことで、その世界と通じた瞬間、弓矢は既に図星に当たり、スプーンは曲がれと念じた瞬間に曲がる。
ビッグバンとは我々の理解できない“何者かによる念、あるいは1つの宿命”というエネルギーにより発せられたものではなかろうか。
138億年さかのぼったこの宇宙の誕生の瞬間から、この宇宙の滅亡まで俯瞰してみているものがいるかもしれない。時をコントロールできない我々が見る事の出来ない”1編のDVDに刻まれたインタラクティブ映画”のように、実は全て1つの大きなシナリオの中で制作済のものかもしれない。我々の役割は、そのメインシナリオにわずかな新たな要素(経験)をフィードバックすることだけなのかもしれない。
ユングの言葉として興味深いものを一つ
“本当の命は地下茎の中にかくれていて見えない。地上に見える部分がひと夏だけ生き続けるにすぎない。それは衰えていく、つかのまの現れなのである。”
「本当の命」とは“自己”を指していると想像するが、私の精神宇宙構造も極めてこれに近い。
天地逆さまではあるが、私のイメージは、“大いなる意志(ユングのいう集合的無意識)”)が天に覆いかぶさっていて、そこから雫の様に個人個人の肉体に意識として宿る。その肉体が朽ちればまたその雫はするすると天に戻っていく。
そしてその天が、我々に宿る意識に期待することとは、新たな経験なのである。この新たな経験が、天を更に太らせる、あるいはインタラクティブ映画の一コマとして作用する。こんなイメージを抱いている。
ユングが心理学と芸術に関して考察している”創造する無意識”という本も興味深い。ユングは心理カウンセラーとしてクライアント(患者)が発露した芸術作品の分析を試みているが、これ自身は私の興味の外である。
これを読んで感じたことは、各々の芸術作品を、個人の歴史の産物としてあたかもそれに潜む意味を無駄に深堀するのではなく、それ自体がこの現生に生みだされる木々や草花、動物と同列なobjectなのだということである。
芸術作品は、人間が大地となって生み出す木々や花々と同じ意味を持ち、それ自体がうまい下手、綺麗、汚いとか、あるいは存在する意味を問うても全くナンセンスな議論になるのだと思う。
そして芸術という呼称でくくっている人類が綿々と造り出してきたものの意味とは、人類が生存していくための栄養と排泄物のような存在かもしれない。