✔「ルーティーン」と「ゾーン」
ここ最近”ゾーンに入る”という言葉をよく耳にするようになった。
私が体験したランナーズハイも正にゾーンに入った瞬間だったと思っている。
特にアスリートはPhysicalのトレーニングに加え、極言すれば如何にゾーンに入り、かつplayできるかのトレーニングではないだろうか。そしてこの領域を目指すアプローチが人それぞれのルーティーンだ。
100m短距離走のスタートの瞬間、五郎丸選手のゴールキック、鈴木イチロー選手の打席など、スポーツの世界では様々なルーティーンを目にすることが出来る。
イチロー氏に関しては、禅問答のような“イチロー語録“も有名だが、打席に立つ際だけではなく、日々の生活そのものにルーティーンと呼んでもいいような準備があったように思う。鈴木氏の過去の様々なインタビューの返答は実に興味深い。米国チームに移籍してからのイチロー氏の1打席、1打席は、ピカソが生み出した1作品、1作品とoutputの形態は違えども同義語ととらえて差し支えないのではないだろうか。
このルーティーンとゾーンの関係を昇華させたものが、「**道」と「境地」ではないだろうか。私は先の“きっかけ”で書いた櫻井氏の著書に出てきた逸話で「道」の世界に興味を抱いた。
「**道」とは、柔道、剣道、弓道などの武道のみならず、もてなしによる一体感の極みを創出する茶道や将棋、囲碁の世界にもあてはまる(書道に関しては芸術からのアプローチで若干異なるように思っている)。過去のその道の達人たちは皆、アプローチこそ千差万別、多種多様であるが、この境地に身を置くことを会得、体得することを目指してきたのではないだろうか。
その意味でも座禅は代表的なルーティンであると言って良さそうだ。
私の中の”宇宙観”で最も核となる概念が「(無の)境地」だ。
数ある瞑想法でも、禅宗の日々の鍛錬でも、この境地に如何に安定的に自分の身を置けるか、ではないかと思っている。安定的にとは、覚醒時(物質的世界)の時間を私自身が勝手にイメージしているだけで、この表現が正しいかどうかはわからない。むしろ自由自在に、と言った方が都合がよいかもしれない。
各「道」の目指すところは「覚醒(ユングの表現では自我を中心とした意識下)」と「無意識」の接点に身を置くこと、過激な言い方をすればここは全能の神の領域にも値する、そんな境地ではないだろうか。
”無の境地“とは、覚醒と無意識のはざまであり、無の境地に入るとは覚醒しながら無の世界に接すること。
無になれる世界は毎日誰もが体験している眠りの世界でも実現される。
眠りの中では時間も空間も、次元も物質も存在しない世界で、ユングは眠りも無意識の一種の形態と言っている。
もし座禅の修業中の僧侶の心を覗くことが出来たら、それはあたかも大気の揺らぎでまたたく星々のようではないだろうか。
現実世界に執着すれば雑念が、無の世界に没入すれば眠りに、と人の心はそのはざまで行ったり来たりしながら揺れ動く。その境界に意識を置くための鍛錬、それは物質世界にいる個人の意識を実感しながら、時間や空間の概念を超えた無意識の世界と接するという事である。
極めるとは、真空中で見る星像の様に揺らがない事なのだろうが、なぜかそれはあり得ないように思える。あたかも死の世界の様に思えるからだ。
芸術家もこの境地を意識して目指すというよりも、何人ものアーティスト(画家、彫刻家、書道家、ミュージシャン)が、知らず知らずにこの境地、ゾーンに入りながら創作活動をしていたのではないかと思われる痕跡がその作品や言動(語録等)の中にいくつも見受けられる。
"なぜピカソがキュビズムといわれるあのような表現方法をとったのか。"
私は芸術的な観点からピカソを語ることはできないが、そのアプローチ(方法論)に関して想像するに、ピカソが創作活動に没頭するなかでゾーンに入った際の対象物の見え方が正に境地におけるそれで、覚醒しながら(五感を使い)、かつ表、裏などの空間の概念、時間の概念の無い世界から垣間見たイメージを、その対象物が背負った歴史や想い共々たかだか2次元のキャンバスに投影した(せざるを得なかった)結果なのではないかと思っている。更にそのイメージの投影先を白いキャンバスだけにとどまれず、陶器や、彫像などのマルチメディアを介した制作に向かわせたような気がする。
話は若干それるが、孤高の数学者、岡潔氏が、著書「春風夏雨」の中でピカソの絵を”無明”と表現している。無明とは、生きようとする盲目的意志、とのことらしい。繰り返しになるが芸術的観点から作品そのものに関する意見のできない私にとって、氏のこの文章のくだりは何度読んでも今だ全く理解できないでいる。
ピカソの作品は、すべてがゾーンの中で制作されたものかというと、本人の熱望とは別に、入りきれずに生まれてきた作品も多いのだろうと思う。イチロー氏の語る、自身で満足のゆく打席とはヒットや得点ではなく、このアプローチ、プロセスが自分で納得できるものだったかどうかの話ではないのだろうか。もしかすると更に深い所で、同化した野球が”うん”と言ってくれたかどうかなのかもしれない。
昨年の7月、テレビで藤井7段と渡辺棋聖の三戦目に関して加藤一二三名人を交えて、脳科学者の中野信子さんも参加して議論されていたことを覚えている。将棋のプロと呼ばれる人たちは圧倒的に右脳発達者が多いと思われるが、藤井7段の敗北は、たしかテクニカル面でのスランプだろうという話がされていた。当時の番組を見ながら私自身は全く違うだろうと思っていた。彼のスランプはもはやテクニカルの問題ではなく、棋士の最もファンダメンタルなフィジカル、メンタルに起因した部分だったのだと思う。繊細なイメージの組み立てには精神を研ぎ澄ませゾーンに身を置く必要がある状況下で、身体的コンディションの調整不足で正着にたどり着けなかった結果だとみていた。