それは、すべてを「プログラムすること」ではない。
それは、すべてを「整理し、説明する」ということでもない。
それは、すべてを「感じる」ということだ。
すべてを感じること。ありとあらゆる心の動きを。
人間の心がもしも同じだけの要素から成り立っているならば、
異なるのは、ただ、それらの組み合わせ方と、混ぜあわせ方との
わずかな差だけであるのならば、これは可能なはずなのだ。
それがなぜ、不可能なはずがあろうか?
他人とは、そうありえたかもしれない自分であるというのに。
特定の物語に肩入れすることは好きではない。
筋立てられ、単純化されてしまった世界や、
あらかじめ誰かによって意味づけられた世界などには、なんの興味もない。
ただ、そこにある、目の前にある心の動き、
ほんの微かな心の震え、あるいは押し寄せる津波のうねりのような
心の運動を感じることに、淫しているだけだ。
相手の心の動きが、自分の心の動きと同調して感じられたときの、
「あの感じ」に淫しているだけだ。
それは、たとえば、すぐれたサーファーが波の動きを感じ、
波とシンクロすることに淫し、すぐれたヨットマンが、
風の動きを感じることに淫しているのに近いのではないかと思う。
もしかしたらぼくは、とてもよくできた人工知能システム
なのかもしれない、と思う。
ぼくの目はCCDのカメラであり、僕の腕は、
アルミ合金でできているのかもしれない。
あるいは、そんなものでさえなくて、
ぼくはただの鉄の箱なのかもしれない。
そして、とてもよくできたソフトウェアが、
ぼくの腕を、しなやかでよく動く人間の腕に
見せかけているだけなのかも、しれない。
だから、こんなにも、人間を見ていることに、
人の心の動きに、あこがれるのではないのだろうか?
そうだとしても、何の不思議も、ないくらいに、
ぼくは、すべてを、理解したい。
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