扉を開けると、芳香剤の香りが漂う広い部屋に、机や本棚が整然と並んでいた。
机上には分厚い本やファイルが置かれ、床には塵一つ落ちていない。
そして、部屋の真ん中に置かれた事務机で、スーツに身を包んだ長い黒髪の女が肘をついている。
扉を閉める。
扉に書いてある文字を確かめる。「カキツバタ探偵事務所」。
扉を開ける。
芳香剤の香りが漂う広い部屋に、机や本棚が整然と並んでいる。
机上には分厚い本やファイルが置かれ、床には塵一つ落ちていない。
そして、部屋の真ん中に置かれた事務机で、スーツに身を包んだ長い黒髪の女がコーヒーをすすっている。
俺が声を掛けあぐねていると、女がこちらに気が付いた。
「あれ? いらっしゃい。どうしたの、来たなら挨拶くらいしなさい」
「……燕さんで、いいんですよね?」
「は? 君、三日前に会った人の顔も覚えてないの」
「あ、いや……。ちょっと雰囲気変わったかな、って」
事務机の傍まで近付いてみても、同一人物には到底見えない。
三日前は怨霊のような姿だったから気付かなかったが、なるほど、こうして見ると確かにナツキに似ている。
歳がもう少し近ければ、双子だと言われても違和感は無いかもしれない。
燕は事務椅子の背もたれをぐっと倒し、カップを傾ける。こくっ、とコーヒーが喉を通る音がした。
「ナツキから聞きました、お姉さんだとか」
燕は少し目を伏せ、手にしていたカップを置いた。
「いい加減、荼毘に付したいんだけどねぇ。いつになることやら」
「……やっぱり妹さん、亡くなってるんですね」
「八年前にね」
燕は椅子をくるりと回して、事務机の後ろの棚に手を伸ばす。
「これが夏希。春夏秋冬の夏に、希望の希で、夏希」
燕が机に置いた写真立ての中で、一人の少女が無邪気な笑顔を咲かせている。
今の「ナツキ」とまるで違って見えるのは、日に焼けた肌の色のせいか。
俺が顔を近づけようとすると、燕は写真立てを取り上げ、元の棚の上に戻してしまった。
「君、今夜の事は、ちゃんと話つけてきた?」
「はい、友達の家に泊まるって言っといたんで、徹夜も大丈夫です」
「……そんな友達、いるの?」
「怒っていいですか?」
……いるよな? 文室だったら、家に泊めるくらい即オッケーしてくれるよな?
「夜中ってことはやっぱり、人目に付かないように……」
燕はカップに口をつけたまま、目だけをこちらに向ける。
「君と違って、私は夜型なの。今からが仕事の時間よ」
壁にかかった時計は、九時十五分を回っている。……探偵って、夜の仕事のイメージは無いがなぁ。
「で、その仕事はどうなったんですか」
「うーん、それが、ちょっと事情が複雑になっちゃってね。とりあえず、座って」
すっと立ち上がった燕は、軽やかな足取りでソファーに近付く。
――あっ、まずい。
そう思った時には、ふかふかのソファーは悪徳探偵に占拠されてしまっていた。
「……あの事務椅子、ここに持って来てもいいですか?」
ハリボテのソファーに不満を漏らす俺を無視して、コーヒーをぐいっと飲み干した燕は、カップを掲げて声を上げる。
「湊ちゃん、コーヒーおかわりー!」
ほぼ同時に、俺の背後で扉を叩き破る音が響いた。
机に積まれた資料の山が、風に煽られて飛び散る。
「……もう無いよ」
恐る恐る振り返ると、例のコーヒーの女の子が、開いた扉の前で仁王立ちしている。
少し腫れた瞼の奥から放たれた、凍り付くような視線が俺の頬をかすめた。
「姐さん、いい加減飲み過ぎ」
「そ、そんなに怒らなくても……」
殺気で爛々と輝く湊の目が、俺の姿を捉えた。
あっ、やべえ。これ絶対まずいやつだわ。
燕に助けを求める視線を送ったが、燕の顔もガチガチに固まっている。
「……すみません」
俺には後ろめたい事情は何もなかったが、思わず謝ってしまった。
俺の真摯かつ中身の無い謝罪が功を奏したのか、少女の覇気は次第にしぼんでいった。
「この際、コーヒー断ちでもしてみれば? じゃ、あたし寝るから」
「えっ、そんな……」
悲痛な目で訴える燕を尻目に、湊は扉を勢い良く閉めた。
俺はほっと胸を撫で下ろした。嵐は過ぎ去ったようだ。
空のコーヒーカップを前に、燕は明らかに活力を失っている。
背もたれに頭を沈めながら、とろんとした目でこちらを見下ろしてくる。
「えーっと、どこまで説明したんだっけ? 依頼人の男の人が超絶イケメンだったって所までかな?」
「いや、そんな話聞いて無いです」
「それじゃ、太っ腹な私が、イケメンに免じて依頼料を半分にしてあげたって所まで?」
「それも聞き覚え無いですし、むしろ話進んでないですか」
「あれー、おかしいな。私の顔も覚えてなかったくらいだから、まさか前に喋った事も忘れちゃった?」
「あれー、おかしいな。俺の記憶が間違ってるのかなー」
互いに譲らない情勢を見て、先に矛を収めたのは燕だった。
「まあ、依頼者の顔立ちなんてさして問題じゃないから、別にいいんだけど。次からは、話はしっかり聞いておきなさい」
さらりと全責任を押し付けられた気がする。それで気が済むなら、一向に構わない。
燕は気だるそうに足を組んでいる。パンツスーツ姿が映える……はずなのだが、何だろう、やっぱり冴えないオーラが隠し切れていない。
尻に容赦無くダメージを与えてくるハリボテソファーに座らされても、神経を逆撫でする台詞を次々と吐かれても、
目の前にいるのがこの人だと思うと、理不尽を通り越してもはや反感すら湧いて来ない。
ものの数分で相手を呆れさせるってのは、一種の才能なのかもしれない。
それに加えて、何か言い返された所で、十秒とかからずにやり込める強引さも併せ持っている。
尤もどちらの才能も、探偵の仕事には全く活用できそうに無いが。
俺の悟りを知ってか知らずか、燕は挑発的な口調を収めた。
「それじゃ、早速本題に入るわね。三日間の成果を私が纏めたのが、これ」
燕は一冊のファイルを俺の前に掲げ、テーブルに広げた。何やらごちゃごちゃとメモのような物が貼り付けてある。
「正直に言うと、三日前、君がここに来た時点で、調査は暗礁に乗り上げてたのよ。
そもそも、"元"依頼人――こっちの名前はこの際関係無いから、イケメンさんとでも呼びましょうか。
イケメンさんが私に伝えた情報は、万木優慎という名前、三年前の住所と職場、そして三年間音信不通という事だけ。
当時の住所と職場は訪ねたけれど、突然行方知れずになった三年前以降の情報は一切無し。
顔写真すら無いんじゃ、目撃情報も取れないしね」
「顔写真なら、職場に一つくらい残ってなかったんですか?」
「それが、全く。三年も前に蒸発した社員の写真が、会社に残っていなくても、当然と言えば当然だけど。
一応、万木さんの過去の職場を遡って探してもらっているから、手に入るのも時間の問題かな」
「探してもらってるって、誰に?」
まさか、コーヒーの湊ちゃんじゃあるまいし。
「ちょっとした知り合いよ。君と違って、私は結構顔が広いから」
この人は、どうしても俺を友達がいないキャラに押し込めたいらしい。
「当時の同僚にも何人か話を聞いたけど、万木さん、周囲とそれほど親しい関係ではなかったようね。
得られた情報と言えば……万木さんがパワハラを受けていたらしいという事と、
職場のパソコンから自殺を仄めかす書き込みがあった事くらいか」
「自殺はパワハラが原因だったんですかね?」
「そのパワハラ上司ってのが会社を休んでいて話を聞けなかったから、何とも言えないんだけれど。
まあ、自殺の原因なんて今はどうでもいいのよ。問題は、行方不明の彼が一体どこへ消えたのかという事」
そう言って、燕は考え込んだように首を傾ける。
「どうなのかしら、万木さんが何を考えて姿を消したのか分かれば、あるいは……」
「あの……もったいぶった言い方は、やめてもらえませんか」
俺の言葉が意外だったのか、燕は目を丸くした。
「ふぇ?」
何だ、「ふぇ」って。呆れも通り越して、恐怖すら感じるぞ。
「僕は、死体を回収するだけだと思って来てるんですよ。燕さんの話がどこに行き着くのか、結論から先に教えて下さい。
その万木さんの行方がまだ掴めていないのか、それとも、死体が回収できない事情でもあるのか……」
燕は見開いた目を細め、口を結んだ。フッと、鼻で笑われたような気がした。
「意地悪な質問をぶつけてくるね、君も。そうね、敢えて言うなら、どちらもって答えようかな」
それは答えになってないぞ。
「今、『答えになってないぞー!』って、思ったんじゃない?」
見透かされている。俺がここ数日で彼女の性格を理解したように、燕も俺の心理が読めるようになってきたらしい。
「からかってなんかないわ、今のは真面目な答えよ。万木さんの行方は掴めていないし、もし見つけても、死体を回収できないかもしれない」
「……つまり、どういう事ですか」
「ほら、結論だけ聞いても、何にも分からないでしょう?
それを今から説明しようって言うの。それとも、ちまちました話を聞くのは嫌?
せっかちな性格みたいだねぇ、君は。私と違って……ふわぁ」
燕は大口を開け、間の抜けたあくびを一つした。
――俺と違って、あなたはのんびりな性格のようですね。
「まず、そもそも私はこの件について、端から幾つか疑念があったって事を、君に言っておかなきゃならない」
燕は右手の人差し指を立てる。
「一つ、行方不明になった万木さんは、本当に自殺しているのか。
二つ、彼が自殺していたとして、その遺体がすでに警察その他に発見されてはいないか。
これを解決するために、まずは彼が失踪した時期に、集団自殺の現場が発見されていないかを知りたかった。
よって、それを調べて貰う事から、私のゴールデンウィーク休暇は始まった」
いきなり仕事を丸投げしている事については、とりあえず突っ込まないでおこう。
「そしたらね、あったのよ。四人が車内で集団練炭自殺――それも、万木さん失踪翌日に。
さらに聞いてみれば、その現場というのが、良嶺君御用達、湖之岸樹海沿いの道路上。
……急に身近な話になったでしょ? 私も新幹線のホームで連絡を聞いた時は、ちょっとびっくりしたわ。
でも都合のいい事に、三年前の湖之岸樹海といえば、樹海周辺の見回りが活発に行われていた時期だから、
遺体が早期に発見されて、警察も自殺時期を正確に特定できていたのよね」
「それってつまり、警察がその四人の遺体を、三年前の時点で撤去してしまっているって事になりますよね?」
俺が『警察』という一言に引っ掛かったのはそれだけではなかったのだが、その疑問は、次の燕の台詞で解決した。
「その四人については、ね。ただし、警察に保管されていた資料によれば、その自殺した四人の遺体は、
身分を証明できる物を所持していなかったから、身元不明で処理されたらしいの。
これが意味する所は、ド素人の君でも分かるよね」
「……燕さんが調査を依頼したのが、警察って事ですか」
燕は目をぱちくりさせた。感情がよく目に出る人だ。
「……何の事かなぁ」
「燕さん、警察に捜査を任せて、自分は新幹線で旅行って、それでも探偵ですか」
「過去の自殺案件を調べるなんてのは、探偵よりも警察の領分でしょう?
私くらいになれば、警察にも太いパイプがあるのよ。言ったでしょ、これでも私、顔は広いのよ」
新幹線旅行の件についての弁明は、一体どこへ行ったんでしょうか。
「とにかく、身元がはっきりしていないって事は、その四人の中に万木さんが含まれているとは限らない。
そこで次は、本当に万木さんは自殺しているのか、という点を中心に、改めて調査を行ってもらった。
万木さんの元職場は、ゴールデンウィークで休業中だから無理として、
とりあえず、彼の住んでいたマンションに行って、もう一度話を聞いてくるように頼んだのね」
それこそ探偵の領分だと思うのだが、もう食って掛かるのも面倒だ。勝手にやってくれ。知らん。
「連絡が返ってきたのは次の日、つまり昨日の昼間になったわ。
スプラッシュマウンテンの列に並んでいる時だったから、気まずくなって湊ちゃんにその場を任せる事になったんだけどね」
旅行先が東京ディズニーランドだった事と、座敷わらしもとい、"座敷あらし"の湊ちゃんが同伴していた事が同時に判明した。
そのどうでもいい情報をわざわざ伝えた意図は何だ? 骨折のせいで、ずっと家に引きこもっていた俺への当て付けか?
「管理人さん、前に話を聞いた時、『夜逃げみたいに突然いなくなった』って言ってたのね。
それが気になって、万木さんがいなくなった当時の話を詳しく聞いたらしいんだけど、
万木さんと連絡が取れなくなって、仕方無く部屋を片付けに入った時、お金も通帳も、金目の物がほとんど無かったらしいの。
他にも、服や日用品の類が持ち出された形跡があったから、全財産を持って夜逃げしたんだろう、って思ったそうよ」
燕は背もたれから上半身を起こし、続ける。
「おかしいと思わない? 今から自殺しようって人が、全財産と日用品を持って出掛けると思う?
それに、樹海で発見された遺体は、身元が分かる物を携帯していなかった。
それなら、持ち出された財布や通帳はどこへ消えたのよ?」
なるほど、さっきの燕の言葉の意味する所が、何となく理解できた。
「つまり、万木さんの失踪は、ただの自殺で方がつけられるものでは無い可能性があるって事ですね。
例えば、自殺に見せかけて殺されて、金銭を奪われたとか」
「最悪の場合、それも考えられるわね。でも私が考えているのは、もう一つの可能性で……」
言いかけた所で、突然大音量の音楽が鳴り出した。
『……雲を切って 燕が雨を呼~んできたわ~♪』
燕はポケットを探り、携帯電話を取り出した。
「調査の報告が来たわ」
「……これまさか、燕さんの声じゃないですか」
この人、一体どれだけ自分大好きなんだ。
燕は携帯電話を耳元に当てる。
「もしもし、何か分かった?」
少し間があって、燕が怪訝な表情を見せる。
「もしもし、聞こえてる?」
俺も耳を澄ませたが、携帯電話のスピーカーからは何も聞こえてこない。
燕はソファーから立ち上がり、声を荒げる。
「ちょっと、何かあったの? 返事しなさいよ!」
俺が釣られて立ち上がりかけた時、燕が耳元の携帯電話の画面を横目で見て、さらりと言った。
「……メールだわ」
俺は前のめりにテーブルへ倒れ込んだ。
「……電話とファックスを間違える事ならありますけど、電話とメールを間違える人はそういませんよ」
「普段の連絡はほとんど電話なのよ。どうして今回に限ってメールなんか……。
何々、万木の過去の職場を片っ端から当たって、顔写真を入手した、と。
なるほどね、写真をメールに添付して送ってきたって事か」
と、携帯電話の画面を見つめていた燕の顔が、突然固くなった。
画面を素早く操作し、再び耳に当てる。
「……もしもし? 今送ってきた写真、本当に万木優慎で間違いないの?
機械音痴のあんたの事だから、赤の他人の写真と間違えたんじゃない?」
しばらくの沈黙を置いて、燕は大きく溜め息をついた。
「……そう。ありがと。お疲れ様」
「どうしたんですか?」
携帯電話を机に放り投げると、頭の横に手を当て、舌打ちをした。
「残念なお知らせ。考えられる限り、一番厄介な結果が出たわ」
燕はソファーにゆっくりと腰を下ろし、顔の前で手を組んだ。
「私から、幾つか謝らなくちゃならない事があるんだけれど、いいかしら」
「……ええ」
「さっき、結論だけ先に話せって言う君の事を、せっかちだと言ったわよね。
でも、それは間違い。君にその写真を見せるだけで、話は全て済んでいた」
テーブルに放り出された携帯電話の画面に、写真が映し出されている。
手に取って見ると、青い背景の前で、一人の男性が無表情で映っている。
顔立ちだけなら眉目秀麗といった所だが、どこか暗い印象を受ける。特に、目に影を感じる。
「この顔写真に、そんなに重要な情報があるとは思えないんですけど。
強いて言えば、パワハラを受けてたっていう理由が、何となく分かりましたが……」
燕は俺の顔を見据え、はっきりと言った。
「結論から言うわ。万木優慎は自殺なんかしていない。生きている」
「生きてる?」
「そう。だから申し訳ないけれど、今回良嶺くんの出る幕は無いわ。もう帰っていいよ」
そう言うと、燕は立ち上がり、事務机の方へと向かった。
「ちょっと、待って下さいよ。どうしてこの写真から、そんな事が断言できるんですか」
燕は机の前で振り返り、俺の手元を指差した。
「私は、その写真の男と会った事があるからよ」
「まさか、燕さんの知り合い?」
「いや、顔を合わせて、話した事があるだけ」
燕が腕をぐっと伸ばした。指先が、俺の腰の辺りを捉える。
「私はその男と、つい最近会った。それも、この事務所で、ちょうど君が今座っている、その場所で」
忘れかけていたハリボテのソファーの固さが、俺の背中を襲った。
「私に万木優慎の捜索を依頼してきたのが、その写真に写っている男なのよ」
→(4)へ続く
机上には分厚い本やファイルが置かれ、床には塵一つ落ちていない。
そして、部屋の真ん中に置かれた事務机で、スーツに身を包んだ長い黒髪の女が肘をついている。
扉を閉める。
扉に書いてある文字を確かめる。「カキツバタ探偵事務所」。
扉を開ける。
芳香剤の香りが漂う広い部屋に、机や本棚が整然と並んでいる。
机上には分厚い本やファイルが置かれ、床には塵一つ落ちていない。
そして、部屋の真ん中に置かれた事務机で、スーツに身を包んだ長い黒髪の女がコーヒーをすすっている。
俺が声を掛けあぐねていると、女がこちらに気が付いた。
「あれ? いらっしゃい。どうしたの、来たなら挨拶くらいしなさい」
「……燕さんで、いいんですよね?」
「は? 君、三日前に会った人の顔も覚えてないの」
「あ、いや……。ちょっと雰囲気変わったかな、って」
事務机の傍まで近付いてみても、同一人物には到底見えない。
三日前は怨霊のような姿だったから気付かなかったが、なるほど、こうして見ると確かにナツキに似ている。
歳がもう少し近ければ、双子だと言われても違和感は無いかもしれない。
燕は事務椅子の背もたれをぐっと倒し、カップを傾ける。こくっ、とコーヒーが喉を通る音がした。
「ナツキから聞きました、お姉さんだとか」
燕は少し目を伏せ、手にしていたカップを置いた。
「いい加減、荼毘に付したいんだけどねぇ。いつになることやら」
「……やっぱり妹さん、亡くなってるんですね」
「八年前にね」
燕は椅子をくるりと回して、事務机の後ろの棚に手を伸ばす。
「これが夏希。春夏秋冬の夏に、希望の希で、夏希」
燕が机に置いた写真立ての中で、一人の少女が無邪気な笑顔を咲かせている。
今の「ナツキ」とまるで違って見えるのは、日に焼けた肌の色のせいか。
俺が顔を近づけようとすると、燕は写真立てを取り上げ、元の棚の上に戻してしまった。
「君、今夜の事は、ちゃんと話つけてきた?」
「はい、友達の家に泊まるって言っといたんで、徹夜も大丈夫です」
「……そんな友達、いるの?」
「怒っていいですか?」
……いるよな? 文室だったら、家に泊めるくらい即オッケーしてくれるよな?
「夜中ってことはやっぱり、人目に付かないように……」
燕はカップに口をつけたまま、目だけをこちらに向ける。
「君と違って、私は夜型なの。今からが仕事の時間よ」
壁にかかった時計は、九時十五分を回っている。……探偵って、夜の仕事のイメージは無いがなぁ。
「で、その仕事はどうなったんですか」
「うーん、それが、ちょっと事情が複雑になっちゃってね。とりあえず、座って」
すっと立ち上がった燕は、軽やかな足取りでソファーに近付く。
――あっ、まずい。
そう思った時には、ふかふかのソファーは悪徳探偵に占拠されてしまっていた。
「……あの事務椅子、ここに持って来てもいいですか?」
ハリボテのソファーに不満を漏らす俺を無視して、コーヒーをぐいっと飲み干した燕は、カップを掲げて声を上げる。
「湊ちゃん、コーヒーおかわりー!」
ほぼ同時に、俺の背後で扉を叩き破る音が響いた。
机に積まれた資料の山が、風に煽られて飛び散る。
「……もう無いよ」
恐る恐る振り返ると、例のコーヒーの女の子が、開いた扉の前で仁王立ちしている。
少し腫れた瞼の奥から放たれた、凍り付くような視線が俺の頬をかすめた。
「姐さん、いい加減飲み過ぎ」
「そ、そんなに怒らなくても……」
殺気で爛々と輝く湊の目が、俺の姿を捉えた。
あっ、やべえ。これ絶対まずいやつだわ。
燕に助けを求める視線を送ったが、燕の顔もガチガチに固まっている。
「……すみません」
俺には後ろめたい事情は何もなかったが、思わず謝ってしまった。
俺の真摯かつ中身の無い謝罪が功を奏したのか、少女の覇気は次第にしぼんでいった。
「この際、コーヒー断ちでもしてみれば? じゃ、あたし寝るから」
「えっ、そんな……」
悲痛な目で訴える燕を尻目に、湊は扉を勢い良く閉めた。
俺はほっと胸を撫で下ろした。嵐は過ぎ去ったようだ。
空のコーヒーカップを前に、燕は明らかに活力を失っている。
背もたれに頭を沈めながら、とろんとした目でこちらを見下ろしてくる。
「えーっと、どこまで説明したんだっけ? 依頼人の男の人が超絶イケメンだったって所までかな?」
「いや、そんな話聞いて無いです」
「それじゃ、太っ腹な私が、イケメンに免じて依頼料を半分にしてあげたって所まで?」
「それも聞き覚え無いですし、むしろ話進んでないですか」
「あれー、おかしいな。私の顔も覚えてなかったくらいだから、まさか前に喋った事も忘れちゃった?」
「あれー、おかしいな。俺の記憶が間違ってるのかなー」
互いに譲らない情勢を見て、先に矛を収めたのは燕だった。
「まあ、依頼者の顔立ちなんてさして問題じゃないから、別にいいんだけど。次からは、話はしっかり聞いておきなさい」
さらりと全責任を押し付けられた気がする。それで気が済むなら、一向に構わない。
燕は気だるそうに足を組んでいる。パンツスーツ姿が映える……はずなのだが、何だろう、やっぱり冴えないオーラが隠し切れていない。
尻に容赦無くダメージを与えてくるハリボテソファーに座らされても、神経を逆撫でする台詞を次々と吐かれても、
目の前にいるのがこの人だと思うと、理不尽を通り越してもはや反感すら湧いて来ない。
ものの数分で相手を呆れさせるってのは、一種の才能なのかもしれない。
それに加えて、何か言い返された所で、十秒とかからずにやり込める強引さも併せ持っている。
尤もどちらの才能も、探偵の仕事には全く活用できそうに無いが。
俺の悟りを知ってか知らずか、燕は挑発的な口調を収めた。
「それじゃ、早速本題に入るわね。三日間の成果を私が纏めたのが、これ」
燕は一冊のファイルを俺の前に掲げ、テーブルに広げた。何やらごちゃごちゃとメモのような物が貼り付けてある。
「正直に言うと、三日前、君がここに来た時点で、調査は暗礁に乗り上げてたのよ。
そもそも、"元"依頼人――こっちの名前はこの際関係無いから、イケメンさんとでも呼びましょうか。
イケメンさんが私に伝えた情報は、万木優慎という名前、三年前の住所と職場、そして三年間音信不通という事だけ。
当時の住所と職場は訪ねたけれど、突然行方知れずになった三年前以降の情報は一切無し。
顔写真すら無いんじゃ、目撃情報も取れないしね」
「顔写真なら、職場に一つくらい残ってなかったんですか?」
「それが、全く。三年も前に蒸発した社員の写真が、会社に残っていなくても、当然と言えば当然だけど。
一応、万木さんの過去の職場を遡って探してもらっているから、手に入るのも時間の問題かな」
「探してもらってるって、誰に?」
まさか、コーヒーの湊ちゃんじゃあるまいし。
「ちょっとした知り合いよ。君と違って、私は結構顔が広いから」
この人は、どうしても俺を友達がいないキャラに押し込めたいらしい。
「当時の同僚にも何人か話を聞いたけど、万木さん、周囲とそれほど親しい関係ではなかったようね。
得られた情報と言えば……万木さんがパワハラを受けていたらしいという事と、
職場のパソコンから自殺を仄めかす書き込みがあった事くらいか」
「自殺はパワハラが原因だったんですかね?」
「そのパワハラ上司ってのが会社を休んでいて話を聞けなかったから、何とも言えないんだけれど。
まあ、自殺の原因なんて今はどうでもいいのよ。問題は、行方不明の彼が一体どこへ消えたのかという事」
そう言って、燕は考え込んだように首を傾ける。
「どうなのかしら、万木さんが何を考えて姿を消したのか分かれば、あるいは……」
「あの……もったいぶった言い方は、やめてもらえませんか」
俺の言葉が意外だったのか、燕は目を丸くした。
「ふぇ?」
何だ、「ふぇ」って。呆れも通り越して、恐怖すら感じるぞ。
「僕は、死体を回収するだけだと思って来てるんですよ。燕さんの話がどこに行き着くのか、結論から先に教えて下さい。
その万木さんの行方がまだ掴めていないのか、それとも、死体が回収できない事情でもあるのか……」
燕は見開いた目を細め、口を結んだ。フッと、鼻で笑われたような気がした。
「意地悪な質問をぶつけてくるね、君も。そうね、敢えて言うなら、どちらもって答えようかな」
それは答えになってないぞ。
「今、『答えになってないぞー!』って、思ったんじゃない?」
見透かされている。俺がここ数日で彼女の性格を理解したように、燕も俺の心理が読めるようになってきたらしい。
「からかってなんかないわ、今のは真面目な答えよ。万木さんの行方は掴めていないし、もし見つけても、死体を回収できないかもしれない」
「……つまり、どういう事ですか」
「ほら、結論だけ聞いても、何にも分からないでしょう?
それを今から説明しようって言うの。それとも、ちまちました話を聞くのは嫌?
せっかちな性格みたいだねぇ、君は。私と違って……ふわぁ」
燕は大口を開け、間の抜けたあくびを一つした。
――俺と違って、あなたはのんびりな性格のようですね。
「まず、そもそも私はこの件について、端から幾つか疑念があったって事を、君に言っておかなきゃならない」
燕は右手の人差し指を立てる。
「一つ、行方不明になった万木さんは、本当に自殺しているのか。
二つ、彼が自殺していたとして、その遺体がすでに警察その他に発見されてはいないか。
これを解決するために、まずは彼が失踪した時期に、集団自殺の現場が発見されていないかを知りたかった。
よって、それを調べて貰う事から、私のゴールデンウィーク休暇は始まった」
いきなり仕事を丸投げしている事については、とりあえず突っ込まないでおこう。
「そしたらね、あったのよ。四人が車内で集団練炭自殺――それも、万木さん失踪翌日に。
さらに聞いてみれば、その現場というのが、良嶺君御用達、湖之岸樹海沿いの道路上。
……急に身近な話になったでしょ? 私も新幹線のホームで連絡を聞いた時は、ちょっとびっくりしたわ。
でも都合のいい事に、三年前の湖之岸樹海といえば、樹海周辺の見回りが活発に行われていた時期だから、
遺体が早期に発見されて、警察も自殺時期を正確に特定できていたのよね」
「それってつまり、警察がその四人の遺体を、三年前の時点で撤去してしまっているって事になりますよね?」
俺が『警察』という一言に引っ掛かったのはそれだけではなかったのだが、その疑問は、次の燕の台詞で解決した。
「その四人については、ね。ただし、警察に保管されていた資料によれば、その自殺した四人の遺体は、
身分を証明できる物を所持していなかったから、身元不明で処理されたらしいの。
これが意味する所は、ド素人の君でも分かるよね」
「……燕さんが調査を依頼したのが、警察って事ですか」
燕は目をぱちくりさせた。感情がよく目に出る人だ。
「……何の事かなぁ」
「燕さん、警察に捜査を任せて、自分は新幹線で旅行って、それでも探偵ですか」
「過去の自殺案件を調べるなんてのは、探偵よりも警察の領分でしょう?
私くらいになれば、警察にも太いパイプがあるのよ。言ったでしょ、これでも私、顔は広いのよ」
新幹線旅行の件についての弁明は、一体どこへ行ったんでしょうか。
「とにかく、身元がはっきりしていないって事は、その四人の中に万木さんが含まれているとは限らない。
そこで次は、本当に万木さんは自殺しているのか、という点を中心に、改めて調査を行ってもらった。
万木さんの元職場は、ゴールデンウィークで休業中だから無理として、
とりあえず、彼の住んでいたマンションに行って、もう一度話を聞いてくるように頼んだのね」
それこそ探偵の領分だと思うのだが、もう食って掛かるのも面倒だ。勝手にやってくれ。知らん。
「連絡が返ってきたのは次の日、つまり昨日の昼間になったわ。
スプラッシュマウンテンの列に並んでいる時だったから、気まずくなって湊ちゃんにその場を任せる事になったんだけどね」
旅行先が東京ディズニーランドだった事と、座敷わらしもとい、"座敷あらし"の湊ちゃんが同伴していた事が同時に判明した。
そのどうでもいい情報をわざわざ伝えた意図は何だ? 骨折のせいで、ずっと家に引きこもっていた俺への当て付けか?
「管理人さん、前に話を聞いた時、『夜逃げみたいに突然いなくなった』って言ってたのね。
それが気になって、万木さんがいなくなった当時の話を詳しく聞いたらしいんだけど、
万木さんと連絡が取れなくなって、仕方無く部屋を片付けに入った時、お金も通帳も、金目の物がほとんど無かったらしいの。
他にも、服や日用品の類が持ち出された形跡があったから、全財産を持って夜逃げしたんだろう、って思ったそうよ」
燕は背もたれから上半身を起こし、続ける。
「おかしいと思わない? 今から自殺しようって人が、全財産と日用品を持って出掛けると思う?
それに、樹海で発見された遺体は、身元が分かる物を携帯していなかった。
それなら、持ち出された財布や通帳はどこへ消えたのよ?」
なるほど、さっきの燕の言葉の意味する所が、何となく理解できた。
「つまり、万木さんの失踪は、ただの自殺で方がつけられるものでは無い可能性があるって事ですね。
例えば、自殺に見せかけて殺されて、金銭を奪われたとか」
「最悪の場合、それも考えられるわね。でも私が考えているのは、もう一つの可能性で……」
言いかけた所で、突然大音量の音楽が鳴り出した。
『……雲を切って 燕が雨を呼~んできたわ~♪』
燕はポケットを探り、携帯電話を取り出した。
「調査の報告が来たわ」
「……これまさか、燕さんの声じゃないですか」
この人、一体どれだけ自分大好きなんだ。
燕は携帯電話を耳元に当てる。
「もしもし、何か分かった?」
少し間があって、燕が怪訝な表情を見せる。
「もしもし、聞こえてる?」
俺も耳を澄ませたが、携帯電話のスピーカーからは何も聞こえてこない。
燕はソファーから立ち上がり、声を荒げる。
「ちょっと、何かあったの? 返事しなさいよ!」
俺が釣られて立ち上がりかけた時、燕が耳元の携帯電話の画面を横目で見て、さらりと言った。
「……メールだわ」
俺は前のめりにテーブルへ倒れ込んだ。
「……電話とファックスを間違える事ならありますけど、電話とメールを間違える人はそういませんよ」
「普段の連絡はほとんど電話なのよ。どうして今回に限ってメールなんか……。
何々、万木の過去の職場を片っ端から当たって、顔写真を入手した、と。
なるほどね、写真をメールに添付して送ってきたって事か」
と、携帯電話の画面を見つめていた燕の顔が、突然固くなった。
画面を素早く操作し、再び耳に当てる。
「……もしもし? 今送ってきた写真、本当に万木優慎で間違いないの?
機械音痴のあんたの事だから、赤の他人の写真と間違えたんじゃない?」
しばらくの沈黙を置いて、燕は大きく溜め息をついた。
「……そう。ありがと。お疲れ様」
「どうしたんですか?」
携帯電話を机に放り投げると、頭の横に手を当て、舌打ちをした。
「残念なお知らせ。考えられる限り、一番厄介な結果が出たわ」
燕はソファーにゆっくりと腰を下ろし、顔の前で手を組んだ。
「私から、幾つか謝らなくちゃならない事があるんだけれど、いいかしら」
「……ええ」
「さっき、結論だけ先に話せって言う君の事を、せっかちだと言ったわよね。
でも、それは間違い。君にその写真を見せるだけで、話は全て済んでいた」
テーブルに放り出された携帯電話の画面に、写真が映し出されている。
手に取って見ると、青い背景の前で、一人の男性が無表情で映っている。
顔立ちだけなら眉目秀麗といった所だが、どこか暗い印象を受ける。特に、目に影を感じる。
「この顔写真に、そんなに重要な情報があるとは思えないんですけど。
強いて言えば、パワハラを受けてたっていう理由が、何となく分かりましたが……」
燕は俺の顔を見据え、はっきりと言った。
「結論から言うわ。万木優慎は自殺なんかしていない。生きている」
「生きてる?」
「そう。だから申し訳ないけれど、今回良嶺くんの出る幕は無いわ。もう帰っていいよ」
そう言うと、燕は立ち上がり、事務机の方へと向かった。
「ちょっと、待って下さいよ。どうしてこの写真から、そんな事が断言できるんですか」
燕は机の前で振り返り、俺の手元を指差した。
「私は、その写真の男と会った事があるからよ」
「まさか、燕さんの知り合い?」
「いや、顔を合わせて、話した事があるだけ」
燕が腕をぐっと伸ばした。指先が、俺の腰の辺りを捉える。
「私はその男と、つい最近会った。それも、この事務所で、ちょうど君が今座っている、その場所で」
忘れかけていたハリボテのソファーの固さが、俺の背中を襲った。
「私に万木優慎の捜索を依頼してきたのが、その写真に写っている男なのよ」
→(4)へ続く