エッヘン、本日は平生は殆ど縁がないギャラリーなるところに行きます。ささ舟様が属しておられる絵の会で展覧会をやるよーと御案内をいただいたからであります。こういった方々に小生の文化面は支えられておるわけで、こういうことがなければ全くの未開人であります。
ところが、案内の葉書を見てすぐに「アッ!ここなら出石そばの近所。」と思い、ギャラリーの場所まで「押小路寺町」と思い込んでしまいました。しかも例によって葉書は持たずに家を出る。
寺町押小路の辺りをぐるぐるぐるぐると回り、蕎麦屋の前もいったり来たりで結局は分からず、mfujino様や師匠に問い合わせてギャラリーの場所が御池通よりも未だ下だということが分かりました。どうもお騒がせしました。この蕎麦屋のするめの天麩羅は絶品です。後ほど縁があれば食べに戻るつもりでした。ということは縁がなかった。
ギャラリーではささ舟様の絵の先生を始めとして、いろいろとお気遣いをいただきました。先生の旅のノートも拝見しました。小生は絵については全く何も分かりませんが、ささ舟様の絵は描き手のほのぼのとした心がしっかり顕れていると思いました。
ギャラリーから出たらすぐに本能寺。この寺も移動していますから、ここで本能寺の変がおこった訳ではありませんが、やはり縁じゃということで信長の墓があります。といっても所謂参り墓で、遺骨が埋まっていると思われるところに行くのなら上京の阿弥陀寺に行かねばなりません。この本能寺の表記も何となく参り墓やでーということを示唆しています。
さて、これからどこへ行くべえと思ったのですが、鴨川の方から吹いてくる涼しい風に誘われて足は自然に東に向いていました。河原町通を渡ったところで、「おー、そうぢゃ!高瀬川は一の舟入辺りで長いこと改修工事をやっとったけど、もうできたのでは。」と思い、木屋町通を北上しました。
佐久間象山と大村益次郎の遭難碑への道標は三条木屋町に建っています。あの道標、よく見ないとあの辺で事件があったと勘違いしてしまいますね。こちらにはそれぞれの記念碑が並んでいます。今の場所になったのはやはり高瀬川の改修後ではないでしょうか。碑の前に行けないので碑文を読むことができません。
佐久間象山遭難碑
大村益次郎遭難碑
この一の舟入の辺りは本当にきれいに整備されました。川から舟が入っていって荷物の上げ下ろしをする場所は今はもうここしか残っていないそうです。
奥が舟入
また、この付近は高瀬川を開いた角倉了以の邸宅跡でもあります。もちろんここで川の使用料も徴収していたと思われます。
今までは港というか浜(大坂風)というか、そう言うものは日銀と長屋が邪魔をして見られなかったのですが、整備後はテナントの厚意でしょうね、しっかりと見ることが出来るようになっていました。
向こうの穴ポコが気になる
店の名は了以
二条通りに出ました。向こうに燈籠が有名な善導寺が見えています。
加茂井や小戸井に沿った徘徊をやって以来、水路を見たらどうもその源が気になります。ここでも高瀬川の導水口を見るべく鴨川の方に向かいました。「鴨川の水を引いて」と書くのは簡単ですが、やはりその水を引く場所を見ておかねばならない。二条木屋町にあったホテルフジタは今や解体され、新しいホテルが建築中です。
高瀬川は鴨川から直接に水を入れているのではなく、鴨川と並行して流れを作った「みそそぎ川」から水を取り入れていました。今の時期、よく知られている「床」の柱が立つ川ですね。本来はこの川の流れが鴨川の「高さ」であったのでしょう。今の鴨川本流はかなり掘り下げられていることが分かります。その昔にこの「みそそぎ川」でホームレスのオッサンが死んでいるのを目撃しました。それはどうも御池大橋の下であったようです。ずっと丸太町と勘違いをしていましたが、丸太町ではこの川は地表を流れていない。
この川には今は蛍も戻ってきているようです。高瀬川の元は分かった。それではこの「みそそぎ川」はどこで取水しているのだろう。
この川は二条大橋を過ぎてすぐに暗渠となります。川に沿って進むということが出来ないので、鴨川の土手を水辺に注意しながら進むことになりました。
鴨川を上流に進むと正面に北山が見えます。どれが桟敷でどれが雲取やら分かりませんが、清冽なる谷川の水、清浄かつ静寂たる山中を思います。何か、久しくご無沙汰しています。また早起きをして山に行こう。
もしかしたら、見落としているのも知れませんが、それらしきところは何と加茂大橋の下流約200メートル地点まで遡らないとありませんでした。これが「みそそぎ川」の導水口ならば、この地点が高瀬川の元の元ということになります。
何をしてんねんと思いながら加茂大橋を渡り、こんどは左岸を下っていきます。導水口をしっかりと見るのと見落としをチェックするためです。下って行く分には登りで感じるような山への憧憬というかそういう感情とは無縁で、食い物のことやその他の妄念ばかりが心に浮かびますね。
正面は比叡山。
対岸から見た導水口です。この導水口の下流約30メートルの所には謎のたて穴があります。
ちょっと大きく
おもいきり大きく
謎のたて穴
この後、ホームレスも復活し、善男善女も川遊びをするところを再び二条まで戻りました。見たところ、やはり導水口は加茂大橋の南地点しか見あたりませんでした。一応ここではあの地点を高瀬川源流としておきますね。それにしてもものすごく長い暗渠です。詰まっても竹竿ではどないもなりません。
左岸では琵琶湖疎水も合流します。今回、一定の水位を超えたら、その分が自動的に鴨川に流れるようになっていることと疎水に架かる橋に田辺橋というのがあることを知りました。疎水の建設に尽力した田辺朔郎の名前から付けたものでしょう。
本日の徘徊は、この辺りでおしまい。二条では小生に初めて「上善如水」を教えてくれた飲み屋を探しましたが、無くなっていました。越後の酒はだいたいがああいうしゃばしゃば系ですね。酒臭い酒がお好みの「植物図鑑」氏(酒の師匠)の嗜好には合わぬようで、小生もいつの間にか越後の酒は飲まないようになってしまいました。お好み焼きの夢屋は開店まで時間が大分あるということで、やはり高槻に行くしか無いのか?
そのまま「ゴーヤの天麩羅」を食いに行きましたが、途中の三条で焼きそばとビールであります。ここは「海老抜いてね」、「鳥やめてね」と何でもいうことを聞いてくれる立派な店でありま温泉。
ところが、案内の葉書を見てすぐに「アッ!ここなら出石そばの近所。」と思い、ギャラリーの場所まで「押小路寺町」と思い込んでしまいました。しかも例によって葉書は持たずに家を出る。
寺町押小路の辺りをぐるぐるぐるぐると回り、蕎麦屋の前もいったり来たりで結局は分からず、mfujino様や師匠に問い合わせてギャラリーの場所が御池通よりも未だ下だということが分かりました。どうもお騒がせしました。この蕎麦屋のするめの天麩羅は絶品です。後ほど縁があれば食べに戻るつもりでした。ということは縁がなかった。
ギャラリーではささ舟様の絵の先生を始めとして、いろいろとお気遣いをいただきました。先生の旅のノートも拝見しました。小生は絵については全く何も分かりませんが、ささ舟様の絵は描き手のほのぼのとした心がしっかり顕れていると思いました。
ギャラリーから出たらすぐに本能寺。この寺も移動していますから、ここで本能寺の変がおこった訳ではありませんが、やはり縁じゃということで信長の墓があります。といっても所謂参り墓で、遺骨が埋まっていると思われるところに行くのなら上京の阿弥陀寺に行かねばなりません。この本能寺の表記も何となく参り墓やでーということを示唆しています。
さて、これからどこへ行くべえと思ったのですが、鴨川の方から吹いてくる涼しい風に誘われて足は自然に東に向いていました。河原町通を渡ったところで、「おー、そうぢゃ!高瀬川は一の舟入辺りで長いこと改修工事をやっとったけど、もうできたのでは。」と思い、木屋町通を北上しました。
佐久間象山と大村益次郎の遭難碑への道標は三条木屋町に建っています。あの道標、よく見ないとあの辺で事件があったと勘違いしてしまいますね。こちらにはそれぞれの記念碑が並んでいます。今の場所になったのはやはり高瀬川の改修後ではないでしょうか。碑の前に行けないので碑文を読むことができません。
佐久間象山遭難碑
大村益次郎遭難碑
この一の舟入の辺りは本当にきれいに整備されました。川から舟が入っていって荷物の上げ下ろしをする場所は今はもうここしか残っていないそうです。
奥が舟入
また、この付近は高瀬川を開いた角倉了以の邸宅跡でもあります。もちろんここで川の使用料も徴収していたと思われます。
今までは港というか浜(大坂風)というか、そう言うものは日銀と長屋が邪魔をして見られなかったのですが、整備後はテナントの厚意でしょうね、しっかりと見ることが出来るようになっていました。
向こうの穴ポコが気になる
店の名は了以
二条通りに出ました。向こうに燈籠が有名な善導寺が見えています。
加茂井や小戸井に沿った徘徊をやって以来、水路を見たらどうもその源が気になります。ここでも高瀬川の導水口を見るべく鴨川の方に向かいました。「鴨川の水を引いて」と書くのは簡単ですが、やはりその水を引く場所を見ておかねばならない。二条木屋町にあったホテルフジタは今や解体され、新しいホテルが建築中です。
高瀬川は鴨川から直接に水を入れているのではなく、鴨川と並行して流れを作った「みそそぎ川」から水を取り入れていました。今の時期、よく知られている「床」の柱が立つ川ですね。本来はこの川の流れが鴨川の「高さ」であったのでしょう。今の鴨川本流はかなり掘り下げられていることが分かります。その昔にこの「みそそぎ川」でホームレスのオッサンが死んでいるのを目撃しました。それはどうも御池大橋の下であったようです。ずっと丸太町と勘違いをしていましたが、丸太町ではこの川は地表を流れていない。
この川には今は蛍も戻ってきているようです。高瀬川の元は分かった。それではこの「みそそぎ川」はどこで取水しているのだろう。
この川は二条大橋を過ぎてすぐに暗渠となります。川に沿って進むということが出来ないので、鴨川の土手を水辺に注意しながら進むことになりました。
鴨川を上流に進むと正面に北山が見えます。どれが桟敷でどれが雲取やら分かりませんが、清冽なる谷川の水、清浄かつ静寂たる山中を思います。何か、久しくご無沙汰しています。また早起きをして山に行こう。
もしかしたら、見落としているのも知れませんが、それらしきところは何と加茂大橋の下流約200メートル地点まで遡らないとありませんでした。これが「みそそぎ川」の導水口ならば、この地点が高瀬川の元の元ということになります。
何をしてんねんと思いながら加茂大橋を渡り、こんどは左岸を下っていきます。導水口をしっかりと見るのと見落としをチェックするためです。下って行く分には登りで感じるような山への憧憬というかそういう感情とは無縁で、食い物のことやその他の妄念ばかりが心に浮かびますね。
正面は比叡山。
対岸から見た導水口です。この導水口の下流約30メートルの所には謎のたて穴があります。
ちょっと大きく
おもいきり大きく
謎のたて穴
この後、ホームレスも復活し、善男善女も川遊びをするところを再び二条まで戻りました。見たところ、やはり導水口は加茂大橋の南地点しか見あたりませんでした。一応ここではあの地点を高瀬川源流としておきますね。それにしてもものすごく長い暗渠です。詰まっても竹竿ではどないもなりません。
左岸では琵琶湖疎水も合流します。今回、一定の水位を超えたら、その分が自動的に鴨川に流れるようになっていることと疎水に架かる橋に田辺橋というのがあることを知りました。疎水の建設に尽力した田辺朔郎の名前から付けたものでしょう。
本日の徘徊は、この辺りでおしまい。二条では小生に初めて「上善如水」を教えてくれた飲み屋を探しましたが、無くなっていました。越後の酒はだいたいがああいうしゃばしゃば系ですね。酒臭い酒がお好みの「植物図鑑」氏(酒の師匠)の嗜好には合わぬようで、小生もいつの間にか越後の酒は飲まないようになってしまいました。お好み焼きの夢屋は開店まで時間が大分あるということで、やはり高槻に行くしか無いのか?
そのまま「ゴーヤの天麩羅」を食いに行きましたが、途中の三条で焼きそばとビールであります。ここは「海老抜いてね」、「鳥やめてね」と何でもいうことを聞いてくれる立派な店でありま温泉。
徘徊堂さんのブログを拝見し、師匠の説明を再確認させていただきました。 有難うございました。
私めもその2日前に師匠達と名画を見た後、友の会だよりに掲載する原稿の為の写真を撮りに行きましたが、寺町、新京極、高瀬川沿いや三条大橋、、、御所を通り、最終は京都府庁へと師匠に教えて貰いながらの徘徊をしました。
この記事の最初を読み出したら、何や同じ所歩いとる、との印象でしたね(^_・) ところが加茂井徘徊の影響でしょうか、今回は取水口に的を絞られましたね。師匠に案内された三条大橋近くの瑞泉寺で見た資料では、昔の賀茂川は三条の辺りは中之島になっていたそうですね。その証の一つが三条小橋ですよね。また三条通から新京極に入るところが坂道になっているのも面白かったですね。高瀬川などは今の川の姿をみるとどうもしっくり来ないのですが、古地図を探してみてみると実感が湧くのではないかと思っています。それと鴨川の水位ですね。
堀川も現在、賀茂川から取水してますよね。昔の川の姿を地図化したものはないのでしょうかね。伊能忠敬さんの地図ではどうだったのでしょう。などなど興味は尽きません。
写真が残っているのか、それとも、想像で描かれたのか。写真があるとすれば、ご主人の撮影でしょうか。
絵の先生は、私の高校の2~3年後輩です。先生ですから、後輩などとエラソウに言えませんが。
しかし、さすがにgunさんではないですか。鑑賞の後(しかも、苦労して辿り着いた)は、しっかり徘徊されたのですから。この蕎麦屋は、私も記憶がありますが。
いずれにしましても、了以邸の高瀬川辺りへはたまに行くこともありますけど、〝源流〟へとなりますと、思いも寄りません。
高瀬川の元は、その名の通りの〝みそそぎ川〟ですか。大昔、賀茂大橋の下辺りの鴨川(賀茂川?)で一度泳いだことがあります。
学校へ上がるか上がらない頃で、父に連れてもらつたのでした。泳ぐと言いましても、浸かっているだけでしたが。70年くらい昔のことです。
高瀬川は今では流れも浅くて装飾品見たいなものですが、高瀬舟が通っていた頃は滔々とした流れだったのでしょう。「高瀬如川」と呼ぶ酒があったかも・・・。
出石蕎麦はウズラの卵ではなく鶏卵が付くのが特徴ですね。いつか機会がありましたら本場の出石に行きましょう。
高瀬川沿いの和菓子、もしかして三条を少し上がったところでは無いでしょうか。小生も桜餅をよく買いに行きました。ここの桜餅は本当に酒のアテにピッタリでした。今はその桜餅があるのかどうか、長いことご無沙汰しています。
三条~六条間はまあ処刑場ということで、時折いやーな気分に襲われることがあります。まあそんなことを行っていたら、飢饉の度に死骸で流れが止まったという鴨川の縁などは歩けませんが。
堀川も鴨川から取水しているのですね。どこが源流でしょうね。宿題が1つできて嬉しいです(学生時代には決し持たなかった感情・爆)。
小生も長い間、一の舟入付近をウロウロしておりました。がんこ寿司(これも有名な人の邸宅跡でしたね)の中の流れを見ても「どこから?」ということは考えませんでした。加茂井のおかげです。
鴨川、泳いだことはありませんが、上流の賀茂川にドボンとはまったことはあります(爆)。桟敷ヶ岳の美しい水が流れてきていると思うと愛着がわきますね。
考えるに京都には、地下の川、というのが割とあるようですね。京都と水、というのは面白いテーマですね。なにせ京の地下水脈は琵琶湖に匹敵するそうですし。
飛鳥と水、平城京などの都と平安京の水環境の差、などは面白いテーマですよね。なにせベルサイユ宮殿とトイレ、それに関してパニエなどのファッションや化粧品、平城京の水事情などはよく語られますけどね。山城探訪などで、排泄の問題からアプローチするのも面白いかも、なんてことも考えています(^_・)
ええ!高瀬川の徘徊されあしたの、あとを付けていけばよかったのにと残念です。
数年まえ日本銀行裏の「がんこ高瀬川二条苑」で食事のあと蔵とか茶室、庭を回りました。たしかこの庭は「高瀬川源流庭苑」というらしいですね。4月でしたか、水がとうとうと流れていた記憶があります。
もう一度行ってしっかり確かめたくなりました。
加茂大橋から100mほど下に生後すぐから5歳まで住んでいた懐かしい所です。記憶は霞みましたが土手にはカボチャなどが植えてあり、大文字山がよく見えたのは覚えています。
みなさん、時折会っては、歴史散歩を楽しみ、またブログで交信しあう。うらやましかぎりです。私も、京都駅9時集合なら、家を前日18時に出て、ハノイ空港0時20分発、関空5時30分(日本時間)、天王寺7時着で、なんとか時間の都合はつきそうですが、お金の都合が・・・はは
日本語を使う機会も少なく、ブログを通じてのおつきあいだけですが、今後ともよろしくお願いします。
出石そばについてですが、江戸時代中期、但馬の出石に、信州上田藩の仙石政明が国替えで来た時に、そば職人を連れてきたのがはじまりです。元祖は信州ですね。蕎麦好きの人の中には、とんでもない薀蓄家がいますね。そして味にうるさい。そのうるさいが半端じゃない。とてもついていけませんわ。
佐久間象山も信州の人。信州人は頑固、片意地、自信家が多いと信州人が自認しています。(ブログ「うた物語」二木紘三の「信州山国」の解説文)
象山は「自分のような人間は国家の財産だ」といってはばからなかった。つきあいにくい人間でしょうね。
一方、長州の大村益次郎も「今日は寒いですね」と挨拶されても、返事もしなかったそうです。(司馬遼太郎のエッセー)冬は寒く、夏は暑いのはあたりまえ。くだらん会話をさせるな。というところでしょうか。実際、彼はやるべき仕事が山ほどあったから、時間がもったいなかったのでしょう。
冷たい言い方ですが、この2人は、暗殺を自ら招き寄せたという部分もあるでしょうね。
川の写真、京都の夏の梅雨時の暑さが伝わってくる感じでした。水系を追う執念、いつもながらすごいですね。
最後に、ゴーヤの話です。ゴーヤの卵とじは、私も週3日は食べています。てんぷらもよさそうですが。こちらは小麦粉がなかなか手に入りにくいのです。
京都は、本当に街の中にきれいな水が湧くようですね。だから酒もうまいし、豆腐もうまい。洛中の造り酒屋が佐々木酒造だけというのももったいない話ですが、味醂屋さんとか酢屋さんも含めたら醸造業は今も盛んと言えるかも知れませんね。
明日香も近年の発掘の成果で、水の都ということがはっきりとしてきましたね。何故か暑くなると、あのカンカン照りの下で明日香を歩きたいという気持ちが湧いてきます。行ったら、その時は後悔するのですが(笑)。