本日は昼過ぎまで梅田で野暮用。解放されたところは西梅田だったので、トップの「渡邊橋」(25)から八百八橋計画を始めます。橋名の(数字)は、これをやり始めてから通算で何個目かを表します。また、同じ橋を渡った場合は数字には入れません。
ここいらは嵯峨源氏の渡邊党の本拠地の一つでした。嵯峨源氏は一字名が特徴で、公家として有名なのは応天門の変で危うく犯人にされるところだった源信(みなもとのまこと)、その後に苗字を名乗るようになってもこれは踏襲されたようで、渡辺綱(わたなべのつな)等は特に有名ですね。後代でも平戸の藩主であった松浦氏なども代々一字名です。
渡邊橋を渡って南に行くと悪の象徴たる新聞社、その前を通ってアホの気を吸うと体に悪いので、もう一度橋を渡って戻ってきます。そこから東に行き「中之島ガーデンブリッジ」(26)を渡ります。そのたもとには堂島米市場跡の記念碑。今は全く往時の面影はありません。以前にも記しましたが、西鶴の「日本永代蔵」には、この堂島でこぼれ米を丹念に拾い集めた老婆が大金持ちになる話が載せられています。それだけ多くの米が往来したこの場所も今は閑散としています。
中之島を横切って大川、おっと!ここらでは土佐堀川に架かる「錦橋」(27)、この橋のたもとの番付を見たのが今回の計画の発端です。四ツ橋などは勧進元として記載されたいますね。総橋数は205とあります。八百八橋はやはりかなり膨らませた数字です。錦橋は中之島ガーデンブリッジともども新しい橋で、橋の上には色々と趣向があるのですが、最近は手が入っていません。
ここの対岸、阪神高速の下辺りから南に流れていたのが西横堀川です。護岸に何らかの痕跡が無いものかと眺めましたが、何も残ってはいません。
錦橋
同じく錦橋
錦橋を渡ったところに西横堀川跡の碑、殆ど草に埋もれかけています。そういえば、先だって師匠たちと池田と川西の境の中橋近辺を歩いたとき、唐船ヶ渕の碑が見つけられませんでした。これなども伸び放題の草の波間に沈んだものと思われます。まあ、それはともかくとして、コヤツは大阪市の管轄ですから、橋下君もせこいことを言わずにこういうのには金を使ってやぁー。
その近くに阪神高速の記念碑、何となく申し訳なさそうに建っています。阪神高速が地下化された時には胸を張って建ってればよろしいが、今は各所で風景を台無しにしているので謹慎していてねと申す処。
北浜通、今橋通、本来は西横堀川に架かる橋もあったろうと思われますが、何の痕跡もありません。それでも昔の橋跡だと強弁するのはちょっと恥ずかしいので、ここらは数には入れません。
高麗橋通から江戸堀通に斜めに架かっていたのが「筋違い橋」(28)、写真で見たら今一はっきりとは分かりませんね。
筋違い橋跡
記念碑
伏見町の橋があったであろうところのたもとには「伏見呉服町の碑」、豊臣秀吉によって伏見の呉服商人などが多く大坂に移されたのが伏見町の起こり、その後の大坂の陣のことなどを考えると商人たちも随分と迷惑だっただろうなと思います。
本町通には、「信濃橋」(29)、碑も解説もしっかりと立てられています。今は交差点や高速の出口名として名前が残っていますね。
気がつけば、座摩(いかすり)神社の裏門です。本日はここから参拝して先に進みます。
南に下って、新町橋(30)、花街としての命運はとうに断たれてしまっています。かっては町場から花街への入り口の橋として多くの人が往来したとあります。錦絵の如き光景ならば毎夜毎夜通うのになあ(詠嘆)。ここも堀江ももう芸者は一名もいないのでは。
「四ツ橋」(31)までやって来ました。この橋が架かっていた西横堀川も長堀川もともに埋め立てられてしまっています。
北側に上繋橋(かみつなぎばし)、東に炭屋橋、南が下繋橋、西が吉野屋橋、これを以て4つ分として勘定も出来ますが、まあここは勧進元の四ツ橋としておきます。
少し離れたところに、上島鬼貫と小西來山の句碑が建っています。鬼貫の句集、しばらく持ち歩いていたのですが、どこにいったものか、探さねばなりません。
後の月 入りて貌よし 星の空 鬼貫
涼しさに 四ツ橋を四つ 渡りけり 來山
さらに南下すると人出が多くなってきます。道頓堀川が近づいてきました。涼しい風も吹いてきます。やはり川には水が流れていなくてはなりません。道頓堀川との合流点に近いところは少しだけ西横堀川が残っています。何故にここだけちょっと残したのか分かりません。
したがって「金屋橋」(32)は、今や西横堀川に架かる最後の現役橋ということになります。そういう名誉ある扱いを受けていないのが不憫です。だれだ!橋名板にペンキをかけたのは?
道頓堀川に合流
ここからは道頓堀川に沿って東に向かいます。何にしてもエライ人出です。先ずは新戎橋(33)、「新」とは付いていますが、もとの橋は明治29年の架橋です。
「大黒橋」(34)、最近になって随分と立派なものに架け替えられました。その次が「道頓堀橋」(35)ですが、この橋は4つの橋名板のうちの3つまでがたもとの店の中に取り込まれています。残る一つを撮ったものにはむくつけきオッサンも写っているのでカットしますね。
大黒橋
そして「戎橋」(36)、こやつはもう渡るだけで大変です。この橋のたもとにはロシア料理店があったのですが、きれいに無くなっていました。考えてみれば、この近辺は松竹座の地下に地ビールを飲みに来て以来ですから、4年ぶりぐらいになるでしょうか。
ちょうど難波神社の神輿に出くわしました。前の日には船渡御も行われたそうです。エライ人の2乗になってきました。
橋の横のプロムナードに避難して、「相合橋」(37)、さらに「太左衛門橋」(38)。江戸時代の興行師大坂太左衛門の名に由来するそうです。この人は角座の興行権を持っていたとのこと。道頓堀五座も遠い昔になりましたね。
太左衛門橋の北詰に食満南北(けまなんぼく)句碑、「盛り場をむかしにもどすはしひとつ」とあります。裏面はまあ師匠の宿題ということにしましょう(爆)。
日本橋の交差点には「安井道頓・道卜紀功碑」、勿論道頓堀の開削を賞してのものです。その横には紀元二千六百年碑。
さて「日本橋」(39)が本日の打ち止めであります。もう東には以前に渡った下大和橋が見えています。これで大坂の町場としては残るは大川と長堀川跡と言ったところです。
と、ここで、支那人の少女に道を尋ねられました。オッサンやオバハンだったら「知るか、ボケ、尖閣での嫌がらせをやめろ。ウイグル・チベット独立万歳!」と言うところですが、若い娘には弱い(爆)。支那語、英語、日本語というより河内弁を交えてあれこれ説明しますが、うまく通じません。考えてみたら向こうさんにしても「コウ行ってコオやんけ。」とか言われても分かりませんわなあ。場所はだいたい分かるのですが、どのように言えばいいのかが分かりません。橋の上で立ち往生というのはこのことであります。それにしても若い娘が言葉も通じぬ所に一人でやってくるもんですなあ。訳の解らぬ世界に巻き込まれぬことを祈るのみであります。
支那人の少女から解放されて、やれやれとこの近辺の串カツ屋に入りましたが、あきまへん。食いもん商売は見た目も大事です。モヒカン族のような頭で串カツを揚げてもらっても‥というところでありました。京橋で飲み直しです。丸一屋のおっちゃん、おばちゃんの白い服がとても清潔に見えました。
ここいらは嵯峨源氏の渡邊党の本拠地の一つでした。嵯峨源氏は一字名が特徴で、公家として有名なのは応天門の変で危うく犯人にされるところだった源信(みなもとのまこと)、その後に苗字を名乗るようになってもこれは踏襲されたようで、渡辺綱(わたなべのつな)等は特に有名ですね。後代でも平戸の藩主であった松浦氏なども代々一字名です。
渡邊橋を渡って南に行くと悪の象徴たる新聞社、その前を通ってアホの気を吸うと体に悪いので、もう一度橋を渡って戻ってきます。そこから東に行き「中之島ガーデンブリッジ」(26)を渡ります。そのたもとには堂島米市場跡の記念碑。今は全く往時の面影はありません。以前にも記しましたが、西鶴の「日本永代蔵」には、この堂島でこぼれ米を丹念に拾い集めた老婆が大金持ちになる話が載せられています。それだけ多くの米が往来したこの場所も今は閑散としています。
中之島を横切って大川、おっと!ここらでは土佐堀川に架かる「錦橋」(27)、この橋のたもとの番付を見たのが今回の計画の発端です。四ツ橋などは勧進元として記載されたいますね。総橋数は205とあります。八百八橋はやはりかなり膨らませた数字です。錦橋は中之島ガーデンブリッジともども新しい橋で、橋の上には色々と趣向があるのですが、最近は手が入っていません。
ここの対岸、阪神高速の下辺りから南に流れていたのが西横堀川です。護岸に何らかの痕跡が無いものかと眺めましたが、何も残ってはいません。
錦橋
同じく錦橋
錦橋を渡ったところに西横堀川跡の碑、殆ど草に埋もれかけています。そういえば、先だって師匠たちと池田と川西の境の中橋近辺を歩いたとき、唐船ヶ渕の碑が見つけられませんでした。これなども伸び放題の草の波間に沈んだものと思われます。まあ、それはともかくとして、コヤツは大阪市の管轄ですから、橋下君もせこいことを言わずにこういうのには金を使ってやぁー。
その近くに阪神高速の記念碑、何となく申し訳なさそうに建っています。阪神高速が地下化された時には胸を張って建ってればよろしいが、今は各所で風景を台無しにしているので謹慎していてねと申す処。
北浜通、今橋通、本来は西横堀川に架かる橋もあったろうと思われますが、何の痕跡もありません。それでも昔の橋跡だと強弁するのはちょっと恥ずかしいので、ここらは数には入れません。
高麗橋通から江戸堀通に斜めに架かっていたのが「筋違い橋」(28)、写真で見たら今一はっきりとは分かりませんね。
筋違い橋跡
記念碑
伏見町の橋があったであろうところのたもとには「伏見呉服町の碑」、豊臣秀吉によって伏見の呉服商人などが多く大坂に移されたのが伏見町の起こり、その後の大坂の陣のことなどを考えると商人たちも随分と迷惑だっただろうなと思います。
本町通には、「信濃橋」(29)、碑も解説もしっかりと立てられています。今は交差点や高速の出口名として名前が残っていますね。
気がつけば、座摩(いかすり)神社の裏門です。本日はここから参拝して先に進みます。
南に下って、新町橋(30)、花街としての命運はとうに断たれてしまっています。かっては町場から花街への入り口の橋として多くの人が往来したとあります。錦絵の如き光景ならば毎夜毎夜通うのになあ(詠嘆)。ここも堀江ももう芸者は一名もいないのでは。
「四ツ橋」(31)までやって来ました。この橋が架かっていた西横堀川も長堀川もともに埋め立てられてしまっています。
北側に上繋橋(かみつなぎばし)、東に炭屋橋、南が下繋橋、西が吉野屋橋、これを以て4つ分として勘定も出来ますが、まあここは勧進元の四ツ橋としておきます。
少し離れたところに、上島鬼貫と小西來山の句碑が建っています。鬼貫の句集、しばらく持ち歩いていたのですが、どこにいったものか、探さねばなりません。
後の月 入りて貌よし 星の空 鬼貫
涼しさに 四ツ橋を四つ 渡りけり 來山
さらに南下すると人出が多くなってきます。道頓堀川が近づいてきました。涼しい風も吹いてきます。やはり川には水が流れていなくてはなりません。道頓堀川との合流点に近いところは少しだけ西横堀川が残っています。何故にここだけちょっと残したのか分かりません。
したがって「金屋橋」(32)は、今や西横堀川に架かる最後の現役橋ということになります。そういう名誉ある扱いを受けていないのが不憫です。だれだ!橋名板にペンキをかけたのは?
道頓堀川に合流
ここからは道頓堀川に沿って東に向かいます。何にしてもエライ人出です。先ずは新戎橋(33)、「新」とは付いていますが、もとの橋は明治29年の架橋です。
「大黒橋」(34)、最近になって随分と立派なものに架け替えられました。その次が「道頓堀橋」(35)ですが、この橋は4つの橋名板のうちの3つまでがたもとの店の中に取り込まれています。残る一つを撮ったものにはむくつけきオッサンも写っているのでカットしますね。
大黒橋
そして「戎橋」(36)、こやつはもう渡るだけで大変です。この橋のたもとにはロシア料理店があったのですが、きれいに無くなっていました。考えてみれば、この近辺は松竹座の地下に地ビールを飲みに来て以来ですから、4年ぶりぐらいになるでしょうか。
ちょうど難波神社の神輿に出くわしました。前の日には船渡御も行われたそうです。エライ人の2乗になってきました。
橋の横のプロムナードに避難して、「相合橋」(37)、さらに「太左衛門橋」(38)。江戸時代の興行師大坂太左衛門の名に由来するそうです。この人は角座の興行権を持っていたとのこと。道頓堀五座も遠い昔になりましたね。
太左衛門橋の北詰に食満南北(けまなんぼく)句碑、「盛り場をむかしにもどすはしひとつ」とあります。裏面はまあ師匠の宿題ということにしましょう(爆)。
日本橋の交差点には「安井道頓・道卜紀功碑」、勿論道頓堀の開削を賞してのものです。その横には紀元二千六百年碑。
さて「日本橋」(39)が本日の打ち止めであります。もう東には以前に渡った下大和橋が見えています。これで大坂の町場としては残るは大川と長堀川跡と言ったところです。
と、ここで、支那人の少女に道を尋ねられました。オッサンやオバハンだったら「知るか、ボケ、尖閣での嫌がらせをやめろ。ウイグル・チベット独立万歳!」と言うところですが、若い娘には弱い(爆)。支那語、英語、日本語というより河内弁を交えてあれこれ説明しますが、うまく通じません。考えてみたら向こうさんにしても「コウ行ってコオやんけ。」とか言われても分かりませんわなあ。場所はだいたい分かるのですが、どのように言えばいいのかが分かりません。橋の上で立ち往生というのはこのことであります。それにしても若い娘が言葉も通じぬ所に一人でやってくるもんですなあ。訳の解らぬ世界に巻き込まれぬことを祈るのみであります。
支那人の少女から解放されて、やれやれとこの近辺の串カツ屋に入りましたが、あきまへん。食いもん商売は見た目も大事です。モヒカン族のような頭で串カツを揚げてもらっても‥というところでありました。京橋で飲み直しです。丸一屋のおっちゃん、おばちゃんの白い服がとても清潔に見えました。
新戎橋のように何とも派手な、と感じる橋もありますし、錦橋は、人が通るための橋で車は通行できないのですか? ずいぶん立派な橋のようですが。
道頓堀は、川の中に歩道が設けられて船が発着するようですね。 ここは堀ですから流れがないのでしょうかね。
6,7年前、道頓堀にかかる何処の橋だかわかりませんが、歩いたことがあります。 ものすごい人でした。 のんびり歩いてましたので、後ろから来た人に嫌味を言われました。 それ以来、誰か助けてくれる人がいない大阪は歩けなくなりました。
それより、近くのビルの会社を訪問する時に通った渡辺橋付近では、散々に〝アホの気〟を吸ったと思います。
それもそうとして、嵯峨源氏は一字名が特徴との由ですが、gunさんの本名も1字ですから、やはりその血統ですか。
堂島の栄光は遙か昔の事でしょうが、「中之島ガーデンブリッジ」の名称はかなり最近になっての命名の感じがします。それにしましても、厳しい栄枯盛衰の跡ではないですか。
阪神高速の記念碑の文字ははっきり読めませんけど、この高速道路の取っ掛かりは東京オリンピックの頃からでしたか。間違っているかも知れませんが、高度成長のシンボルの一つなのは確かだと思います。
「筋違い橋」は別名〝鮨買い橋〟と聞いた記憶がありますけど、近辺にそれらしき根拠があるのか単なる語呂合わせなのかどうなのでしょう。
伏見町にしましても、当時の為政者(為戦者?)の権力は絶対だった確証なのでしょう。今は、本家の伏見にさえ呉服屋があるのかどうかは知りませんが・・・。
それと、花街には新町とか新地とかの名所が多いのは、それなりの理由があるのでしょうか。専門家のgunさんはお詳しいと思いますけど。京都にも幾つかあります(私はよく知りませんが)。
「四ツ橋」付近の鬼貫の句はさすがです。来山の作は都々逸みたいですが。「戎橋」辺りになりますと、遙か大昔にふらふらした日もあった、と懐かしくなります。
大阪弁の本場にモヒカン族が居るみたいですが、難波近くに有名な立ち食いラーメン屋があって、昼飯にたまに食べに行きました。
金髪に染めたの店員(バイト?)が居て、ガラの悪い客が〝兄ちゃん、頭にラーメン乗せてんのか?〟などとからかっていました。
今もあるかも分かりません。中国人(支那人ですか)客で一杯だったりして・・・。
何々?鎌倉街道様にそんな失礼なことを行ったヤツがいるのですか。そう言うヤツのことを「いらち」と言います。悪意は無いと思いますが、何にしてもけしからんヤツですね。その橋はたぶん戎橋です。
道頓堀川はゆっくりと西に流れています。最近は随分と整備されて役者や落語家の舟乗り込みや神社の舟渡御などが行われるようになってきました。水質もあと一歩の所まで来ていると思います。
格式が高いというか、芸者がいてるというか、大阪の新地は基本的には壊滅状態ですね。けれども、何か祭の時やここ一番の時にほえ駕籠などに乗る芸者はどこの芸者だろうといつも思っています。
そう言うのを無視した場合は松島や飛田などは今も元気ですね。橋下市長の発言からここらがクローズアップされたことは一つの危機でした。警察も何もかも含めて関係者は「チッ、余計なことを言いおって!」と思ったことでしょう。橋下市長はここらのことについては阿吽の呼吸というのを知っているはずですから一言も触れていないのですが、市長のお膝元ということで週刊誌などが取り上げたようです。SF『ファウンデーション』シリーズにおける惑星ターミナスの役割を松島や飛田は果たしていると思います(爆)。
「筋違い橋」は「すじかいばし」と読みます。柱と柱の間に斜めに入れる構造材が語源でしょうね。「筋買い」は当て字だと思います。
戎橋界隈はもうちょっとしっとりとしていたような記憶があるのですが、昔からこんな感じだったのかも知れません。
何枚かの橋の写真を見ると
♪思い出の橋のたもとに しみついた夢のかずかず
という「川は流れる」の歌詞をおもいます。失恋のみならず、田舎から大阪に出てきて、仕事や都会生活に疲れた人が、川面をみつめて、また気を取り直し、元気になっただろうと想像します。川というか、水を見つめると不思議な力が湧いてきます。たとえ都会の汚れた川でも。(あれ、私、今日はいいこと言っていませんか?)
堂島の米市場跡は、私も訪ねましたが、かつての天下の台所の象徴たるところですが、面影もなくさびしかったです。あの近くの、アホ新聞って?ふたつあるから、どっち?ああよりアホな方か?とクイズも無事解きまして、次に進みました。
難波の橋の相撲番付け表、おもしろいですね。いつの時代もランキングの好きな人が大勢いたんですね。八百八橋もなくて二百いくつ、そりゃそうでしょうね。ゴロあわせと八には多いという意味があるとか聞きました。
ふたつの通りにまたがるから、筋違い橋、橋が4つあるから四つ橋、名前の由来もおもしろい。ですが、江戸には負けているかな、「言問い橋」「泪橋」「勝鬨橋」「両国橋」なんとなく、あちらの方がセンスがいい感じ。
最後は道頓堀、この名前は勝っていますね。庶民的で、歌謡曲にもなりやすい。作左衛門堀とか四郎次郎堀だったらダメです、
中国の娘さんに道を聞かれて困ったとか、筆談もできたのに惜しかったですね。「此大路暫時直進、約二十分経過 君見左方大書店紀伊国屋 此書店通過約五分到着目的家」とか・・
まあ外国人に何か聞かれて、あやふやな言葉と身ぶり手ぶりで話をすることは脳の活性化に良いそうですが、それは実感します。1、逃げ出さないでふみとどまる、2、あせりと恥ずかしさで汗をかく。そんな貴重な経験、ほかにはできないです。
江戸、東京。小生はずぶずぶの関西人ですが、「負けたらあかんで東京に」等とは一度も思ったことがありません。酒場でも東京の悪口を偉そうに言うおっさんは恥ずかしいと思っています。基本的に田舎モンだから都会への素朴な憧れが残っているのかも知れません。新幹線に乗って品川を過ぎて東京駅が近くなってくると何か嬉しいです。
そういうこともあって、いつか東京徘徊を存分にやりたいなあと思っています。以前たまたま歩いていたら本郷で樋口一葉の旧宅を見つけました。その後、司馬遼太郎の街道を行くの本郷界隈に載っていることも知りました。あの辺りはまだまだ何が出てくるかわからんので楽しみにしています。
筆談、すっかり忘れてました。ただ、台湾は旧字体の漢字が通じるけど大陸の方は若い人には漢字は通じないかも知れませんね。まあ、日本橋の上で客を降ろす大型バス、乗っているのは殆ど支那人ですから何とかなったと思います。
アホ新聞て、誰が読んでいるのでしょうね。小生の周辺には誰もいませんし。
どぶ川の上に高速道が走り、また水の上に架かっているという姿とはほど遠い姿だからでしょうか。それとも小学生の時、四つ橋の電気科学館へ遠足で来た時の余りに汚れた川の姿が焼き付いているからかもしれません。その点、京の鴨川の橋の欄干には昔の姿を偲ばせようとしていて、こちらの方が我が好みであります。これを大阪に持ってきてもこれまたちぐはぐではありますが。
安井道頓の碑があるあたりに取引先の方につれてもらった良い店がありましたが、もう名前忘れてしまった。この少し南は怪しい所でございまして、タクシーに声をかけられたので、「おいドン九州じゃきにあかんが、、」なんて方言をチャンポンして答えると、「お、にいちゃん、鹿児島か、、」なんて風流を解せぬ返事しか帰ってこんなあ、なんて馬鹿にしてこっそり遊んでいた事を思い出しました。
一つ気になる事があるんです。地図にどうして橋の名前が出てこないんでしょうね。
日本橋から東や南は昔はパンパンがよく現れたように記憶しています。そこからいくと今は健全そのもの。地下鉄日本橋駅の出口付近にたむろしていたケバイねえちゃんらもどこに行ったのでしょうね。今は支那人向けの旅館がかたまっています。けどまあ考えてみたら水掛不動の辺りも怪しげな店が多かったですし、ここいらが特別にという感じはしませんでした。
阪神大震災の時に阪神高速は横倒しになっていましたが、今も大阪の殆どの場所で一本柱の上に道路が乗っているという状態が続いています。大きな地震が来たら目も当てられない状態になるのではと思います。