前九年の役(1151~62)に敗れた安倍貞任の遺体は八つ裂きにされて、丹波国の宇津郷周辺に埋められたという伝承があります。貞任の首を埋めたところは貞任峠、腰や足は人尾峠に埋められたといいます。勿論、前九年の役の一等史料である「陸奥話記」には、そのような話は出てきませんし、その他の信頼できる史料でも確認は出来ませんから、あくまで一地方の伝承ということにはなります。けれども、遺体を刻んだ場所や埋葬地、その後の祟りなどを含めて非常に濃密に話が伝えられていることは事実です。
安倍貞任からは百年以上も遡りますが、平将門についても、やはり遺体は八つ裂きにされたという伝承があり、陰陽道の方に何やらそのようなマジナイが伝えられていた可能性があります。ちょっと脱線しますが、「吾妻鏡」をつらつらと眺めていると、ある時点から異常に陰陽道の記事が増えてきます。実力本位と思われる鎌倉武士がお寺のお堂の建築など一つ一つのことに陰陽師の判断を仰いでいたというのは驚きですが、宇津郷のある京北から162号線を少し走った先にある福井県の名田庄には陰陽道の本家である土御門家が応仁の大乱を避けて三代に渡って本拠としていたところがあり、今日の晴明神社の隆盛も含めて、脈々と陰陽道というものが伝えられてきてはいるようです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、すっかり春めき、花粉もドーと飛んでいる中を人尾峠に向かいます。宇津峡公園[京都市右京区京北下宇津町向ヒ山1]の近くまでは車道をたらたらと歩いていきますが、自動車はほとんど走っていません。トップの写真で遠くに見える山のポコッとへこんでいるところが人尾峠です。
まずは、花粉で茶色くなっている宇津城祉です。16世紀前半の畿内史に於いて、常時反権力の立場を貫いたか貫かざるを得なかったか、京都の権力者に対して毛沢東の如き遊撃戦を展開した宇津氏の拠点です。最終的には1579年に明智光秀に攻められて宇津氏は没落、この城は明智の手に入りました。今日残る石垣などは、明智による普請だということです。その後、明智光秀が宇津城の東8キロばかりのところにある周山城を築城したために廃城になりました。
屹立する宇津城祉
この宇津氏の全盛期には、京都での戦いに敗れ捲土重来を期する連中が皆々この地に逃れてきて遠く京都の空を睨んでいました。その際、いちいち山に登るのは不便でしたでしょうから、この山の麓に多くの屋敷が建てられていたものと考えられます。証拠はありませんが細川高国もここに来たことはあったでしょうし、その高国を滅ぼした例の細川晴元、三好正勝等々敵も味方もこき混ぜて、「京都をねらう人はいらっしゃい!」状態、何とも興味深い一族です。
宇津城祉の麓にある八幡宮は、安倍貞任がひどく祟るということで源頼義が勧請したといわれています。小生はこの八幡さんにある鐘が気になっているのですが、まだ詳しくは調べていません。何で寺の鐘があるねんと申す処。
句碑などもあり寺かと思えば民家でした。
嶽山城祉とそれに続くピーク
凹んでいるところが貞任峠
川(上桂川)の向こうには、梅若太夫を住まわせたというところがあります。当時、芸能の徒は一種の賤業であったために川の西に住まわせたのだろうということです。
山の麓あたりに梅若太夫の屋敷跡
バスの時刻表、本数は「悲惨」ですが、公共交通機関が全く無い京都市の真弓や杉坂、大森のことを考えると贅沢は言えません。
さて、車道を離れて林道へ、さらにその林道を離れたところから山道に入り峠を目指します。道自体は谷を詰めていく道で迷いようもないのですが、このところの積雪で倒木が多く両手両足運動を必要とします。今回の積雪は北山の林業全体に甚大な被害をもたらしました。
雪による倒木
それでも、この辺りでは倒れた北山杉の伐採が行われていて、使える部分だけでも丸太にする努力が為されています。バスの停留所として建てるログなどには十分使えます。ただ、出て山仕事をしておられる方の車には全て紅葉マークがついています。
悪戦苦闘も20分ほどで、人尾峠に到着です。宇津氏の監視拠点があった嶽山城祉がすぐ目の前に覆い被さります。日吉の小林家文書には宇津氏の者どもを2、3討ち果たしたという記述もあるようで、この峠を行き来するものは常時嶽山城から監視されていたものと思われます。峠到着時には鹿たちが何か会議を開いておったのですが、小生を見て一目散に逃げていきました。鹿君たちには悪いことをしました。往時、この峠では様々なことがおこったに違いないのですが、全ては落ち葉の下。
人尾峠(東から)
人尾峠(西から)
嶽山城とそれに続く山
日吉方面にも少し下りましたが、やはり道は荒れています。嶽山城との位置関係はよく分かりましたので、今度は嶽山城から下りて、ここに来ようと思います。本日は反対の方角即ち北に尾根沿いに進み、黒尾山のピーク(569メートル)を踏みます。但し、三角点などはありません。嶽山城に続く山には三角点があるみたいですが、逆に山の名が分からないですね(多分嶽山でいいと思いますが)。途中、何度か日吉方面の展望が利くところがありますが、携帯で撮る写真にはうまく写りません。後ほど、地図で確認すると中世木の上谷や中谷というところが見えているようです。京北トレイルの地図では、この奥にもいくつかのビューポイントがあるとのことです。
黒尾山のピークからは一挙に尾根スジを下ります。何とも急な斜面で、木の根元に立って下の木の根元を目指して飛び降ります。この辺りは杉が等間隔に植えられているので、そういうことができます。ただ目測を誤るとズルズルズルとしばらく落ちていきます。よい子の皆さんは決してマネしないようにしましょう(笑)。そのおかげで、ピークから20分ほどで、貞任峠との分岐点、つまり林道から山道に入ったところまで戻ってきました。山歩きとしては、全く不十分ではありますが、気負わない散策としては格好のコースを見つけることができました。貞任の腰・足を埋めた伝説の人尾峠は静寂の中にあり、峠の石仏は優しく微笑んでいます。
今回もかなり濃厚な花粉の中で何回も深呼吸しました。目はボロボロになりましたが、鼻は何ともありません。昨年までは、もうこういうことをした後は鼻水だらけでくしゃみも連発、鼻は空気を全く通さなかったのですが、どうも、どうも、「治っちゃったい!」というところ。この時期、薬(抗ヒスタミン剤)の効果が切れることをビビリながら酒を飲んでおりましたが、本日はお祝いの酒もうまそうです。人間、何も考えずに生きていると、やはりいいことがありますね。
安倍貞任からは百年以上も遡りますが、平将門についても、やはり遺体は八つ裂きにされたという伝承があり、陰陽道の方に何やらそのようなマジナイが伝えられていた可能性があります。ちょっと脱線しますが、「吾妻鏡」をつらつらと眺めていると、ある時点から異常に陰陽道の記事が増えてきます。実力本位と思われる鎌倉武士がお寺のお堂の建築など一つ一つのことに陰陽師の判断を仰いでいたというのは驚きですが、宇津郷のある京北から162号線を少し走った先にある福井県の名田庄には陰陽道の本家である土御門家が応仁の大乱を避けて三代に渡って本拠としていたところがあり、今日の晴明神社の隆盛も含めて、脈々と陰陽道というものが伝えられてきてはいるようです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、すっかり春めき、花粉もドーと飛んでいる中を人尾峠に向かいます。宇津峡公園[京都市右京区京北下宇津町向ヒ山1]の近くまでは車道をたらたらと歩いていきますが、自動車はほとんど走っていません。トップの写真で遠くに見える山のポコッとへこんでいるところが人尾峠です。
まずは、花粉で茶色くなっている宇津城祉です。16世紀前半の畿内史に於いて、常時反権力の立場を貫いたか貫かざるを得なかったか、京都の権力者に対して毛沢東の如き遊撃戦を展開した宇津氏の拠点です。最終的には1579年に明智光秀に攻められて宇津氏は没落、この城は明智の手に入りました。今日残る石垣などは、明智による普請だということです。その後、明智光秀が宇津城の東8キロばかりのところにある周山城を築城したために廃城になりました。
屹立する宇津城祉
この宇津氏の全盛期には、京都での戦いに敗れ捲土重来を期する連中が皆々この地に逃れてきて遠く京都の空を睨んでいました。その際、いちいち山に登るのは不便でしたでしょうから、この山の麓に多くの屋敷が建てられていたものと考えられます。証拠はありませんが細川高国もここに来たことはあったでしょうし、その高国を滅ぼした例の細川晴元、三好正勝等々敵も味方もこき混ぜて、「京都をねらう人はいらっしゃい!」状態、何とも興味深い一族です。
宇津城祉の麓にある八幡宮は、安倍貞任がひどく祟るということで源頼義が勧請したといわれています。小生はこの八幡さんにある鐘が気になっているのですが、まだ詳しくは調べていません。何で寺の鐘があるねんと申す処。
句碑などもあり寺かと思えば民家でした。
嶽山城祉とそれに続くピーク
凹んでいるところが貞任峠
川(上桂川)の向こうには、梅若太夫を住まわせたというところがあります。当時、芸能の徒は一種の賤業であったために川の西に住まわせたのだろうということです。
山の麓あたりに梅若太夫の屋敷跡
バスの時刻表、本数は「悲惨」ですが、公共交通機関が全く無い京都市の真弓や杉坂、大森のことを考えると贅沢は言えません。
さて、車道を離れて林道へ、さらにその林道を離れたところから山道に入り峠を目指します。道自体は谷を詰めていく道で迷いようもないのですが、このところの積雪で倒木が多く両手両足運動を必要とします。今回の積雪は北山の林業全体に甚大な被害をもたらしました。
雪による倒木
それでも、この辺りでは倒れた北山杉の伐採が行われていて、使える部分だけでも丸太にする努力が為されています。バスの停留所として建てるログなどには十分使えます。ただ、出て山仕事をしておられる方の車には全て紅葉マークがついています。
悪戦苦闘も20分ほどで、人尾峠に到着です。宇津氏の監視拠点があった嶽山城祉がすぐ目の前に覆い被さります。日吉の小林家文書には宇津氏の者どもを2、3討ち果たしたという記述もあるようで、この峠を行き来するものは常時嶽山城から監視されていたものと思われます。峠到着時には鹿たちが何か会議を開いておったのですが、小生を見て一目散に逃げていきました。鹿君たちには悪いことをしました。往時、この峠では様々なことがおこったに違いないのですが、全ては落ち葉の下。
人尾峠(東から)
人尾峠(西から)
嶽山城とそれに続く山
日吉方面にも少し下りましたが、やはり道は荒れています。嶽山城との位置関係はよく分かりましたので、今度は嶽山城から下りて、ここに来ようと思います。本日は反対の方角即ち北に尾根沿いに進み、黒尾山のピーク(569メートル)を踏みます。但し、三角点などはありません。嶽山城に続く山には三角点があるみたいですが、逆に山の名が分からないですね(多分嶽山でいいと思いますが)。途中、何度か日吉方面の展望が利くところがありますが、携帯で撮る写真にはうまく写りません。後ほど、地図で確認すると中世木の上谷や中谷というところが見えているようです。京北トレイルの地図では、この奥にもいくつかのビューポイントがあるとのことです。
黒尾山のピークからは一挙に尾根スジを下ります。何とも急な斜面で、木の根元に立って下の木の根元を目指して飛び降ります。この辺りは杉が等間隔に植えられているので、そういうことができます。ただ目測を誤るとズルズルズルとしばらく落ちていきます。よい子の皆さんは決してマネしないようにしましょう(笑)。そのおかげで、ピークから20分ほどで、貞任峠との分岐点、つまり林道から山道に入ったところまで戻ってきました。山歩きとしては、全く不十分ではありますが、気負わない散策としては格好のコースを見つけることができました。貞任の腰・足を埋めた伝説の人尾峠は静寂の中にあり、峠の石仏は優しく微笑んでいます。
今回もかなり濃厚な花粉の中で何回も深呼吸しました。目はボロボロになりましたが、鼻は何ともありません。昨年までは、もうこういうことをした後は鼻水だらけでくしゃみも連発、鼻は空気を全く通さなかったのですが、どうも、どうも、「治っちゃったい!」というところ。この時期、薬(抗ヒスタミン剤)の効果が切れることをビビリながら酒を飲んでおりましたが、本日はお祝いの酒もうまそうです。人間、何も考えずに生きていると、やはりいいことがありますね。
私達は貞任峠を越えて天若分校へ寄り、殿田駅(日吉町)へ汽車を見物に行ったものです。丹後方面へ行く人は、殿田から汽車に乗ったのでしょう。人尾峠の向こうは同じ様な山峡の村ですから、親戚でも無い限り私達は通ることはありませんでした。それでも、昔の花嫁は草鞋履きで峠を越えてやって来たそうですから、双方の峠を花嫁が行き来したことと思います。
宇津氏の子孫は何処かに居ると聞きますが、農芸高校(現北桑高校)の初代校長がその名前ですし、私達の同級生に1人同姓の者が居りました(弓削在)。2年生で転校して、今は高槻に住んで居るそうです。
梅若太夫の子孫は、同姓が何人か在所に居ります。また宇津氏の家来で山国荘を責めた子孫が、恥ずかしいので姓を変えたそうです。現在も健在であるその曾孫から、私の知人が直接話を聞いた、と教えてくれました。その知人は、変えられた苗字のままの子孫です。
話は前後しますが、かつての北桑南部7カ町村(神吉を含む)で宇津村は人口が黒田・細野・神吉と同程度に少ない村でした。それでも青年団の運動会では優勝の常連でした。同規模の神吉は最下位が多かった様です(多分)。会場の周山まで行くのに、小細峠と馬ケ背峠を越えるハンディがあったからでしょう(多分)。大村の山国は大体2位か3位でした。裕福な家庭の子息が多くて、ハングリー精神に欠けていたのでしょう(多分)。
当日は老若男女村人が総出で、上記の応援歌を熱唱したものです。ちなみに、前京北ゼミ理事長(元京都府教育長)は、マラソンのエースでした。自宅は柏原です。山国荘を襲った子孫で姓を変更した、1500走と走り高跳びのエースで俳句の宗匠も下宇津に健在です。
話は横道へ外れましたが、こんな小さな過疎の村でも、奥深い歴史があって興味尽きないものです。徘徊堂さんは花粉症が治癒されたとのこと。ますます行動範囲が広がることでしょう。やはり積年(幼少の頃からの)の酒精が、体質強化をもたらしたのではないですか。「百薬の長」の愛称は伊達では無い様です。「歴史秘め過疎の村にも春来たる」道草。
今はもう考えられぬことですが、かつてはこの峠を花嫁の行列が行き来したというのも楽しい話ですね。東西、多くの花嫁が峠から今までの家族の住む村を振り返り、これから新しい生活をする村を眺めたことでしょう。多分小生あたりが、花嫁が晴れ姿で「家を出る」というのを目にした最後の世代かなと思います。最後に目にした能勢の旧家は、この間更地になってしまいました。
梅若太夫の子孫の方がそのまま在所におられるのも素晴らしいですね。はっきりと調べたわけではありませんが、太夫の後は武士になっているようですね。
今、車道とも言えぬ車道が大きく北に迂回して持越峠を通っていますが、そのために人尾峠は今の形で残ったのですが、なぜ持越峠を越える道路になったのか興味深いです。