京阪奈丘陵に源を発し、交野市や枚方市を流れて淀川に流れ込む川に天野川があります。この天の川の流域一帯は、平安の昔は交野ヶ原と言って天子遊猟の場でした。日本後紀などを読んでいると、特に桓武天皇が頻繁に猟に出かけておられたことに驚くのですが、この交野ヶ原にも何回か足を運んでおられるばかりか、祭天の儀式をこの地で行っておられます。
以前に渚の院跡のところでも申し上げたと思いますが、平安朝の貴族たちにとっても此の地は絶好の遊び場で、わが惟喬親王や在原業平なども、この地で遊猟し酒宴を開いて楽しんでいます。業平などはこの辺りの織女をナンパして「狩り暮らし棚機津女に宿からむ天の河原に我は来にけり」などという歌も詠んでいます。けしからぬヤツです。
奈良時代と平安時代初期までは唐の文化が色濃く、唐の乞巧奠すなわち七夕の伝説と風習は、当時の貴族たちにとっては大変モダンな行事であったと考えられます。万葉集の中にも七夕を詠んだ歌が多くあることから見ても、今日の我々がクリスマスぢゃ、バレンタインぢゃと呆けるように七夕は一大イベントであったと思われます。
川の名は「天野川=天の川」、ところはリゾート地ということでウキウキした気分の中で、この北河内地域に七夕伝説が生じ、根付いていきました。この辺りには七夕にちなむ地名や遺物が多く残されています。天野川の最下流部に架かる橋は「かささぎ橋」、牽牛と織女を結ぶ鳥です。今少し風光明媚なところならば、天野川右岸と左岸から男女がかささぎ橋を目指し、かささぎ橋上で手を取り合えば幸せになるなどといった軟弱な「現代の伝説」を生んでもよいのですが、まあ排気ガスを思い切り吸うだけだからやめておきましょう。
京阪電車交野線の駅に「星ヶ丘」、この近くで天野川に架かる橋は「逢合橋」、公園にある石が「牽牛石」でJR学研都市線の駅に「星田」、その星田には北斗七星を祀る妙見さん。他にも探せばいろいろとあるでしょうが、この地域の七夕伝説の中で「織女」の役を担っているのが「機物神社(はたものじんじゃ)」です。
交野市はすっかりと都市化されました。駅前などは古い農村の雰囲気が一掃され、何やら新開地の趣があります。ただ、この新開地、人通りは少なくてさびしい感じです。興味をひくのはパンダなるお好み焼き屋だけで、危うく入ってビールを飲みそうになりますが、ここは「グッ」と我慢して、私部(きさべ)の古い集落に入ります。集落に入ってすぐに村社である住吉神社の御旅所と大峰山の碑、「おや、ここらは愛宕山では無くて大峰山か?」。
私部集落を抜けたところにある住吉神社の境内はなかなか広大です。それにしても青空に最もはえるのが我が日の丸の旗ですね。今日は風が無くて翩翻とひるがえっていないのが惜しいところです。
ここから倉治(くらじ)を目指します。機物神社は倉治の氏神さんです。このあたりの景色を決定的に変えたのは第2京阪道路、この壁が東に出来た家の人たちは生駒端山のなだらかな美しい山容を家の窓から、庭から見ることが出来なくなってしまいました。防音壁が施されているのはせめてもの良心なのでしょうが、この現代のオロチ、退治するスサノオはいるのでしょうか?
機物神社は長大な参道を有しています。昔は神域ももっと広かったのでしょうが、今やその参道だけが残ったという感じです。その参道は、どう見ても交野山の方を向いていますから、本来は三上山と御上神社のような関係であったのかも知れません。宮司さんが書いておられるところに依ると、機物神社から見て冬至の日の太陽は交野山から登るということですから、本来は交野山に降臨する神を祀る場であったと思われます。今の御祭神は天棚機比売大神や栲機千々比売神など4坐、まさしく織姫が祀られています。機=ハタの音から秦氏からみのお社である説が有力ですし、この辺りの首長名として残る交野忌寸の忌寸は秦氏と共通している点もあります。ただ、本来はこの近辺は物部氏の故地でありますし、物部氏滅亡後に蘇我氏と関係の深い東漢氏がこの地域に進出して機織りの職能集団を率いていた可能性も強く、ハタの音を以て直ちに秦氏と結びつけるのは間違っている気もします。何にしても秦氏とはやっかいな集団で、渡来人の中では最大の評価を受けていながら、その実体はなかなか掴めない。東漢氏が坂上氏となって田村麻呂を始めとして、平安期にも有力な貴族として生き残ったのに対して、秦氏は聖徳太子のころの秦河勝がやや知られているぐらいで、その後も貴族として生き残ったにせよ、貴族としては極めて低い地位にとどまっています。織物の技術にハタオリの名が冠せられたことで、東漢氏の事跡が全て秦氏のそれに転化されているところがあるように思われますが、ちょっと話が退屈になりました。
万葉歌碑は澤瀉久孝先生の注釈書を参考にした旨まで記された随分と良心的なものです。歌碑に曰く「たな機の五百機(いほはた)立てて織る布(ぬの)の秋さり衣(ころも)誰か取り見む」と。勿論織女が織った秋の衣を受け取るのは牽牛でしょう。朗々たる犬養節に対して重厚な澤瀉節、どのようにこの歌を朗詠されるのか聴いてみたい気もします。先日テレビでやっていましたが、山辺の道などで歌われているのは圧倒的に犬養節のようで、澤瀉節は分が悪いようです。
以前に来たときからご本殿は建て替えられたようで、朱の色が織女のお社に相応しい感じがします。古社の趣を好む人は、機織りの道具が置いてある東の建物がよいでしょう。
平安オヤジ、紀貫之の歌碑はちょっと奇をてらい過ぎていますが、オカマ趣味もあったようなので、本人は喜んでいるかも知れません。歌碑に曰く「一年に一夜と思えどたなばたの逢い見む秋の限りなき哉」と。
機物神社を抜けて、いよいよ交野山ですが、以前は登り口を探すのに随分と苦労しました。今は倉治公園からそのまま登れるようになっていますし、登山道もきれいに整備されています。梵字の彫られた岩まで来ると以前に登ったときのことが色々と思い出されました。
山中に密やかに咲く
頂上の磐坐は遠くからもはっきりと望めるものです。生駒山地の北の外れ、もうそろそろ山が尽きようかというところにグッと一段高い山があり、それが交野山です。視界が良ければ阪急の京都線あたりからも見ることが出来ます。
本日は磐坐に先客が14~5人、ふもとのオロチはよく見えますが、黄砂のために眺望は利きません。「本来ならこっちの方向に六甲山。」、「黄砂がなければこちらに比叡山。」、「砂さえ飛んでいなければ、あそこに竜王山」等と遠来の方々に説明をさせていただきましたが、説得力のないことは甚だしい。みんなで「黄砂のアホー!シナのアホー!」と連呼です。
頂上から「くろんど池」に向かいます。少し下りたところに三宝荒神、このあたりは古い寺跡でもあります。山道から車道に出たところには何と警備のオッチャンが立っていて登山客が道に迷わぬように案内しています。そういえば、本日は「動物ふれ合いの森はどこですか?」とか、頂上から4、50メートルの地点で「頂上はどこですか?」等とよく道を聞かれました。どうも迷いなれていない人が多く来ているようで、事故の無いように行政が警備員を手配しているようです。「ここでは迷っても知れているから、京都の北山に立っといてくれぇ」と言いたいところ。池の近くの分岐のところでも警備員が立っていて、「こちらの道は一部崩落しています。」と親切に教えてくれますが、ああ、ここらはファミリユースなんだ、わしらが迷い込むところではないのだと改めて気づきます。
地図を持たぬ災いはてきめんで、本日も亦「くろんど池」に出てしまった。完全に銀座状態。ボートも多く出ていますが、この底がすり鉢状になった池で何人の土左衛門が出たことか。また、能のないバーベキューの悪臭が池全体を覆っています。「しまった!穂谷か高山に出るべきだった。」と思いますが後の祭りです。何処かのすっとこどっこいが「富士には月見草がよく似合う」等とキザなことを言いましたが、「山には軽トラがよく似合う。」。
高山溜池
私市駅までの下りは一瞬、途次月輪の滝などとたいそうな名が付いた滝がありますが、北山の毘沙門谷に入ってみなさい、この程度の滝ならばゴロゴロしてまっせ。けれども、そろそろ枚方市の「おらがそば」の串揚げタイムです。駅では枚方市行きの電車が待ってくれています。電車に乗っている間も一瞬でありました。
以前に渚の院跡のところでも申し上げたと思いますが、平安朝の貴族たちにとっても此の地は絶好の遊び場で、わが惟喬親王や在原業平なども、この地で遊猟し酒宴を開いて楽しんでいます。業平などはこの辺りの織女をナンパして「狩り暮らし棚機津女に宿からむ天の河原に我は来にけり」などという歌も詠んでいます。けしからぬヤツです。
奈良時代と平安時代初期までは唐の文化が色濃く、唐の乞巧奠すなわち七夕の伝説と風習は、当時の貴族たちにとっては大変モダンな行事であったと考えられます。万葉集の中にも七夕を詠んだ歌が多くあることから見ても、今日の我々がクリスマスぢゃ、バレンタインぢゃと呆けるように七夕は一大イベントであったと思われます。
川の名は「天野川=天の川」、ところはリゾート地ということでウキウキした気分の中で、この北河内地域に七夕伝説が生じ、根付いていきました。この辺りには七夕にちなむ地名や遺物が多く残されています。天野川の最下流部に架かる橋は「かささぎ橋」、牽牛と織女を結ぶ鳥です。今少し風光明媚なところならば、天野川右岸と左岸から男女がかささぎ橋を目指し、かささぎ橋上で手を取り合えば幸せになるなどといった軟弱な「現代の伝説」を生んでもよいのですが、まあ排気ガスを思い切り吸うだけだからやめておきましょう。
京阪電車交野線の駅に「星ヶ丘」、この近くで天野川に架かる橋は「逢合橋」、公園にある石が「牽牛石」でJR学研都市線の駅に「星田」、その星田には北斗七星を祀る妙見さん。他にも探せばいろいろとあるでしょうが、この地域の七夕伝説の中で「織女」の役を担っているのが「機物神社(はたものじんじゃ)」です。
交野市はすっかりと都市化されました。駅前などは古い農村の雰囲気が一掃され、何やら新開地の趣があります。ただ、この新開地、人通りは少なくてさびしい感じです。興味をひくのはパンダなるお好み焼き屋だけで、危うく入ってビールを飲みそうになりますが、ここは「グッ」と我慢して、私部(きさべ)の古い集落に入ります。集落に入ってすぐに村社である住吉神社の御旅所と大峰山の碑、「おや、ここらは愛宕山では無くて大峰山か?」。
私部集落を抜けたところにある住吉神社の境内はなかなか広大です。それにしても青空に最もはえるのが我が日の丸の旗ですね。今日は風が無くて翩翻とひるがえっていないのが惜しいところです。
ここから倉治(くらじ)を目指します。機物神社は倉治の氏神さんです。このあたりの景色を決定的に変えたのは第2京阪道路、この壁が東に出来た家の人たちは生駒端山のなだらかな美しい山容を家の窓から、庭から見ることが出来なくなってしまいました。防音壁が施されているのはせめてもの良心なのでしょうが、この現代のオロチ、退治するスサノオはいるのでしょうか?
機物神社は長大な参道を有しています。昔は神域ももっと広かったのでしょうが、今やその参道だけが残ったという感じです。その参道は、どう見ても交野山の方を向いていますから、本来は三上山と御上神社のような関係であったのかも知れません。宮司さんが書いておられるところに依ると、機物神社から見て冬至の日の太陽は交野山から登るということですから、本来は交野山に降臨する神を祀る場であったと思われます。今の御祭神は天棚機比売大神や栲機千々比売神など4坐、まさしく織姫が祀られています。機=ハタの音から秦氏からみのお社である説が有力ですし、この辺りの首長名として残る交野忌寸の忌寸は秦氏と共通している点もあります。ただ、本来はこの近辺は物部氏の故地でありますし、物部氏滅亡後に蘇我氏と関係の深い東漢氏がこの地域に進出して機織りの職能集団を率いていた可能性も強く、ハタの音を以て直ちに秦氏と結びつけるのは間違っている気もします。何にしても秦氏とはやっかいな集団で、渡来人の中では最大の評価を受けていながら、その実体はなかなか掴めない。東漢氏が坂上氏となって田村麻呂を始めとして、平安期にも有力な貴族として生き残ったのに対して、秦氏は聖徳太子のころの秦河勝がやや知られているぐらいで、その後も貴族として生き残ったにせよ、貴族としては極めて低い地位にとどまっています。織物の技術にハタオリの名が冠せられたことで、東漢氏の事跡が全て秦氏のそれに転化されているところがあるように思われますが、ちょっと話が退屈になりました。
万葉歌碑は澤瀉久孝先生の注釈書を参考にした旨まで記された随分と良心的なものです。歌碑に曰く「たな機の五百機(いほはた)立てて織る布(ぬの)の秋さり衣(ころも)誰か取り見む」と。勿論織女が織った秋の衣を受け取るのは牽牛でしょう。朗々たる犬養節に対して重厚な澤瀉節、どのようにこの歌を朗詠されるのか聴いてみたい気もします。先日テレビでやっていましたが、山辺の道などで歌われているのは圧倒的に犬養節のようで、澤瀉節は分が悪いようです。
以前に来たときからご本殿は建て替えられたようで、朱の色が織女のお社に相応しい感じがします。古社の趣を好む人は、機織りの道具が置いてある東の建物がよいでしょう。
平安オヤジ、紀貫之の歌碑はちょっと奇をてらい過ぎていますが、オカマ趣味もあったようなので、本人は喜んでいるかも知れません。歌碑に曰く「一年に一夜と思えどたなばたの逢い見む秋の限りなき哉」と。
機物神社を抜けて、いよいよ交野山ですが、以前は登り口を探すのに随分と苦労しました。今は倉治公園からそのまま登れるようになっていますし、登山道もきれいに整備されています。梵字の彫られた岩まで来ると以前に登ったときのことが色々と思い出されました。
山中に密やかに咲く
頂上の磐坐は遠くからもはっきりと望めるものです。生駒山地の北の外れ、もうそろそろ山が尽きようかというところにグッと一段高い山があり、それが交野山です。視界が良ければ阪急の京都線あたりからも見ることが出来ます。
本日は磐坐に先客が14~5人、ふもとのオロチはよく見えますが、黄砂のために眺望は利きません。「本来ならこっちの方向に六甲山。」、「黄砂がなければこちらに比叡山。」、「砂さえ飛んでいなければ、あそこに竜王山」等と遠来の方々に説明をさせていただきましたが、説得力のないことは甚だしい。みんなで「黄砂のアホー!シナのアホー!」と連呼です。
頂上から「くろんど池」に向かいます。少し下りたところに三宝荒神、このあたりは古い寺跡でもあります。山道から車道に出たところには何と警備のオッチャンが立っていて登山客が道に迷わぬように案内しています。そういえば、本日は「動物ふれ合いの森はどこですか?」とか、頂上から4、50メートルの地点で「頂上はどこですか?」等とよく道を聞かれました。どうも迷いなれていない人が多く来ているようで、事故の無いように行政が警備員を手配しているようです。「ここでは迷っても知れているから、京都の北山に立っといてくれぇ」と言いたいところ。池の近くの分岐のところでも警備員が立っていて、「こちらの道は一部崩落しています。」と親切に教えてくれますが、ああ、ここらはファミリユースなんだ、わしらが迷い込むところではないのだと改めて気づきます。
地図を持たぬ災いはてきめんで、本日も亦「くろんど池」に出てしまった。完全に銀座状態。ボートも多く出ていますが、この底がすり鉢状になった池で何人の土左衛門が出たことか。また、能のないバーベキューの悪臭が池全体を覆っています。「しまった!穂谷か高山に出るべきだった。」と思いますが後の祭りです。何処かのすっとこどっこいが「富士には月見草がよく似合う」等とキザなことを言いましたが、「山には軽トラがよく似合う。」。
高山溜池
私市駅までの下りは一瞬、途次月輪の滝などとたいそうな名が付いた滝がありますが、北山の毘沙門谷に入ってみなさい、この程度の滝ならばゴロゴロしてまっせ。けれども、そろそろ枚方市の「おらがそば」の串揚げタイムです。駅では枚方市行きの電車が待ってくれています。電車に乗っている間も一瞬でありました。
近代では女工哀史などが書かれていますが、古代では織女は女性の職業の花形だったのかも知れません。やはり、業平の奴も狙っていますネ。実際、ケシカラヌ奴です。確かに歌詠みは上手で、その点で歯が立ちませんが。
かつてはバスガやデパガやスッチー・・・などが花形として持て囃された時代もありましたが、まさに有為転変。最近の花形は何でしよう。美人過ぎる議員、なんてのも居ますが。
旧暦の七夕の7月6日は、現代では8月15日に該当するとか。お盆を迎え、そろそろ夏も過ぎ行く気配を見せる頃です。酒の旨くなる頃でもあります。そう言えば、今回の徘徊記に、酒関係の話が出て来ませんが・・・。「織姫の酌で飲みたや天の酒」道草
女性の職業、レースクイーンなどもありますね。先日レースクイーンからの食事の誘いを断ってしまいました。「もつ鍋」を食いに行くなどと言われたら本当に興ざめです。「そんなものを食うな」とメールで諭しましたが、その後は連絡無し。ちょっと、惜しかったかな等とも思っております(笑)。
飯森山へも登りましたが、この生駒山系の北端から眺める淀川方面の平野の姿は今は住宅密集地帯ですが、100年もさかのぼるとここからの景色はなかなかのものだったろうなあと思います。ぐうんとさかのぼると湿地帯も多かったのではと想像しますがどうなのでしょう。gunkanatagoさまの徘徊記を読ませて頂いていると、古代に思いが跳んでいたら急にたこ焼きや蕎麦・酒の世界に跳んだりと、ドラえもんになった気分で楽しませて頂けます。
京の貴族もこの辺りで遊んだようですが、彼らは織り姫に目が眩んでいて平地ばっかし歩いて、もしくは狩を楽しんでいたのでしょうが、山に登ってこの景色を楽しまなかったのかしら?
私市も随分と変わりました。星田園地には大きな吊り橋が造られて人を集めていますが、くろんど池までの道は最悪のものになりつつありますし、磐船神社周辺、もし国道163号線でしたか、通られる機会があれば「エーッ!」と思われるに違いないと思います。京阪奈丘陵開発の絡みで天野川上流部の北田原などが開発されたためですが、これらの地域は決して栄えているとは言えず、「小汚い田舎」になっただけだと思います。
惟喬親王は、桟敷ヶ岳に伝説があるくらいですから、山に登ることを提案されたとおもいますが、業平が横にいてはダメだったでしょうね。
今回の機物神社と七夕のお話楽しく見せて頂きました。して今昔の業平さまのお話も^^此方にも天田や天川の地名があります。隠れた七夕の伝説でもあればいいのですが、聞いたことないから無理と云うものです。
亀岡の情報、ありがとうございます。天田・天川、一度訪ねてみます。今日は葵祭ですね。池田の城跡では薪能が行われます。