本日は、何時も通っているところではありますが、八百八橋計画を始めてからは未だ意識的に通ったことがありませんでしたから、「八百八橋計画」ということを意識して歩くことにしました。
先ずは堂島川から分岐して北新地を流れ、再び堂島川に流れ込んでいた蜆川(曾根崎川)にあった橋の跡からです。橋の後の数字は、この遊びを始めてから通算で何個目の橋かを示します。
トップの写真は蜆橋(40)、かつてこの表示を店の看板で見えなくしていた心構えの悪い店は潰れ、新しい店が入っています。心がけの悪い店は、一時期栄えてもすぐにその終わりが来ます。ところで惜しいことに「しじみはし」となっていますね。「大阪にハシは無い」とよく言われるように正しくは「しじみばし」ですね。
そのまま蜆川の跡を四ツ橋筋までたどりました。途中で曾根崎橋というのもあったはずなのですが、この時は知りませんでしたので、また何かの折に探すことにします。
蜆川跡
御堂筋の向こう
途中にあるのが堂島薬師堂、「堂島」の語源にもなったお堂だといいます。今は、小生の知る中では最もモダンなお堂の一つです。堂島が堂島たる所以は北に蜆川が流れていたからです。まあ以前は中之島が二つ並んどったということですね。
四ツ橋筋で桜橋(41)の跡を確認します。この後、一本北側の道を御堂筋に戻りました。
大江橋(42・堂島川)は、淀屋橋(43・土佐堀川)と並んで、現在でも通行量の多い橋として知られています。市役所があることもあって、この辺りが大阪市の中心といって良いかも知れません。
大江橋
淀屋橋
淀屋橋を渡ってすぐ西のところに豪商淀屋の屋敷跡。その西にある散髪中のおっさんの像は今回は省略しました。
淀屋跡
御堂筋を東に渡り、土佐堀通を少し歩くと栴檀の木橋(44)、落語の「米揚げいかき」に名前だけ登場する橋です。その昔にはたもとに栴檀の木があったそうです。
本日は公会堂には立ち寄らずそのまま水晶橋(45)へ。有名な人道橋で、最近ではドラマの「ちりとてちん」のロケで有名になりました。ホントは主人公たちがこの橋に来る蓋然性というかそういうものは全く無いのですが。
水晶橋を渡り、東に歩いて鉾流橋(46)、天神祭の神事に関わる橋ですが、既に天満宮には神はおられぬと判断しましたので、詳しくは述べません。神社にいじめられた鳩たちは、この水辺に多く集まっているようです。ホームレスのオッサンたちが可愛がってパンくずなどを与えているようで、天満宮の神職たちと「人間のデキ」という点で比較したら、小生は躊躇無くホームレスに軍配を上げます。弱い者、小さな者はいたわってやらねばなりません。
神事の場
難波橋と天神橋は土佐堀川と堂島川の二つの橋をまたいでいます。ここいらに来ると中之島の幅が思いきり狭くなっているからです。というか、江戸時代の古地図を見ると、この辺りは未だ島になってなくて、二つの橋は大川をまたぐ一本橋ですね。以前、戦艦最上のマストがあったところには鉄のポールのようなものが建てられています。これは中之島自体を船に見立てて、そのマストということで建てられているようです。
天満側のライオン
薔薇園橋遠望
川に沿って少し進んだところに太平橋の欄干がかためて置いてあるところがあります。天満堀川に架かっていた橋ということですが、本日は架かっていた場所に行った訳ではありませんので、数には入れません。天満堀川も蜆川と同じく、いずれ川跡をたどろうと思います。一般には堀川と言われたそうです。
大河端には先ず天満の青物市場跡、堂島の米市場、鷺島の雑喉場と並んで三大市場といわれたやつでんな。
さらに天満の子守歌の碑、三十石舟の記念碑となんやかんやとあります。対岸の八軒家が伏見からやって来た舟の終着点でした。天満といえば子守歌ということで、あの「天満橋からお人形投げた」等という歌はそのつながりから生まれた歌なのでしょう。あのころはシャープばばあが「赤」だとは知らなんだ。というかあのころはばばあでも無かったですね。
今の八軒家
オランダ人技師デレーケの仕事を今に伝える将棋島粗朶水制跡の碑、大川の水が寝屋川に流れ込まないように長い突堤というかそういうものがここいらに造られていたそうです。こういうところは土木の専門家と歩かないとよく分からないですね。今、地図で見ると何となくそういうものが必要だったのかなとおぼろげながらに分かります。
対岸のOMMビル
天満橋の下をくぐってすぐに川崎人道橋(47)。その昔には「川崎の渡し」があったところとのことです。橋を渡る前に造幣局の南門に行きます。うー、未だに見せ物小屋がどの辺にあったのか思い出せない。恐怖のももちゃんにもう一度会いたいよー。てゆうか、生きていたら奇跡のももちゃん。普通だったら鬼籍のももちゃん(爆)。
川崎人道橋
こやつを渡った辺りが網島町で、心中天の網島の舞台です。何か大昔にウロウロしていたときに、この心中に関するものを見たような記憶があるのですが、今回は見つけることが出来ませんでした。本日は北新地が出発点ですから期せずして心中天の網島に沿った徘徊となった訳です。そういえば、この話の道行きも橋尽くしであったような。今、地図を見ると2人が心中した大長寺というのは桜宮橋よりもさらに向こうになりますね。その付近で何か見たのかも知れません。寺の位置が変わっていなければ、往時の網島というのはもっと広い地域を指していたことになります。この近くには大阪市の公館もあり、何やかんやと整備されている地域です。
網島の蓮 うてなの上に治兵衛と小春が乗っているかも
藤田伝三郎の屋敷跡は公園になっています。藤田伝三郎て、奇兵隊士だったのですね。銀行なんかは再編に再編が進んでどこが藤田組の後を受けたものか分からないようになっていますね。
京橋が近づいてきたので本日はここまで。今日で50はいくと思ったのに、いきませんでしたね。
京橋では毎度の丸一屋です。真っ昼間からの居酒屋の雰囲気は何とも言えず良いものです。できあがって大声を上げているおっさんもいないので、注文するとき大きな声を出さずに済みます。丸一屋のフライドポテトはじゃがいもをちゃんと切って揚げたものであります。おばちゃんの「にいちゃん、また来てや、また来てや。」という言葉を聞く度に古き良き大阪を感じます。師匠曰く「あのおばちゃんがええねんや」と。
お盆営業も素晴らしい
先ずは堂島川から分岐して北新地を流れ、再び堂島川に流れ込んでいた蜆川(曾根崎川)にあった橋の跡からです。橋の後の数字は、この遊びを始めてから通算で何個目の橋かを示します。
トップの写真は蜆橋(40)、かつてこの表示を店の看板で見えなくしていた心構えの悪い店は潰れ、新しい店が入っています。心がけの悪い店は、一時期栄えてもすぐにその終わりが来ます。ところで惜しいことに「しじみはし」となっていますね。「大阪にハシは無い」とよく言われるように正しくは「しじみばし」ですね。
そのまま蜆川の跡を四ツ橋筋までたどりました。途中で曾根崎橋というのもあったはずなのですが、この時は知りませんでしたので、また何かの折に探すことにします。
蜆川跡
御堂筋の向こう
途中にあるのが堂島薬師堂、「堂島」の語源にもなったお堂だといいます。今は、小生の知る中では最もモダンなお堂の一つです。堂島が堂島たる所以は北に蜆川が流れていたからです。まあ以前は中之島が二つ並んどったということですね。
四ツ橋筋で桜橋(41)の跡を確認します。この後、一本北側の道を御堂筋に戻りました。
大江橋(42・堂島川)は、淀屋橋(43・土佐堀川)と並んで、現在でも通行量の多い橋として知られています。市役所があることもあって、この辺りが大阪市の中心といって良いかも知れません。
大江橋
淀屋橋
淀屋橋を渡ってすぐ西のところに豪商淀屋の屋敷跡。その西にある散髪中のおっさんの像は今回は省略しました。
淀屋跡
御堂筋を東に渡り、土佐堀通を少し歩くと栴檀の木橋(44)、落語の「米揚げいかき」に名前だけ登場する橋です。その昔にはたもとに栴檀の木があったそうです。
本日は公会堂には立ち寄らずそのまま水晶橋(45)へ。有名な人道橋で、最近ではドラマの「ちりとてちん」のロケで有名になりました。ホントは主人公たちがこの橋に来る蓋然性というかそういうものは全く無いのですが。
水晶橋を渡り、東に歩いて鉾流橋(46)、天神祭の神事に関わる橋ですが、既に天満宮には神はおられぬと判断しましたので、詳しくは述べません。神社にいじめられた鳩たちは、この水辺に多く集まっているようです。ホームレスのオッサンたちが可愛がってパンくずなどを与えているようで、天満宮の神職たちと「人間のデキ」という点で比較したら、小生は躊躇無くホームレスに軍配を上げます。弱い者、小さな者はいたわってやらねばなりません。
神事の場
難波橋と天神橋は土佐堀川と堂島川の二つの橋をまたいでいます。ここいらに来ると中之島の幅が思いきり狭くなっているからです。というか、江戸時代の古地図を見ると、この辺りは未だ島になってなくて、二つの橋は大川をまたぐ一本橋ですね。以前、戦艦最上のマストがあったところには鉄のポールのようなものが建てられています。これは中之島自体を船に見立てて、そのマストということで建てられているようです。
天満側のライオン
薔薇園橋遠望
川に沿って少し進んだところに太平橋の欄干がかためて置いてあるところがあります。天満堀川に架かっていた橋ということですが、本日は架かっていた場所に行った訳ではありませんので、数には入れません。天満堀川も蜆川と同じく、いずれ川跡をたどろうと思います。一般には堀川と言われたそうです。
大河端には先ず天満の青物市場跡、堂島の米市場、鷺島の雑喉場と並んで三大市場といわれたやつでんな。
さらに天満の子守歌の碑、三十石舟の記念碑となんやかんやとあります。対岸の八軒家が伏見からやって来た舟の終着点でした。天満といえば子守歌ということで、あの「天満橋からお人形投げた」等という歌はそのつながりから生まれた歌なのでしょう。あのころはシャープばばあが「赤」だとは知らなんだ。というかあのころはばばあでも無かったですね。
今の八軒家
オランダ人技師デレーケの仕事を今に伝える将棋島粗朶水制跡の碑、大川の水が寝屋川に流れ込まないように長い突堤というかそういうものがここいらに造られていたそうです。こういうところは土木の専門家と歩かないとよく分からないですね。今、地図で見ると何となくそういうものが必要だったのかなとおぼろげながらに分かります。
対岸のOMMビル
天満橋の下をくぐってすぐに川崎人道橋(47)。その昔には「川崎の渡し」があったところとのことです。橋を渡る前に造幣局の南門に行きます。うー、未だに見せ物小屋がどの辺にあったのか思い出せない。恐怖のももちゃんにもう一度会いたいよー。てゆうか、生きていたら奇跡のももちゃん。普通だったら鬼籍のももちゃん(爆)。
川崎人道橋
こやつを渡った辺りが網島町で、心中天の網島の舞台です。何か大昔にウロウロしていたときに、この心中に関するものを見たような記憶があるのですが、今回は見つけることが出来ませんでした。本日は北新地が出発点ですから期せずして心中天の網島に沿った徘徊となった訳です。そういえば、この話の道行きも橋尽くしであったような。今、地図を見ると2人が心中した大長寺というのは桜宮橋よりもさらに向こうになりますね。その付近で何か見たのかも知れません。寺の位置が変わっていなければ、往時の網島というのはもっと広い地域を指していたことになります。この近くには大阪市の公館もあり、何やかんやと整備されている地域です。
網島の蓮 うてなの上に治兵衛と小春が乗っているかも
藤田伝三郎の屋敷跡は公園になっています。藤田伝三郎て、奇兵隊士だったのですね。銀行なんかは再編に再編が進んでどこが藤田組の後を受けたものか分からないようになっていますね。
京橋が近づいてきたので本日はここまで。今日で50はいくと思ったのに、いきませんでしたね。
京橋では毎度の丸一屋です。真っ昼間からの居酒屋の雰囲気は何とも言えず良いものです。できあがって大声を上げているおっさんもいないので、注文するとき大きな声を出さずに済みます。丸一屋のフライドポテトはじゃがいもをちゃんと切って揚げたものであります。おばちゃんの「にいちゃん、また来てや、また来てや。」という言葉を聞く度に古き良き大阪を感じます。師匠曰く「あのおばちゃんがええねんや」と。
お盆営業も素晴らしい
何よりも酒代申告制がおもしろいです。まあ、逆にそうされると客の方もごまかしにくいもので、なおかつ自分を信じてもらっているという気持ちもおきてきて、荒れた気分の人でも落ち着きますね。
兄の店は、丸一屋の向かいですか?全く認識していませんでした。次に行ったときはジーッと観察してみますね。
徘徊堂さん、なんという至言、金言でしょう。この言葉にひかれてもう一言、二言。
まず、食べろぐのコメントで秀逸なものをご紹介します(要約)
会社の出張で、大阪に来たら必ず立ち飲み屋へ行くという東京の人のコメント。
「大阪は、なにもなんば花月などへいくことはない。
大阪にはボケと突っ込みがそこら中にjころがっている。
とくに立ち飲み屋に行くとおやじと客、客と客の間でボケとつっこみがある。それもレベルの高いのが。
それを聞きながら、ニヤニヤ、飲むのが楽しい」(金賞)
岡室酒店は2軒ありまして、兄弟でやってますが、駅前の弟の店しかいってません。あるじ(弟)は同志社卒のインテリですが、いつも飲みながら客の相手をしてます。ノリのいい人です。
店の外から、今日は混んでいるな、やめようかと思っていると、ガラス越しにあるじが、笑顔でまっすぐこちらの目をみて、招き猫のように、右耳の横で手招きをします。熱い視線を送り続けます。男の熱い視線も、男の笑顔も趣味ではありませんが、いつも魅入られた者のように、ガラガラとガラス戸を開けてしまいます。
勘定はおあいその時、皿と酒瓶を見てアバウトに計算します。おでんやチュウーハイは「おでんは何でした、何杯飲みました」と聞きます。まあ一部申告制です。ゆえによくまちがえるらしい。ははは。
この人から聞いた忘れられない話。(なんでもここに来た国会議員から聞いた話とか)
小池百合子がなぜ国会議員になれたか。
オイルショックの時、日本は中東に交渉のパイプがなく困り果てた。第一、外務省にアラビア語が話せる人間の絶対数がたりなかった。(この事件の後、東京外大、大阪外大をはじめ、外大にアラビア語学科の新設、定員増をした)。
その困った時に小池の親父がエジプトでレストラン、バーの経営をしていて、中東の要人の間に強いコネクションがあった。それをつてに交渉ができたそうです。政府・外務省は小池におおいなる借りがある。小池百合子のバックボーンのひとつです。
マスコミには出ていない話とあるじは言っておりました。
こんな話が立ち飲み屋で聞けるとは!けっこう政治好きのあるじです。
兄の店は、丸一京橋店の道路をへだてて斜め前のようです。これも面白い店と評判で、またいつか行きたいと思っています。
といっても2~3年に1度の帰国ですからねえ。まあ、その時は暴飲暴食居酒屋ツアーですね。東京の赤羽、京成立石なども視野に入れ、現在、立案中です。(笑)
各地の丸一屋、昔はチェーン店だったようですが、創業者が死んでからは、弱い結合も無いようです。ですから、ミヨシ正宗があるのは京橋だけです。これにご記憶がなければ、浮舟様がいらっしゃってから大きく変わったと言うことになりますね。
成る程、言われてみればどこもかしこも「バシ」ですね。池田にあるのも「くれはばし」・「なかばし」・「きぬのべばし」・「ぐんこうばし」です。寧ろ「ハシ」の名の付いている方が貴重な感じがします。
公会堂、結婚式も見たことがありますが、宴会場も素晴らしいです。しかも格安です。しょうむないホテルでぼったくられるなら、公会堂がお勧めです。
堂島は中ノ島同様、島状態だったんですね。うかつにして、知りませんでした。
大阪にハシは無い。不思議な言葉ですね。ということは全部00バシという読み方であるということか・・
しかし東京もそうじゃないかな。地方も同じく。
思案橋、播磨屋橋、万代橋、数奇屋橋、アメリカ橋、ヌサナイ橋・・(歌謡曲関係)みんな00バシです。
逆に、ハシは三条大橋、瀬田の唐橋くらいしか思いつかない。他にありますかしら?夢の浮橋は和歌の中の話だし・・と20分ほど考えました(笑)
実は不謹慎ながらラスト3枚の写真に気持ちが集中しました。丸一屋の外観、内部、肴の見事な3点セット。さらに食べログで検索。行ったことあるではないか!
しかし味はもうひとつ、愛想も普通、見放した店です。(私が見放したら二度と行かないということです)
ですから、話が違うなあと、今度は、10分ほど考えました。おばさんもいなかったし・・、よくみると入り口の暖簾の上に綺麗な丸一屋のデコレーションなどなかった。私が2,3度行ったのは20年ほど前、たぶん経営者か、板前か、その両方とも代わった可能性があります。
謎がとけました(大げさな?いえいえ解けないと気持ち悪いんです)
今は岡室酒店ばかり。私、立ち飲みの方が好きです。もちろん昼酒大好き。なぜか?背徳の味がしてひときわ、美味しいんですわ。しかし、アルジェリア中学へは行かないよう気をつけています。??すみません。友達の間ではこう言ってました。アル中の隠語です。
昼間の居酒屋、見直しています。夜とはまた違って、デレンというか何かそんな雰囲気がいいですね。夜だと酒にがっついた感じも出るのですが、あくまでノンビリノンビリです。ただその分徘徊の時間が短くなりますし、帰宅後もまた飲むということでアル中への道まっしぐらです。
蜆川、まだ四ツ橋筋より西がたどれていません。堂島掘割(堂島川から大阪駅に直結していたとのこと)等、新しいことがどんどんと出てきます。
阿倍野、一部の地域には変に詳しい(爆)のですが、帝塚山などはほとんど未知の地域です。
蜆橋は夜呑んで何回も通っているのに全く知りませんでした。曽根崎心中を人形浄瑠璃で見て、「梅田の橋を鵲の橋とちぎりていつ迄も我とそなたは女夫(めおと)星、、、」の近松さんの名調子、その道行き場面にいたく感激し、自転車で辿ってこのレリーフを見つけたものです。蜆川の跡を辿るべく江戸時代の地図をさがしたり、ネットのあちこちの頁を見まくりました。ところで新地で最後に呑んだのは何時のことやろう、あぶく銭を得たら一回散財してみたいものです。あそうそう、新地は昼に行ったらあきまへん。ネオンが灯ってから行くもんでんな。
私事ですが、先日久しぶりに浪華の夜を少し歩きました。ミナミは御堂筋から三寺筋を西へ入ったとこにあった店や船場センタービル地下にあった懐かしい店を探したのですが両方とも今は無し。店主の年齢から考えてさもありなん、まあ五分五分かなと微かな期待を抱いていたのですが、寂しい思いをしたものです。ゼー六はちゃんと息子が後を継いで健在でした。
昼間の呑み屋の雰囲気はなかなかのもんでっしゃろ^o^ よっしゃ、俺も今度浪華にいったら日の暮れんうちに一杯呑みに行ってこましたろかぁ~。優雅やろうなあ~。(これってほんまの大阪弁やろうか?)
大阪の町もこうして歩いてじっくりキョロキョロしたらいっぱいありますね。このシリーズの次も楽しみです。gunkanatagoさんは空堀止まりでしょうけど、そこから上町台地を南へ阿倍野や帝塚山辺りまで下ってみてもいろいろありますよ。
ああ、懐かしや
お祖父さんが浄瑠璃を呻っておられたのですね。うちでも祖父が何や分からん謡曲を呻っていました(笑)。探せば、2、3冊は出てきそうです。我々の世代は本当に芸無しで、また近所にそういうのを教えてくれる人もいません。新地が盛況ならまた事情も違ったと思います。
丸一屋、信貴山の帰りに行きましたね。あの時は、もう夜だったから酔っぱらいの声がうるさかったですね。最近、真っ昼間の居酒屋の雰囲気がいいなあと思っています。アル中への道まっしぐらです。
堂島川はアクアライナーで、風が強い日で、顔がぱしぱしになりました。
心中天の網島、祖父がうなっていました。
見たようなとは、もしかして霊感がおありなのでしょうか。
京橋の丸一屋さんは信貴山の帰りにみんなで行った所でしたかしら?分厚いフライドポテト、美味しそう♪
御堂筋の向こう、失礼しました。蜆川の跡である道があるよーというだけです。桜橋の道標の近くの斜めの建物は多分堂島アバンザビルの地下駐車場への入り口です。
大阪も落書きは多いです。アメリカ村などでは店のシャッターにやられるので、困り果てているようです。消すとすぐに描くということでいたちごっこになっているようです。厳罰化が必要だと思います。
最初から3枚目の写真「御堂筋の向こう」というのが、御堂筋に詳しくないものにとっては、「エッツ! 何があるの?」、目を皿のようにして、じーっと見ても解らない。
更に、「堂島薬師堂とはいったい何?」と思い、コメントを書く前に検索してしまいました。お薬師さんなのですね。時代の要求なのでしょうか、大阪が進み過ぎなのでしょうか、古い人間なのでやはりそれなりのもののほうが、、、
そして、その下の桜橋の写真に写っている驚天動地のような建物は、何処かに通じている地下道への入り口なのでしょうか? それとも半分地下に埋めてあるように建築された建物? 岐阜県にそのような広大な施設があったような???
鎌倉市の落書きを消して回っている友人がいます。その人に「京都や大阪を歩いてますが、あまり落書きを見かけません。」と言ってしまいましたが、先回も写真にしっかり落書きが写ってまして、今回もありますので訂正しないとならなくなりました。
ご意見として、どうでしょうか? 落書きは多いですか? 話を通しますと、きっと突っ込まれますので、今度教えてください。