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師匠曰く、「園田はオモロイでー」と。この方面の緻密なる徘徊は、いずれ師匠主催で行われることは必定ですが、大阪に本を受け取りに行ったついで、思いつきでちょっとウロウロしてみました。
いつもなら、本屋の後そのまま池田に直行して、たこ焼きとなるのですが、考えてみればたこ焼きを食うてからの行動が定式化してきている。ここは、徘徊してから池田に行く方が合理的なのではと足りぬ頭で考え、そのときにふと師匠の言葉を思い出したのです。
さて、園田駅に降り立ったものの、この駅も随分と変わりました。駅の北に行くことは決めていたのですが、どこをどういけば良いのか全く解りません。けれどもさすがにさすが、徘徊ばかりをしていますとニオイというかそのようなもので進むべき道が分かるのです。今回も駅前の商店街を真っ直ぐに進んだところ、ありましたありました、師匠に伺った道標です。
江戸時代に歯の神様として近隣に鳴り響き、「講」まで作られて信仰を集めた白井神社への道標です。碑を建てた人の名前だけでなく、周旋人の名前まで載っている珍しいものですが、建立は大正5年で、そう古いものではありません。
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よし、この道標の示すままに進もう。このニオイで道を探ることは山中でもよくやることです。どれが道なのか分からなくなっても前方をよく注視すると進むべき道が浮き上がってくる。時々、ウソの道が浮き上がってきてエライ目に遭うこともありますが、まあ概ねこれでいける。
白井神社の御祭神は天天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)、天照大神の岩戸隠れの際に、少しのすき間を開いて大神を岩戸から引き出した神で、その名の通りの怪力神です。今の神社は江戸時代の大流行を偲ぶことはできません。社殿は慶長2年のものと書いてありましたが、覆い堂にすっかりと隠されていて見ることは出来ません。
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屋根には立派な鬼瓦が上がっています。
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木々が白井神社鎮守の杜
白井神社のすぐ西の通りこそが古い道だと見当をつけて、しばらく進みましたが、あえなく行き止まり、街道でも何でもないようです。「ニオイでー」というのも我ながら眉唾。さてさて、どうすべえと考えていますと向こうに堤防が見えます。ひとまず堤防に上がってみました。
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猪名川に出ました(どこを見ても猪名川と書いてありますが、今、地図によって確認すると藻川の堤防です。この辺り国土交通省の頭では猪名川が平行して二本流れているらしい。)。はるか北方、たこ焼きを食いに行くべき池田まで見えています。「よし!このまま進もう。いざとなれば池田まで歩けばよい。」と堤防を進みます。幾らか進んだときに、この堤防沿いに九州からの移民集団が集住した処があるのを思い出しました。邪馬台国東遷説の根拠、神武東征の根源、ということで近くにあるらしい船詰神社は諦めて堤防沿いに進みます。
ところが、写真で見えている橋まで進んだところ、堤防をプロムナード化する工事とやらで、行き止まりとなり堤防から下りるはめになりました。結果としては、それがよかったのです。そこからは堤防を一旦大きく離れ、迂回して堤防に近づきます。実は藻川の堤防を離れ本当の猪名川の堤防に近づいていたのです。ニオイニオイ。そのまま、いつの間にやら尼崎の農業公園に紛れ込んでいます。
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和製ラビアンローズ
バラのことは何も知りませんが、農業公園の方に道を教えて貰うと「堤防に上がり、橋を渡ればよい。」とのこと、何か覚えている地形と方向が逆のように感じるけど、まあいいか。堤防沿いに田能村大和守の碑と三つ俣井という河水導入口の記念碑を見つけました。「犬は歩いて棒に…」と申す処ですが、まあこれももういいか。
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応仁の乱直前に、田能村の国人であった大和守と原田庄の間に水争いがあり、原田庄の領主であった興福寺が守護に圧力をかけて大和守を攻め、残念ながら大和守は没落するということがあったようです。その他、農業公園の中にも江戸時代の水害の犠牲者を供養する立派な宝筺印塔がありました。この碑、「溺死」の文字がちぃと怖い。世の中、知らんことだらけやなあと申す処。三つ俣井は、この辺りから田能の田畑を灌漑するための用水路に猪名川の水が導入されていたようです。
さて、橋を渡ったところが「田能遺跡」、すなわち九州からの移民が多く住んだであろう弥生時代の遺跡です。けれども、説明板を読むと紀元前200年頃から約500年にわたる弥生の村であるということですから、まあどこかの時点で九州の文化がとりいれられるようなことがあったということでしょう。住居のすぐ近くで甕棺墓が幾つも発見されています。
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小生が高校生であったころ、突然校長室に呼ばれたことがありました。ちょっと緊張して入っていくと校長先生が、「君ね、席次ね、366人中365番、ブービー賞おめでとう。」と言って、村川行弘先生の『田能』『大阪城』という本をくれました。この本に牽かれて田能を訪れて以来ですから、前の来訪からはもう何十年もたってしまいました。当時の小樹は大樹となり、遺跡公園全体がちょっと暗くなった感じもします。村川先生は此の本の印税もそっくり田能の発掘につぎ込まれた方です。我が校長先生と村川先生は友人だったそうです。資料館は明年3月末まで休館とのことでした。
田能遺跡からは阪急の曽根駅を目指しますが、これがずっと豊中市の下水処理場やゴミ処理場の横を通る道で本当に歩いているのは小生だけです。車の往来は賑やかですが、挨拶を交わす人はなく、一種秘境化している感じです。それでも歩く功徳は大きく、植木見本公園というけったいな公園を見つけました。
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植木になりそうな様々な樹木が植えられていて、名前がきちんと記されています。もうちょっと丁寧に見れば良かったのですが、そろそろ飢えてきていたので先を急ぎました。また、歩く植物図鑑を連れてこよう。曽根駅に到着後は、大塚古墳などに後ろ髪を引かれましたが、腹の虫には勝てず、電車で池田に。
池田でのたこ焼き、本日はいつもよりきれいに焼けた感じがします。平成22年の焼き納めかな(追記、平成23年1月2日に初焼きをしました)。
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たこ焼きを食い、次は「うどんだ!」と吾妻に向かうと本日はお休み、このところ縁がありません。酔っぱらいを相手に五月山がにっこりと微笑んでおりました。
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仕方がない、どこかで飲み直そう。最近贔屓にしている高槻の「たちよりや」、この店からは「するめ」のテンプラが消えてしまいました。何てぇヤツだ。けれどもけれども、それこそニオイで、するめのテンプラを置いている店を近くで発見して、最近は通っているのです。
いつもなら、本屋の後そのまま池田に直行して、たこ焼きとなるのですが、考えてみればたこ焼きを食うてからの行動が定式化してきている。ここは、徘徊してから池田に行く方が合理的なのではと足りぬ頭で考え、そのときにふと師匠の言葉を思い出したのです。
さて、園田駅に降り立ったものの、この駅も随分と変わりました。駅の北に行くことは決めていたのですが、どこをどういけば良いのか全く解りません。けれどもさすがにさすが、徘徊ばかりをしていますとニオイというかそのようなもので進むべき道が分かるのです。今回も駅前の商店街を真っ直ぐに進んだところ、ありましたありました、師匠に伺った道標です。
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江戸時代に歯の神様として近隣に鳴り響き、「講」まで作られて信仰を集めた白井神社への道標です。碑を建てた人の名前だけでなく、周旋人の名前まで載っている珍しいものですが、建立は大正5年で、そう古いものではありません。
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よし、この道標の示すままに進もう。このニオイで道を探ることは山中でもよくやることです。どれが道なのか分からなくなっても前方をよく注視すると進むべき道が浮き上がってくる。時々、ウソの道が浮き上がってきてエライ目に遭うこともありますが、まあ概ねこれでいける。
白井神社の御祭神は天天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)、天照大神の岩戸隠れの際に、少しのすき間を開いて大神を岩戸から引き出した神で、その名の通りの怪力神です。今の神社は江戸時代の大流行を偲ぶことはできません。社殿は慶長2年のものと書いてありましたが、覆い堂にすっかりと隠されていて見ることは出来ません。
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屋根には立派な鬼瓦が上がっています。
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木々が白井神社鎮守の杜
白井神社のすぐ西の通りこそが古い道だと見当をつけて、しばらく進みましたが、あえなく行き止まり、街道でも何でもないようです。「ニオイでー」というのも我ながら眉唾。さてさて、どうすべえと考えていますと向こうに堤防が見えます。ひとまず堤防に上がってみました。
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猪名川に出ました(どこを見ても猪名川と書いてありますが、今、地図によって確認すると藻川の堤防です。この辺り国土交通省の頭では猪名川が平行して二本流れているらしい。)。はるか北方、たこ焼きを食いに行くべき池田まで見えています。「よし!このまま進もう。いざとなれば池田まで歩けばよい。」と堤防を進みます。幾らか進んだときに、この堤防沿いに九州からの移民集団が集住した処があるのを思い出しました。邪馬台国東遷説の根拠、神武東征の根源、ということで近くにあるらしい船詰神社は諦めて堤防沿いに進みます。
ところが、写真で見えている橋まで進んだところ、堤防をプロムナード化する工事とやらで、行き止まりとなり堤防から下りるはめになりました。結果としては、それがよかったのです。そこからは堤防を一旦大きく離れ、迂回して堤防に近づきます。実は藻川の堤防を離れ本当の猪名川の堤防に近づいていたのです。ニオイニオイ。そのまま、いつの間にやら尼崎の農業公園に紛れ込んでいます。
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和製ラビアンローズ
バラのことは何も知りませんが、農業公園の方に道を教えて貰うと「堤防に上がり、橋を渡ればよい。」とのこと、何か覚えている地形と方向が逆のように感じるけど、まあいいか。堤防沿いに田能村大和守の碑と三つ俣井という河水導入口の記念碑を見つけました。「犬は歩いて棒に…」と申す処ですが、まあこれももういいか。
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応仁の乱直前に、田能村の国人であった大和守と原田庄の間に水争いがあり、原田庄の領主であった興福寺が守護に圧力をかけて大和守を攻め、残念ながら大和守は没落するということがあったようです。その他、農業公園の中にも江戸時代の水害の犠牲者を供養する立派な宝筺印塔がありました。この碑、「溺死」の文字がちぃと怖い。世の中、知らんことだらけやなあと申す処。三つ俣井は、この辺りから田能の田畑を灌漑するための用水路に猪名川の水が導入されていたようです。
さて、橋を渡ったところが「田能遺跡」、すなわち九州からの移民が多く住んだであろう弥生時代の遺跡です。けれども、説明板を読むと紀元前200年頃から約500年にわたる弥生の村であるということですから、まあどこかの時点で九州の文化がとりいれられるようなことがあったということでしょう。住居のすぐ近くで甕棺墓が幾つも発見されています。
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小生が高校生であったころ、突然校長室に呼ばれたことがありました。ちょっと緊張して入っていくと校長先生が、「君ね、席次ね、366人中365番、ブービー賞おめでとう。」と言って、村川行弘先生の『田能』『大阪城』という本をくれました。この本に牽かれて田能を訪れて以来ですから、前の来訪からはもう何十年もたってしまいました。当時の小樹は大樹となり、遺跡公園全体がちょっと暗くなった感じもします。村川先生は此の本の印税もそっくり田能の発掘につぎ込まれた方です。我が校長先生と村川先生は友人だったそうです。資料館は明年3月末まで休館とのことでした。
田能遺跡からは阪急の曽根駅を目指しますが、これがずっと豊中市の下水処理場やゴミ処理場の横を通る道で本当に歩いているのは小生だけです。車の往来は賑やかですが、挨拶を交わす人はなく、一種秘境化している感じです。それでも歩く功徳は大きく、植木見本公園というけったいな公園を見つけました。
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植木になりそうな様々な樹木が植えられていて、名前がきちんと記されています。もうちょっと丁寧に見れば良かったのですが、そろそろ飢えてきていたので先を急ぎました。また、歩く植物図鑑を連れてこよう。曽根駅に到着後は、大塚古墳などに後ろ髪を引かれましたが、腹の虫には勝てず、電車で池田に。
池田でのたこ焼き、本日はいつもよりきれいに焼けた感じがします。平成22年の焼き納めかな(追記、平成23年1月2日に初焼きをしました)。
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たこ焼きを食い、次は「うどんだ!」と吾妻に向かうと本日はお休み、このところ縁がありません。酔っぱらいを相手に五月山がにっこりと微笑んでおりました。
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仕方がない、どこかで飲み直そう。最近贔屓にしている高槻の「たちよりや」、この店からは「するめ」のテンプラが消えてしまいました。何てぇヤツだ。けれどもけれども、それこそニオイで、するめのテンプラを置いている店を近くで発見して、最近は通っているのです。
園田は、高校の同級生が大学に進学して下宿していた土地です。一度、泊まりに行ったことがありますが、私には単にそれだけの記憶に止まっております。その友人は、卒業して就職した年の秋に亡くなりましたが。
白井神社なるものが歯で有名だなどと、まるで知りませんでした。この神社は、天照大神に所縁があるとの由ですが、相当な由緒があるのでしょう。
京都の岡崎(疎水)の近くにも日向か日吉かそんな名称の神社があり、天岩戸なる物がありました。中へ入れますけど、直ぐに出てしまう狭い洞穴でした。南禅寺へ抜ける細道の途中です。
また、田能村の地名は、田能村竹田に関係あるのでしょうか。幼稚な質問で笑われそうですが・・・。
それにしても、ブービー賞をくれる校長は立派です。そんな教育者があればこそ、今の徘徊堂さんの存在が分る気がします。最後のたこやきの味も格別だったことでしょう。そして、初たこやきも済まされたとのこと、改めておめでとうございます。「たこやきの匂い床しき徘徊記」道草。
白井神社は道標では「はかみ=歯神」と記されていますが、江戸時代には、それはもうすごい人気だったそうです。タヂカラオが主祭神として祀られているのも珍しいです。一度、詳しく調べてみたいと思うお社です。
日向(ひむかい)さんは、大文字山に登るときに、よく通りました。あの山中にもの凄く立派な社があって、しかも人が殆どいないということに奇異の感を覚えるところですね。
尼崎市の田能と田能村竹田は、遠い先祖のことはさておいて、直接のつながりは無いように思われます。
昨年は、暮れにはもうひとつウロウロしましたが、まだ整理が出来ていません。師匠が京都で面白いところをたくさん見つけておりますので、また宜しくお願い申し上げます。
さてさてどんなルートを歩かれたのかしらと地図を見てましたら、国土地理院はちゃんと藻川と表記していますよ。藻川と猪名川との中之島に園田はあるのですね。昔は沢山の川が流れていたはずですし九州から移住してくた人が住み処として選ぶのも頷けます。でも水を巡って水害対策や水利争いも絶えなかったと想像します。伊丹から千里山方面にはため池も多いですね。というか宝塚から大阪平野の北辺を山裾に沿って池が多いですね。ということは昔は海岸線は今よりももっと北方にあったのではないでしょうか?そういう意味では園田なんかはほぼ海岸線に近かったのではないのでしょうか?
あれれコメントが良からぬ方向へ進みそうです。それにしてもニオイで進むとはまさに達人の域に達しておられるニオイがいたします。
自分でお好みに焼くのいいですね。キレイに焼けていますよ♪
今から考えると、藻川は藻川で国土交通省の「猪名川土木工事事務所」あたりが管轄してプロムナード工事をやっていて、看板にしきりに「猪名川」と書いてあったので、釈然としないながら猪名川だと思い込んだようです。結果として、工事をやってくれていて正解で、あそこで堤防を下りなければ、そのまま伊丹・川西方面へと進んでいたはずです。
尼崎というのは、つい最近までは「大物くずれ」ぐらいしか興味もなかったのですが、このところ、ちょっと頑張って歩いてみようという気になっています。
ため池、昔はもっと多くありました。多くが埋め立てられて、その上に建て売りの家が建って、何も知らない人がそれを買って、何となく家が湿気ていてという話を池田で聴いたことがあります。
ウソを言うかも知れませんが、弥生文化は北九州が本家です。縄文文化は関東以北ということで、近畿地方はむしろ後進地域でした。その後進地域に米作と金属器を携えた人たちが大量に移住してきた時期があったようです。神武天皇の東征説話などは、これを反映してると考えられますし、邪馬台国東遷説もそのような考古学的裏付けが背景になっています。
やがて、奈良県の桜井市纒向遺跡の首長層を中心に連合国家大和が誕生して、新たに生じた前方後円墳文化を全国に伝えていったようですが、この遺跡も九州からの九州からの移住者による遺跡です。