花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

高山一見

2013年03月11日 | 徘徊情報・摂津国
 本日は、師匠のお供をして大阪府の豊能町の高山というところを廻ります。位置的には豊能町というよりも箕面の奥と言った方が判りいいところです。千里中央からバスが出ているそうですが、基本的には車でないとちょっと辛いところです。
 先ずは池田市から摂津丹波街道=摂丹街道を北上します。久安寺という寺の門前のうどん屋で昼食を摂りましたが、ものすごく流行っています。この辺りや目的地の高山なども昔は自転車でよく廻ったところです。あのころは1日に180キロなんてことを毎週やっていました。その折にもよく入ったうどん屋なのですが、こんなに流行っていたかなあ。
 摂丹街道から高山に入る分岐まで以前は何もありませんでしたが、今は森町なるニュータウンが開発された関係で、有料トンネルなどもできています。高山に入る道は、昔自転車で命がけで下ってきたころと何も変わっていません。ただ、そのころは距離を稼ぐことばかりを考えていて、途中で見るべきものなどは全く見ていませんでした。
 摂丹街道から分かれてすぐのところに「川尻向山地蔵石仏」(トップの写真)、その隣に宝篋印塔。18世紀初頭のものだそうですが、石仏の方は非常に古い時代の名残があるとのことです。



 摂丹街道から高山へは明田尾山の山麓を一気に登ることになります。同じ山中ですが、高山に入ると大変寒く感じられます。高山の入り口付近に車を停め、マリアの墓に行きます。これは自転車で来ていたころにも訪ねたことがあります。今とは違い、親切な標識が全く無かったので、見つけるまでにものすごく時間がかかりました。
 けれども今回久しぶりに訪ねてみて、自分の記憶のあいまいさということを強く感じました。小生が覚えていた墓の姿は、蒲鉾型の典型的な切支丹墓石であったのですが、現実に目の前にあるのは普通の門徒の墓。どこぞで見た切支丹の墓とこことがグチャグチャになっているようです。



 この墓は享保年間の二組の夫婦の墓で、墓石は3つが並んで置かれ、木の裏にもう一つがあります。マリアの墓と呼ばれる所以は、この二組の夫婦が高山の隠れキリシタンの最後の生き残りであったのではという推測にあるのですが、説明としては少ししんどい気もします。高山という土地なればこそ、この墓が切支丹墓といっても通るのでしょうが、他の地域だったら「何ゆうてんねん!」と言われるでしょう。

 高山マリアの墓のある尾根から降りてくると、明田尾山がすぐ近くに見えます。西の川西市の方から見ていると壁のように屹立している山ですが、さすがにここから見ると頂上が近い。



 さらに高山内部に入り、住吉神社に向かうと棚田の広がりが見えました。またいずれ、上まで行って下を見下ろさねばなりません。



 住吉神社は奥の深い立派なお社でした。この鳥居は元禄時代のもの。非常に古いです。鳥居に比して額が大きすぎる感じですが、これはかなり後から付けたものではないでしょうか。





 境内にはこの神社がもともとは八坂神社であったことを示す燈籠が幾つかありました。明治初年に住吉さんに変わったものと思われます。



 今は天神さんをお祀りしているお堂も謎です。もともとは何であったのでしょうか。



 住吉神社からさらに入って高山の中心部と思われるところには黄色い立て札。昔、よくパンを買った店は閉まっていました。当時、ローラ=インガルス=ワイルダーの「大草原の小さな家」に出てくるよろず屋の名を取って勝手に「オルソンさんの店」と名付けていた店です。



 黄色い看板でお気づきになったように、この高山は有名な切支丹大名であった高山右近の苗字の地です。ここで成長した高山氏がやがて高槻に進出、主人であった和田氏を滅ぼして高槻を手に入れたところで織田氏の上洛という状況に出会う訳です。
 小生も昔は高山右近に対して良心に満ちあふれた苦悩する戦国武将のイメージを有していましたが、切支丹にかぶれ、この地域の寺社を概ね全て焼き払った行為を知り、「ちょっと待てー」という気持ちになり、今は最低の評価をするようになりました。右近が高槻を去って明石に行った時には、この地域の人間は皆々「ほっ」としたに違いありません。同じようにマニラに追放された時には、明石の人も喜んだことでしょう。この地域の寺社では「高山氏の劫火」は今もなお忌まわしき思い出として残っているように思われます。これを家庭の話に置き換えれば、新興宗教にかぶれたドラ息子が家の仏壇も神棚も全部壊してしまって…ということになります。往時のバテレンどもには嬉しい人物には違いありませんが、機嫌良く暮らしてきた普通の人々には迷惑この上ない。言ってやろう、「立派な武将であるもんか」と。

 その看板と道を挟んで向かいに「妙見道標」、その横の道を入って「高山城」の方に向かいます。



 高札場の跡には復元された建物が建っています。中には太政官布告が記されていましたが、レプリカにしてもよくできたものです。





 力石は全部で4つあると説明が為されていましたが、今見られるのは二つだけでした。誰かが漬け物石として持って帰ったのかも知れません。



 古い寺からさらに坂を登ったところに右近生誕地の碑がありました。この場所は神社の境内につながっています。





 この辺りの家は高山氏の一族か重臣だった人の子孫でしょう。高山右近が明石で改易され、マニラに追放されてから戻ってきた人も多くいたことでしょう。そのうちの一軒には立派な井戸がありました。



 まあ殆どの人は碑を見て終わりやでーと考えたのか、ここから奥は一切の案内・看板もありません。「この辺とちやうかなー」と師匠の地図を便りに高山城祉らしきところまで登りました。堀切などが全く確認できなかったので、甚だ心もとないことではあります。後で師匠の地図を見ると、寺の辺りが本丸で、登ってきたところは砦に過ぎぬかも知れないということが解りました。


高山の里を見下ろす

 城跡から戻り、車に乗ります。まだまだ見るべきものがあるはずだったのですが、案外と車を停められる場所も少なく、そのまま勝尾寺の前に出て、山を下ってしまいました。まあ第1回探査はこのへんでというところ。

 アルコールタイムには少し早いので為那津比古神社に参拝しました。池田市の居古太神社に祀る猪名津彦は東漢氏の祖である阿智使主であるとするのに対しこちらは為那津比古・為那津比売を併置して祀ることから一帯の地主神というか、地域の豪族の先祖神というか、そういった神を祀っています。





 境内には並河誠所の式内社証明碑もありました。横の碑には徳川吉宗と大岡忠相の事績と記してありますが、それのみを記して誠所に一言も触れていないのは何か軽薄な感じもします。天神さんの牛は黒光りしていました。「大岡越前」等のテレビのみを見ていた宮司さんが善意にせよ最も大切なところを落としてこれを「史実」としてしまう。昔も、合巻などの通俗小説ばかり読んでいた宮司さんが、そこに記載されていることを「史実」と堅く信じ込んでしまって神社の縁起などに取り入れる。それが代々受け継がれて本当に史実であったかのように固定されていくということは多くあったと思われます。武将が祀られている神社の伝承の多くは江戸時代のフィクションである『前太平記』や『前々太平記』に由来しているようです。閑話休題。
 それにしても高山は寒かった。ここで車を降りた時と高山でのそれとは10度ぐらい違う感じでした。





 車を置いた後、「おかえりなさーい」の店で飲みました。寒いところを徘徊してきたので熱燗のうまさが身体に染みわたります。


6 コメント

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摂津 (mfujino)
2013-03-12 19:32:38
gunkanatagoさん、高山ですか。初めて聞きました。師匠も含めてこの界隈はお庭と拝見しました。自転車で180kmは相当なものですね。

この辺りは箕面から高槻まで歩いたとき、キリシタン道の看板を見た様な。また車作りという地名に興味をもったことでした。平安京の牛車はここで作られていたと説明されていたと記憶しているのですが。

亀岡から川西に抜ける423の川西側はどんどん宅地が造成されてきていますね。新御堂へと抜けるトンネルも完成してますます大阪圏になって行くことでしょう。

477の妙見山あたりには山桜がめっちゃきれいに咲き誇るところがありますが、ご存じですか?

神社の由緒書きの細かい点はまず疑って掛かった方がよさそうですね。何でも我田引水、権威付けにご苦労さんと声を掛けて上げるべきでしょう。
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魑魅魍魎の世界。 (道草)
2013-03-13 09:31:52
高山右近は確か吉川英治が小説に書いていたと思うのですが、どうですか。いずれにしましても、右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったかも知れませんが、氏子や仏教徒にとっては暴君以外の何者でもなかったのでしょう。彼らにとっては、神の子どころかまさに悪魔の使徒だったのかも知れません。

フロイスですか、キリスト教徒側からは功労者として評価しているみたいですけど、立場によっては意見は正反対にもなるのは世の習いでしょうか。

右近は追放先のマニラで死んだのですか。家族は帰国を許されたとの由ですが、やはり肩身は狭かったのかどうか。ただ、高山家としては残っているみたいですが。

何にしましても、キリスト教でもイスラム教徒でも仏教徒でも神道家でも、その従事者は所詮は人間です。正邪入り乱れて正行悪行も輻輳して、まさに魑魅魍魎の世界に思えます。師匠やguさんがいずれかの御信徒様なら深謝ですが。
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キリシタン歴史歩道 (gunkanatago)
2013-03-13 13:55:39
 mfujino様、コメントをありがとうございます。ご覧になったキリシタン道は多分茨木市の歴史歩道だと思います。それにしても行かざる所無しですね。京都国立博物館の庭に展示されているキリシタンの墓は典型的なものですが、これは茨木の山奥にあったもので村の若い衆が力石代わりにしていたとか。
 車作は小生もよく通ったのですが、深夜の一時頃に公民館で何やら集会が開かれていたことがあり、「おお、隠れキリシタンがいよいよ蜂起するのか」等と思ったこともありました(爆)。牛車を作っていたとは、その大分後で知りました。
 477の桜の名所は妙見山の登山口から倉垣に行く途中でしょうか。このところ、6・7年ぶりに歌垣山に登ろうかなと思っております。神尾山城も宿題のままになっているので何とかこの2つをつなげられないかなと思っています。
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宗教ヒステリー (gunkanatago)
2013-03-13 14:09:05
 道草様、コメントをありがとうございます。今朝方もキリスト教のおばはん連中(例の輸血を認めない一派です)が集団で家にやって来ましたので、人様の安穏な生活の邪魔をせず家で寝てろとたしなめました。連中は「いいこと」をしているつもりだからたちが悪いですね。
 十分に宗教的ということでは、共産党とその下部組織である九条の会などもそうだと思います。端からみたらものすごく恥ずかしいのに自分たちは正しいことをしていると洗脳されてしまっているのでやはりたちが悪いです。
 いずれにせよ、これらの上部にはふんぞり返って金を勘定している連中がおるわけで、そういう点では自然界のあらゆるものに精霊を感じて、たまに神社に10円程度のお賽銭を入れておくのが一番健全かなと思います。
 フロイスなどに言わせたら豊後の大友義鎮なども名君中の名君です。大友氏の家来には立花道雪など好きな武将も多いのですが、トップはアホでした。
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近くかな? (ささ舟)
2013-03-15 14:13:28
今回の徘徊地高山を地図で確かめましたら、止々美に近いのですね。それに勝尾寺に行く時に摂丹街道からそれて山中を走りました。地図で見る限り、高山の辺りを通ったのかしら?止々美は、前に枇杷の話をしたかもわかりませんが、ここの枇杷は日本一だと私は思うほど美味しいかったです。(過去形で、主人がいた頃よく買いに行きました。)普通の枇杷の形ではなくどちらかといえば富有柿のような形でした。枇杷は淡白なものですが、ここのは濃厚で色も濃い。当時お中元はこれにきめていたほどでした。現在のことは判りません。
私は行きませんが止々美城跡も行っていたようです。
高山城跡は堂だったか・・・。
先日は池田の「ひばり」さんに寄ってきました。ママさんともお喋りできました。お嬢さんでしょうか、タカラジンヌのようですね。また嵐山のねぎ焼「のむら」も行って来ました。しっとりしたいいお店ですね。ありがとうございました。
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ありゃりゃ! (gunkanatago)
2013-03-15 16:35:04
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。さっすがー!ご主人の足跡の及ばぬ所はありませんね。きっと、明田尾山にも登っておられると思います。この近くが枇杷の産地であったとは全く知りませんでした。
 タカラジェンヌ?お孫さんでしょうか?ついこの間まで小学生だと思っていたら今は中3とのこと、あっと言う間です。このすぐ近くには本物の元タカラジェンヌがやっている喫茶店がありました。日曜日などカウンターには朝からおっさんが鈴なりでした。
 ねぎ焼き、行かれたのですね。名前を名乗っていただいたらよかったです。お店に今からお知り合いが行きまーすとメールをうっていて、ねぎ増量特別サービスをしてもらう予定でした。夜にお店からどうも来られなかったみたいとメールをもらい、「?」と思っていました。これは事前にささ舟様に知らせなかった小生のミスです。次回行かれる時にも先ず小生にお知らせ下さいね。団子を付けてくれるかも(笑)。
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