その地域に住んでおられる方々にとって、至極当たり前のことでも他の地域に住む者には「えっ?」と思うことがたくさんあります。師匠にいただいた資料を眺めていて、「えっ?」と思ったのは大阪市内に渡船が残っているということ。よく知られた「源八の渡し」跡など、「跡」というのは随所に見られますが、現実に「船が出るぞーい。」の世界が残っていようとは知らなかった。
大阪市民でも、北の方の旭区や都島区、城東区や東淀川区の人たちなども普通は知らないのではと思われます(そんなことはない、呑気なのはお前だけだという人もおられるでしょうが)。「これは早速、行かなくてはならない。」と2つばかり、渡ってきました。渡船場は全部で8ヶ所有ります。
本日の出発点は南海電車高野線汐見橋駅、難波から一駅程度の都会の中に何かローカルで静かな駅があります。いつものことですが、時刻表を確かめずに構内に入ったところ、電車が出た直後で、30分待つことになりました。かなりの時間が経過しても、だーれも来ない、道路から聞こえてくる自動車の騒音がなければ、街の中にいるという感じがしません。
駅構内
同じく駅構内
ベンチに寝っ転がっているとようやく電車が入ってきました。2両編成に客は全部で6名です。このままだと廃線になるのではと心配されます。雰囲気がいいので、何とか残していってもらいたいと思います。
津守駅で下車します。この駅はプレハブでおもしろくありませんが、一つ手前の木津川駅はなかなか良い建物です。写真を撮ればよかった。
神風連としては、先ずは津守神社に参拝。天照大神を主祭神に5柱の神様が祀られています。それゆえに五社神社とも言われたとのことですが、こういう言い方は各地にあるようです。
ご本殿
安永四年(1775)と刻まれた灯籠
津守神社から少し北西に行き、木津川に出たところが「落合下渡船場」、今いる西成区と対岸の大正区を結んでいます。
北側を見ると、「落合上渡船場」、ドーム、名も知らぬ運河の入り口が見えます。この川を北上して右に行くと道頓堀川にもつながります。水はまだまだババチイ。
渡船は15分ごと、結構頻繁です。船に乗っている時間は30秒ほど、みんなが係の人に「おおきにぃ。」、「ありがとう。」と声を掛け、係の人も「気をつけて。」と返す様子は本当に微笑ましいものがあります。こんないい人ばかりなのに、何故にこの付近の人は信号を守らないのでしょうね。青で走っている車が停まるもんなあ(笑)。それはさておき、いざ、大正区に上陸です。
落合上の渡船は次回のこととして、本日は大正区を横切り、尻無川を目指します。そのまま、我が足は大正区の「泉尾神社」に導いてくれる予定なのですが、神さんが「お前は来るな」と思っておられるのか、神社も大正区名物の沖縄料理も、昭和の町並も全て「今度」のことになりました。
おやおや(笑) 大正区小林ですよー。
途中で見つけたのは泉尾新田跡の解説文だけ。この辺りは元禄年間に開発され、開発者である北村六右衛門の出身地泉州踞尾(つくのお)村から泉尾と名づけられたということです。棉とスイカが名物だったとのことですが、勿論今は見る影もありません。
泉尾新田の記
巨大な防潮水門が見えてくると尻無川です。一旦ことあれば、コヤツが降りてきて潮を止めます。南海沖地震も何時起きるか分からぬ昨今、しっかりと頼みますよと申す処。
ここ大正区と港区を結んでいるのが甚兵衛渡船場の船です。江戸時代には甚兵衛さんの茶店があったとか。先ほどの落合下渡船場よりも賑わっています。八十島の名残は市の南部に濃厚に残っているように感じられますが、考えてみれば南に南に埋め立ててきたのだから当たり前か。
ここでも乗り込んでから30秒ほどで港区上陸、無言で降りる人はいません。皆々きちんと挨拶をして下船です。ひつこいのですが、いい人ばかりなのに何故信号を守らないのだろう。…そうか西成区・大正区・港区では「赤で進め」なのだ。今回の渡船、徒歩は小生のみで、あとの人は全て自転車を押して船に乗っていました。
尻無川水門のワイヤーを巻き上げる滑車は径1メートル余、なかなか迫力があります。今度はあの水門の上を歩かしてくれないかなあ(詠嘆)。
こやつで土地勘を取り戻す
港区に上陸して、しばらく徘徊すると鉄道の線路跡、「あれぇ、これは見たことがあるぞい。ということはー 」、結局、我が足が導いてくれたのはココでした。
町工場が湧水を利用して地ビールを作っています。弁天町からは何回か来たことがありますが、今回ここに来るとは全く思っていませんでした。
開店は4時30分ということで、30分余りこの付近をウロウロしました。もうこの辺りの商店街のことなら任して下さい(笑)。うまそうなイカ焼きの店が今月限りで閉店とは寂しいことです。
店内は、ママさんバレーか何かの打ち上げの方々と小生のみ、ということはママさんバレーがいなければ小生一人、あーよかったと思うと同時に、大丈夫かなーと余計な心配をしてしまいます。
ピルスナーぢゃ
メルツェンぢゃ
醸造所ぢゃ
ここのビールはビールで勿論美味い。ただ好みの問題でしょうが、地ビールは周山ビールのヴァイツェンがやっぱり一番うまいなぁと失礼なことを思いながら飲んでいます。ママさんバレーはピッチャーでグイグイと盛り上がっています。さて、小生は弁天町から京橋に出て、日本酒(冷酒)を飲むことにします。
大阪市民でも、北の方の旭区や都島区、城東区や東淀川区の人たちなども普通は知らないのではと思われます(そんなことはない、呑気なのはお前だけだという人もおられるでしょうが)。「これは早速、行かなくてはならない。」と2つばかり、渡ってきました。渡船場は全部で8ヶ所有ります。
本日の出発点は南海電車高野線汐見橋駅、難波から一駅程度の都会の中に何かローカルで静かな駅があります。いつものことですが、時刻表を確かめずに構内に入ったところ、電車が出た直後で、30分待つことになりました。かなりの時間が経過しても、だーれも来ない、道路から聞こえてくる自動車の騒音がなければ、街の中にいるという感じがしません。
駅構内
同じく駅構内
ベンチに寝っ転がっているとようやく電車が入ってきました。2両編成に客は全部で6名です。このままだと廃線になるのではと心配されます。雰囲気がいいので、何とか残していってもらいたいと思います。
津守駅で下車します。この駅はプレハブでおもしろくありませんが、一つ手前の木津川駅はなかなか良い建物です。写真を撮ればよかった。
神風連としては、先ずは津守神社に参拝。天照大神を主祭神に5柱の神様が祀られています。それゆえに五社神社とも言われたとのことですが、こういう言い方は各地にあるようです。
ご本殿
安永四年(1775)と刻まれた灯籠
津守神社から少し北西に行き、木津川に出たところが「落合下渡船場」、今いる西成区と対岸の大正区を結んでいます。
北側を見ると、「落合上渡船場」、ドーム、名も知らぬ運河の入り口が見えます。この川を北上して右に行くと道頓堀川にもつながります。水はまだまだババチイ。
渡船は15分ごと、結構頻繁です。船に乗っている時間は30秒ほど、みんなが係の人に「おおきにぃ。」、「ありがとう。」と声を掛け、係の人も「気をつけて。」と返す様子は本当に微笑ましいものがあります。こんないい人ばかりなのに、何故にこの付近の人は信号を守らないのでしょうね。青で走っている車が停まるもんなあ(笑)。それはさておき、いざ、大正区に上陸です。
落合上の渡船は次回のこととして、本日は大正区を横切り、尻無川を目指します。そのまま、我が足は大正区の「泉尾神社」に導いてくれる予定なのですが、神さんが「お前は来るな」と思っておられるのか、神社も大正区名物の沖縄料理も、昭和の町並も全て「今度」のことになりました。
おやおや(笑) 大正区小林ですよー。
途中で見つけたのは泉尾新田跡の解説文だけ。この辺りは元禄年間に開発され、開発者である北村六右衛門の出身地泉州踞尾(つくのお)村から泉尾と名づけられたということです。棉とスイカが名物だったとのことですが、勿論今は見る影もありません。
泉尾新田の記
巨大な防潮水門が見えてくると尻無川です。一旦ことあれば、コヤツが降りてきて潮を止めます。南海沖地震も何時起きるか分からぬ昨今、しっかりと頼みますよと申す処。
ここ大正区と港区を結んでいるのが甚兵衛渡船場の船です。江戸時代には甚兵衛さんの茶店があったとか。先ほどの落合下渡船場よりも賑わっています。八十島の名残は市の南部に濃厚に残っているように感じられますが、考えてみれば南に南に埋め立ててきたのだから当たり前か。
ここでも乗り込んでから30秒ほどで港区上陸、無言で降りる人はいません。皆々きちんと挨拶をして下船です。ひつこいのですが、いい人ばかりなのに何故信号を守らないのだろう。…そうか西成区・大正区・港区では「赤で進め」なのだ。今回の渡船、徒歩は小生のみで、あとの人は全て自転車を押して船に乗っていました。
尻無川水門のワイヤーを巻き上げる滑車は径1メートル余、なかなか迫力があります。今度はあの水門の上を歩かしてくれないかなあ(詠嘆)。
こやつで土地勘を取り戻す
港区に上陸して、しばらく徘徊すると鉄道の線路跡、「あれぇ、これは見たことがあるぞい。ということはー 」、結局、我が足が導いてくれたのはココでした。
町工場が湧水を利用して地ビールを作っています。弁天町からは何回か来たことがありますが、今回ここに来るとは全く思っていませんでした。
開店は4時30分ということで、30分余りこの付近をウロウロしました。もうこの辺りの商店街のことなら任して下さい(笑)。うまそうなイカ焼きの店が今月限りで閉店とは寂しいことです。
店内は、ママさんバレーか何かの打ち上げの方々と小生のみ、ということはママさんバレーがいなければ小生一人、あーよかったと思うと同時に、大丈夫かなーと余計な心配をしてしまいます。
ピルスナーぢゃ
メルツェンぢゃ
醸造所ぢゃ
ここのビールはビールで勿論美味い。ただ好みの問題でしょうが、地ビールは周山ビールのヴァイツェンがやっぱり一番うまいなぁと失礼なことを思いながら飲んでいます。ママさんバレーはピッチャーでグイグイと盛り上がっています。さて、小生は弁天町から京橋に出て、日本酒(冷酒)を飲むことにします。
30分もホームで待つのなら、歩いて津守駅まで行けるのではないのですか。神風連と称するのは、迅きこと神風の如し、の意味では?尤も、津守駅がどの辺りか私(渡し)は知りませんけど・・・。津守は「津」が付いていることから、昔から渡し場で栄えたのでしょうか。それに、落合とか、さすがにそれらしき名称の所に渡し場が、今も残っているのですか。
しかし、同じ川を渡るにしても、橋の上を行くのではなくて、渡し守との交流もほのぼのとしてて良い感じです。それに、面白い所に料亭「さゝ舟」があるのですネ。ささ舟さんの出資でしょうか。もしかして、ナニかの折の隠れ場所だったりして。ただ、「尻無川」の名前は何とかなりませんか。大阪らしい(?)と言えばそれまでですが。尤も、北海道長万部町の「悪い川」や由仁町の「ヤリキレナイ川」よりはマシですが・・・。北海道の人は怒るかもしれませんけど。
甚兵衛渡船場とは、ここだけ人名ですか。江戸時代の著名人の様ですが。それにしても、赤信号で進むのなら、いっそ信号機を廃止すれば宜しいのに。宇津の在所にも何個所か信号機がありますけど、皆さんは守っておられますか?たまに行くと、どうも不要に思えますが。
それにしても(又々)、最終的には行き着くべき所へ行き着きましたねぇ。さすがジン風蓮の幹部、と感心です。ただ、周山ビールの方が旨いのは、やはり水のせいでしょうか。徘徊堂さんは、絶対に泣き寝入りはされませんけど。今回も、締め括りの冷酒でご満足の徘徊でした。
甚兵衛渡船場以外の渡船場は「地名」ですね。ただ、ここいらの川は「運河」ですから、近くの景色はどこも似たようなものでしょう。遠くを見やると尻無川水門など、その地に特徴的な景色を見ることができます。
大正区は沖縄料理の店がたくさんあるので、泡盛なども一杯と思って行ったのですが、渡船の関係で環状線の駅近くには行かなかったので、次回のことになりました。その代わりに家庭料理の店を見つけることができました。
市岡ビール「地底旅行」は、これはこれでウマイビールです。環状線(地下鉄)弁天町駅からはすぐ近くですので、一度皆さんと繰り出しましょうか?
大阪の渡船は大阪市の運営なのですね。それにしても汐見橋からまだ電車を走らせている南海電車も悠長な会社でございますこと。私やその必要性が分かりません。そんな金があるならもっと必要性があるところに回せばいいのにって考えてしまいますけど。
川の上を船で渡られたのなら、今度は川の下のトンネルを歩いて川を渡ってみられてはいかがでございましょう。八百八橋を歩いて渡るという企画は如何ですか?
あ、忘れていました。大正区で一番沖縄を感じられるのは平尾ではないでしょうか。私は平尾の市場で島らっきょうを買うのが楽しみでした。これはビールに合いますよ~。
おー、大正に住んでおられたのですね。阿倍野といい、大正といい、小生にはまだまだ未知のところが多く、またご教示願います。平尾・島らっきょう(もうじき、辛ーいらっきょうを食べさせてもらえそうですが)はしっかりと覚えましたよ。
豊里大橋の渡しが残っていれば、少しは風景になるでしょうね。今回のところはコンクリからコンクリに渡るだけですから、しかも30秒ですから、のんびりとした風情などはありませんでした。
大正区といえば、京セラドームしかわかりませんが、天保山や海遊館は港区でしょうか?またまた横道ですが、高校の修学旅行の往路は天保山港?から「こがね丸」で別府港につきました。あの時、港近くで見たのか定かでないのですが、小学生が遠足か何かで渡し船で川を渡っている姿を見たような。おぼろ気に記憶しているのですが・・・。
大阪って大人の子ども(私)にとって多用面で魅力のあるところのようです。深い深いですね。
天保山は港区です。市岡ビールから南に歩いていけば天保山です。懐かしいところなのですね。
そうですね。大阪と言うと、どうしても北区や中央区だけを考えてしまいますが、南に深いですね。これからは南海電車沿線も徘徊のターゲットに入れていかねばと考えています。