花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

三宅八幡・八瀬界隈

2010年03月02日 | 徘徊情報・洛中洛外
 三宅八幡神社のある上高野一帯は、古くは小野氏の領地だったということです。古名は小野郷というそうですが、そうなると山城国の北限たる国道162号線沿いの小野郷とごっちゃになってややこしい。上高野・八瀬から比叡山を越えれば滋賀県ですが、その辺りも小野氏の勢力範囲で、湖西線の「小野」駅周辺には多くの古墳とともに小野氏関係の神社が多くあります。小野氏は京都・滋賀両府県にまたがる山岳地域に勢力を有していたのです。京都の北山一帯に多くの伝承を残す惟喬親王も墓が大原に有ることから考えると一口でこの辺り一帯というには広すぎるのですが、まあこの朽木街道に沿った上高野・八瀬・大原のどこかに居られたのだろうと推測されます。
 この辺りの式内社であった伊多太神社と小野神社は既に廃絶し(小野神社は昭和になって崇導神社の摂社として再建された)、今は三宅八幡神社と崇導神社がこの地域の産土として崇敬を集めています。三宅八幡神社の正面から入っていくと狛犬の代わりに鳩のつがいが迎えてくれます。

          

          
          拝殿

 勿論、鳩は八幡さんのお使いで、境内には鳩をかたどった饅頭を売る店もあります。ただ、本物の鳩が一羽も境内で遊んでいないのは少し考えねばならぬところです。神使のいない境域には神もまたおわさずという感じがします。境内には韓国併合を記念した碑が建っていますが、ペンキか何かをかけられたのでしょうか?琵琶湖疎水の建設で知られる京都府知事北垣国道氏が中心となって建てられたようですが、当時の高揚した気分がよく解ります。

             

 三宅八幡神社から西明寺山に沿って東に向かうと真言宗三明院、写真に撮るのは忘れましたが見事な多宝塔があります。ただ、その多宝塔がマンションの給水タンクの基礎のような鉄骨の上に立てられているのには違和感があります。

          

 この山は本当に水の豊かな山で、住宅の地下を流れて駐車場なども水が染み出ている(アカンやんけ)、そういう湿った道をしばらく行くと伊多太神社の故地です。この近辺には式内社はこのお社と小野神社、今はいずれも崇導神社の摂社となっています。

             

 その崇導神社へは上高野の集落を抜けていきます。なかなかに趣のある道が続きます。

          

          
          蓮花寺(天台宗)

 崇導神社は、細い道から朽木街道に出てすぐの処、大原や途中越で滋賀に行く時によく通る道ですが、車だと一瞬で過ぎてしまうので、なかなか目には留まりません。

          

 御祭神は勿論平安初期の怨霊№1の「早良親王」、崇道天皇号を追贈されていますが、何故に神社名が「導く」なのかは解りません。今はこの地域一帯の産土の神になっておられるということで、この日も日ごろは林業をされている方たちでしょう、軽トラが何台か停まっていて、おじいちゃんが6、7名で神社の清掃をされていました。
 神社の創建は9世紀半ば、「平安京の鬼門だから崇道天皇をお祭りした」では説明になっていません。小野氏との関わりで調べたいところですが、そういうことも全く出てこない。もともと此の地にあった伊多太神社の祭神は五十猛命、この神様は林業とは縁が深いそうです。地形的には山が北東から京都盆地に突きだしている端に当たります。そういうところは墓が営まれるところでもあり、崇導神社の裏山では小野毛人(妹子の子)の墓が見つかり、墓誌が出土しています。

             
             入り口にある石標

          
          崇導神社拝殿から奥は本殿

 神社の横から山道を登ること暫し、小野毛人の塋域に辿り着きます。677年に亡くなっていますから終末期古墳の時代、高松塚などと同時期だと思うのですが、古墳ではないようです。この辺り、他にもまだまだ出てくるものがあるかも。碑文を撰したのは何と何と内藤湖南先生であります。

          

 天明七年の拾遺都名所図会なる本には、最初に出土した慶長年間には墓誌は一旦村人の家に置かれたが、ひどく祟ったために元の墓所に返されたとあります。久しく祭祀が絶えていた小野神社が墓所の麓に再建されています。

          
          解りにくいが小野神社です

 当然といえば当然ですが、比叡山も指呼の間、神社の隣には見事な十三重の塔が残る寺がありますが、インターネットにも載せんといてねと書いてありますから名は記しません。

          

             

 叡電八瀬駅周辺までやって来ました。かつての八瀬遊園はスポーツバレー京都と名を変え、今は会員制のリゾートホテルとなっていますが、八瀬離宮なる名はいつ見ても僭称の感を免れません。
 ここまで来たら、ケーブルで比叡山に登り(軟弱)、大津の坂本に降りようと思い、ケーブルの駅まで行きますと何と3月末まで運休とのこと。

          

 やむなし、鬼の子孫という八瀬童子の里をウロウロします。そうなると叡電八瀬は全然八瀬でなくて、篠山の入り口に篠山口、能勢の入り口に能勢口があるが如く、八瀬口とせねばなりません。というのは、八瀬の里はここからは随分と北にあるからです。
 朽木街道に戻り少し北上すると旧道に入ることが出来ます。旧道といっても駒飛橋から七瀬橋までの間のバイパスが出来るまでは普通に車が走っていた道です。

          

 この旧道に沿っては比較的新しい家が建ち並びます。鬼の子孫はこんな処には住んでへんぞ。甲賀小路と謂うところまで来ると旧道からさらに旧道に(ややこしい)入ることが出来ます。これぞ、昔の道、さすがに愛宕山の燈籠なども見られます。

             

 燈籠の横の木製の箱、ここにお札が入っているのでしょう。滋賀県の近江八幡辺りでは石標にお札を収めるところが作ってあります。「火迺要慎 鬼の子孫も 愛宕山」と申す処。
 七瀬橋の少し上手で川の方に下れば、こここそが八瀬の中心部。かまぶろも見えます。腹が減ってきましたが、コンビニの類も全く無く、食堂も見あたりません。

          
          左京区の出張所

          
          かまぶろ

 丹念に巡れば、いろいろとありそうですが、本日はひとまず八瀬天満宮で打ち止めとします。このお社、社域は広大で本殿近くには見事な杉の木があります。建武年間に、後醍醐天皇は幾たびか比叡山に蒙塵していますが、この神社の裏手から登られたこともあるようです。鳳輿には屈強の鬼の子孫が付き従ったことでしょう。八瀬の人々と皇室とのつながりは今も変わらぬようで、神社の入り口には皇后陛下の歌碑があります。碑面に曰く「大君の 御幸祝ふと 八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」と。赦免地踊りが無形文化財として伝承されているそうです。

          

          
          皇后陛下歌碑

          
          神社から見た八瀬の集落

          
          弁慶背比べ石

          
          本殿に向かう

 大原に向かう観光客が多いからか、この朽木街道のバスの便はなかなか良好です。概ね20分に1本は京都駅に向かうバスが来ます。どこにでも出ることはできますが、やはりここは出町柳駅前の「あうん」で飲むべきでしょう。




          


6 コメント

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JR小野周辺 (gunkanatago)
2010-03-04 18:53:06
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。滋賀の小野周辺のあの道、やはり歩いておられたのですね。和邇から小野の間は結構趣のある道ですね。堅田から小野の間は最悪だと思ったのですが、山の方を歩かれたのでしょうか?「みかま木」という言葉は初めて知りました。ありがとうございます。
 大原は人だらけですが、八瀬の里は今ものどかな良いところです。
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比叡山に行く道 (ささ舟)
2010-03-04 16:45:24
こんにちは。三宅八幡は、主婦の私達は子供のかん虫や夜泣きのご祈願に参られる神社だと聞いていましたが、私はまだ行ったことがないです。歴史とは関係のないことですみません^^
びわ湖周りで、小野道風神社や小野篁神社などがJR和邇駅と小野間の中間位でしたかにありました。今でも比叡山ドライブウエイ、仰木を越えると割と近いでしょうね。
昔、八瀬は比叡山に行く通過道と思っていました。良く行きましたし、通りました。かま風呂懐かしいです。その昔はみかま木を奉納していた、のぞかな里だったとか。
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今の道と昔の道 (gunkanatago)
2010-03-04 13:02:23
mfujino様、コメントをありがとうございます。また、3日の日には何かとお役目お疲れ様でした。
 今の我々は、大原方面は朽木街道、周山へは162号線などと分けて考えてしまいますが、周山と大森が茶呑峠越えで、真弓と雲ヶ畑が持越峠越えでつながっているように山間各地が網の目のような交通路で結ばれていたということは、昨日の西の鯖街道の地図でもよく理解できました。これらの峠は今は人影を見ませんが、往時は皆賑やかに越えていったのですね。祖父谷の由来も小野基風と言うことでしたから、大原から山国や小野郷まで稠密なつながりがあったと思われます。小野国麿の名は初めて知りました。ありがとうございます。段々と世界が広がります。
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古人の行動範囲 (mfujino)
2010-03-04 01:11:24
gunkanatagoさま、 今日はシンポジウムに参加いただき有り難うございました。

八瀬にも小野郷があるのですか。我が山国にも小野氏が進出していたフシがあります。山国の開拓者は小野国麿(小野毛人の子孫)だという研究を書物にされている人があることを思い出しました。ついでの話になりますが、ここ京北は今日の鯖街道の話題じゃないですが、日本海と都を結ぶ街道の通過地であり、また東西の交流の影響もあるそうです。出雲族の影響も残っており、こんな山奥でも古人はあちこち交流していたようですね。これは大原や八瀬についても言えることでしょう。八瀬は昔は都のはずれという感覚で捉えがちですが、もっと鄙びた里だったんですよね。

八瀬は我が小学校の遠足で行ったときの我が幼顔の写真があります。比叡には雲母坂からも上りました。この坂は千日回峰行者の都への通路ですね。八瀬から登るのは松尾坂でしたっけ?

こんなこと考えながら今回の記事を読ませていただきました。謝々。
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妹子の子孫 (gunkanatago)
2010-03-03 16:05:17
 道草様、コメントをありがとうございます。また、本日はお疲れ様でした。墓誌が見つかった毛人は妹子の子といわれています。子孫には篁や道風などがいます。出自は敏達天皇の皇子から出たという話と皇室の先祖神とはまた別の神の子孫という話と2つあります。小野氏でお金持ちとなるとかつての小野薬品工業からみのひとでしょうか?
 八瀬童子も輿を担ぐということが習慣として無くなったために皇室との縁も直接的なものでは無くなってしまいました。葵祭なら連綿と続いていくでしょうから八瀬童子の伝統も受け継がれていきますね。
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近くて遠きは (道草)
2010-03-02 21:24:33
小野氏と言うのは、もしかして小野妹子の子孫ではないのでしょうか。もしそうなら、家内の友達の同級生で、今も広大な敷地の屋敷に住み、大文字の夜など多勢の友人知人を招いて鑑賞会を開催しているそうです。私以外の家族も招待されて、何度か出掛けておるようですが・・・。
それはそうとして、八瀬は案外身近な様で遠い地域の感があります。比叡山へ行く時は必ず通ります(ました)が、それ以外では窯風呂くらいは知っていますが。つい最近のこと、八瀬童子が葵祭りの輿丁に復活したとかで話題になっていました・・・。何だか・・・の多い文章になってしまいました。ケーブルが運休とお怒りのようですが、徘徊堂さんのスタミナを以てすれば、そんなモノに頼らず歩いて登らねば・・・(また)。たかが、標高800にも満たない山ではないのでしょうか。
それにしても、八瀬一帯はひっそり閑としているのですねぇ。確か遊園地も休園になったと聞いていますが・・・(やはり)。やはり、出町柳まで出ないと駄目ですか。それにしても、「あうん」はどんな銘酒を飲ましてくれるのでしようか・・・(う~ん)。それもそうとして、今年は雪が少なく、比叡山が白くなった時期もほんの少しでした。「北山に冬の乏しき日の照りて夕べは寒き橋を渡れり」(古川裕夫)。これは、八瀬辺りの光景を詠んだ歌だと思うのいですが・・・(最後も)。
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