本日は、師匠の解説付きで山鉾巡行が行われている中京と下京をウロウロ、巡行の日と休日が重なり、それはもうスゴイ人出なので、9時に始まる巡行は各自で見ておいて、正午に四条烏丸に集合です。
小生は10時半ぐらいからぼちぼち。最初は河原町通で見ていましたが、本当に混雑しています。どうせ混雑しているならば、クジ改めのところで見ようと四条通に移動しました。霰天神山、白牙山等々、目の前を通るときは一生懸命に記憶するのですが、後で写真を見たら何が何なのか分からなくなりました。
河原町通
しかし、こやつは分かります。カマキリが上に乗っていますから蟷螂山ですね。カマを「ヤア!」という感じで振り上げたり、羽を広げたりするカラクリが楽しいので、人気ナンバー1です。
さあ、カマキリを見たし、暑いし、もう帰ろうかなーという気分になります。ひとまず、新京極に入ります。その入り口に一遍上人ゆかりの石碑、この辺りは染殿院跡であると同時に一遍の四条道場跡ということです。紙コップでいいからビールを飲もう、たこ焼きも食おうと以前の店を探しましたが、分かりません。モタモタしているうちに集合の時刻。
四条烏丸で集合した後は、新町通で山鉾を見る(狭いので目の前で見られる)つもりなのですが、集合でトロトロしていたら、早くも長刀鉾が新町通から四条通に戻ってきました。
新町通に行ったら行ったで、エライ人です。山一番クジの霰天神山などは、巡行が終わり早くも解体中です。
コピーやでー
えらい早いこと解体してしまうのは、街の中の色々な悪い気(疫病の素?)を拾ってきているので、いつまでも置いておくのはよろしくないそうですが、「これは建前、本音は早く飲みたいんやー。」ということです。長刀鉾のエライさんに師匠の悪友もおられるということですから、そんなところでしょう。羨ましいぞい。我々が飲むのはもうちょっと後のことです。
さすが新町を行く山鉾、広い通りを行くときとは異なり、なかなかの迫力です。特に姉小路新町は十字路がちょっと変形していて屋根方や曳き方の腕の見せ処。この付近の民家では見物客が暑いだろうと扇風機を表に出して下さっています。
やあ、カマキリ君、また会いましたなあ。
船鉾
八幡山?
さて、山鉾巡行はここまで。いつもは途中でサッと雨が降ったりするのですが、本日はカンカン照り、暑い暑い。
姉小路通りを少し西に行くと高松殿跡、1156年の保元の乱のときには源義朝がここから出撃して、鴨川の向こうの白河北殿を夜襲しました。目をつむると巡行を見る人々の声が、高松殿に群がる武士共の喚声のように聞こえます。逆に崇徳上皇側の源為朝が高松殿夜襲を提案して藤原頼長に叱られたこともよく知られていますね。安和の変で失脚した源高明の屋敷跡でもあるそうです。
この後は、四条岩上を下ったところにあるフランシスコの家に。師匠が予め連絡を入れてくれています。この辺りは妙満寺の跡であり、南蛮寺の跡でもある。
入り口に織部灯籠(キリシタン灯籠)
豊臣秀吉によって長崎で処刑された26聖人のうちの17名はこの南蛮寺や附属の病院で働いていたということで、フランシスコの家は26聖人記念館という感じです。ここでレプリカの摩鏡がどのように映るのかも見せてくれました。以前は、このレプリカを本物であると説明していたようですが、その後クレームが来たのか、今は「レプリカです!」とはっきり言明しています。
豊太閤ファンであり、陰気なところがイヤな小生にとっては、決して楽しいところではありませんが、礼拝後の忙しいときに時間を取って説明していただき、ありがとうございました。
それにしても、聖人や福者を定める必要性からか、カトリックはカトリックで「史実」を確定していくようです。「ここは、こうなっていたことにしておこう」と決めたら、それはやがて紛れもしない「史実」となっていく感じです。
堀川通を東に戻り、小野小町の化粧水跡、「あー、こっちのほうがエエワ。陰気なのはどうもかなわん。」、小生なんかバテレンから見たら許すまじき異端者でしょうね。エエネン、小生はサラディンのファンでもある。大体、ローマカトリックがやってきた悪事から考えたら…、ヤメトコ、今日は祭。
四条西洞院と新町の間にある膏薬の図子、師匠によると「空也供養」が転訛したもののようです。では、空也は誰を供養したのかというと平将門であります。図子の奥に民家でありながら将門を祀る神田明神がありました。
神田明神(将門公は昼寝中)
この膏薬図子、町家の暮らしに憧れた芸術家なども多く住んでおられるようです。また、仁丹の住居表示、国宝物の木製が一枚と琺瑯製が2枚掛かっていました。
木製ぢゃー
琺瑯製
抜け出たところが代表的町家として有名な杉本家、その前の白牙山も今や骨組みだけー。菰樽はうらやましいですね。「稚児も呑めコンチキチンの祭酒(羅休)」と申す処。
本居宣長が遊学したのも、この辺り。北村季吟の玉津島神社といい、付近は国学の聖地であります。
さてさて、全体行動はここまで、四条烏丸に戻って皆で一杯飲んで(一杯というのはタトエですよー(笑))、解散の後、神輿を見に行きます。途中に入ったビルでは清々しい活花が。やはり緑は目にいいですね。パアと世界が広がります。「陋巷にありて深山に臨む」の心境。町衆は怒るかなー。
鴨川を越えるとき北を見れば懐かしい山々、呼んでいるぢゃあないか。橋の上も人だらけ、だーれもいない尾根道に行きたい。けど尾根筋では繁華街を思っていることも多いのですが(笑)。
どれが桟敷かな?
祇園祭の山鉾巡行の日の夕暮れ、八坂神社から神輿がでます。何か「みこし」と言わず「しんよ」と言いたい気分。巡行はどちらかというとアトラクション的な色彩が強いのに対して、神輿の方は重要な神事だそうです。この神輿を洗うから鴨川を宮川とも言うのですね。
神輿見物も知る人ぞ知ると思っていましたが、超満員でした。縄手通と四条通の交差点など圧死者が出てもおかしくない状況。アルコールの勢いがなければ見ようとはしなかったでしょう。
八坂神社の牛頭天王はもともとは播磨の広峰さんを勧請したものと記憶していますが、御霊会と結びついて特別な祭へと発展していったのでしょう。その全貌を知るには小生など未だ未だ勉強不足ですね。と、何て謙虚なんだろうと思いますが、本当だから仕方がないわい。
帰宅後、師匠にいただいたレジュメを見たら、何と行くべきところが未だ20余り記載してありました。同行の方々の良心的拒否(爆)によって、師匠の野望は断たれたのですが、炎天下、一体どれだけ歩かせるつもりやってん(笑)、ということで、師匠がちょうどエエと思う1/5ぐらいが皆さんにはちょうどエエんですよ(以前は1/3と言っていましたが訂正します)。師匠と二人だったら全部回ったんやろなと小生も改めて師匠の恐ろしさに気付きました(爆×爆)。
小生は10時半ぐらいからぼちぼち。最初は河原町通で見ていましたが、本当に混雑しています。どうせ混雑しているならば、クジ改めのところで見ようと四条通に移動しました。霰天神山、白牙山等々、目の前を通るときは一生懸命に記憶するのですが、後で写真を見たら何が何なのか分からなくなりました。
河原町通
しかし、こやつは分かります。カマキリが上に乗っていますから蟷螂山ですね。カマを「ヤア!」という感じで振り上げたり、羽を広げたりするカラクリが楽しいので、人気ナンバー1です。
さあ、カマキリを見たし、暑いし、もう帰ろうかなーという気分になります。ひとまず、新京極に入ります。その入り口に一遍上人ゆかりの石碑、この辺りは染殿院跡であると同時に一遍の四条道場跡ということです。紙コップでいいからビールを飲もう、たこ焼きも食おうと以前の店を探しましたが、分かりません。モタモタしているうちに集合の時刻。
四条烏丸で集合した後は、新町通で山鉾を見る(狭いので目の前で見られる)つもりなのですが、集合でトロトロしていたら、早くも長刀鉾が新町通から四条通に戻ってきました。
新町通に行ったら行ったで、エライ人です。山一番クジの霰天神山などは、巡行が終わり早くも解体中です。
コピーやでー
えらい早いこと解体してしまうのは、街の中の色々な悪い気(疫病の素?)を拾ってきているので、いつまでも置いておくのはよろしくないそうですが、「これは建前、本音は早く飲みたいんやー。」ということです。長刀鉾のエライさんに師匠の悪友もおられるということですから、そんなところでしょう。羨ましいぞい。我々が飲むのはもうちょっと後のことです。
さすが新町を行く山鉾、広い通りを行くときとは異なり、なかなかの迫力です。特に姉小路新町は十字路がちょっと変形していて屋根方や曳き方の腕の見せ処。この付近の民家では見物客が暑いだろうと扇風機を表に出して下さっています。
やあ、カマキリ君、また会いましたなあ。
船鉾
八幡山?
さて、山鉾巡行はここまで。いつもは途中でサッと雨が降ったりするのですが、本日はカンカン照り、暑い暑い。
姉小路通りを少し西に行くと高松殿跡、1156年の保元の乱のときには源義朝がここから出撃して、鴨川の向こうの白河北殿を夜襲しました。目をつむると巡行を見る人々の声が、高松殿に群がる武士共の喚声のように聞こえます。逆に崇徳上皇側の源為朝が高松殿夜襲を提案して藤原頼長に叱られたこともよく知られていますね。安和の変で失脚した源高明の屋敷跡でもあるそうです。
この後は、四条岩上を下ったところにあるフランシスコの家に。師匠が予め連絡を入れてくれています。この辺りは妙満寺の跡であり、南蛮寺の跡でもある。
入り口に織部灯籠(キリシタン灯籠)
豊臣秀吉によって長崎で処刑された26聖人のうちの17名はこの南蛮寺や附属の病院で働いていたということで、フランシスコの家は26聖人記念館という感じです。ここでレプリカの摩鏡がどのように映るのかも見せてくれました。以前は、このレプリカを本物であると説明していたようですが、その後クレームが来たのか、今は「レプリカです!」とはっきり言明しています。
豊太閤ファンであり、陰気なところがイヤな小生にとっては、決して楽しいところではありませんが、礼拝後の忙しいときに時間を取って説明していただき、ありがとうございました。
それにしても、聖人や福者を定める必要性からか、カトリックはカトリックで「史実」を確定していくようです。「ここは、こうなっていたことにしておこう」と決めたら、それはやがて紛れもしない「史実」となっていく感じです。
堀川通を東に戻り、小野小町の化粧水跡、「あー、こっちのほうがエエワ。陰気なのはどうもかなわん。」、小生なんかバテレンから見たら許すまじき異端者でしょうね。エエネン、小生はサラディンのファンでもある。大体、ローマカトリックがやってきた悪事から考えたら…、ヤメトコ、今日は祭。
四条西洞院と新町の間にある膏薬の図子、師匠によると「空也供養」が転訛したもののようです。では、空也は誰を供養したのかというと平将門であります。図子の奥に民家でありながら将門を祀る神田明神がありました。
神田明神(将門公は昼寝中)
この膏薬図子、町家の暮らしに憧れた芸術家なども多く住んでおられるようです。また、仁丹の住居表示、国宝物の木製が一枚と琺瑯製が2枚掛かっていました。
木製ぢゃー
琺瑯製
抜け出たところが代表的町家として有名な杉本家、その前の白牙山も今や骨組みだけー。菰樽はうらやましいですね。「稚児も呑めコンチキチンの祭酒(羅休)」と申す処。
本居宣長が遊学したのも、この辺り。北村季吟の玉津島神社といい、付近は国学の聖地であります。
さてさて、全体行動はここまで、四条烏丸に戻って皆で一杯飲んで(一杯というのはタトエですよー(笑))、解散の後、神輿を見に行きます。途中に入ったビルでは清々しい活花が。やはり緑は目にいいですね。パアと世界が広がります。「陋巷にありて深山に臨む」の心境。町衆は怒るかなー。
鴨川を越えるとき北を見れば懐かしい山々、呼んでいるぢゃあないか。橋の上も人だらけ、だーれもいない尾根道に行きたい。けど尾根筋では繁華街を思っていることも多いのですが(笑)。
どれが桟敷かな?
祇園祭の山鉾巡行の日の夕暮れ、八坂神社から神輿がでます。何か「みこし」と言わず「しんよ」と言いたい気分。巡行はどちらかというとアトラクション的な色彩が強いのに対して、神輿の方は重要な神事だそうです。この神輿を洗うから鴨川を宮川とも言うのですね。
神輿見物も知る人ぞ知ると思っていましたが、超満員でした。縄手通と四条通の交差点など圧死者が出てもおかしくない状況。アルコールの勢いがなければ見ようとはしなかったでしょう。
八坂神社の牛頭天王はもともとは播磨の広峰さんを勧請したものと記憶していますが、御霊会と結びついて特別な祭へと発展していったのでしょう。その全貌を知るには小生など未だ未だ勉強不足ですね。と、何て謙虚なんだろうと思いますが、本当だから仕方がないわい。
帰宅後、師匠にいただいたレジュメを見たら、何と行くべきところが未だ20余り記載してありました。同行の方々の良心的拒否(爆)によって、師匠の野望は断たれたのですが、炎天下、一体どれだけ歩かせるつもりやってん(笑)、ということで、師匠がちょうどエエと思う1/5ぐらいが皆さんにはちょうどエエんですよ(以前は1/3と言っていましたが訂正します)。師匠と二人だったら全部回ったんやろなと小生も改めて師匠の恐ろしさに気付きました(爆×爆)。
しばらく、コメント欄を承認制にするので、貴方の意味不明のコメントが載ることはないから、これで人のブログを利用して自己主張することはできないね。
今回、貴方が名前を出した暴力団にも迷惑な話で、第一、最近のヤクザ屋さんが、そんな幼稚な話に乗ることはないでしょう。
貴方が自分の妄想で、いろいろと話を創られることは別に問題はない、しかし如何にも本当らしく人のブログにコメントした時点で、それはウソになります。
何度も言っていますが、小生は道草様を尊敬し、立派な方だと思っています。その方に対する悪口雑言は許されません。貴方が怪しい世界に頼ろうとするならば、こちらは公権力にたよりましょうかね。
貴方は貴方の、或いは貴方を支持する人たちとのグループで遊んでいればいいのであって、ここは貴方が来るところではないのです。
新興住宅地にしても、別に何の問題がある訳でもないし、緑に囲まれ、風がよく通って快適ですよね。
今回のご指摘で、ああいうのは悪質なのだということが分かりましたので、先にご教示いただいた作戦(笑)も視野に、今後再び同じことをすれば対処していこうと思います。本当にありがとうございました。
居住地をけなしておられ、私も新興(振興となっていましたが)地に住んでおりますので、それだけでアタマにきましたヨ。ご自分は、さぞ高級なお住まいなのでしょう。それにしても、貧しい庶民をバカにしすぎでは・・・。
それに、ご高齢者を平気でけなしておられるのは、基本的に社会の倫理観に欠けているのではないか、とも思いました。
いずれにしましても、見たことのない悪質なコメントでしたので、この方(硯なんとか)がリンクしておられる人々へ、そのまま送信して差し上げればどんな反応があるのか、とつい面白く思ったのです。
よそ様ではこんな暴言をはいている。これがこの人の本当の姿なのか、とおそらく思われるのではないでしょうか。皆様がどんな受け取り方応をされるか、それがちょっと面白いナと思いました。
また遊びにきて下さいね。
そう、かつての北山の頂上はどこも凄まじい笹に覆われていましたね。桟敷ヶ岳や鉢ヶ峰もヤブコギをして頂上にたどり着きました。クマザサの裏にはヤマダニがおるでと峰床で教えてもらいました。考えてみれば、今は笹はどこから来ているのでしょうね。中国製?パンダの上前をはねていたりして。
祇園祭のチマキは中が入っていません。玄関に取り付けて疫神を防ぐマジナイにするもののようです。京北のチマキ、食べたいです。
一つ気になっているのは、チマキであります。祇園祭といえばチマキですが、それに必要な笹は花脊あたりから供給されていたらしいのですが、ここ数年、北山の笹は壊滅状態で、花脊もその例外ではないはずです。どこから入手されたのでしょうね。気になります。
もう一つ今のチマキには甘みが加味されているのでしょうか?食べられましたか?我が京北ではチマキは米粉の味だけで、それに砂糖入りのきな粉などで味をつけて頂くのですが…。
徘徊にご参加いただいた方は、写真を全てCDに焼きつけています。あと、6~7回ご参加いただければ「池田徘徊」も含めてお送りします(笑)。写真は残念でしたけど、少しご安心下さい。
膏薬図子の路地、大都会の真ん中なのに静かでしたね。上京区の三上家路地も見ていただかねばと思います。
タコの唐揚げは、あの店が一番ウマイと思います。次回は、スルメの天ぷらが一番ウマイと思われる寺町押小路の店に行きましょう。ご町内も、祭が近づいていますね。
蟷螂山町は既に一軒の旧家も無いということをNHKでもやっていたそうです。河原町には鉾町などありませんのにね。まあそういうところでしょうね。けど、逆恨みの徒のようですから、また無いこと無いことを書かれますよー(笑)。全てフィクションということにしておきましょう(爆)。
今回、祭は「祭の後」がおもしろいということに初めて気付かせてもらいました。まさか、山鉾も巡行後に即刻解体とは知りませんでした。師匠が言うように、後かたづけに目途を付けてから飲む方がそれは良いでしょうね。
当日は、全くお湿りがありませんでした。本夏の最高気温であったようです。やはり、にわか雨がサーときて、みんながキャーと雨宿りをして、また夏の日射しが回復してという感じがいいですね。
写真きっちり写されていますね。私のは肝心な時カメラの調子が悪くて全く撮れていませんでした。アップも無理のようです。
新町で鉾を見たのは初めてで、もう嬉しくて嬉しくて、ただ暑くて、町家の方の椅子と扇風機に感謝でした。祇園祭りは暑いのが当たり前ですが、翌日から台風の影響でじゃじゃ降り、なんて今年は運が良かったのでしょう。
フランシスコの家は少々重い気がしました。あの仁丹露地、ああいうところ大好きです。人知れず静かに住んでみたいです。
T先生の講座はまだまだ五分の一?壬生寺で半分、、、。
蛸の天ぷら、加茂なすのアッサリ漬けなどなどお腹が喜びました。皆さま方の会話の楽しいこと・・・。僅か半日でしたが久ぶりの開放感を頂きました。
gunkanatagoさまはさすがです!アレからお神輿の神事を観に行かれたとか、。私は頭からお神輿のこと何処かに飛んでいました。来年に挑戦します。
お心つかいに感謝です、ありがとうございました。
私は他の予定と重なって徘徊に参加出来ず残念でした。くじ改めの辺りは最も混雑していて大変だったと思います。昔、事務所の窓から四条河原町の引き回しを見下ろして見物していた頃は、おまけに涼しくて結構でしたが・・・。ただ、祭りの雰囲気は、道端で汗を流しながら他人を掻き分けながら見物することにこそ、真の醍醐味があるのかも知れません。
蟷螂山は、中々ユーモラスでもあります。絡繰り人形の原理でしょうか。蟷螂山と申しますと、昨年訪れた蟷螂山町では笑えましたが。そんなヒト知りませんなんて・・・。その後、蟷螂山町を河原町と書いるのを見ましたが、やはり馬脚(蟷螂斧?)は直ぐに現れるものです。
それにしても、帰って来た鉾の解体は早いのですねえ。まだ巡行は続いているのに宜しいのですかねぇ。氏子も人間ですから、飲みたいのは同じなのでしょう(特定の人だけかも)。狭い通りを、庇すれすれに鉾が通るのは迫力があります。昔、両側の2階から手を出している者へ、鉾の上から粽を投げ込んでやっている光景を見て、路上で拾えなかった私は、ずいぶん悔しい思いをしたものです。あの時、粽を拾っていたら、もう少しマシな人間になっていましたのに・・・。
それにしても、見物客の歓声から、義朝勢の襲撃の鬨の声を連想される徘徊堂さんは、さすがに歴史学の泰斗です。当時の山鉾巡行の様子はどうだったのでしょう。遙か遠い日へ思いを遣れば、卑近なむさ苦しい出来事など笑止千万に思えます。
フランシスコのレプリカ魔鏡でも、崇拝者には有難い代物なのでしょう。仏像にしても、名も無き大工や石工が作った物が多いのでしょうし、どちらにしても、〝普通の器用なヒト〟が作った物であることには変わりありません。要は、鰯の頭も信心からと同じではないですか。信じる者は救われる・・・で宜しいのかも。
それより木製の仁丹住居表示は、今や希少価値とのこと。師匠は全て発見されたのでしょうか。私の生まれた町内には、琺瑯製の表示板が今もあります。「コンチキショウ小父さん飲見たし祭酒(道草)」。
ご酩酊の後も神輿探索に行かれたのですか。他の良心的な参加者は帰られたのでしょうか。それにしても、鴨川がその様な謂われから宮川と呼ぶのは知りませんでした。宮川町はその関連でしょうか。それにしても(何度目でしょう)、徘徊堂さんの凄い博学と行動力(もちろん酒精力にも)に感服させられた一篇でした。有り難うございました。
「祇園祭」 山田英子
毎年のことどすけど
鉾が動くのを見ると涙がでます
同掛やら見送のリュウが躍ってますやろ
祇園祭さんの本殿の地下には
深いリュウの穴があるそうどすえ
ホウオウやキリンは天から降りてきた霊獣どすし
ほれ 大カマキリがカマ持ち上げてますえ
異国の壁掛やら段通もぎょうさんおすけど
どないして持って来はったのやら
こんな豪華なもん何時お作りやしたのやら