5月22日、野々村仁清の生誕地である南丹市美山町大野で仁清まつりが行われました。残念ながら当日の朝の間は雨、一生懸命に準備されてきた方々はさぞかし残念に思っておられるだろうなと思っていたら、昼からは雨がやみ、晴とはいきませんが、雨によって薄汚い黄砂は概ね退治されたと見えて、山々の尾根や谷のひだもくっきりと望めるようになりました。
さて、会場の大野の集落付近に近づくと、パトカーが一台赤色灯を回転させたまま停車し、ポリコマンも約4名ほどが立っています。パトカーとかポリコマンを見ると反射的に逃げ出したくなるのですが(笑)、その衝動を抑えて会場に。ハッピを着た係の方が駐車場まで誘導してくれました。
ポリコマンが多数いる理由は仁和寺の名宝が公民館に展示されているからでした。仁清作・黒褐釉肩衝茶入というやつがそれで、こやつの横にはガードマンが待機して、写真を撮るスットコドッコイはいないかと目を光らせています。小生などが立志伝中の人物であるならば、「こんなものに人が操られてどうする!」とか言って茶入を手にとって向こうの川に投げ込むというところでしょうが、そんな根性はありません。
「仁清をたたえる会」の歴代会長の写真に感心して、公民館を出ますとちょうど南丹市長が到着したということで、ユルキャラのぬいぐるみなども登場し、少し賑やかになってきました。仁清まつりということで、この地域で陶器を焼いておられる方々が何名か作品を陳列・販売されていますが、作品と価格がどうしてもつろくせず呆れるものも混じっていますから、次回からは食えない焼き物は仁清だけで十分。やっぱり祭で焼くなら「焼きそば・たこ焼き」やでー。
田植えが終わったばかりの大野の里は美しい景色です。今は多くの家がかやぶき屋根にトタンをかぶせていますが、それもOKです。村の様子は有名な茅葺きの里(北村)とよく似ています。
謎の植物
謎の植物アップ 誰か名前を教えてくらはい
大野の集落も亦、山の南斜面に広がっていますから北側に行くには坂を登っていくことになります。公民館から北に登っていくと仁清の生家跡があります。前回、ここを訪ねたときには閉まっていましたが、今日は開いています。
この生家跡でNM先生にご挨拶をし、この催しを教えて下さったmfujino様の名を出しますと、先生が「まあ上がれ。」と屋敷の中を見学させて下さいました。屋根裏部屋も写真を撮ったのですが、何も写らず。田の字型の間取りの「食い違い」等はじっくりと説明して下さいました。
食い違い間取り
この建物、用材は江戸時代のものをそのまま使用しているそうです。先生は友人と遅い昼食を摂られるつもりだったのですが、要らざる闖入者の為に随分と食事が遅くなってしまいました。
仁和寺のある御室地域、御室小学校を少し南に行ったところに「仁清窯跡」の碑があります。以前は大映映画の監督であった伊藤大輔さんのお屋敷があったところですが、監督さんが亡くなった時に屋敷は売り払われ、今は12軒ほどの建て売り住宅に代わっています(といっても一軒一軒は立派な家です。監督の屋敷はどれだけ広かってんと申す処。)。ここまでは何となく知っていたのですが、御室小学校は尾形乾山の窯跡であることや焼き物の土は黒谷・金戒光明寺付近のものや、高瀬舟で兵庫あたりのものも運ばれてきていたこと等々。謙遜して言われているのですが、この地を出ていった野々村一族は皆々出世したが残っている自分らはダメだー等とも(笑)。
食い違い間取りにする理由など、他にも聞きたいことはいっぱいあったのですが、ご友人がずっと待っておられるのに気がつきましたので、急いで撤退です。あのまま先生が話し続けたら昼飯は晩飯になったでしょう。今回のまつりを中心になって運営された方です。その意気込みが感じられました。午後から雨が上がり、本当に良かったですね。
謝して去る古民家 家君遅き中食を摂る
この大野の里では昔から茶の生産も盛んとのこと。あちらこちらに茶畑がありました。大野茶も新茶の季節のはず、買うのを忘れたー。
神風連としては氏神様に参らざるべからず。伝承として菅原道真の子である慶能法師を遠祖とする村ですから、お社は勿論天満宮。16世紀中葉の御遷座です。現在、社殿は南面していますが、神楽堂の位置などから考えると本来は東面されていたのではと思われます。第一、南側には入り口がありません。新しい覆い堂は、大野の人がこのお社を大切にされていることを物語っています。
最初に目に付くのは立派な土俵、さらに力石です。京中の不勉強なる寺などは力石があっても何であるのか知らない坊主も多いと見えますが、ここのお社ではきちんと説明もされていて流石!この力石は30貫あるそうです。
ご本殿の横には仁清の遠祖も配祀されています。その横には茅葺きの神楽堂(現在はトタンで覆われていますが、それもよし。)。
小生は「おふくろ鍋」というのを食い損ねたので(ふるまいの時間、1時30分と11時30分を間違えたわい)、どこで何を食おうかと思案しました。無い物ねだりになりますが、「といゴボ天うどん」(この近所で食えた)があればなあ…(詠嘆)。結局、美山中心部に戻り新しくできた「えびす屋」で山菜うどんを食いました。タマゴが落としてあったのは余分、濁ったうどんのツユを飲むと心が濁る(笑)。最初、名物「えびすうどん」にしようかなと思ったのですが、注文する直前に地鶏のハム等というトンダモナイもの(小生の天敵は鶏肉だす)が入っていることを発見、すぐに取り消しました。あぶなー、あぶなー。
今回、トタン屋根やトタンの錆びたものは決して古里の景色を阻害しない、やはり美しい風景の一番の敵はブルーシートだということを改めて認識しました。大野ではブルーシートは全く見られませんでしたよ(といいながら神社の土俵の側に青いものが)。他の地域の人も見習って欲しいものです。
さて、会場の大野の集落付近に近づくと、パトカーが一台赤色灯を回転させたまま停車し、ポリコマンも約4名ほどが立っています。パトカーとかポリコマンを見ると反射的に逃げ出したくなるのですが(笑)、その衝動を抑えて会場に。ハッピを着た係の方が駐車場まで誘導してくれました。
ポリコマンが多数いる理由は仁和寺の名宝が公民館に展示されているからでした。仁清作・黒褐釉肩衝茶入というやつがそれで、こやつの横にはガードマンが待機して、写真を撮るスットコドッコイはいないかと目を光らせています。小生などが立志伝中の人物であるならば、「こんなものに人が操られてどうする!」とか言って茶入を手にとって向こうの川に投げ込むというところでしょうが、そんな根性はありません。
「仁清をたたえる会」の歴代会長の写真に感心して、公民館を出ますとちょうど南丹市長が到着したということで、ユルキャラのぬいぐるみなども登場し、少し賑やかになってきました。仁清まつりということで、この地域で陶器を焼いておられる方々が何名か作品を陳列・販売されていますが、作品と価格がどうしてもつろくせず呆れるものも混じっていますから、次回からは食えない焼き物は仁清だけで十分。やっぱり祭で焼くなら「焼きそば・たこ焼き」やでー。
田植えが終わったばかりの大野の里は美しい景色です。今は多くの家がかやぶき屋根にトタンをかぶせていますが、それもOKです。村の様子は有名な茅葺きの里(北村)とよく似ています。
謎の植物
謎の植物アップ 誰か名前を教えてくらはい
大野の集落も亦、山の南斜面に広がっていますから北側に行くには坂を登っていくことになります。公民館から北に登っていくと仁清の生家跡があります。前回、ここを訪ねたときには閉まっていましたが、今日は開いています。
この生家跡でNM先生にご挨拶をし、この催しを教えて下さったmfujino様の名を出しますと、先生が「まあ上がれ。」と屋敷の中を見学させて下さいました。屋根裏部屋も写真を撮ったのですが、何も写らず。田の字型の間取りの「食い違い」等はじっくりと説明して下さいました。
食い違い間取り
この建物、用材は江戸時代のものをそのまま使用しているそうです。先生は友人と遅い昼食を摂られるつもりだったのですが、要らざる闖入者の為に随分と食事が遅くなってしまいました。
仁和寺のある御室地域、御室小学校を少し南に行ったところに「仁清窯跡」の碑があります。以前は大映映画の監督であった伊藤大輔さんのお屋敷があったところですが、監督さんが亡くなった時に屋敷は売り払われ、今は12軒ほどの建て売り住宅に代わっています(といっても一軒一軒は立派な家です。監督の屋敷はどれだけ広かってんと申す処。)。ここまでは何となく知っていたのですが、御室小学校は尾形乾山の窯跡であることや焼き物の土は黒谷・金戒光明寺付近のものや、高瀬舟で兵庫あたりのものも運ばれてきていたこと等々。謙遜して言われているのですが、この地を出ていった野々村一族は皆々出世したが残っている自分らはダメだー等とも(笑)。
食い違い間取りにする理由など、他にも聞きたいことはいっぱいあったのですが、ご友人がずっと待っておられるのに気がつきましたので、急いで撤退です。あのまま先生が話し続けたら昼飯は晩飯になったでしょう。今回のまつりを中心になって運営された方です。その意気込みが感じられました。午後から雨が上がり、本当に良かったですね。
謝して去る古民家 家君遅き中食を摂る
この大野の里では昔から茶の生産も盛んとのこと。あちらこちらに茶畑がありました。大野茶も新茶の季節のはず、買うのを忘れたー。
神風連としては氏神様に参らざるべからず。伝承として菅原道真の子である慶能法師を遠祖とする村ですから、お社は勿論天満宮。16世紀中葉の御遷座です。現在、社殿は南面していますが、神楽堂の位置などから考えると本来は東面されていたのではと思われます。第一、南側には入り口がありません。新しい覆い堂は、大野の人がこのお社を大切にされていることを物語っています。
最初に目に付くのは立派な土俵、さらに力石です。京中の不勉強なる寺などは力石があっても何であるのか知らない坊主も多いと見えますが、ここのお社ではきちんと説明もされていて流石!この力石は30貫あるそうです。
ご本殿の横には仁清の遠祖も配祀されています。その横には茅葺きの神楽堂(現在はトタンで覆われていますが、それもよし。)。
小生は「おふくろ鍋」というのを食い損ねたので(ふるまいの時間、1時30分と11時30分を間違えたわい)、どこで何を食おうかと思案しました。無い物ねだりになりますが、「といゴボ天うどん」(この近所で食えた)があればなあ…(詠嘆)。結局、美山中心部に戻り新しくできた「えびす屋」で山菜うどんを食いました。タマゴが落としてあったのは余分、濁ったうどんのツユを飲むと心が濁る(笑)。最初、名物「えびすうどん」にしようかなと思ったのですが、注文する直前に地鶏のハム等というトンダモナイもの(小生の天敵は鶏肉だす)が入っていることを発見、すぐに取り消しました。あぶなー、あぶなー。
今回、トタン屋根やトタンの錆びたものは決して古里の景色を阻害しない、やはり美しい風景の一番の敵はブルーシートだということを改めて認識しました。大野ではブルーシートは全く見られませんでしたよ(といいながら神社の土俵の側に青いものが)。他の地域の人も見習って欲しいものです。
出て行った一族は出世し残った云々ですが、前にも触れましたが地元でしっかりした業績を残された文字権左右衛門さんをお忘れでは?なんて反論されたらよかったのに…、なんて思います。この人の古い丹波の地図の実物を見たいなあと思っていますが、これって見せて貰えませんかって頼んでみようかしら。そうだこれで一つミニツアーを企画してみよう(^_・)というのは田舎に眠る文化財を見たいという人が割といらっしゃいましてね。地元の文化財を守る会の人達をけしかけているところです。ただ先日郷土史を研究されているYさんと話た時、そういう企画を地元の人に呼びかける機会を作ってもちょっとしか集まらない、と嘆いておられました。
土俵の残った神社は私も久しぶりに見ました。天満宮ですが、以前長老が岳に上った時でしたっけ、府道から三埜に入った突き当たりにあったのが菅原神社です。
テントに出店してされていた作品はピンと来ませんでしたね。でも出展依頼をされたらあれこれ質問攻めにあったり、無視されたり、と主催者の苦労話も聞きました。しかしこのお祭りやゆったりと歩きながら眺めた豊かな景色とともに、地域の力や伝統などなどいろいろとテーマを与えてくれました。何にもないところから仁清が生まれたとは思えないのですね。
あ、そうそう、茶畑を見過ごされないあたりもさすがでございます。これは北前船にも関係するそうです。いろいろな課題を与えてくれる里です。
売り物の焼き物が、途方ももない高い値段とのこと。美山には私の元同僚が逼塞して、陶器を焼いていると聞いています。高齢で晩年まで活躍したA画伯(女流)の次男なのですが、現在はどうしているかは不明です。
謎の植物は野生闌の一種の様にも思えますが、最近は洋物が浸入して来ていますし・・・。先日出掛けた岡山山里でも、西洋蒲公英が占拠していました。大野の茶畑は名産なのでしょうか。宇津村にも山の傾斜地や小学校の丘陵に茶の木が生えていて、冬になれば茶の実を採らされました。いつかの同窓会で、「茶の実友達やんか」と、元女性徒から徳利を持って迫られたことがあります。北桑でも。かなり茶が収穫可能なのかも知れません。
畳敷きの部屋は、「日」や「田」の字が基本なのでしょうが、それを崩して6畳9畳などに増やすのは、権力の象徴と聞いたことがありますけど、どうでしょうか。知ったかぶりのオッサンが、しやしゃり出て来そうですが。
力石は文字通り力試しの為の石でしょうか。昔の会社に、この名前の大柄な女子社員が居りました。性格は極めて温厚でしたけど。話が直ぐに横へ逸れて申し訳ありません。塗炭屋根でも古びてくれば背景に収まる様です。青や赤などの派手な囲いよりは、遙かにマシです。最後の仕上げにおふくろ鍋を逃されたのは残念でした。徘徊別堂で、一度、鷄抜き鍋大会を開催しないといけませんネ(?)
梅雨に入り長雨が続いて、美山の田圃の稻も出揃った頃。懐かしい風景が一面に広がっていることでしょう。「仁清も眺めし早苗風に揺れ」道草。
大野の里一つにも濃い伝承、様々な文化財が残っています。連れて行っていただいた四谷や原やその他、一つ一つの集落にまだまだ眠っているものはあるでしょうね。もうそういうことを考えただけで、「退屈」などとは無縁の仁清がおくれそうです(笑)。
陶芸、完全にしらけていました。もう無理して出品してもらう必要はないのではないかなと思います。仁清まつりが有名になれば、向こうから出品させてくれーということになるでしょうし。
力石はムラの若い衆が力自慢をするために用いたものでしょうが、同じ石が代々、お爺さんが持ち上げたものを今日は孫が…のような物語があったはずです。どこでも、この石を眺めているとムラが最も賑やかであった時代が偲ばれます。
食い違いを設けるのは、お書きいただいた理由があるのですね。当日は、構造的な話が中心で「では何故このような食い違いにするのか」ということを聞き逃しました。ありがとうございます。
先日の京都新聞にゼミナールハウス友の会会長東慧氏の「野々村仁清が里がえり」の文章を読ませて戴きました。お読みになりましたでしょうか?
>今回の催しを機に地元では今、仁清生誕地にふさわしい文化の香る里づくりに燃えている。「かやぶきの里美山」のもう一つの寄り道スポットとして、足を運んでみてはどうだろう*
予想外のご盛況だったようですね。
gunkanatagoさんの目は会場だけでなく大野のいたるところに向けられていてすごいです。食い違い間取りの意味は判りませんが我が里の家も9畳の食い違いの部屋がありました。
謎の植物はたぶん、ウラハグサ(風知草)ではないかしら?もしそうなら、葉の縞が美しいからお花のお稽古に使いました。
里のご自宅も食い違いの部屋があったとのこと、あのような家に住むと、快適すぎて一日中南の座敷でゴロゴロしているかも知れませんね。
茅葺きの里は、あまりにも有名になりすぎて、それはそれで良いことなのですが、ゆっくりと散歩する気分ではありませんね。東さんの言っておられるように大野の里にちょっと散歩に来るスポットになればいいとも思います。ただ、そのためには「といゴボ天うどん」の復活が大切ですね(笑)。