淀川から神崎川が分岐するところが、河川交通の要衝として栄えた江口の里です。斯様なところは何処も旅客を相手とする遊女が多く集まるところでした。旅客を乗せた船が淀川から神崎川に入ってくると、或いは土手に或いは舟が出て、首を白く塗った遊女たちが男どもを誘いました(この遊女の有様、京街道の飯盛り女のイメージが強いけれど、まあいいか)。
この地では、西行と歌のかけ合いをしたという江口の君なる遊女の話が残っていますが、この話を元にして、さらに謡曲「江口」が創られ、江口の里=遊女というイメージはいよいよ濃いものとなっていきました。
今の江口の里(大阪市東淀川区)、少し古い集落は残っていますが、いくつもの高層マンションが建ち並んでおり、なかなかに昔を想うことは難しくなっています。
神崎川は、淀川から分岐してまもなく茨木市の山間から流れてくる安威川を併せ(というよりも安威川に流れ込みという感じ、安威川の方が大きい)、吹田方面に流れていきます。この安威川と並行して流れ、やはり神崎川に流れ込むのが、江戸時代前半に高槻藩によって開削された番田井路(ばんだいじ)で、その源流を遡れば桧尾川付近にまで行けそうですが、この排水路の完成によって、ベチャベチャだった淀川右岸が豊かな田畑になったということで、高槻藩永井氏はやはり素晴らしい。
神崎川から番田井路に水が逆流することを防ぐために水門が造られています。なかなかに立派なものです。
水門付近の橋を渡り、少し東に行ったところが江口の古い集落、道の向こうにはゴミ焼却場の高い煙突が見えます。
三好政長は、三好一族ですが、元長-長慶と続く本家とは一線を画し、細川晴元の家臣として独自の地位を築いていました。嫡流の三好長慶としては、それはおもしろくない状態であったようで、既に1539年に、政長を討つべく兵を出したこともあるようですが、本願寺証如の斡旋などもあったのでしょうか、このときは和解が成立して共通の敵となった木沢長政にあたっています。
話は本筋を外れますが、この時点では丹波の内藤氏や宇津氏などは、一貫して1532年の大物崩れで滅んだ細川高国方に立っていて、高国側の残党として、その動きを活発化し始めていたようです。宇津氏が小野郷に関所を建てたのが1535年、山国荘を違乱したというのが1540年のことです。
1542年の太平寺の戦いで木沢長政を倒した三好長慶は、1547年には高国の後継と称する細川氏綱の軍を舎利寺で破っていますが、三好政長はこの時点では長慶の武将として参戦しています。舎利寺の戦いの前に三好軍は江口の対岸の榎並城に集結していますが、榎並城はこの時点で既に三好政長が管轄する城であった可能性があります。
1548年、政長が長慶のことを晴元に讒言したことがきっかけとなって、両者の関係は決定的に破局を迎えます。長慶は、主人の晴元を見限り、それまで長年の敵であった高国方、氏綱を擁立します。
1549年6月、当時の根拠地である西宮の越水城を出陣した長慶を迎え撃つべく、政長は、榎並城を出て対岸の江口に渡り、ここで近江からの援軍を待ちました。近江からの援軍というのは、どうもいつも間に合わぬもののようで、大物崩れのときもそうでしたが、攻める長慶としては近江勢が来ては面倒になる、今のうちにということで江口を急襲します。
援軍をアテにする気分が横溢している軍勢は、十分な備えもしていなかったのでしょう、忽ちに壊走し三好政長は榎並城に逃げようとするところを討ち取られました。これが江口の戦い。
おもしろいのは、その後に落城した榎並城から政長の子政勝は脱出し、どうも宇津氏を頼って丹波へ落ち延びたようで、その後の長慶の攻勢に堪えられなかった細川晴元自身も宇津に赴いています。
それまで、一貫して細川高国方に付いて晴元側と対決していた宇津氏の立場からすれば、三好長慶と連携するのが自然であるのに、この時点でひっくり返っている。いかなる理由で晴元側に転じたのかは不明です。内藤氏はこの後、三好方として晴元側と戦っていますから、宇津氏と内藤氏は袂を分かっているのです。
さて、江口に戻りましょう。淀川のすぐたもとにあるのが、江口の君堂です。堤防のすぐ近くには「江口の里」の碑もあります。
普賢院というこの寺、本堂の左手には君塚・西行塚という塚もありました。江口の君が平資盛の娘の妙(たえ)であるとするのは加上されたものでしょう。うわっ、加上という言葉を使っちゃった。学の至らぬ自分が…、仲基さんスミマセン。
現在の江口には、江口合戦をしのばせるものは何も無く、江口城もこの君堂あたりだろうというだけです。
淀川の土手に出ました。神崎川が分岐するところにも水門があります。まさにここはネーデルランド。これらの水門は全て洪水対策です。この間歩いた加古川の土手とは異なり、諸人の往来は結構盛んです。
三好政長が、辿り着けなかった対岸が見えますが、どの辺りが榎並城なのか今では分からないそうです。本日は、生駒山までハッキリと見えています。
ここから西へ神崎川は流れていく。
あまりに何もないので、大隅神社という神社に行けば何か痕跡もあらむと向かいますが、どこか分かりません。その近く辺りまでは来ていたのでしょうが、自転車に乗ったおっさんに道を尋ねたところ、「ああ大隅神社なあ。」とおっさんは詳しく教えてくれました。しかし、その道を行くと、再び江口の君堂に戻ってきてしまいました。こら!
ということで、本日は大隅神社は諦めて、アルコールタイムとなります。上新庄の駅に行くまでに我慢できずに入った、このたこ焼き屋、「呉春」が置いてあります。何と見識の高い店でありましょうか(詠嘆)。大阪経済大の諸君、諸君の縄張りにこのような立派な店があることは誇りとせねばならぬ。京都大学の周辺でも呉春は呑めぬぞよ。けど、ビールの後は焼酎を飲む人が殆どだと大将は言ってました。
道すがら、スーパーライフの前に君堂への立派な道標がありましたが、その台石の上におもちゃを並べて女の子が何人か遊んでいました。写真を撮ると女の子を撮っているようでヤラシイのでやめておきました。「江口の君のような立派な遊女になるんだよー」と心の中で声をかけておきました(爆)。
上新庄からは、すぐに大阪。大ビン380円の串カツ屋に行ったところ、定休日でした。やむを得ぬ、キリンケラーヤマトの駅前第4ビル店にしけこむことになりました。梅田店が閉まることになったので、これからはこの店も人が多くなると考えられます。
この地では、西行と歌のかけ合いをしたという江口の君なる遊女の話が残っていますが、この話を元にして、さらに謡曲「江口」が創られ、江口の里=遊女というイメージはいよいよ濃いものとなっていきました。
今の江口の里(大阪市東淀川区)、少し古い集落は残っていますが、いくつもの高層マンションが建ち並んでおり、なかなかに昔を想うことは難しくなっています。
神崎川は、淀川から分岐してまもなく茨木市の山間から流れてくる安威川を併せ(というよりも安威川に流れ込みという感じ、安威川の方が大きい)、吹田方面に流れていきます。この安威川と並行して流れ、やはり神崎川に流れ込むのが、江戸時代前半に高槻藩によって開削された番田井路(ばんだいじ)で、その源流を遡れば桧尾川付近にまで行けそうですが、この排水路の完成によって、ベチャベチャだった淀川右岸が豊かな田畑になったということで、高槻藩永井氏はやはり素晴らしい。
神崎川から番田井路に水が逆流することを防ぐために水門が造られています。なかなかに立派なものです。
水門付近の橋を渡り、少し東に行ったところが江口の古い集落、道の向こうにはゴミ焼却場の高い煙突が見えます。
三好政長は、三好一族ですが、元長-長慶と続く本家とは一線を画し、細川晴元の家臣として独自の地位を築いていました。嫡流の三好長慶としては、それはおもしろくない状態であったようで、既に1539年に、政長を討つべく兵を出したこともあるようですが、本願寺証如の斡旋などもあったのでしょうか、このときは和解が成立して共通の敵となった木沢長政にあたっています。
話は本筋を外れますが、この時点では丹波の内藤氏や宇津氏などは、一貫して1532年の大物崩れで滅んだ細川高国方に立っていて、高国側の残党として、その動きを活発化し始めていたようです。宇津氏が小野郷に関所を建てたのが1535年、山国荘を違乱したというのが1540年のことです。
1542年の太平寺の戦いで木沢長政を倒した三好長慶は、1547年には高国の後継と称する細川氏綱の軍を舎利寺で破っていますが、三好政長はこの時点では長慶の武将として参戦しています。舎利寺の戦いの前に三好軍は江口の対岸の榎並城に集結していますが、榎並城はこの時点で既に三好政長が管轄する城であった可能性があります。
1548年、政長が長慶のことを晴元に讒言したことがきっかけとなって、両者の関係は決定的に破局を迎えます。長慶は、主人の晴元を見限り、それまで長年の敵であった高国方、氏綱を擁立します。
1549年6月、当時の根拠地である西宮の越水城を出陣した長慶を迎え撃つべく、政長は、榎並城を出て対岸の江口に渡り、ここで近江からの援軍を待ちました。近江からの援軍というのは、どうもいつも間に合わぬもののようで、大物崩れのときもそうでしたが、攻める長慶としては近江勢が来ては面倒になる、今のうちにということで江口を急襲します。
援軍をアテにする気分が横溢している軍勢は、十分な備えもしていなかったのでしょう、忽ちに壊走し三好政長は榎並城に逃げようとするところを討ち取られました。これが江口の戦い。
おもしろいのは、その後に落城した榎並城から政長の子政勝は脱出し、どうも宇津氏を頼って丹波へ落ち延びたようで、その後の長慶の攻勢に堪えられなかった細川晴元自身も宇津に赴いています。
それまで、一貫して細川高国方に付いて晴元側と対決していた宇津氏の立場からすれば、三好長慶と連携するのが自然であるのに、この時点でひっくり返っている。いかなる理由で晴元側に転じたのかは不明です。内藤氏はこの後、三好方として晴元側と戦っていますから、宇津氏と内藤氏は袂を分かっているのです。
さて、江口に戻りましょう。淀川のすぐたもとにあるのが、江口の君堂です。堤防のすぐ近くには「江口の里」の碑もあります。
普賢院というこの寺、本堂の左手には君塚・西行塚という塚もありました。江口の君が平資盛の娘の妙(たえ)であるとするのは加上されたものでしょう。うわっ、加上という言葉を使っちゃった。学の至らぬ自分が…、仲基さんスミマセン。
現在の江口には、江口合戦をしのばせるものは何も無く、江口城もこの君堂あたりだろうというだけです。
淀川の土手に出ました。神崎川が分岐するところにも水門があります。まさにここはネーデルランド。これらの水門は全て洪水対策です。この間歩いた加古川の土手とは異なり、諸人の往来は結構盛んです。
三好政長が、辿り着けなかった対岸が見えますが、どの辺りが榎並城なのか今では分からないそうです。本日は、生駒山までハッキリと見えています。
ここから西へ神崎川は流れていく。
あまりに何もないので、大隅神社という神社に行けば何か痕跡もあらむと向かいますが、どこか分かりません。その近く辺りまでは来ていたのでしょうが、自転車に乗ったおっさんに道を尋ねたところ、「ああ大隅神社なあ。」とおっさんは詳しく教えてくれました。しかし、その道を行くと、再び江口の君堂に戻ってきてしまいました。こら!
ということで、本日は大隅神社は諦めて、アルコールタイムとなります。上新庄の駅に行くまでに我慢できずに入った、このたこ焼き屋、「呉春」が置いてあります。何と見識の高い店でありましょうか(詠嘆)。大阪経済大の諸君、諸君の縄張りにこのような立派な店があることは誇りとせねばならぬ。京都大学の周辺でも呉春は呑めぬぞよ。けど、ビールの後は焼酎を飲む人が殆どだと大将は言ってました。
道すがら、スーパーライフの前に君堂への立派な道標がありましたが、その台石の上におもちゃを並べて女の子が何人か遊んでいました。写真を撮ると女の子を撮っているようでヤラシイのでやめておきました。「江口の君のような立派な遊女になるんだよー」と心の中で声をかけておきました(爆)。
上新庄からは、すぐに大阪。大ビン380円の串カツ屋に行ったところ、定休日でした。やむを得ぬ、キリンケラーヤマトの駅前第4ビル店にしけこむことになりました。梅田店が閉まることになったので、これからはこの店も人が多くなると考えられます。
数ある戦国武将の中では、宇津氏など弱小の部類に入るのかも分かりませんが、なかなか気骨のある武士の印象を受けます。それとも強欲過ぎたのか。いずれにしましても、末裔はほとんど残っていない様ですし、その滅亡の仕方も完膚無きまでみたいに思えます。
それにしましても、小学校・中学校では、郷史などは一切教えないのですねぇ。末裔達が存在していて具合が悪いのか、義務教育の範疇に入らないのか。せめて課外授業で教えてもらえれば、私などでも宇津城の存在さえ知らずに過ごすこともなかったはずです。
今なら、江口の君の方に興味がありますが・・・西行と問答をしたとは、中々の才女が居たものです。その辺をうろつく男性は何だか適当人間みたいですが、後継者にふさわしい女の子も存在している様で、女性はやはり心強いです(本当は、必見の写真を撮られたとか)。
ただ、たこ焼き屋に呉春が置いてあるとは、さすがは遊女の里です。とは言え、学生には贅沢でしょう。焼酎で沢山です。私達の頃は、どぶろくでしたから。
最終は駅前第4ビルの地下ですか。ここまで来れば、徘徊堂さんには我が家へ帰ったも同然ですから、徹底的に沈没されたことでしょう。第1~第4まで、駅前ビルは懐かしいばしよです。キリンケラー云々は、当時は存在していなかったと思いますが・・・。
「麦酒に武将と遊女を偲ぶ秋」道草
江口とかを聞くと、高校生の頃だったか瑞光通にあった伯母さんの家に行ったことを思い出します。梅田からはバスで偉い遠いなあという印象が残っています。高校時代従兄弟に大阪のあちこちを案内して貰ったこの時が大阪を歩いたはしりでした。京都よりも更に都会を感じたものです。その前に小学生時代、四つ橋の電気科学館に来たことはありましたが風景としては西横堀のどぶ川を見てなんて汚い街だろうと思いました。もう一回はNHKのテレビ番組「私の秘密」に山國隊が登場、大阪城で鼓笛演奏をしました。NHKの食堂で頂いた定職が田舎育ちにはえらいご馳走に思えました。さてこの伯母さん淀川の渡しに乗って千林商店街に買い物に出かけてられました。とにかく良く歩く伯母さんでした。
この辺りの風景や以前書かれていた大正区、浪速区や渡し船のことなどを重ね合わするとやはり大阪はネデルランドでございますね。淀川の河川敷を自転車で北上し豊里大橋の上流で高校時代の恩師がアルバイトをしておられた公園事務所を何の連絡もなしに訪れてびっくりさせたことも思い出しました。
高校までの同級生が神戸線の神崎川駅を下りたところで赤提灯の店を出しています。この辺りを徘徊される機会があれば是非暖簾を潜ってやって下さい。
懐かしくなり思い出話ばかりで断線してしまいましたのでこのあたりで失礼いたしやす。
大半の小学生にとっては、聖徳太子も中臣鎌足も藤原道長も「よそのおっさん」です。それよりも、「この橋は誰が架けた」とか、「ここら辺りで昔は戦いがあって、たくさん死んだんや」という感じで我が住む地を認識させる方がいいと思います。
神崎川は、昔に比べると随分ときれいになったように思います。横を歩いていても、臭いにおいがしません。そういえば、大和川の水質も改善しているようです。
水都大阪、述べておられますように水がまだまだ汚いです。今回、神崎川はエライきれいになったなあと思いましたが、木津川の渡船のところなんかは絶対にハマリたくない水です。何とかならんのかなあと思います。
神崎川駅前の赤提灯、ありがとうございます。これは絶対に暖簾をくぐらねばならぬと決意しています(笑)。
、この辺り全く未踏です。また歴史の江口の乱も遊女江口のことも初めてうかがいました。(知らないのは私だけかも)そこに宇津氏が登場することも楽しく読ませて頂きました。
池田の「呉春」でアルコールタイムもさぞご機嫌だったこととお喜び申し上げます(笑)
聞く話によると西宮では、焼酎「阪神タイガース・野球野郎」とか泡盛「豪球」などがあるらしいですね。M氏はこれでご晩酌かもね。横道ですみません。
たこ焼き屋では、残念ながら「呉春」は飲んでいません(泣)。まだ、だいぶと歩かなければならなかったので、ビールとたこ焼きだけでした。その折に未練たらしく「今度、夕方に来るわなぁ。」と何度も言い置きました。あと、問題は呉春が冷やしてあるかどうかですね。阪急宝塚駅の近くの串カツ屋にも呉春があるのですが、ぬるぬるの酒を出されて「これはもったいない」と思ったことがあります。焼酎の名、悪酔いしそうですね。