紀伊半島、小生の好きな果無山脈に沿った各地に甚大な被害をもたらした台風12号、先ずもって被害に遭われた方々に心からお見舞いを申し上げます。ニュースに出てくる懐かしい地名、そこが大きな被害を受けていて亡くなった人もいる。東日本大震災といい、今年は何という年やねんと腹立たしいです。
本来ならば、台風一過後の青空徘徊を予定していた日、台風は未練たらしく鳥取付近に留まっていたのでしょうか、全くすっきりとはしない天気でありましたが、東高野街道を少しだけ歩いてきました。と言っても何か計画があってのことではなく、全く思うがままの放浪であります。トップの写真、東高野街道はだいたいがこんな感じになっています。
本日の出発点は四条畷市の歴史民族資料館、雨のせいかもしれませんが、しっとりと落ち着いた良い施設です。ここから少しの間だけ昔の街道が残っています。フロイスの「日本史」に出ているキリシタンの墓石が実際に見つかっているということで展示してありましたが、ビックリしました。当たり前と言えば当たり前ですが、この辺りも遺跡だらけ。
歴史民俗資料館
早くも国道に出てしまうと四条畷の戦いで戦死した和田賢秀の墓、広大です。本来は神社と為すべきの計画もあったのではないでしょうか。近年、北朝に深い同情を有している小生ですが、塋域に入ることはできました。この近くでは道標がペグ代わりに用いられて哀れな様を晒しています。
和田賢秀墓
本来ならば、四条畷神社にもお参りすべきところですが、雨の勢いが小さいうちに先に進むべく、今回は失礼させていただきます。飯盛山も雨に煙っています。
飯盛山
三好元長は、この飯盛山に木沢長政を攻めている時に一向宗の門徒に背後から攻撃され、堺へと撤退しました。その堺でも門徒に包囲されて自殺するのですが、その年は1532年。やがて元長の子の長慶が1542年の太平寺の戦いで木沢長政を討ち取り、1560年には飯盛山城を居城として入城します。多くの武士共が「くっそー!」と思いながら仰ぎ見た山です。今、山上に小楠公の銅像があることは、この山の歴史を踏まえたものになっていないような気がします。勿論、小楠公が戦死された土地ですから、顕彰することの大切さは理解できますが、小楠公御自身も一度も登ったことのない山のテッペンに据えられて迷惑されているかも知れません。
北条までやって来ました。大東市です。北条神社は初めてですので、街道を外れて参拝します。
北条神社一の鳥居
北条神社
神社の西と南にはバテレンの教会、特に南のヤツは十字架の下の壁を「赤」に塗っていてひどい感じ、東は特養で頻りに送迎の車が走ります。神社受難の時代ですね。この神社、八幡さんと天神さんが合祀されています。この辺りはダンジリが出るのですね。地域ごとに大きな格納庫がありました。
北条神社から東高野街道に下ってくると大雨、ウーと思っているとバスが来ます。ひとまずバスに避難します。
降りたところは東大阪市日下、「ひのもと」の根源地です。ヤマトが奈良県の巻向遺跡周辺の狭い地域から出発したように、「ひのもと」はこの日下の地を指す言葉から、日本全体を指す言葉になりました。
古事記では東征して来られた神武天皇がこの付近で上陸、山越えでヤマトに入ろうとされますが、登美長髄彦の抵抗に遭い、兄の五瀬命が戦死されます。この戦いを孔舍衙坂の戦いと言いますが、この名は今も健在です。
この時に、長髄彦の側におられたのが、ニギハヤヒの命で、現在の石切神社の御祭神です。生駒の西麓は物部氏の伝承が色濃く残っています。坂を登っていくと大龍禅寺、この付近に「日下直越道」の案内を見つけたので、山を詰めていきました。
そのまま奈良県側に抜けられるのかなと考えていましたら、道は行き止まりで完全な山道になってしまいました。流石に本日は知らない山道はヤバイ、生駒山でもヤバイと思いましたので撤退です。「思えば畏し神武の帝…」と陸軍行進曲を歌いながら元気に進みましたが、神武帝を手本にここは撤退、後日再挑戦します。
山を下りてきましたら、近鉄孔舍衛坂駅跡、神社の横に心霊スポットたる旧生駒トンネルの入り口があります。「近づくなー、近づいたらあかん。」という気が充満している感じです。
大龍禅寺
近鉄軌道跡
付近の日下神社、丹波神社全てパスする形になり、本日の神風連は罰当たりです。上田秋成寓居の跡は完全に住宅地の真ん中、何も残っていません。いつの間にか近鉄石切駅に。この辺りは大阪平野北部をドーと見下ろすことができますが、本日は雲だらけ。東大阪市のマンホールは梅の意匠、ラグビーのものもあると聞いたことがありますが。
ここまできたら、後の計画はバッチリ。石切神社に降りていくころには多分酒が入っているだろうから、本日は上之社にお参りします。途中に爪切り地蔵尊、弘法大師空海が爪で刻んだという伝承のあるお地蔵さんです。またいずれ取り上げたいと思いますが、この付近には由緒・謂われのあるお地蔵さんがたくさんおられます。
下之社の賑わいに比べ、上之社にはお参りする人も殆どいません。神職さんも大声で「ようこそお参り下さいました。」と挨拶をして下さいます。
石切名物の食い物と言えば、カタセン(堅い煎餅)、よもぎの天ぷら、じゃがいもの煮たヤツ、漬け物、漢方薬(食い物かなあ?)というところでしょうか。ところがこれに、明石焼も加わるのであります。
小生などは、本場明石の玉子焼はどうもアブラ臭い感じがして、適当に大阪化したここらの明石焼がウマイと思っています。出汁の方は、東北の人たちが食べたら「湯」に漬けているみたいと思うかも知れませんから、もう少し濃い方がいいなあと思います。
下之社、本日もお百度を踏む人でイッパイです。酒臭い息をして境内に入るのは遠慮しなくてはなりません。そのまま新石切駅に出て大阪に向かって進軍であります。
本来ならば、台風一過後の青空徘徊を予定していた日、台風は未練たらしく鳥取付近に留まっていたのでしょうか、全くすっきりとはしない天気でありましたが、東高野街道を少しだけ歩いてきました。と言っても何か計画があってのことではなく、全く思うがままの放浪であります。トップの写真、東高野街道はだいたいがこんな感じになっています。
本日の出発点は四条畷市の歴史民族資料館、雨のせいかもしれませんが、しっとりと落ち着いた良い施設です。ここから少しの間だけ昔の街道が残っています。フロイスの「日本史」に出ているキリシタンの墓石が実際に見つかっているということで展示してありましたが、ビックリしました。当たり前と言えば当たり前ですが、この辺りも遺跡だらけ。
歴史民俗資料館
早くも国道に出てしまうと四条畷の戦いで戦死した和田賢秀の墓、広大です。本来は神社と為すべきの計画もあったのではないでしょうか。近年、北朝に深い同情を有している小生ですが、塋域に入ることはできました。この近くでは道標がペグ代わりに用いられて哀れな様を晒しています。
和田賢秀墓
本来ならば、四条畷神社にもお参りすべきところですが、雨の勢いが小さいうちに先に進むべく、今回は失礼させていただきます。飯盛山も雨に煙っています。
飯盛山
三好元長は、この飯盛山に木沢長政を攻めている時に一向宗の門徒に背後から攻撃され、堺へと撤退しました。その堺でも門徒に包囲されて自殺するのですが、その年は1532年。やがて元長の子の長慶が1542年の太平寺の戦いで木沢長政を討ち取り、1560年には飯盛山城を居城として入城します。多くの武士共が「くっそー!」と思いながら仰ぎ見た山です。今、山上に小楠公の銅像があることは、この山の歴史を踏まえたものになっていないような気がします。勿論、小楠公が戦死された土地ですから、顕彰することの大切さは理解できますが、小楠公御自身も一度も登ったことのない山のテッペンに据えられて迷惑されているかも知れません。
北条までやって来ました。大東市です。北条神社は初めてですので、街道を外れて参拝します。
北条神社一の鳥居
北条神社
神社の西と南にはバテレンの教会、特に南のヤツは十字架の下の壁を「赤」に塗っていてひどい感じ、東は特養で頻りに送迎の車が走ります。神社受難の時代ですね。この神社、八幡さんと天神さんが合祀されています。この辺りはダンジリが出るのですね。地域ごとに大きな格納庫がありました。
北条神社から東高野街道に下ってくると大雨、ウーと思っているとバスが来ます。ひとまずバスに避難します。
降りたところは東大阪市日下、「ひのもと」の根源地です。ヤマトが奈良県の巻向遺跡周辺の狭い地域から出発したように、「ひのもと」はこの日下の地を指す言葉から、日本全体を指す言葉になりました。
古事記では東征して来られた神武天皇がこの付近で上陸、山越えでヤマトに入ろうとされますが、登美長髄彦の抵抗に遭い、兄の五瀬命が戦死されます。この戦いを孔舍衙坂の戦いと言いますが、この名は今も健在です。
この時に、長髄彦の側におられたのが、ニギハヤヒの命で、現在の石切神社の御祭神です。生駒の西麓は物部氏の伝承が色濃く残っています。坂を登っていくと大龍禅寺、この付近に「日下直越道」の案内を見つけたので、山を詰めていきました。
そのまま奈良県側に抜けられるのかなと考えていましたら、道は行き止まりで完全な山道になってしまいました。流石に本日は知らない山道はヤバイ、生駒山でもヤバイと思いましたので撤退です。「思えば畏し神武の帝…」と陸軍行進曲を歌いながら元気に進みましたが、神武帝を手本にここは撤退、後日再挑戦します。
山を下りてきましたら、近鉄孔舍衛坂駅跡、神社の横に心霊スポットたる旧生駒トンネルの入り口があります。「近づくなー、近づいたらあかん。」という気が充満している感じです。
大龍禅寺
近鉄軌道跡
付近の日下神社、丹波神社全てパスする形になり、本日の神風連は罰当たりです。上田秋成寓居の跡は完全に住宅地の真ん中、何も残っていません。いつの間にか近鉄石切駅に。この辺りは大阪平野北部をドーと見下ろすことができますが、本日は雲だらけ。東大阪市のマンホールは梅の意匠、ラグビーのものもあると聞いたことがありますが。
ここまできたら、後の計画はバッチリ。石切神社に降りていくころには多分酒が入っているだろうから、本日は上之社にお参りします。途中に爪切り地蔵尊、弘法大師空海が爪で刻んだという伝承のあるお地蔵さんです。またいずれ取り上げたいと思いますが、この付近には由緒・謂われのあるお地蔵さんがたくさんおられます。
下之社の賑わいに比べ、上之社にはお参りする人も殆どいません。神職さんも大声で「ようこそお参り下さいました。」と挨拶をして下さいます。
石切名物の食い物と言えば、カタセン(堅い煎餅)、よもぎの天ぷら、じゃがいもの煮たヤツ、漬け物、漢方薬(食い物かなあ?)というところでしょうか。ところがこれに、明石焼も加わるのであります。
小生などは、本場明石の玉子焼はどうもアブラ臭い感じがして、適当に大阪化したここらの明石焼がウマイと思っています。出汁の方は、東北の人たちが食べたら「湯」に漬けているみたいと思うかも知れませんから、もう少し濃い方がいいなあと思います。
下之社、本日もお百度を踏む人でイッパイです。酒臭い息をして境内に入るのは遠慮しなくてはなりません。そのまま新石切駅に出て大阪に向かって進軍であります。
それにしても、徘徊堂さんのご健脚(ご健精)には脱帽するばかりです。東高野街道は高野街道の一部を成す道路でしょうか。確か、高野山へ続くための命名と記憶しておりますが?違いましたか。
四条畷は京都からもそれほど遠くない地点なのでしょうけど、私には未知の場所です(それが多過ぎますが)。四条畷と謂えば大楠公。となれば、桜井の別れが頭に浮かびます。この両者は地理的に近いのでしょうか。地図を調べれば分かることですが・・・。それもそうとして、塋域なる言葉を駆使されるのは、流石に歴史学博士と感服です。
ただ、この日は降雨のため、面白そうな場所へは登坂不可能で残念でした。「陸軍行進曲」より「討匪行」の方がふさわしい様にも思えますが。それにしても、日下神社の他に丹波神社なるものもあるのですか。丹波と謂いますと、私にはすぐ京都府下の地域が結び付くのですが。
続く上之神社の爪切り地蔵は面白そうです。さすがは弘法さんです。六地蔵尊より深い謂われがありそうに思えます。石切神社の徘徊録は以前に拝見したと思うのですが、明石焼がありましたか。流石は伝坊の神様です???雨に煙る本日の徘徊録で、最後の写真が最も鮮明で活々としている様にも見えますが・・・。それにしても、節度を遵守されてご立派でした。
「台風の去りし徘徊明石焼」道草。
東高野街道は、京都から高野山に至る街道です。河内の国を縦断する街道と言って良いと思います。生駒・信貴の山麓を通っています。今現在、四条畷から柏原辺りまでは自分が歩いた道がつながっているのですが、他のところはとぎれとぎれというところです。
四条畷は、小楠公楠木正行が京都から吉野へと攻め寄せようとした高師直の軍勢を迎え撃って戦死されたところです。桜井の駅の父子の別れの後、正行公は一旦は河内長野付近の根拠地に戻っておられて吉野の朝廷に出仕されていたようです。
大楠公、小楠公ともに戦死された地に祀られているのですが、これは北畠顕家公の阿倍野神社なども同じですね。
今回は、何となくうろ覚えの記憶だけで行ったので、帰ってきて調べてみるとイロイロなものを見落としています。近いうちに再挑戦します。
小楠公がどうしても表に出てきますが、ここは何と言っても古代からの交通の要衝ではなかったかと思っていたら、やはり今回の記事にもいろいろ出てきますね。物部氏や神武東征、話題は尽きぬのでしょう。今回はバスで通り過ごされたであろう善根寺町、阪奈道路を通る時にこの地名標識が目に入りちょっと気になっているのです。善根寺ってお寺もなさそうですが…。お四国さんの善根宿は有名ですが、この名前は京から高野山を目指す巡礼者が行き交った東高野街道とも関連するのかしら。お教え下さい。
そうか、日下はヒノモトなんだ。地名はやはり古代神話の世界に入り込まないと分かりませんね。先日高浜で一瀬さんという人の話を聞いたのですが、国名や県名は若狭・山背・越後・丹波・丹後、、、皆二文字、何でか分かる?って聞かれて、それもそうだなあって気がついたのですが、地名は情報の宝庫ですね。一つ面白い話を。根来衆かどうか知りませんが、時の権力者、秀吉と戦ったせいか、根来さんが姓を換える人がわりとあったそうですが、この中に「十八娘」と換えられた例があるそうです。改姓したのも読みは、ねごろ、というそうです。読めますか?まあ作り話でしょうけど、実例があるのかも知れません(^_・)
何か本題からどんどん離れていきそうなのでこの辺で失礼。と書いてきましたが、台風15号が紀伊山地に悪さをしそうな感じですね。私は紀伊半島の山地が壁になって我が地では激しい雨にならなかったと思っていまして、複雑な心境です。もし山が荒れていたら更に甚大な被害になっていたのではという思いもあります。
「十八娘」=「ねごろ」の話もありがとうございます。大変おもしろいです。冗談で名字を決めたら、後々困ることもあったでしょうね。
国名、地名などの二字、確か奈良時代だったと思うのですが、2文字にせよという命令が出ていたようにも覚えています。
神武天皇については茫漠としていますが、九州から攻め寄せた勢力がこの日下直越からヤマトに攻め入ろうとして撃退されたというようなことはあったのではと思います。近年は邪馬台国東遷説もかなり有力ですから、色々と想像が膨らみます。
飯盛山は、やはり「三好長慶」の居城、死んだ城という目で見るようになりました。昔は、とにかく小楠公だったのですが(笑)。小楠公自身はゲリラ活動をされていたときのことは分かりませんが、普通に考えたら飯盛山に登られたことはないでしょう。
まだ学校に上がっていないころ浄瑠璃好きの祖父に連れられて野崎観音にお参りしたそうですが、うっすらとしか覚えていません。歌詞にある屋形舟に乗った記憶は全くありませんが、舟はもっともっと昔のことかしら?
飯盛山は近畿自動車道から生駒山系を見ますとアンテナが建っている辺りでしょうか。
♪正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて・・・この歌も手まり歌で意味も判らずに覚えましたが、歴史の南北朝の動乱は今も判らないまま過ぎています。
日下(ヒノモト)て読むのですか。日下(クサカ)と読む苗字もありますね。
次の石切行きは、爪きり地蔵参拝と、ふっくら明石焼を食べますね^^
今夕は美山の薪能を見てゼミで泊まります。お天気がねぇ?
野崎は、屋形船は今は難しいです。川も三面張りになってしまっています。東海林太郎の歌のような景色が残っていたら素晴らしいでしょうね。お爺さんといらっしゃったときも片町線の野崎駅から歩かれたのではないでしょうか。平生は人も少ない寺ですが、野崎参りの時だけはムチャクチャにぎわいます。
浄瑠璃、そういえばお染久松の比翼塚がありますね。おさんと茂兵衛も何かからんでいたような気がします。
日下の現在の読みは「くさか」で、孔舍衙も「くさか」です。アンテナが立っているのは生駒山ですね。爪切り地蔵さんは、近鉄の石切駅から上之社に行く途中にあります。上之社から下之社(いわゆる石切さん)に下りて行かれる途中に2軒ありますから、明石焼をどうぞ。