小生は近年のNHKの大河ドラマは本当にくだらぬものだと思っていますが、遺憾ながら、観光における影響力は認めざるを得ません。昨年、伏見がごった返していたのは「坂本龍馬」の影響でしょうし、本年の大坂城の人出の何%かは、史上最悪とも謂われる「江」によるものだと思います。亀岡あたりでは、明智光秀を主人公とする大河ドラマを放映してくれとNHKに請願する動きもあるようです。明智による丹波攻略戦を1年間にわたってネチネチネチネチとやってくれたら嬉しいですが、まあそうはならんでしょう。その大河ドラマ、来年は「平清盛」ということで、これはブームになる前に見ておこうかと、師匠の案内で兵庫の津の徘徊です。
本日の出発点は「新開地」の駅から、かつてはキネマによる街造りを進めたところで、このようなモニュメントが建っています。
近くから見たら、「何のこっちゃ?」という感じですが、少し離れると間の空間が「帽子をかぶった紳士」になっているのがわかりますね。「カサブランカ」等を意識しているのでしょうか。
少し行くと、西出町鎮守稲荷です。この辺りは本当に稲荷が多いところだそうで、「松・竹・梅も全部揃てたでー」と師匠。但し、今は「梅尾稲荷」というのは無くなっているそうです。
鎮守稲荷には、先ずは平経俊の墓。一ノ谷の戦いで戦死した人物です。屋島や壇ノ浦を待たず、この一ノ谷の戦いで平氏は実質的に滅亡しています。平氏の主立った武将は、ここで殆ど戦死しています。壇ノ浦の戦いの「八艘飛び」の話で知られる能登守教経なども実際はこの時に戦死しています。経俊は「青葉の笛」で知られる敦盛の兄ですが、殆ど知られていないのはちょっと可哀想です。
この神社には、高田屋嘉兵衛が献納した灯籠が現役で頑張っていました。おーそうぢゃ、兵庫の港となれば、北風家ぢゃ、嘉兵衛ぢゃ。この人については、やはり司馬遼太郎『菜の花の沖』がまとまったイメージをくれますね。
御本殿
西国街道に面したみなと八幡神社の横が兵庫の津の湊口惣門があったところです。みなと八幡には「迷い子のしるべ石」があります。これは確か、京都の八坂神社の正門を入ったところにもありましたね。
みなと八幡から、西国街道を真っ直ぐに行こうとしましたが、国道2号線に阻まれました。現在、西国街道は斜めに2号線にぶち当たりますが、多少なりとも歴史を大切にしようと思うならば、是非交差点を作っておいてねと申す処。
七宮神社のところで2号線を渡ります。このお宮さんは「神戸八宮巡拝」以来ですから2年半ぶりです。
七宮神社御本殿
西国街道が2号線を渡ってすぐに「岡方惣会所跡」の碑、師匠曰く「以前は道に面していたけど、こいつは動かされているわ。」と。
近くに「札場の辻」、残念ながらここの道標も動かされています。会所跡の碑は寧ろ動かして奇麗に整備されているからいいのですが、道標はあかんでぇ。重たい石をあちらこちら持ち歩いているヤツは誰だ!ここに展示されている毛利藩の記録の地図を見ると、江戸時代には湊川がこの兵庫の津の東を流れていたことが分かります。江戸時代の湊川は、つけ替えられたもので、本来は福原、兵庫の津辺りで海に流れ込んでいたとのこと、このつけ替えを誰がしたかということについては、平清盛と池田輝政の2説があるということですが、時代が全然違いますね。現在の湊川は明治の末年に再びつけ替えられ、はるか西方で神戸港に注いでいますし、その一部はトンネルになっています。
そのまま、兵庫大仏「能福寺」に入ると、平清盛の墓があります。ナナナ、これは知りませんでした。清盛は京都で死んでいますから、てっきり京都の何処かにあるのだろうと思っていました。平家物語なども何回か読んでいるのに忘れている。
清盛廟
この寺は、最澄が唐から帰国時、兵庫の津に上陸したときに滞在した寺と言うことで、天台宗伝来地でもあります。境内には、そのことを記したジョセフ=ヒコ(浜田彦蔵)撰文による英文碑があります。これは本邦初の英文碑だそうです。巷間、ヒコの墓だというような話も出回っているのもおもしろい。
その隣には、豪商「北風家」の顕彰碑、高田屋嘉兵衛は最初は北風家の北前船の船頭(船長)として蝦夷地と縁を持ちました。文字がはがれ落ちたのは震災の影響だそうです。
和田の笠松跡にはかいらしい松が植えられ、藤原為家(定家の息子)の歌碑があります。
やって来ました。一遍上人寂滅地。1289年、一遍は播磨の教信寺で臨終を迎えようとして果たさず、ここで亡くなりました。この時に多くの人が兵庫の津に身を投げて後を追ったと言います。一遍が最後を向かえた観音堂は今は真光寺という時宗の寺となり、一遍の墓を守っています。小生は一度時宗の踊り念仏というのを見たいなあと思っているのですが、本日も時宗の寺は静寂でありました。
民家の中にひっそりと立つのは、土佐に流される法然が記した名号(南無阿弥陀仏)が彫られた名号石を祀るお堂です。お堂の前でワイワイ言っていたら、お堂の横の建物からオバチャンが出てきて、お堂の鍵を開け、解説書を下さいました。
折角の親切に水を差すようですが、歴史上の人物が「作った」とか「刻んだ」とかいわれているものは、本来「作らせた」とか「刻ませた」というのが正解でしょう。この名号石も亦、法然が記したものを石工が刻んだものでしょう。けれども、それで値打ちがおちるというものではありません。
和田神社には、謎の鉾(誰か教えて下さい)や蕪村の句碑があります。末社として秋葉さんがあるのは関西では珍しい。灯籠は享保年間のものです。
和田神社御本殿
謎の鉾
蕪村句碑
和田神社のお隣に三石神社、神功皇后の伝説に関わるお宮さんです。本来は岬の突端に石を建てて神を祀ったもののようですが、三つの石は華道でいう「天地人」の配列に似ています。
この付近の港湾に残された「雁木(船着き場)」、北風家の船や嘉兵衛の船がここにも停泊したことでしょう。トップの写真は、その雁木から見た海ですが、北前船の幻影を見るには視野が狭すぎますね。それでも、コンクリで塗り固められもせず、本当に良く残ったものだと思います。
雁木跡
阿弥陀寺の池の中の石は、湊川の戦いで敗れた楠木正成の首を置いた石、足利高氏が楠公の首を見たときのものだといわれています。ちょっと赤っぽいので、明石の語源となった「赤石」だとする説もありますが、明石市で伝えられているように「赤石」は海中にある方が何かいい感じですね。
清盛塚は、神戸の市電を走らせるとのことで僅かながら動いていて、今は琵琶塚と並んでいます。その時の調査では遺骨などは出なかったそうで、まあ供養塔です。阿弥陀寺からここに来る途中に神戸空襲の悲惨さを物語る大輪田橋があります。清盛像は京都の六波羅蜜寺の像をモデルとしたのでしょうか、よく似ています。ただ、六波羅蜜寺のものは忠盛像だという説もありますね(斜視だから)。
アメリカのタワケが戦時国際法違反を何度も犯しておいて、何がA級戦犯ぢゃ。彼らのどこに非がありましょうや。カダフィやムバラク、金正日やアラファトのようにもの凄い蓄財をした者がどこにいようか(反語)。東條さんなんか質素なモンです。その他の人たちも涙が出るくらい立派な人たちばかりです。シナ(属国としての北朝鮮も含む)や韓国に遠慮して靖国神社にすらお参りできないというのは人としてどうか。A級戦犯云々というのはシナや韓国の言いがかりのネタに過ぎません。その証拠に韓国は今度は捏造慰安婦の碑を日本大使館前に造るんだとさ。
兵庫県庁跡は、兵庫城の跡でもあります。竹尾稲荷には高田屋嘉兵衛顕彰碑、さらにすぐ近くに嘉兵衛の本店跡。
ふと見ると、師匠好みの木の電信柱(電信棒という方がいいかな)、さすがにこの1本だけが健在です。いつまでも頑張れよ。
この徘徊、師匠が用意されたレジュメには見るべき処が53ヶ所書いてありました(コワイーコワイー)。が、あんまり多くなると後で写真を見ても何が何か分からなくなるし、そろそろビールが恋しくなってきています。本日も師匠の野望を打ち砕き、新開地へ戻ります。その途中に「横溝正史生誕地」の碑。ああ、もう何でもありやなあ。そういえば、賀川某というスットコドッコイもこの辺で生まれたそうです。
メビウスの輪が重なっている。
新開地の東口と西口の通路にある「よつばや」、明石焼と串カツとおでんが食えて、さらにピロシキまで用意できるという理想的な店です。ここの明石焼は明石の玉子焼の油臭さも無く、実に美味であります。ピロシキも何種類かあって、ロシア風(他にカレー風味などがある)というのは京都のロシア料理専門店のものよりウマイ。明石焼の写真は半分食べてしまっていて、見苦しいのですが、欠食児童だからご勘弁下さい。
しょれにしても、この兵庫の津、古代から近代まで、残っているものが実に濃密です。坊主だけでも最澄、浄海(清盛)、法然、一遍と一流スターがそろっています。神社という神社には力石がゴロゴロ。よつばやに足繁く通うためにも何度も来なくてはいけないところです。結局これが目的。
本日の出発点は「新開地」の駅から、かつてはキネマによる街造りを進めたところで、このようなモニュメントが建っています。
近くから見たら、「何のこっちゃ?」という感じですが、少し離れると間の空間が「帽子をかぶった紳士」になっているのがわかりますね。「カサブランカ」等を意識しているのでしょうか。
少し行くと、西出町鎮守稲荷です。この辺りは本当に稲荷が多いところだそうで、「松・竹・梅も全部揃てたでー」と師匠。但し、今は「梅尾稲荷」というのは無くなっているそうです。
鎮守稲荷には、先ずは平経俊の墓。一ノ谷の戦いで戦死した人物です。屋島や壇ノ浦を待たず、この一ノ谷の戦いで平氏は実質的に滅亡しています。平氏の主立った武将は、ここで殆ど戦死しています。壇ノ浦の戦いの「八艘飛び」の話で知られる能登守教経なども実際はこの時に戦死しています。経俊は「青葉の笛」で知られる敦盛の兄ですが、殆ど知られていないのはちょっと可哀想です。
この神社には、高田屋嘉兵衛が献納した灯籠が現役で頑張っていました。おーそうぢゃ、兵庫の港となれば、北風家ぢゃ、嘉兵衛ぢゃ。この人については、やはり司馬遼太郎『菜の花の沖』がまとまったイメージをくれますね。
御本殿
西国街道に面したみなと八幡神社の横が兵庫の津の湊口惣門があったところです。みなと八幡には「迷い子のしるべ石」があります。これは確か、京都の八坂神社の正門を入ったところにもありましたね。
みなと八幡から、西国街道を真っ直ぐに行こうとしましたが、国道2号線に阻まれました。現在、西国街道は斜めに2号線にぶち当たりますが、多少なりとも歴史を大切にしようと思うならば、是非交差点を作っておいてねと申す処。
七宮神社のところで2号線を渡ります。このお宮さんは「神戸八宮巡拝」以来ですから2年半ぶりです。
七宮神社御本殿
西国街道が2号線を渡ってすぐに「岡方惣会所跡」の碑、師匠曰く「以前は道に面していたけど、こいつは動かされているわ。」と。
近くに「札場の辻」、残念ながらここの道標も動かされています。会所跡の碑は寧ろ動かして奇麗に整備されているからいいのですが、道標はあかんでぇ。重たい石をあちらこちら持ち歩いているヤツは誰だ!ここに展示されている毛利藩の記録の地図を見ると、江戸時代には湊川がこの兵庫の津の東を流れていたことが分かります。江戸時代の湊川は、つけ替えられたもので、本来は福原、兵庫の津辺りで海に流れ込んでいたとのこと、このつけ替えを誰がしたかということについては、平清盛と池田輝政の2説があるということですが、時代が全然違いますね。現在の湊川は明治の末年に再びつけ替えられ、はるか西方で神戸港に注いでいますし、その一部はトンネルになっています。
そのまま、兵庫大仏「能福寺」に入ると、平清盛の墓があります。ナナナ、これは知りませんでした。清盛は京都で死んでいますから、てっきり京都の何処かにあるのだろうと思っていました。平家物語なども何回か読んでいるのに忘れている。
清盛廟
この寺は、最澄が唐から帰国時、兵庫の津に上陸したときに滞在した寺と言うことで、天台宗伝来地でもあります。境内には、そのことを記したジョセフ=ヒコ(浜田彦蔵)撰文による英文碑があります。これは本邦初の英文碑だそうです。巷間、ヒコの墓だというような話も出回っているのもおもしろい。
その隣には、豪商「北風家」の顕彰碑、高田屋嘉兵衛は最初は北風家の北前船の船頭(船長)として蝦夷地と縁を持ちました。文字がはがれ落ちたのは震災の影響だそうです。
和田の笠松跡にはかいらしい松が植えられ、藤原為家(定家の息子)の歌碑があります。
やって来ました。一遍上人寂滅地。1289年、一遍は播磨の教信寺で臨終を迎えようとして果たさず、ここで亡くなりました。この時に多くの人が兵庫の津に身を投げて後を追ったと言います。一遍が最後を向かえた観音堂は今は真光寺という時宗の寺となり、一遍の墓を守っています。小生は一度時宗の踊り念仏というのを見たいなあと思っているのですが、本日も時宗の寺は静寂でありました。
民家の中にひっそりと立つのは、土佐に流される法然が記した名号(南無阿弥陀仏)が彫られた名号石を祀るお堂です。お堂の前でワイワイ言っていたら、お堂の横の建物からオバチャンが出てきて、お堂の鍵を開け、解説書を下さいました。
折角の親切に水を差すようですが、歴史上の人物が「作った」とか「刻んだ」とかいわれているものは、本来「作らせた」とか「刻ませた」というのが正解でしょう。この名号石も亦、法然が記したものを石工が刻んだものでしょう。けれども、それで値打ちがおちるというものではありません。
和田神社には、謎の鉾(誰か教えて下さい)や蕪村の句碑があります。末社として秋葉さんがあるのは関西では珍しい。灯籠は享保年間のものです。
和田神社御本殿
謎の鉾
蕪村句碑
和田神社のお隣に三石神社、神功皇后の伝説に関わるお宮さんです。本来は岬の突端に石を建てて神を祀ったもののようですが、三つの石は華道でいう「天地人」の配列に似ています。
この付近の港湾に残された「雁木(船着き場)」、北風家の船や嘉兵衛の船がここにも停泊したことでしょう。トップの写真は、その雁木から見た海ですが、北前船の幻影を見るには視野が狭すぎますね。それでも、コンクリで塗り固められもせず、本当に良く残ったものだと思います。
雁木跡
阿弥陀寺の池の中の石は、湊川の戦いで敗れた楠木正成の首を置いた石、足利高氏が楠公の首を見たときのものだといわれています。ちょっと赤っぽいので、明石の語源となった「赤石」だとする説もありますが、明石市で伝えられているように「赤石」は海中にある方が何かいい感じですね。
清盛塚は、神戸の市電を走らせるとのことで僅かながら動いていて、今は琵琶塚と並んでいます。その時の調査では遺骨などは出なかったそうで、まあ供養塔です。阿弥陀寺からここに来る途中に神戸空襲の悲惨さを物語る大輪田橋があります。清盛像は京都の六波羅蜜寺の像をモデルとしたのでしょうか、よく似ています。ただ、六波羅蜜寺のものは忠盛像だという説もありますね(斜視だから)。
アメリカのタワケが戦時国際法違反を何度も犯しておいて、何がA級戦犯ぢゃ。彼らのどこに非がありましょうや。カダフィやムバラク、金正日やアラファトのようにもの凄い蓄財をした者がどこにいようか(反語)。東條さんなんか質素なモンです。その他の人たちも涙が出るくらい立派な人たちばかりです。シナ(属国としての北朝鮮も含む)や韓国に遠慮して靖国神社にすらお参りできないというのは人としてどうか。A級戦犯云々というのはシナや韓国の言いがかりのネタに過ぎません。その証拠に韓国は今度は捏造慰安婦の碑を日本大使館前に造るんだとさ。
兵庫県庁跡は、兵庫城の跡でもあります。竹尾稲荷には高田屋嘉兵衛顕彰碑、さらにすぐ近くに嘉兵衛の本店跡。
ふと見ると、師匠好みの木の電信柱(電信棒という方がいいかな)、さすがにこの1本だけが健在です。いつまでも頑張れよ。
この徘徊、師匠が用意されたレジュメには見るべき処が53ヶ所書いてありました(コワイーコワイー)。が、あんまり多くなると後で写真を見ても何が何か分からなくなるし、そろそろビールが恋しくなってきています。本日も師匠の野望を打ち砕き、新開地へ戻ります。その途中に「横溝正史生誕地」の碑。ああ、もう何でもありやなあ。そういえば、賀川某というスットコドッコイもこの辺で生まれたそうです。
メビウスの輪が重なっている。
新開地の東口と西口の通路にある「よつばや」、明石焼と串カツとおでんが食えて、さらにピロシキまで用意できるという理想的な店です。ここの明石焼は明石の玉子焼の油臭さも無く、実に美味であります。ピロシキも何種類かあって、ロシア風(他にカレー風味などがある)というのは京都のロシア料理専門店のものよりウマイ。明石焼の写真は半分食べてしまっていて、見苦しいのですが、欠食児童だからご勘弁下さい。
しょれにしても、この兵庫の津、古代から近代まで、残っているものが実に濃密です。坊主だけでも最澄、浄海(清盛)、法然、一遍と一流スターがそろっています。神社という神社には力石がゴロゴロ。よつばやに足繁く通うためにも何度も来なくてはいけないところです。結局これが目的。
入り口のキネマ街道のモニュメントは異国情緒を出している(積もり)なのでしょうか。仰る如くカサブランカか外人部隊ですネ。
それもそうとして、来年の大河Dは清盛ですか。壇ノ浦の戦いは私でも知って(読んで)おります。ただ、やはり敦盛は知っていても教経は忘れてしまっております。確か、義経のライバルの猛将だったと思うのですが、違っているかも分かりません。
いずれ光秀も取り上げられるのではないですか。希望的観測ですけど。そうなると小栗栖街道も賑やかになるかも(なってほしくはありませんが・・・)。
「迷子の標石」は、新京極の誓願寺にもあります。それと八坂神社以外に北野天満宮にもあります。人出が多くて賑やな所にあるのでしょうか。
神戸には三宮どころか八宮まである事を、以前に徘徊堂さんに教えて頂きました。清盛の墓は数個所あると聞きますが、何処が本物なのでしょう。六波羅蜜寺は忠盛ですか?今となれば闇の中ですか。
和田神社の鉾は徘徊堂さんでもご存じないとの由。調べましたら
>昔から和田宮の楽車(だんじり)は、『あばれだんじり』として名を轟ろかせ、「とーばせ、とばせ、一の谷まで、とばせ」と呼号するや、一気に駆け出し、その速さたるや言葉では語り尽くせぬものがあった。
また一方、「返せ、戻せ、戻せ、返せ」の歓呼により、前進する楽車を一気に後退させることも行われ、スピードスリルに溢れていた<
と解説されていました。その祭りの鉾ではないのですか?(的外れかも知れません。余計なことでした)。
靖国神社の件はさておいて、横溝も飛び越して八艘跳びで「よつばや」へ到着。半分に減った明石焼きはさぞ美味だったことと偲んでおります。
「日本史の世界でピロシキ食す秋」道草。
思えば、丹波は兵庫(神戸)の後背地を広げるために2つに裂かれてしまいました。摂津もそうですね。兵庫の発展は幕末の通商条約に始まるのですが、何故「神戸」になったのでしょうね。清盛が都とした「福原」ではダメだったのでしょうか。福原は、今も一地名として残っていますが、合法非合法入り乱れた良いところです(笑)。
横溝は、作品から、ずっと岡山生まれだと思い続けていました。思わぬところに思わぬものがあるのが面白いです。兵庫の津は非常に濃密です。
電信柱を見るとあの大震災で芦屋から歩いて西郷に行っていたのですが、電信柱の下が折れて鉄骨が向き出しになっていたのを思い出すのですが、この柱はかの地震にも耐えたのでしょうか。すごいですね。
NHKの大河ドラマですが、亀岡・福知山など光秀ゆかりの地で協議会をつくって誘致活動をしています。ささ舟さまから頂いた「光秀奔る」の著者、家村耕さんもことに熱心で、来年は清盛に決定してしまったけど頑張ろうと年賀状を頂いたりします。選考基準として、原作があること、が挙げられているそうなんですが、今年の作品は原作がなかった様に思うのですが…この家村さんですが能勢で酒屋をやりながら光秀に相当入れ込んでおられますね。京都新聞に光秀ゆかりの地を訪ねる連載もされていまして、読みたいというと切り抜きを頂きました。銘柄は忘れたのですがお酒を一本求めましたが、これは友人の口にはいりまして我が感想はありません。477を走られたら一度立ち寄ってみて下さい。
しっかりした原作がないから、今年の大河は評判が悪いのかも知れませんね。それにしてもNHKはご都合主義です。能勢の蔵元が書かれたものを原作にということならば、これはもう無条件で応援します。但し、宇津氏や内藤氏等も登場させて欲しいですね(条件でなくてお願い)。旧体制の下での日常的な戦いに慣れきっていた丹波の土豪たちの前に信長という訳の解らぬ存在が現れ、何をどうして良いのか分からなくなった領主たちの苦悩のようなものも描いて欲しいです。勿論、周山城の築城も。
周山城といえば、今回の企画のお相伴にあずからせてもらってよろしいでしょうか。12時までには城跡に登って待っております。
477沿いの酒屋さん、了解です。神崎川の居酒屋さん、今週末あたりに行けたらいいなあと思っております。
あの~、家村さん(ペンネーム)は蔵元ではなく販売店を営まれています。中嶋酒店だったかしら。昔の立派な家がお店です。477は昨年の山崩れで道が崩壊した後バイパスが出来てこの店の前を通らなくなりました。住所など調べておきます。
10日は10時半にゼミを出て下熊田へ移動、そこから黒尾山方面を京北トレイルを利用して登ります。この方が楽ですので。お昼を途中食べる予定ですが、おそらく黒山の下辺りになるでしょう。城趾の西の遺構から本丸を目指します。本丸近辺だけでなく、西の遺構から全てを高橋さんに開設して貰う予定で、これはまたとない見逃せない企画です。従って本丸跡でなく西の方まで来て頂いた方が値打ちがあります。12時頃に黒を山付近が目安ですね。
今の時代、ビジネスマンも大変ですが、光秀も信長に仕えてどんな苦労をしたのか、現代のサラリーマンにとっても、丹波攻略という使命を命じられ光秀がどういう戦略を立てたか、それに対する丹波の領主達がどう判断して、戦い、あるいは味方したか、ロマンがありますね。世の中の趨勢が分かりつつ義理も大切、戦国時代の武将の生き方は現在のビジネスマンにとって実に豊富なヒントを与えてくれるでしょうね。
神崎川の店は、駅を下りて神戸方面に向かって左にある「酒の穴」という店です。あの辺りの工場に勤める人が帰りに一杯、という雰囲気の店です。
能勢の酒屋さん、昔、「地ビール」と看板が出ていたので、「おっちゃん、地ビールちょうだい。」と買い求めたら周山ビールだったので、ずっこけた、あの店かも知れません。秋鹿は勿論、猪名川町の花衣なども置いてあったように記憶していますが、明快ではありません。
酒の穴、了解です。名前は何となくコワイですね。一升酒のオッチャンばかりが集まるのでは。
波多野氏や宇津氏は結局は足利氏に殉じた形になりましたね。最後は義理を通したあたり、けなげだと思います。先日、宇津城にまたまた登ってきました。
新しい事を知る、字のごとくこれほど新鮮な喜びはありません。私流に楽しく読ませて戴きました。
ハーバーランドやモザイクレストランばかり行っているようでは全く話になりませんね!
祗園祭り徘徊時のT先生のご用意されたレジュメのように毎回50箇所ほど歩かれるのでしょうか?素晴らしいですね。
亀岡の名が出ましたが、市観光協会頑張っているようです。無理とは思いながら私も署名しょうと思っています。
周山城、私も申し込みましたけれど、登れるか不安ばかりです。
師匠のレジュメは、いつももの凄い数が予定として書き込まれていますね。ただ、完歩、完歩せずに途中で逃げる、など「逃げ場」がこしらえてありますので、これからも安心してご参加下さい(笑)。中山道(特に滋賀県)等になると逃げるところは無くなりますが。
周山城、大丈夫ですよ。比高は200メートルぐらいだと思います。熊田の方からだと、さらに高いところから登り始めるので、さらに少なくなります。
名号石、師匠等はお堂に入られて目の前で見られたのですが、小生はお堂に入った瞬間に暑いから出てきてしまいました。罰当たりです。