清酒発祥地である伊丹は、近年のイメージですと空港と陸自第3師団所在地というところでしょうが、結構古いものも残っています。今回は師匠の案内で、西国街道をベースにして何やかんやと見て歩こうというところです。
出発点は墨染寺(トップの写真)、いきなり西国街道を外していますが、有岡城の南縁部にあたるところにある寺で、境内には上島鬼貫の父子墓や女郎塚があります。
女郎塚
有岡城は織田信長によって摂津守護に任じられた荒木村重の居城です。1578年に村重が信長に反したときには1年余の籠城戦の後に落城しました。村重自身は、単独で尼崎城、さらに花隈城へと逃れましたが最後まで城に残っていた人たちは信長によって皆殺しの目に遭いました。この女郎塚は、その時に尼崎の七松で殺された城付きの女房衆を供養するためのものだと言われています。父子墓の方は夭折した息子の墓に分骨したものらしく、鬼貫の本墓は別にあります。
墨染寺を出て県道13号線(産業道路)に出ると「清酒・白雪」の小西酒造の白亜のビルがそびえています。酒蔵を改装したレストラン「長寿蔵」は殷賑を極めていますが未だ飲むには早い。唯この店、少し奢りの心現れ、予約の客を2時間で追い出すのは如何かと。この産業道路沿いには頼山陽の詩碑が建てられ、伊丹町道路元標が残っています。
この界隈には柿衞(かきもり)文庫があり、古民家が移築されていたり、美術館があったりで伊丹の文化の中心地となっていますが、ここでウロウロとしているとそのまま長寿蔵に入ってしまう危険性があるので、先に進みます。
石橋家住宅
墨染寺が有岡城の南縁であるとすると北縁は猪名野神社ということになります。猪名野坐大神が祭神といいますから本来はこの辺りの地主神かと思われますが、例によってこの神もスサノオとされています。この神社への参道にある金剛院には元禄年間の石燈籠があります。
猪名野神社
このお社の瑞垣や大燈籠などは真に伊丹酒仲間の富裕を知るべしと申す処です。鬼貫の句碑もありますが、句よりも裏側に彫られたことの方が気になります。北縁には有岡城の土塁跡が残り、黒田如水が幽閉されていたのはこの辺りかな等と想像するのもおもしろい。
大燈籠
鬼貫句碑裏面
有岡城土塁跡
この土塁を越えて北に西国街道との出合いまで進む道、この道も古い道です。途中にある酒屋、この白雪のお膝元で置いている酒は「老松」のみ、なかなか根性あるやんけー。よし、老松はここで買える。今ひとつの「大手柄」はどこで売っているのでしょうか。「白雪」を合わせ、この3つが代表的な伊丹酒です。
西国街道に出ました。大鹿の分岐であります。ここからはしばらく西国街道を西に進みます。
大鹿の道標
西国街道大鹿より京都方面
途次、千僧天神の手水場が面白く、三菱電機労連設置の西国街道のプレートなども珍しく思いながら(労組がこんなことまでやっているとは知らなんだ)有馬街道への分岐までやってきます。ここには能因の歌碑があり、揮毫は鳥越憲三郎氏。どうも伊丹市はゆかりの地に歌碑や詩碑、句碑を頑張って建てているようで、その揮毫を著名な先生に依頼しているようです。鳥越の憲ちゃん、洒脱なよい先生でした。亡くなって何年になるやら。小生の大嫌いな古代史荒らしの梅原某と仲が悪かったのも小気味よい。能因法師塚はかつて申し述べた如く高槻市にありますが、そこも西国街道の近くで、どうやらこの法師は西国街道をうろうろーうろうろーとしていたようです。暮れの徘徊で、小学校門前には立派な門松、「伊丹の小学校は金持ちやのー」と一味の宝塚市の学校関係者は嘆息。
千僧天神手水場・酒が出てきたら欣喜雀躍
電機労連が設置したプレート
宝塚の小濱を経て有馬
この近くには稲野村道路元標、標の字が埋まってしまっているのは残念ですが、よく残っています。
ここよりは、東天神と西天神が昆陽宿を挟み、宿の西の境界には庚申塚、西国街道に沿って進んでいきます。地域による違いもあるでしょうが、庚申講などはいつ頃まで行われていたのでしょうか?村人が集まって徹夜をしなくてはならないという有り様が近代の生活にはそぐわない、近代になって最も早く消滅した風習なのではないでしょうか。昆陽宿本陣跡、40年ほど前までは木標で示してあったそうですが、今はどこかわかりません。
また、東天神も西天神も主祭神はイザナギノミコトとイザナミノミコトで、菅原道真は末社に祭られているだけです。道真が大宰府に流されていく時にはこの街道を通り、他の地域では片っ端からそれまでの祭神と入れ替わって道真が主役となっているのですが、ここではその祭神交替が見られません。かといって流されていく道真の伝説が無い訳ではない。
東天神
ここらが昆陽宿の中心か?
西天神・震災後に復興したるものならん
大江匡房歌碑・津の国の葦の葉凌ぎ降る雪に昆陽の篠屋も
埋もれにけり
庚申塚
昆陽宿を出て、国道171号線と交わり、道路を渡ると「昆陽寺」です。昆陽池(本日は立ち寄りませんが)を始めとして近辺には奈良時代の僧侶である行基に関わる伝説が多く残ります。この寺も行基の創建です。寺の説明には前の道が西国街道だと書いてありますが、今の山門は街道に面してはいません。もしかすると、以前の境内はさらに広大で171号線の南まであったのかも知れません。
昆陽寺というと「盗まれた鐘」で有名ですが、今昔物語集巻29では組織的犯罪という訳ですが、別の伝承では純粋な孝行譚、今の鐘楼には鐘があるようです。
鐘楼
行基堂
行基歌碑
「山鳥のほろほろと啼く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」、菩薩と尊称され何やら出来上がった聖人のイメージしか持たなかった人ですが、この歌を知れば、その温かみが一度に伝わり多くの人が慕った理由が分かるような気がします。私度僧として出発し、土木集団を率いた行基ではありますが、やはり心が折れそうになったことも幾度もあったのでしょう。近時、盆暮れにも故園に戻らず、事実上親を捨つる人多し。藤樹翁の故事、糊口その理由にならざるを示す。世の人、この歌を朝夕三唱せよ。この歌碑を見ただけで「ああ、あとは酒やな」と申す処。昆陽寺門前には道標を兼ねた燈籠、一石二鳥です。
行基の歌にて心を洗われて、次はいきなり生臭く「師直塚」です。ばさら大名として知られる高師直は観応の擾乱時に西宮の小清水の陣所で足利尊氏と共に尊氏の弟直義の軍勢に囲まれ、尊氏と直義の和解の後に師直兄弟は武庫川の土手で殺されました。その師直の供養のために建てられた碑ですが、本来は胴塚であったのではと思われます。碑自体は171号の拡張などによって何度も移動しているようですから、下を掘っても何も出ません。それでも、この塚は結構祟ったようです。
師直自身は北畠顕家や楠木正行を討ち、石清水八幡宮や吉野山を焼いたということで随分と評判は悪いのですが、誰が供えているのかワンカップ大関、優しい話です。
ここよりほんの少しの間だけ尼崎市に入ります。武庫村道路元標は既に「路」の字も風前の灯。
武庫川に出ました。西国街道「髭の渡し」です。対岸に報徳学園が見え、その北側に西国街道は続きますが、今は渡しも橋もありません。ノルマンジー上陸作戦の如くロープを打ち込んで渡渉したいところです。やむなく遥か南の甲武橋を渡ります。途中に堰堤があり、渡れるのではと進みましたが足元がヌメヌメして途中の魚道を跳び越すことができません。
髭の渡し
西宮に入りました。甲武橋からさらに南下して大市八幡を目指します。この八幡宮付近から門戸厄神近くの西国街道までの道が厄神明王道ですが、「くらがり街道」と呼ばれていたそうです。
大市八幡御神木
この辺り一帯の道標には全て「甲東文化財協会」の説明が付いています。道標や石標の類にはありそうで無いのが「説明」、誠に親切の至りであります。
「甲東文化財協会」、そは何者なるや。協会とは名乗りたるもののその実は独りの好事家にあらずや等と自説を開陳しておりますと甲東村道路元標を越えた辺りで何と何と御大そのものが姿を現しました。
甲東村道路元標
文化財協会出現地
この近くで庭木の剪定をされていたのが文化財協会の会長さんで、けつたいなのが来て道標の前でワイワイ言うとるということで、話をしに出てきて下さったのです。「甲東文化財協会は会員数200名、近時国より褒賞を受く」とのこと、真に失礼をば致しました。ついでに、この辺りのパンフレット(有料)を要らないかとのこと、剪定ばさみがしっかりと小生の喉元に向けられています。喜んでいただいた次第であります。
既に薄暮、今回は門戸厄神に参拝して打ちきりです。神戸女学院の近くの庚申塚、青面金剛とはっきりと彫られた立派なものでありました。
門戸厄神
さて、一杯は西宮北口の居酒屋「豆すけ」、チェーン店では無いのですが、近時京橋の丸一屋や十三の親不孝通りなどに入り浸っている人間としては可もなく不可もない「おもろない」飲み屋でありました。天王寺の明治屋の常連となりつつある師匠などは更にその感は強いでありましょう。
出発点は墨染寺(トップの写真)、いきなり西国街道を外していますが、有岡城の南縁部にあたるところにある寺で、境内には上島鬼貫の父子墓や女郎塚があります。
女郎塚
有岡城は織田信長によって摂津守護に任じられた荒木村重の居城です。1578年に村重が信長に反したときには1年余の籠城戦の後に落城しました。村重自身は、単独で尼崎城、さらに花隈城へと逃れましたが最後まで城に残っていた人たちは信長によって皆殺しの目に遭いました。この女郎塚は、その時に尼崎の七松で殺された城付きの女房衆を供養するためのものだと言われています。父子墓の方は夭折した息子の墓に分骨したものらしく、鬼貫の本墓は別にあります。
墨染寺を出て県道13号線(産業道路)に出ると「清酒・白雪」の小西酒造の白亜のビルがそびえています。酒蔵を改装したレストラン「長寿蔵」は殷賑を極めていますが未だ飲むには早い。唯この店、少し奢りの心現れ、予約の客を2時間で追い出すのは如何かと。この産業道路沿いには頼山陽の詩碑が建てられ、伊丹町道路元標が残っています。
この界隈には柿衞(かきもり)文庫があり、古民家が移築されていたり、美術館があったりで伊丹の文化の中心地となっていますが、ここでウロウロとしているとそのまま長寿蔵に入ってしまう危険性があるので、先に進みます。
石橋家住宅
墨染寺が有岡城の南縁であるとすると北縁は猪名野神社ということになります。猪名野坐大神が祭神といいますから本来はこの辺りの地主神かと思われますが、例によってこの神もスサノオとされています。この神社への参道にある金剛院には元禄年間の石燈籠があります。
猪名野神社
このお社の瑞垣や大燈籠などは真に伊丹酒仲間の富裕を知るべしと申す処です。鬼貫の句碑もありますが、句よりも裏側に彫られたことの方が気になります。北縁には有岡城の土塁跡が残り、黒田如水が幽閉されていたのはこの辺りかな等と想像するのもおもしろい。
大燈籠
鬼貫句碑裏面
有岡城土塁跡
この土塁を越えて北に西国街道との出合いまで進む道、この道も古い道です。途中にある酒屋、この白雪のお膝元で置いている酒は「老松」のみ、なかなか根性あるやんけー。よし、老松はここで買える。今ひとつの「大手柄」はどこで売っているのでしょうか。「白雪」を合わせ、この3つが代表的な伊丹酒です。
西国街道に出ました。大鹿の分岐であります。ここからはしばらく西国街道を西に進みます。
大鹿の道標
西国街道大鹿より京都方面
途次、千僧天神の手水場が面白く、三菱電機労連設置の西国街道のプレートなども珍しく思いながら(労組がこんなことまでやっているとは知らなんだ)有馬街道への分岐までやってきます。ここには能因の歌碑があり、揮毫は鳥越憲三郎氏。どうも伊丹市はゆかりの地に歌碑や詩碑、句碑を頑張って建てているようで、その揮毫を著名な先生に依頼しているようです。鳥越の憲ちゃん、洒脱なよい先生でした。亡くなって何年になるやら。小生の大嫌いな古代史荒らしの梅原某と仲が悪かったのも小気味よい。能因法師塚はかつて申し述べた如く高槻市にありますが、そこも西国街道の近くで、どうやらこの法師は西国街道をうろうろーうろうろーとしていたようです。暮れの徘徊で、小学校門前には立派な門松、「伊丹の小学校は金持ちやのー」と一味の宝塚市の学校関係者は嘆息。
千僧天神手水場・酒が出てきたら欣喜雀躍
電機労連が設置したプレート
宝塚の小濱を経て有馬
この近くには稲野村道路元標、標の字が埋まってしまっているのは残念ですが、よく残っています。
ここよりは、東天神と西天神が昆陽宿を挟み、宿の西の境界には庚申塚、西国街道に沿って進んでいきます。地域による違いもあるでしょうが、庚申講などはいつ頃まで行われていたのでしょうか?村人が集まって徹夜をしなくてはならないという有り様が近代の生活にはそぐわない、近代になって最も早く消滅した風習なのではないでしょうか。昆陽宿本陣跡、40年ほど前までは木標で示してあったそうですが、今はどこかわかりません。
また、東天神も西天神も主祭神はイザナギノミコトとイザナミノミコトで、菅原道真は末社に祭られているだけです。道真が大宰府に流されていく時にはこの街道を通り、他の地域では片っ端からそれまでの祭神と入れ替わって道真が主役となっているのですが、ここではその祭神交替が見られません。かといって流されていく道真の伝説が無い訳ではない。
東天神
ここらが昆陽宿の中心か?
西天神・震災後に復興したるものならん
大江匡房歌碑・津の国の葦の葉凌ぎ降る雪に昆陽の篠屋も
埋もれにけり
庚申塚
昆陽宿を出て、国道171号線と交わり、道路を渡ると「昆陽寺」です。昆陽池(本日は立ち寄りませんが)を始めとして近辺には奈良時代の僧侶である行基に関わる伝説が多く残ります。この寺も行基の創建です。寺の説明には前の道が西国街道だと書いてありますが、今の山門は街道に面してはいません。もしかすると、以前の境内はさらに広大で171号線の南まであったのかも知れません。
昆陽寺というと「盗まれた鐘」で有名ですが、今昔物語集巻29では組織的犯罪という訳ですが、別の伝承では純粋な孝行譚、今の鐘楼には鐘があるようです。
鐘楼
行基堂
行基歌碑
「山鳥のほろほろと啼く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」、菩薩と尊称され何やら出来上がった聖人のイメージしか持たなかった人ですが、この歌を知れば、その温かみが一度に伝わり多くの人が慕った理由が分かるような気がします。私度僧として出発し、土木集団を率いた行基ではありますが、やはり心が折れそうになったことも幾度もあったのでしょう。近時、盆暮れにも故園に戻らず、事実上親を捨つる人多し。藤樹翁の故事、糊口その理由にならざるを示す。世の人、この歌を朝夕三唱せよ。この歌碑を見ただけで「ああ、あとは酒やな」と申す処。昆陽寺門前には道標を兼ねた燈籠、一石二鳥です。
行基の歌にて心を洗われて、次はいきなり生臭く「師直塚」です。ばさら大名として知られる高師直は観応の擾乱時に西宮の小清水の陣所で足利尊氏と共に尊氏の弟直義の軍勢に囲まれ、尊氏と直義の和解の後に師直兄弟は武庫川の土手で殺されました。その師直の供養のために建てられた碑ですが、本来は胴塚であったのではと思われます。碑自体は171号の拡張などによって何度も移動しているようですから、下を掘っても何も出ません。それでも、この塚は結構祟ったようです。
師直自身は北畠顕家や楠木正行を討ち、石清水八幡宮や吉野山を焼いたということで随分と評判は悪いのですが、誰が供えているのかワンカップ大関、優しい話です。
ここよりほんの少しの間だけ尼崎市に入ります。武庫村道路元標は既に「路」の字も風前の灯。
武庫川に出ました。西国街道「髭の渡し」です。対岸に報徳学園が見え、その北側に西国街道は続きますが、今は渡しも橋もありません。ノルマンジー上陸作戦の如くロープを打ち込んで渡渉したいところです。やむなく遥か南の甲武橋を渡ります。途中に堰堤があり、渡れるのではと進みましたが足元がヌメヌメして途中の魚道を跳び越すことができません。
髭の渡し
西宮に入りました。甲武橋からさらに南下して大市八幡を目指します。この八幡宮付近から門戸厄神近くの西国街道までの道が厄神明王道ですが、「くらがり街道」と呼ばれていたそうです。
大市八幡御神木
この辺り一帯の道標には全て「甲東文化財協会」の説明が付いています。道標や石標の類にはありそうで無いのが「説明」、誠に親切の至りであります。
「甲東文化財協会」、そは何者なるや。協会とは名乗りたるもののその実は独りの好事家にあらずや等と自説を開陳しておりますと甲東村道路元標を越えた辺りで何と何と御大そのものが姿を現しました。
甲東村道路元標
文化財協会出現地
この近くで庭木の剪定をされていたのが文化財協会の会長さんで、けつたいなのが来て道標の前でワイワイ言うとるということで、話をしに出てきて下さったのです。「甲東文化財協会は会員数200名、近時国より褒賞を受く」とのこと、真に失礼をば致しました。ついでに、この辺りのパンフレット(有料)を要らないかとのこと、剪定ばさみがしっかりと小生の喉元に向けられています。喜んでいただいた次第であります。
既に薄暮、今回は門戸厄神に参拝して打ちきりです。神戸女学院の近くの庚申塚、青面金剛とはっきりと彫られた立派なものでありました。
門戸厄神
さて、一杯は西宮北口の居酒屋「豆すけ」、チェーン店では無いのですが、近時京橋の丸一屋や十三の親不孝通りなどに入り浸っている人間としては可もなく不可もない「おもろない」飲み屋でありました。天王寺の明治屋の常連となりつつある師匠などは更にその感は強いでありましょう。
今回は本場の「白雪」を堪能されたのですか。この銘柄はコマーシャルでよく聞きますものの、「老松」はあまり知りません。それと、秋に登った長老ヶ岳に因む「長老」を、是非とも徘徊堂さんにご賞味して戴きたいのですが、その後どうされていますか。
なんだか、酒の話に行ってしまって申し訳ありません。伊丹周辺は、「白雪」はあっても、本物の雪などにはまるで無縁なのでしょう(まだ、酒に拘っています)。京都の昨今も似た様なもので、物足りない冬の日々を過ごしております。
白雪は、北摂地域とりわけ川辺郡北部地域では灘の酒よりも多く飲まれています。宣伝も上手で「山は富士、酒は白雪」などとやっています。白雪の語源は駿河湾から見えた富士の白雪です。ものすごい甘口で(羽田酒造の本生といい勝負)、大酒飲みは「ベチャベチャ」と表現しますが、女性や子供には受けるようです。長寿蔵、地ビールとベルギービールはなかなかです。お出まし願えれば御案内します。
今朝は掘にうす氷がはりましたが今は穏やかなお天気になりました。
門戸厄神はずっ~と昔まだ信仰心が全くないころ(今も全然ですが・・)中山寺と同じ日に参拝したと思うおぼろげな記憶があります。その後中山寺は4回ばかりお参りしていますが・・。
そちら方面は親友や従兄弟などいるにも係わらず最近は足が遠のいています。次女が川の名前と同名の女子大に行っていた時は、たまに近辺をうろついたものですが。
思いのまま?徘徊されましたラストがいいじゃありませんか^^はらわたに滲みいることでしょう。
先日、京北ゼミの行事で、宇津中地の川原でお正月行事「とんど」に、地域の方とご一緒に参加させて頂きました。燃え上がる炎にあたりながら、青竹のコップに羽田酒造の「初日の出」を片手に、一方はとんどの火で焼いた納豆餅やするめを頂きながらの贅沢な見学、美味しいこと、最高でした!半世紀ぶりのとんどで書初めとともに舞い上がりました♪
中山寺には祖父母を分骨しています。このところは全然参拝していないのですが、親戚に聞くとムチャクチャ金儲けが上手になったとのことです。この近辺には門戸厄神の他に清荒神があって、こちも多くの参拝者を集めています。
とんど、中地の川原ということは、日吉橋の下手ぐらいでしょうか。見たかったなあと思います。
伊丹と聞くと腹がたつ思いがあります。昔は騒音問題でワイワイ騒ぎ、空港は出て行けと大声を張り上げながら、今は空港存続を主張しています。まあ日本人の利権頼み、補助金頼りの心理状況そのものの現状を表している住民が住んでいるとしか思えません。エゴの塊の町というのが我が印象です。空港出て行けと筵旗を上げて、クーラーを国に設置させて静かになってからは関空が出来たら今度は出て行くな、とは何じゃ、と伊丹在住のH君を立呑で説教したことを思い出します。この正月、彼の奥様から訃報が届き、更に苦い思い出の町になりました。
極めて個人的な思いを書いてしまい素敵な徘徊録のページを汚してしまいごめんなさい。
救いは恩師さまが、明治屋通いをされているとの文を読ませていただいたことでございます(^_') 大概の酒通さんはあの店は気に入られますね。
兵庫県の井戸知事の言葉を聞いて、「えっ、空港存続?いつから話が変わったのか?」とびっくりもしました。兵庫県といえば、神戸空港もあれだけの反対を抑えて建設し、今は大赤字ですが誰も責任を取りませんね。淀川に架かる長柄橋や十三大橋から伊丹に降りていく航空機(住宅地の真上で車輪を出す)を見ていると何かある前(羽田で片桐機長がやったようなことがおこる前)に廃港にしたほうが良いのではと思います。
小生の残念の一つが、自分自身は未だ明治屋に行けなくて、話ばかり聞いているということです。「きずし」がムチャクチャおいしいそうです。こういう威力偵察は師匠も望むところと思われますので、またどこか面白いところがあれば、是非お教え下さい。