「親不孝 おおつごもりも うろうろと」、平成21年の末、今年こそは、静かに行く年を送りたいなどと思っておりましたところ(嘘)、親不孝仲間から連絡で31日の夕刻からちょっと一杯とのことであります。平成20年の大晦日は、開いている店を求めて京橋をウロウロしておりましたから、例年同じことをしているのであります。意外に京橋などは根性無しで頼みの居酒屋「丸一屋」なども30日までに店じまい、結構店探しで苦労するのであります。平成21年の掉尾は如何ならんと心配をしておったのですが、親不孝仲間曰く「十三で飲もう!十三なら開いてるでー。」と。夕刻から十三ならば丁度ええ、前から気になっていた大東商店街改め「蕪村通り商店街」をひやかしていくことに決めました。
蕪村通り商店街は都島区でも最も淀川の近くにあり、細い道ながら本当に真っ直ぐに真っ直ぐに伸びている商店街です。途中国道で半分に断ち切られていますが、あまりに真っ直ぐすぎて、この道は街道というものではあるまいと思われます。淀川の改修に絡んで近代にいたって整備された道かななどとも思いますが、ここは真面目に勉強しなくてはなりません。
蕪村通りの命名は、この近辺旧毛馬村が蕪村の生誕地であることに由来します。といっても何らかの旧跡がある訳でもなく所々に下の如く蕪村の句と解釈文を記したポスターが貼ってあるだけです。それでも、下部に菜の花などが活けてあるのは優しい心遣いです。
つらつらと読みつついくと「小狐の何にむせけむ小萩はら」のように狐が出てくる句が結構多いのですが、これは「どの句を貼ろうか」と選んだ方の趣味であろうか、蕪村が狐に強い思いを抱いていたものかは不明であります。
この商店街もご多分に漏れず衰退の感があり、既に廃業した店もあります。小生は、どこにいっても同じやんけというのが苦手で、したがって何ちゃらモールとかは大嫌いでありますから、何としても頑張ってもらいたいところであります。
このように道が斜めに国道に入り込むところは、この道が先にあり国道が後に出来た証左で街道が多いのですが、何度も恐縮ながら此の道は何かは解りません。道路を渡ると既に商店街はありません。「淀川温泉」なる銭湯、由緒ある神社も真っ青という感じの神々しさですが、あまりの感動に写真を撮り忘れました。しばらく歩くと、「ああ、ここか!」毛馬閘門に出ました。
ここより右手に進み、淀川の堤防に出たところに蕪村の句碑、蕪村に絡むものはまさにこれだけです。碑面は「春風や堤なごうして道遠し」、春風馬堤曲中の一句であります。本日は春風というような可愛いものではなく烈風しかもものすごく冷たい風です。こういう日は犬も散歩に連れてこられては迷惑。「師走の川風コーギ犬もヨロヨロと」。蕪村生誕地、この辺り一帯のどこかでという程度の意味です。蕪村が堤防の上で生まれた訳ではありません。
碑面を眺めていると本当に寒い。神経が通っていない小生でも今日は寒い。それでも強風が塵埃を吹き飛ばし、遠く池田方面の山並みもくっきりと見えております。
淀川沿いに南下します。閘門を越えた一画は河川記念公園のようになっていて、新淀川の掘削に功績があった沖野忠雄の胸像が静かに立っています。
少し堤防から離れると改修紀功碑が高くそびえ、その裏手には改修時に出土したお地蔵さんが祀られています。天王寺区に六万体という地名があるのは、聖徳太子が六万体の地蔵を造らせた土地であるからだそうですが、此処にあるお地蔵さんをその3/6万とするのは誰が言いだしたものでしょう。
この地蔵堂付近に散らばる石は、伏見城の石垣の石で大坂夏の陣以後に幕府が大阪城を再建する際に伏見から運ばせたもの、けれども結局は大阪城の石垣となることが出来なかったので「残念石」と呼ばれています。
淀川改修紀功碑
残念石
水のない旧閘門を見れば、その仕組みがよく分かり、1910年の新淀川掘削時に出た土砂を運ぶために造られた長柄運河にかかっていた眼鏡橋等、この一画は産業史博物館のようです。同じ淀川水系、伏見の三栖閘門記念館などとともに国土交通省はよくやっとるよ。事業仕分け等というくだらぬ見せ物で、この方面の予算を削るなよ。
旧閘門
眼鏡橋
ここよりさらに南下、十三大橋を目指します。大晦日+強風ということもあってか、もはや歩いているのは小生のみであります。後ろを振り返れば長柄橋、この川底に多くの村々が沈んでいます。新淀川の掘削も当然悲喜こもごも。葦の間に鴨がゆらゆら、ゆっくりと観察したいところですが本当に風がえげつない。ホームレスのオッサン連中もダンポールの要塞の中から出てきません。
長柄橋
十三大橋のたもと大きな道標には「高麗橋一里」と記されています。
この橋を渡れば、いよいよパラダイス十三。十三屋など流石に閉まっている店もありましたが、雰囲気は何時もと変わらず。親不孝通り(ションベン横丁)の飲み屋はオッサン連中のてんこ盛り。神津神社のある方は少しさびしい。
最後は千鳥足で見た御堂筋暮れの風景であります。
道路ばかりがやたらに明るくてなんやねん、灯りはわびしい提灯でいいから店を開けんかいと電飾に因縁を付けるのも酒のせいということにしておきませう。
蕪村通り商店街は都島区でも最も淀川の近くにあり、細い道ながら本当に真っ直ぐに真っ直ぐに伸びている商店街です。途中国道で半分に断ち切られていますが、あまりに真っ直ぐすぎて、この道は街道というものではあるまいと思われます。淀川の改修に絡んで近代にいたって整備された道かななどとも思いますが、ここは真面目に勉強しなくてはなりません。
蕪村通りの命名は、この近辺旧毛馬村が蕪村の生誕地であることに由来します。といっても何らかの旧跡がある訳でもなく所々に下の如く蕪村の句と解釈文を記したポスターが貼ってあるだけです。それでも、下部に菜の花などが活けてあるのは優しい心遣いです。
つらつらと読みつついくと「小狐の何にむせけむ小萩はら」のように狐が出てくる句が結構多いのですが、これは「どの句を貼ろうか」と選んだ方の趣味であろうか、蕪村が狐に強い思いを抱いていたものかは不明であります。
この商店街もご多分に漏れず衰退の感があり、既に廃業した店もあります。小生は、どこにいっても同じやんけというのが苦手で、したがって何ちゃらモールとかは大嫌いでありますから、何としても頑張ってもらいたいところであります。
このように道が斜めに国道に入り込むところは、この道が先にあり国道が後に出来た証左で街道が多いのですが、何度も恐縮ながら此の道は何かは解りません。道路を渡ると既に商店街はありません。「淀川温泉」なる銭湯、由緒ある神社も真っ青という感じの神々しさですが、あまりの感動に写真を撮り忘れました。しばらく歩くと、「ああ、ここか!」毛馬閘門に出ました。
ここより右手に進み、淀川の堤防に出たところに蕪村の句碑、蕪村に絡むものはまさにこれだけです。碑面は「春風や堤なごうして道遠し」、春風馬堤曲中の一句であります。本日は春風というような可愛いものではなく烈風しかもものすごく冷たい風です。こういう日は犬も散歩に連れてこられては迷惑。「師走の川風コーギ犬もヨロヨロと」。蕪村生誕地、この辺り一帯のどこかでという程度の意味です。蕪村が堤防の上で生まれた訳ではありません。
碑面を眺めていると本当に寒い。神経が通っていない小生でも今日は寒い。それでも強風が塵埃を吹き飛ばし、遠く池田方面の山並みもくっきりと見えております。
淀川沿いに南下します。閘門を越えた一画は河川記念公園のようになっていて、新淀川の掘削に功績があった沖野忠雄の胸像が静かに立っています。
少し堤防から離れると改修紀功碑が高くそびえ、その裏手には改修時に出土したお地蔵さんが祀られています。天王寺区に六万体という地名があるのは、聖徳太子が六万体の地蔵を造らせた土地であるからだそうですが、此処にあるお地蔵さんをその3/6万とするのは誰が言いだしたものでしょう。
この地蔵堂付近に散らばる石は、伏見城の石垣の石で大坂夏の陣以後に幕府が大阪城を再建する際に伏見から運ばせたもの、けれども結局は大阪城の石垣となることが出来なかったので「残念石」と呼ばれています。
淀川改修紀功碑
残念石
水のない旧閘門を見れば、その仕組みがよく分かり、1910年の新淀川掘削時に出た土砂を運ぶために造られた長柄運河にかかっていた眼鏡橋等、この一画は産業史博物館のようです。同じ淀川水系、伏見の三栖閘門記念館などとともに国土交通省はよくやっとるよ。事業仕分け等というくだらぬ見せ物で、この方面の予算を削るなよ。
旧閘門
眼鏡橋
ここよりさらに南下、十三大橋を目指します。大晦日+強風ということもあってか、もはや歩いているのは小生のみであります。後ろを振り返れば長柄橋、この川底に多くの村々が沈んでいます。新淀川の掘削も当然悲喜こもごも。葦の間に鴨がゆらゆら、ゆっくりと観察したいところですが本当に風がえげつない。ホームレスのオッサン連中もダンポールの要塞の中から出てきません。
長柄橋
十三大橋のたもと大きな道標には「高麗橋一里」と記されています。
この橋を渡れば、いよいよパラダイス十三。十三屋など流石に閉まっている店もありましたが、雰囲気は何時もと変わらず。親不孝通り(ションベン横丁)の飲み屋はオッサン連中のてんこ盛り。神津神社のある方は少しさびしい。
最後は千鳥足で見た御堂筋暮れの風景であります。
道路ばかりがやたらに明るくてなんやねん、灯りはわびしい提灯でいいから店を開けんかいと電飾に因縁を付けるのも酒のせいということにしておきませう。
狐を詠んだ句が多いかどうかは知りませんが、「公達に狐化たり宵の春」は、よく知られたものではないですか。「狐火の燃えつくばかり枯尾花」なんてのもあるようですが。
「呑助に狐化けたり宵の冬」「酒精の燃えつくばかり大晦日」ですか。猿酒は聞いたことがありますが、狐酒などと言うのも存在するかも。
いずれにしても、こんな古色豊かな町並みは残して置きたいものです。
新淀川掘削前からここには細い流れがあったようで長柄川と呼ばれていたそうです。春風馬堤曲の最初の句「やぶ入りや 浪花を出て 長柄川」、その次が「春風や」の句となっていますが、随分と長い間蕪村は故郷には戻らなかったと碑の説明板には書いてありました。
この毛馬から大川沿いに淀屋橋まで歩くのも良い散歩道です。
高校時代の恩師が退職後守口のあたりの河川敷にある管理事務所に週1,2回行っていると聞いていたのでもしやと思って覗いてみたらなんと何十年ぶりに再会できました。
十三大橋下流では蜆がとれるそうですね。
それにしても今の淀川が開削されたのは江戸時代なのでしょうか?それとも明治に入ってから?
新淀川開削は1910年の完成といいます。明治の末年です。以前はあの水が全て、大阪市内に流れ込んでいたということですと、それは洪水もおきただろうと思います。蜆川の消滅が1909年、直接の原因が大火によるものであったにしても、既にこのころには蜆川に流入する水の量は減っていたのかも知れません。
今の長柄橋は新淀川をまたいでいますが、もともと長柄川というのが流れていたようです。蕪村の頃はどのようになっていたのか調べてみたいと思っています。
豊里大橋の辺りには大きな公園がありますが、その管理事務所に恩師様がおられたのですね。小生も何度も自転車で行き来したところです。