嵯峨越畑と言っても嵯峨の名に釣られて嵐山周辺を如何にウロウロしても決して辿り着けぬところで、京都市内から西に聳える雄峰「愛宕」、その裏側もまた右京区で、嵯峨越畑は市内としては宕陰の最も奥にある地域です。この越畑にある「フレンドパークまつばら」の蕎麦は、我が師匠もお墨付きのものでありますが、平生は自動車でしか行かぬところ、いつもいつも「ウー、酒が飲みたい」と思うばかりで、欲求不満が高まっておりました。ストレスは身体に悪い、ということで本日は保津峡駅から約8㎞を歩いて、蕎麦を食い酒を飲みに行きます。トップの写真は保津峡駅で、山陰線嵯峨嵐山駅から僅か一駅で秘境の感があります。
ちょうど柚子風呂と地鶏のすき焼き(小生はその両方とも全く興味ありませんが)のシーズンなのでしょう、保津峡駅で降りるのは我一人と思っていたら大きな間違いで、多くの人がドッと列車から出てきます。駅前には、迎えの車がワンサカ停まっていて、この5~6年来なかった間に随分と柚子風呂が知れ渡ったようです。富田林が産んだ歌人「石上露子」が日露戦役に出征した人を詠んだものに「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」というのがありますが、地鶏の立場としてみれば「きょう誰が絞められる」というところ、やむを得ぬこととはいえ、また甚だ身勝手ではあるが自分はそういうことには絡まずに生きていこうと申す処。ところで、陳腐な詩で日露戦役を批判した与謝野某は大嫌いなのですが、石上露子は許しましょう。理由、美人だから。
ということで、迎えの車が去った後に、水尾に向けて歩き始めたのは、オッサンの1個小隊と小生であります。「公儀隠密は先を急ぐでー」とスタスタと小隊を追い抜いて進みます。正面に愛宕山、何も考えずにいたら、そのまま登ってしまいそうですが、本日は食い意地がはっているので大丈夫です。
保津峡から水尾への道は、概ね下の写真のような感じで、昔と異なり結構車の往来もあります。しばらく行くと、旧道に入れるところがあり、そこに入ってしまうと水尾までは快適なハイキングコースです。
エライもので、明智越え(亀岡の保津に抜ける安全な山道)の分岐のところまで来ると、はやくも柚子の香が漂い始めます。この分岐を過ぎるとまもなく水尾、保津峡駅から約3.6㎞です。里に入ってすぐの処に山陵への道標、大正12年のものです。
明智越え分岐
ここで、ちょっと寄り道をして清和天皇社に参拝です。お社に向かう途中に米買い道への分岐があります。京都の北山を中心に広がる惟喬親王の伝承、惟喬親王も清和天皇も共に文徳天皇の皇子ですが、藤原氏を外祖父としない惟喬親王の即位は最初から無く、藤原良房を外祖父とする惟仁親王即ち清和天皇が太子に立てられました。そのことに関しては、惟喬親王は無念であったろうというような議論が為されてきて、そこから様々な伝承も生じたのですが、以前に「そんなことは無いのだ。」と述べたことがあります。まあ、これについては長くなるので置いといて、先に進みます。
清和天皇にしても9歳で御即位、27歳で御退位、31歳で崩御されていますから本当に御心が休まる時は殆ど無かったに違いない。水尾との縁も時間というもので捉えたら極々短い間でしかない。けれども里の人たちは、この若くして崩御された天皇を思慕し、久しく斎き祀ってきたのです。小生は源氏ではありませんが、どのような人でも先祖の数というものを考えれば、日本人の身体の中には、この清和天皇のDNAが多少は入っていることは間違いない。自称惟喬派の身ではありますが此処は神殿に額ずくべきであります。
米買い道への分岐
清和天皇社
覆堂の中に社殿あり
境内にある向寺の地蔵(詳細不明)
清和天皇社から円覚寺の前を通り、水尾小学校の中を抜けてメインの通りに降りてきます。下の写真の向こうの方に柚子茶屋が見えます。
柚子茶屋も今はもう柚子茶や珈琲などの飲料の提供はされておられないということです。今を去る15・6年前、この茶屋が出来た時に小生は偶々この店に寄っています。その折はお爺さんが一人で営んでおられました。「珈琲を下さい。」「柚子茶にしとき。」「やっぱり珈琲がええです。」「柚子茶にしときいな。」と見事に寄り切られて柚子茶をいただきました。柚子茶を飲んでいる間にお爺さんは小生のリュックに柚子をギューギューに詰めてくれています。ずっしりと重くなったリュックを担いで愛宕に登ったのも良き思い出でありました。
翌年、柚子茶屋に寄ってみるとお爺さんの息子さんがおられて、お爺さんは癌で亡くなられたとのこと、前年のお爺さんとの会話を話すと、「おじいはん、柚子茶しかよう作れへんかったからなあ。」と寂しくはありますが可笑しく笑い合いました。その時には小さな男の子と女の子が近くにいて、「おい、ニイチャンのリュックに柚子を入れてあげなさい。」とご主人。2年連続で柚子の大軍を愛宕の山頂へ持って上がることになりました。
今、その話を留守番の奥さんにしますと、もう男の子は結婚して子供もあるとのこと。今回はリュックが重くなる前に1㎞だけ買い求めて早々に退散。小生は荷物がない間はムチャクチャ元気なのですが、ちょっとリュックが重くなると突然に根性無しになりますから、リュックに詰められる前に「さいならー」というところです。
ここから清和天皇陵までは、一度谷底に降りて水尾川を渡り、向かいの山の中腹まで登らねばなりません。その途中は本当に「柚子の里」の気分が楽しめます。
天皇陵の方から見た水尾の里
清和天皇陵
百合の花が置かれていた。
柚子茶屋では飲めなかった柚子茶、本日は里の北外れの新しい茶屋で恵んでもらいました。こやつで暖まって、いよいよ越畑に向かいます。道は概ね下の写真のような感じで、本当に何もありません。けれども今回この道を歩いて、不法投棄の深刻さを思い知らされました。ガードレールが途切れるところには必ず大型ゴミが山ほど投棄されています。山村の過疎化と高齢化によって今は、杉林の間伐さえなかなかできぬのに、重いゴミを斜面から引っ張り上げる等ということは現状では不可能です。ならばせめて道の脇に置いておけばよいのに谷底に投げ入れている。こういうことを平然とやるのもまた人間、そういう輩にも人権なるものは必要なのでしょうか?5年以下の懲役、1千万以下の罰金など生ぬるく、死罪に処すべきであります。
地蔵山登山口
峠
愛宕参道(地蔵の辻にいたる道か?)
樒原に出る
樒原に出た途端に見事な棚田が広がっています。「鎧田」という字名もあるようで、下から見上げた様が鎧のさねを重ねた姿に似ているということで生じた名のようです。それこそ四半世紀以上も前、地蔵から降りてきて初めて樒原や越畑に足を踏み入れた時は桃源郷に来たという感がありましたが、冬枯れの季節に加えて道路が変に立派になり、旧道が切れ切れになってしまったためか少し荒れた印象すらあります。この辺り、今も愛宕信仰は精神生活の中核らしく、近年の立派な鳥居が建てられています。以前は愛宕の山上近くでも神に供える樒が売られていましたが、この地域の方々が山上で売っているのだと聞いたような気がします。
四所神社
「かみよし」・「こしはた」等と記す道標
神吉さらに京北に連なる山々
さて、いよいよ越畑集落、文化4年(1807)の経王塔が迎えてくれます。法華経が確か「諸経の王」と言われていたように思うのですが、であれば法華経が下に埋納されているのでしょうか?より詳しく読み込まねばならぬところです。今は寒いし腹は減っているし、何より能力もないしと申す処で蕎麦屋に急ぎます。
宕陰中学校には、以前よく裏愛宕をウロウロしていた時に生徒たちが立てた案内板に随分とお世話になりました。水尾の里の中学生は、水尾小学校を出ると市内の嵯峨中学校に通うので、本当に樒原と越畑の子供たちだけの小・中学校です。
宕陰小・中学校(京都市立です)
越畑の火の見櫓
農家組合・こういう建物は各地少なくなりました
正面からの写真しか撮っていませんが、河原家住宅は全体の均整がとれた日本で最も美しい古民家の一つだと思います。この家の遠祖は、八木城の落城などにも関わっているかも知れません。守る側であったか攻める側であったかは分かりませんが。山崎の合戦、随分と多くの丹波の武士が戦死しましたが、この家の先祖さんはどうであったのでしょう。幕末、この辺りの方々も山国隊には参加されたのでしょうか?それからまた、怒られるかも知れませんが、金田一耕助が歩いていそう。
とか何とか思いながら歩くうちに、「まつばら」に到着です。
ここの天ざるは、どこで獲れたやも知らぬあやしげな海老など、得体の知れぬ天麩羅は無く、全てこの辺りで穫れた野菜を使った天麩羅を抹茶塩で食います(春に来たらフキノトウもおまっせ)。もう、酒のアテにピッタリ、2時30分に入店した時はほぼ満席で、小生を待っていたかのように1つだけ席が空いていました。さすがに皆さん車で来ておられるので、蕎麦だけを楽しんでおられます。酒を飲んでいるのは小生のみ、「任務達成!」と申す処。地酒はラベルだけで、本当は伏見の産、けれどもうまいのでそれで結構。熱燗もいけます。居酒屋でないのでアテは他には山椒昆布ぐらいですが、天麩羅も蕎麦もうまいので、それでよろしい。
冬場の閉店は3時、3時半になると流石に店内は小生のみ。「ゆっくりして下さいねー」と言って下さいますが、言葉に甘えてはいけません。「こりは歩いてきた甲斐があったっちゃ」。
さて、根性の見せ所はここからです。帰りのバスが2時間無いのです。2時間も待つくらいなら死んだ方がましだとスタスタと歩き始めます。樒原・越畑は高原上にあり、思うに高天原のようなところです。ここから下りてきたところが廻池(廻り田池)、真っ直ぐに北に行けば神吉、西に行けば八木です。
近くの星峠、三頭山も呼んでいますが、もはやこの時間では無理、八木に向かいます。それでもウロウロはして見るもので、いつも車で通る時は全く気づかなかった国境の碑(明治13年)を見つけました。大収穫であります。
この国境碑から山越えで八木まで出られそうな気もしますが、既に薄暮、これも諦めて477号線をひたすらに下ります。
越畑への旧道、いい道になりました。
三俣川右岸には屏風の如き岩が巍峨として聳え、なかなかの景勝です。温泉でも湧いていれば各地の「屏風岩」と称する観光地を凌ぐものになっていたでしょうが、雑木林が延々と続き、啼いている鳥も多種多様で豊かな自然地帯となっているので、このままがいいでしょう。まかり間違っても産廃業者などに売らないようにしてもらいたいものです。
里に出ました。三俣川は完全にワジとなっております。
ここから八木駅までが長い長い。あわよくば久しぶりに八木城跡に登ろうとも思っていたのですが、駅到着は5時40分で既に真っ暗です。夏場だとあと2時間ぐらいはウロウロできるのに。
近年、JRの各駅は線路上の橋梁部に改札がある、旅情の湧かぬくだらぬ駅に化けつつありますが、八木駅は昔のままで良い駅です。踏切番のオッチャンなんかも顔を出しそうです。
それにしても、さすがに酒はすっかり醒めてしまいました。亀岡か京都駅周辺で2回戦をやらねばなりません。
ちょうど柚子風呂と地鶏のすき焼き(小生はその両方とも全く興味ありませんが)のシーズンなのでしょう、保津峡駅で降りるのは我一人と思っていたら大きな間違いで、多くの人がドッと列車から出てきます。駅前には、迎えの車がワンサカ停まっていて、この5~6年来なかった間に随分と柚子風呂が知れ渡ったようです。富田林が産んだ歌人「石上露子」が日露戦役に出征した人を詠んだものに「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」というのがありますが、地鶏の立場としてみれば「きょう誰が絞められる」というところ、やむを得ぬこととはいえ、また甚だ身勝手ではあるが自分はそういうことには絡まずに生きていこうと申す処。ところで、陳腐な詩で日露戦役を批判した与謝野某は大嫌いなのですが、石上露子は許しましょう。理由、美人だから。
ということで、迎えの車が去った後に、水尾に向けて歩き始めたのは、オッサンの1個小隊と小生であります。「公儀隠密は先を急ぐでー」とスタスタと小隊を追い抜いて進みます。正面に愛宕山、何も考えずにいたら、そのまま登ってしまいそうですが、本日は食い意地がはっているので大丈夫です。
保津峡から水尾への道は、概ね下の写真のような感じで、昔と異なり結構車の往来もあります。しばらく行くと、旧道に入れるところがあり、そこに入ってしまうと水尾までは快適なハイキングコースです。
エライもので、明智越え(亀岡の保津に抜ける安全な山道)の分岐のところまで来ると、はやくも柚子の香が漂い始めます。この分岐を過ぎるとまもなく水尾、保津峡駅から約3.6㎞です。里に入ってすぐの処に山陵への道標、大正12年のものです。
明智越え分岐
ここで、ちょっと寄り道をして清和天皇社に参拝です。お社に向かう途中に米買い道への分岐があります。京都の北山を中心に広がる惟喬親王の伝承、惟喬親王も清和天皇も共に文徳天皇の皇子ですが、藤原氏を外祖父としない惟喬親王の即位は最初から無く、藤原良房を外祖父とする惟仁親王即ち清和天皇が太子に立てられました。そのことに関しては、惟喬親王は無念であったろうというような議論が為されてきて、そこから様々な伝承も生じたのですが、以前に「そんなことは無いのだ。」と述べたことがあります。まあ、これについては長くなるので置いといて、先に進みます。
清和天皇にしても9歳で御即位、27歳で御退位、31歳で崩御されていますから本当に御心が休まる時は殆ど無かったに違いない。水尾との縁も時間というもので捉えたら極々短い間でしかない。けれども里の人たちは、この若くして崩御された天皇を思慕し、久しく斎き祀ってきたのです。小生は源氏ではありませんが、どのような人でも先祖の数というものを考えれば、日本人の身体の中には、この清和天皇のDNAが多少は入っていることは間違いない。自称惟喬派の身ではありますが此処は神殿に額ずくべきであります。
米買い道への分岐
清和天皇社
覆堂の中に社殿あり
境内にある向寺の地蔵(詳細不明)
清和天皇社から円覚寺の前を通り、水尾小学校の中を抜けてメインの通りに降りてきます。下の写真の向こうの方に柚子茶屋が見えます。
柚子茶屋も今はもう柚子茶や珈琲などの飲料の提供はされておられないということです。今を去る15・6年前、この茶屋が出来た時に小生は偶々この店に寄っています。その折はお爺さんが一人で営んでおられました。「珈琲を下さい。」「柚子茶にしとき。」「やっぱり珈琲がええです。」「柚子茶にしときいな。」と見事に寄り切られて柚子茶をいただきました。柚子茶を飲んでいる間にお爺さんは小生のリュックに柚子をギューギューに詰めてくれています。ずっしりと重くなったリュックを担いで愛宕に登ったのも良き思い出でありました。
翌年、柚子茶屋に寄ってみるとお爺さんの息子さんがおられて、お爺さんは癌で亡くなられたとのこと、前年のお爺さんとの会話を話すと、「おじいはん、柚子茶しかよう作れへんかったからなあ。」と寂しくはありますが可笑しく笑い合いました。その時には小さな男の子と女の子が近くにいて、「おい、ニイチャンのリュックに柚子を入れてあげなさい。」とご主人。2年連続で柚子の大軍を愛宕の山頂へ持って上がることになりました。
今、その話を留守番の奥さんにしますと、もう男の子は結婚して子供もあるとのこと。今回はリュックが重くなる前に1㎞だけ買い求めて早々に退散。小生は荷物がない間はムチャクチャ元気なのですが、ちょっとリュックが重くなると突然に根性無しになりますから、リュックに詰められる前に「さいならー」というところです。
ここから清和天皇陵までは、一度谷底に降りて水尾川を渡り、向かいの山の中腹まで登らねばなりません。その途中は本当に「柚子の里」の気分が楽しめます。
天皇陵の方から見た水尾の里
清和天皇陵
百合の花が置かれていた。
柚子茶屋では飲めなかった柚子茶、本日は里の北外れの新しい茶屋で恵んでもらいました。こやつで暖まって、いよいよ越畑に向かいます。道は概ね下の写真のような感じで、本当に何もありません。けれども今回この道を歩いて、不法投棄の深刻さを思い知らされました。ガードレールが途切れるところには必ず大型ゴミが山ほど投棄されています。山村の過疎化と高齢化によって今は、杉林の間伐さえなかなかできぬのに、重いゴミを斜面から引っ張り上げる等ということは現状では不可能です。ならばせめて道の脇に置いておけばよいのに谷底に投げ入れている。こういうことを平然とやるのもまた人間、そういう輩にも人権なるものは必要なのでしょうか?5年以下の懲役、1千万以下の罰金など生ぬるく、死罪に処すべきであります。
地蔵山登山口
峠
愛宕参道(地蔵の辻にいたる道か?)
樒原に出る
樒原に出た途端に見事な棚田が広がっています。「鎧田」という字名もあるようで、下から見上げた様が鎧のさねを重ねた姿に似ているということで生じた名のようです。それこそ四半世紀以上も前、地蔵から降りてきて初めて樒原や越畑に足を踏み入れた時は桃源郷に来たという感がありましたが、冬枯れの季節に加えて道路が変に立派になり、旧道が切れ切れになってしまったためか少し荒れた印象すらあります。この辺り、今も愛宕信仰は精神生活の中核らしく、近年の立派な鳥居が建てられています。以前は愛宕の山上近くでも神に供える樒が売られていましたが、この地域の方々が山上で売っているのだと聞いたような気がします。
四所神社
「かみよし」・「こしはた」等と記す道標
神吉さらに京北に連なる山々
さて、いよいよ越畑集落、文化4年(1807)の経王塔が迎えてくれます。法華経が確か「諸経の王」と言われていたように思うのですが、であれば法華経が下に埋納されているのでしょうか?より詳しく読み込まねばならぬところです。今は寒いし腹は減っているし、何より能力もないしと申す処で蕎麦屋に急ぎます。
宕陰中学校には、以前よく裏愛宕をウロウロしていた時に生徒たちが立てた案内板に随分とお世話になりました。水尾の里の中学生は、水尾小学校を出ると市内の嵯峨中学校に通うので、本当に樒原と越畑の子供たちだけの小・中学校です。
宕陰小・中学校(京都市立です)
越畑の火の見櫓
農家組合・こういう建物は各地少なくなりました
正面からの写真しか撮っていませんが、河原家住宅は全体の均整がとれた日本で最も美しい古民家の一つだと思います。この家の遠祖は、八木城の落城などにも関わっているかも知れません。守る側であったか攻める側であったかは分かりませんが。山崎の合戦、随分と多くの丹波の武士が戦死しましたが、この家の先祖さんはどうであったのでしょう。幕末、この辺りの方々も山国隊には参加されたのでしょうか?それからまた、怒られるかも知れませんが、金田一耕助が歩いていそう。
とか何とか思いながら歩くうちに、「まつばら」に到着です。
ここの天ざるは、どこで獲れたやも知らぬあやしげな海老など、得体の知れぬ天麩羅は無く、全てこの辺りで穫れた野菜を使った天麩羅を抹茶塩で食います(春に来たらフキノトウもおまっせ)。もう、酒のアテにピッタリ、2時30分に入店した時はほぼ満席で、小生を待っていたかのように1つだけ席が空いていました。さすがに皆さん車で来ておられるので、蕎麦だけを楽しんでおられます。酒を飲んでいるのは小生のみ、「任務達成!」と申す処。地酒はラベルだけで、本当は伏見の産、けれどもうまいのでそれで結構。熱燗もいけます。居酒屋でないのでアテは他には山椒昆布ぐらいですが、天麩羅も蕎麦もうまいので、それでよろしい。
冬場の閉店は3時、3時半になると流石に店内は小生のみ。「ゆっくりして下さいねー」と言って下さいますが、言葉に甘えてはいけません。「こりは歩いてきた甲斐があったっちゃ」。
さて、根性の見せ所はここからです。帰りのバスが2時間無いのです。2時間も待つくらいなら死んだ方がましだとスタスタと歩き始めます。樒原・越畑は高原上にあり、思うに高天原のようなところです。ここから下りてきたところが廻池(廻り田池)、真っ直ぐに北に行けば神吉、西に行けば八木です。
近くの星峠、三頭山も呼んでいますが、もはやこの時間では無理、八木に向かいます。それでもウロウロはして見るもので、いつも車で通る時は全く気づかなかった国境の碑(明治13年)を見つけました。大収穫であります。
この国境碑から山越えで八木まで出られそうな気もしますが、既に薄暮、これも諦めて477号線をひたすらに下ります。
越畑への旧道、いい道になりました。
三俣川右岸には屏風の如き岩が巍峨として聳え、なかなかの景勝です。温泉でも湧いていれば各地の「屏風岩」と称する観光地を凌ぐものになっていたでしょうが、雑木林が延々と続き、啼いている鳥も多種多様で豊かな自然地帯となっているので、このままがいいでしょう。まかり間違っても産廃業者などに売らないようにしてもらいたいものです。
里に出ました。三俣川は完全にワジとなっております。
ここから八木駅までが長い長い。あわよくば久しぶりに八木城跡に登ろうとも思っていたのですが、駅到着は5時40分で既に真っ暗です。夏場だとあと2時間ぐらいはウロウロできるのに。
近年、JRの各駅は線路上の橋梁部に改札がある、旅情の湧かぬくだらぬ駅に化けつつありますが、八木駅は昔のままで良い駅です。踏切番のオッチャンなんかも顔を出しそうです。
それにしても、さすがに酒はすっかり醒めてしまいました。亀岡か京都駅周辺で2回戦をやらねばなりません。
それにしても、まるで柚子の精の様な人でした。柚子湯はやはり効果があるのです。徘徊堂さんも毛嫌いせずに、毎夜柚子湯に入り柚子酒を嗜めば、天下のイケメンに変貌されるのでは(今も中々のモノですけど)。
水尾の地蔵山登山口になるのですか。トレーニングで重い荷物を背負って、細い裏道から登山仲間と登ったことがあります。表参道からより早く到達しました。その節は、柚子のサービスは受けませんでした。地元の人は、やはり人品骨柄により判断して提供しているのでしょう。
越畑の蕎麦を食べたことはありませんが、賛否両論を聞きます。やはり、一度は自分の口で食べてみないと評価は出来ません(当たり前ですが)。神吉の回り池は通称「長池」と称して、かの昔、神吉在のご麗人(Sさんも含む)が夜な夜な水沐された、と聞きます(確か)。その水が八木の青戸の水無し川を暫し潤していたのです。
徘徊堂さんは八木駅の風情を称えておられますけれども、階段や跨線橋は私らが通っていた頃と全く変わっておりません。凸凹の隙間だらけです。年寄りが上り下りするのは、雪の愛宕山より危険かも知れません。愛宕山は雪の日が最高です。お屠蘇で祝ってからなら平地を歩くのと同じではないですか。正月は雪の予報ですゾ(多分)。
「まつばら」、小生は蕎麦の味はわかりませんので、蕎麦に関しては賛否両論の何れにも組みできませんが、蕎麦屋やラーメン屋には「食わしてやっている」という感じの店も多くあるそうです。そこからいくと、この店は随分と気持ちのいい店です。
八木駅、変に近代化せずに今の駅舎のままであって欲しいと思っています。草津線の如きローカル線の駅でも、最近は品のない駅舎が目立ってきています(甲賀駅などは最悪)。けれども、あのアップダウンは確かに足の悪い人には気の毒ですね。
まつばらの蕎麦は私はどちらかというと好きなほうです。店の雰囲気も良いし、この辺りの夕日がきれいですよと自慢するでなく説明して貰ったことも良い印象でした。まだ夕陽を拝みに行けてません。あのルートは私はよく通ります。三俣川右岸の風景は我がお気に入りであります。畑の横で売っている、完熟のブドウを食べたいのですがなかなかタイミングが合わず実現していません。
越畑の袴田の写真をとろうとするのですがなかなか良いスポットが見つかりません。一度「まつばらの蕎麦をおごるから」と言って、アングルや露出など技術的なことを教えて貰おうと企画したのですが雨で中止になってしまい、その後も実現していません。
廻り池の水が抜かれたときのあの島の表情も面白いですね。477を八木まで歩かれたそうですが、紅葉峠から盆地を眺めるのもいい景色ですね。そのすぐ傍にトンネルが通るそうで、神吉も便利にはなるでしょう。ささ舟さんが喜ばれるかしら。三頭山は恐ろしい山だそうです。
樒原の棚田の写真もそうですね。どこも絵になるようで、けれども「ここぞ!」という場所を探すのは難しい感じです。今回は、畦道などに踏み込んでいませんが、ところどころきれぎれに残っている旧道をたどれば、好いところがるのではないかと思います。
紅葉峠のところにトンネルができるのですか?いずれまた、紅葉峠も山道に戻っていくのでしょうね。この間、理由もなくふと思ったのですが、笠峠を20年ぶりに越えてみたくなりました。
東京のツーリストが周山街道を歩くツアーを企画してましたが、今の栗尾峠への道を歩くのは危険なので笠峠の道を歩こうかななんて考えてましたが、、まあ、荒れているでしょうね。懐かしい峠道です。道草さまはもっと懐かしいのではないでしょうか。
本日、周山の方から笠峠のトンネルに入る前、トンネルの上の山を見れば、ますます行く気マンマンになりました。
るんるん気分で読ませて頂きました^^ぜ~んぶ懐かしいです。先月27日、大覚寺の嵯峨観賞ののち、鳥居本から六丁峠を越え、保津峡駅を左に見て、ここから徘徊堂さんと全く同じコースで(お蕎麦屋も神吉も寄らず)長池をチラッと見て三股を通り亀岡まで歩いていません、ドライブしてきました^^
子ども時代、宕陰校はお隣同士で事あるごとに行きました。春の遠足、また愛宕参り道中の休憩に、秋の招待運動会に。その内に仲良しの友人が出来て休みの日に3、4人で遊びに行ったり来たりの仲になりました。遊んだ帰り道、写真にある旧道途中に今はキレイになっていますが、あのころ幽霊の出る噂が飛びかうお墓があり、反対側下を見ると恐ろしく青い池がぱっくり口をあけている様に見え怖さの余り、耳を蓋ぎ薄目にして走り去り「越畑口」のバス停に急いだものでした。
もうひとつ、三股川に父が車ごと落ちました。丁度屏風岩の辺り、崖の最も高い所に堤防があります。その深みに、(もう数メートル下流でしたらコンクリートの堤防に当たりサイナラ?だったかも)バスと出会いがしらにバックでドボンしました。バスの人たちが上から「大丈夫か!」と心配をよそに、自身で車から脱出、しかも無傷で道まで上がってきたそうです。日中戦争、太平洋戦争と2回の出征も無事生還、崖からも生還、運の強い人でした。
徘徊堂さんの健脚に拍手です^^どの位の距離がありました?
嵯峨野鳥居本から六丁峠を車で越える?小生は一度だけそれをやって、すっかり懲りました。なかなかのドラテクです。当日、四所神社でお会いしたご夫婦にも「ここを真っ直ぐ行けば水尾から嵯峨に抜けられますが、よく車が落ちているので、水尾まで行って引き返す方がいいですよ。」と話していたぐらいです。実は「走り屋」さんであったのですね。
保津峡駅から越畑までは8㎞ほど、越畑から八木までは、やはり8㎞ほどではないかと思われます。越畑と関係ないし唐突ですが、それから考えると「柳生街道」片道21㎞は結構遠いのだなあと今思いました。