写真の山は大本教の聖地たる丁塚山です。青年出口王仁三郎がこの山に籠もって得た神秘体験が、あの大著『霊界物語』に記されています。といってもこれをすっかりと読み通した訳ではありません。この凄まじい分量の書物は、ちょっと普通の根性では読み通せません。読み通すにも神懸かりでなければと思います。小生は嘗て大阪の富田林の駅で老婆の会話を小耳に挟み、その中で頻りに「病院」と言っている病院がPL教の病院であることを知り、PL教という名前は有名であるが、何なのかが今ひとつ判らぬ宗教が、此の地では結構庶人に馴染みおることに意外の感を深くしたのですが、それは近年のさまざまな出来事から新興宗教=迷惑な団体という認識が、出来上がっていたからです。
大本に関しても、普通の綾部・亀岡市民は今やこの宗教を空気のように感じているようです。かつて亀岡城(亀山城)跡をふらついていたときに、逢う人が全てにっこりと「こんにちわー」と挨拶をしてくれて、何と亀岡市民は礼儀正しいのだろうと思ったことがありましたが、考えてみれば大本の施設に迷い込んでいた訳で、挨拶をしてくれたのは大本の信者でありました。
西国観音霊場の第二十一番札所である穴太寺のすぐ近くに小幡神社があります。この神社そばといってよい距離のところに王仁三郎の生家跡があります。王仁三郎の宗教的な開眼には産土の神としての小幡神社が深く関わっています。この神社の祭神は開化天皇とその子彦坐王、その孫小俣王で崇神天皇の時の四道将軍の一人で丹波に派遣された丹波道主命が開化天皇の子孫とされていることから、この地に開化天皇が祀られているようです。この地を開発した豪族達が皇室と擬制的な血縁関係を云々ということは野暮ったいのでやめにして素直にお参りしましょう。
さてこの神社の宮司さんは上田正昭先生です。現在も社務所兼住宅に住んでおられますので、この神社にお参りした場合は、そちらの方も三跪九叩頭の礼を持って拝さねばなりません。小生小6の折、初めて日本神話に関する本を読んだのは、カッパブックスであったと思いますが、上田先生の『日本神話の秘密』(書名は嘘かも知れません)でありました。図らざりし、その著書のお住まいを今この目に見んとは、と申すところ。そういえば、王仁三郎の本名は上田喜三郎で、その生家はここから30メートルほどとなると、ご一門でしょうね。ただ、『日本の原像』という著作の中で、大本についてはかなり詳しく述べておられるのですが、一族であるとか、そういうことには一言も触れておられません。けれども、大本に対してはかなり好意的な立場を取っておられることはあちこちに書いておられる文章から知ることが出来ます。
神社の西門を出て、すぐのところには立派な門に1764年来日の朝鮮通信使の一行の一人である朴徳源の書になる扁額がかかる金剛寺があります。上田先生は、湖北高月出身で対馬藩に仕官し、朝鮮通信使との応対にあたった雨森芳洲のことも早くから顕彰されてきましたが、全てが何らかの縁で結ばれている感じです。
のんびりとした集落を離れ、ここから丁塚山の麓まで真っ直ぐに田畑の中の道が延びています。さらに麓からも真っ直ぐに山頂への道が延びているはずでありましたが、新しい住宅地も出来ていて、道が判りにくくなっています。後で知ったことですが、多くの人はふもとの道を南に巻いてから登るようです。それを知らぬものであるから、住宅の裏の崖をめぐり、道は無いかいなと苦闘することしばし、「まつたけ取るな!」の看板とともに頂上への目印であるテープを見つけてやれやれということになります。
後は「まつたけ取るな!」「まつたけ取るな!」の看板を慕っていけば、すぐさま頂上に達することができますが、登る人も殆どいないのか道も判然としません。大本最大の聖地ということで、まかり間違えば奈良の二上山のような哀れな様になり果てているのではと心配もしていたのですが、まあ普通の山のままでおいてあることに大本のゆかしさを感じます。といっても聖地は外しているので、本当のところは不明です。頂上は357mで三角点はありません。そこから尾根沿いに行けるピーク371は何か砦跡のようなのですが、雑木が生い茂るばかりです。
ここからは例によって、道を失ってエイと真っ直ぐに下ることになります。南西に下るつもりが北東の工場の裏に出ているのですから、ちょっと普通の方向音痴ではありませんでした。肝心の王仁三郎の籠もった岩窟址など全く見ることも出来ませんでした(そのうちに再挑戦します)。下りたところ近くには稗田野神社という、これも見事な神社があります。神社裏手の禁足地にはこんもりと土が高くなっているところがあります。菅政友が発掘した石上神社の禁足地もこんな感じだったのではと思われます。現在では、癌封じの神様としても知られ、その絡みか隣の大石酒造の黒米の酒は癌に効くそうです。
ここから能勢の方に歩けば直ぐに湯ノ花温泉ですが、帰りの足が確保しにくそうです。やはり街道の風情が残る道を亀岡に向かって歩き、亀岡駅前、この辺りでは最古参の居酒屋である「よろづ屋」で「焼きそば、豚肉を抜いて牛肉を入れてくれー。」等とわがままを言いながら酒をすするのがよいでしょう。
(08年3月に記したものに加筆して再録)
大本に関しても、普通の綾部・亀岡市民は今やこの宗教を空気のように感じているようです。かつて亀岡城(亀山城)跡をふらついていたときに、逢う人が全てにっこりと「こんにちわー」と挨拶をしてくれて、何と亀岡市民は礼儀正しいのだろうと思ったことがありましたが、考えてみれば大本の施設に迷い込んでいた訳で、挨拶をしてくれたのは大本の信者でありました。
西国観音霊場の第二十一番札所である穴太寺のすぐ近くに小幡神社があります。この神社そばといってよい距離のところに王仁三郎の生家跡があります。王仁三郎の宗教的な開眼には産土の神としての小幡神社が深く関わっています。この神社の祭神は開化天皇とその子彦坐王、その孫小俣王で崇神天皇の時の四道将軍の一人で丹波に派遣された丹波道主命が開化天皇の子孫とされていることから、この地に開化天皇が祀られているようです。この地を開発した豪族達が皇室と擬制的な血縁関係を云々ということは野暮ったいのでやめにして素直にお参りしましょう。
さてこの神社の宮司さんは上田正昭先生です。現在も社務所兼住宅に住んでおられますので、この神社にお参りした場合は、そちらの方も三跪九叩頭の礼を持って拝さねばなりません。小生小6の折、初めて日本神話に関する本を読んだのは、カッパブックスであったと思いますが、上田先生の『日本神話の秘密』(書名は嘘かも知れません)でありました。図らざりし、その著書のお住まいを今この目に見んとは、と申すところ。そういえば、王仁三郎の本名は上田喜三郎で、その生家はここから30メートルほどとなると、ご一門でしょうね。ただ、『日本の原像』という著作の中で、大本についてはかなり詳しく述べておられるのですが、一族であるとか、そういうことには一言も触れておられません。けれども、大本に対してはかなり好意的な立場を取っておられることはあちこちに書いておられる文章から知ることが出来ます。
神社の西門を出て、すぐのところには立派な門に1764年来日の朝鮮通信使の一行の一人である朴徳源の書になる扁額がかかる金剛寺があります。上田先生は、湖北高月出身で対馬藩に仕官し、朝鮮通信使との応対にあたった雨森芳洲のことも早くから顕彰されてきましたが、全てが何らかの縁で結ばれている感じです。
のんびりとした集落を離れ、ここから丁塚山の麓まで真っ直ぐに田畑の中の道が延びています。さらに麓からも真っ直ぐに山頂への道が延びているはずでありましたが、新しい住宅地も出来ていて、道が判りにくくなっています。後で知ったことですが、多くの人はふもとの道を南に巻いてから登るようです。それを知らぬものであるから、住宅の裏の崖をめぐり、道は無いかいなと苦闘することしばし、「まつたけ取るな!」の看板とともに頂上への目印であるテープを見つけてやれやれということになります。
後は「まつたけ取るな!」「まつたけ取るな!」の看板を慕っていけば、すぐさま頂上に達することができますが、登る人も殆どいないのか道も判然としません。大本最大の聖地ということで、まかり間違えば奈良の二上山のような哀れな様になり果てているのではと心配もしていたのですが、まあ普通の山のままでおいてあることに大本のゆかしさを感じます。といっても聖地は外しているので、本当のところは不明です。頂上は357mで三角点はありません。そこから尾根沿いに行けるピーク371は何か砦跡のようなのですが、雑木が生い茂るばかりです。
ここからは例によって、道を失ってエイと真っ直ぐに下ることになります。南西に下るつもりが北東の工場の裏に出ているのですから、ちょっと普通の方向音痴ではありませんでした。肝心の王仁三郎の籠もった岩窟址など全く見ることも出来ませんでした(そのうちに再挑戦します)。下りたところ近くには稗田野神社という、これも見事な神社があります。神社裏手の禁足地にはこんもりと土が高くなっているところがあります。菅政友が発掘した石上神社の禁足地もこんな感じだったのではと思われます。現在では、癌封じの神様としても知られ、その絡みか隣の大石酒造の黒米の酒は癌に効くそうです。
ここから能勢の方に歩けば直ぐに湯ノ花温泉ですが、帰りの足が確保しにくそうです。やはり街道の風情が残る道を亀岡に向かって歩き、亀岡駅前、この辺りでは最古参の居酒屋である「よろづ屋」で「焼きそば、豚肉を抜いて牛肉を入れてくれー。」等とわがままを言いながら酒をすするのがよいでしょう。
(08年3月に記したものに加筆して再録)
詳しい内容は忘れましたが、世の中に確たる価値観を見出し得ない時代の産物とでも言えるのでしょうか。かつての全共闘による社会革命は水泡に帰し、宗教による救いの道も絶たれた現在にも通じるものがあるようです。暗い内容でしたが、真面目に理想的社会の在り方を模索し、そして挫折していった人々の真摯な姿が描かれていたと思うのです。傍観者の私には、やはり距離感は感じましたが。
亀岡には同級生もおります。名物居酒屋のことを尋ねてみます。