写真の神社は、生田神社の神域である生田の森の中にある生田森坐神社(いくたのもりにいますじんじゃ)です。現在では、神功皇后を祀るとありますが、その名から考えると、この社こそが生田神社の原形、この辺りの地主神であったと考えられます。神戸には、本当に神功皇后に関係する神社が多く、敏馬神社や船寺神社を始め、神宮皇后ベルト地帯といってもいいほど皇后に関連した神社が連なっています。皇后の出自は近江の息長氏なのですが、何か関連する氏族がこの地域に広く住みついていたのかも知れません。
三宮は、神戸の表玄関です。JRには神戸という駅もありますが、人通りも商業施設も到底三宮には及びません。「三宮」というからには「一宮」も「二宮」もあるかも知れぬと調べてみますと、実際は「八宮」まであり、三宮には、その中の一社である「三宮神社」がある訳です。
八つの神社(六宮は八宮と合祀されているので実際は七つ)は、いずれも生田神社の摂社(というと怒る宮さんもあり-後述)、或いは関連神社で、天照大神と須佐之男大神の誓約によって誕生した八柱の神々が配置されています。古事記と日本書紀では話が異なるのですが、古事記によれば、アマテラスが着けていた宝玉をスサノオがかみ砕いて吐き出した息の中から五柱の男神が、スサノオが佩いていた剣をアマテラスがかみ砕いて吐き出した息の中から三柱の女神が誕生したということです。男神の一柱である天忍穂耳命は天孫降臨の邇邇芸命の父親で、女神三柱は所謂宗像三神です。生田神社の御祭神は稚日女尊で、本来は太陽神を祀っていた巫女が神格化したものでしょうが、八つの宮に祀られている神々から、稚日女尊=アマテラスであると推し量ることができそうです。
さて、本来は一宮から順に巡るべきでありましょうが、なかなかそうはいかない。後ほどの酒の絡みで、三宮を終点にしたい。ということで新開地から歩き始めて、先ず七宮にお参りします。入り口の石碑、「縣社七宮神社」とある「縣社」の部分が埋め込まれています。この七宮神社は早くより生田神社からの独立を望んでいた神社で、「縣社」であることから「兵庫大神宮」を名乗っていました。これも独立志向の表れでしょう。
1871年の太政官布告に始まる神社の格付けは1946年まで行われましたが、現在でも旧官幣社は神社本庁などでは別格の扱いを受けているようです。本宮である生田神社は官幣中社、七宮は縣社ということでかねがね面白くなく思っていたところ、敗戦により社格というものが無くなった。これはいいわということで縣社の部分を埋めたのかも知れませんが、埋めたことが歴然である以上、そういうことにこだわる人の愚かしさのみが感じられます。けど、そうであるとするとこの標柱は阪神大震災を乗り越えたことになります。
七宮の次は湊川神社を抜けて六宮・八宮神社、ここも郷社の部分が埋められています。神はそんなことを全く気にもされないのに。五宮神社は古い集落を抜けきった高台にあり、その横には本当に清らかとしかいいようのない禅寺があります。祥福寺というこの寺は、妙心寺の管長だった山田無文老師が指導者を務められた修行道場だった寺で、道理で禅寺の持つ清らかさを極みまで高めたものになっているのです。この五宮神社のある五宮町には震災に堪えた国宝もののアパートなどもあるのですが、住民は殆どおらず、風前の灯です。
四宮神社は市杵島姫命、本地垂迹における弁財天=弁天さんを祀っています。厳島神社のイツクシマの語源となった女神でもあります。女神のお社らしく小振りで美しく彩色されています。
四宮神社からは、本店の長田神社、繁華街のすぐ近くにあるからか参拝する人はかなり多くいます。そんな中で罰当たりですが、やはり一ノ谷の戦いが頭に思い浮かびます。この戦いは鵯越の逆落としばかりが有名になっていますが、源範頼が率いた主力軍は、この生田の森で平氏の主力軍と激突しました。源頼朝に義経のことを讒言したと人気のない梶原景時ですが、ここでは鎌倉武士として勇敢な戦いを見せています(平家物語)。景時が水を汲んだという井戸があり、景時の嫡男景季(宇治川の先陣で有名)が箙に梅を指して戦ったという話も残っています(源平盛衰記)。この一ノ谷の戦いでは平家の主立った武将が殆ど討たれるか捕らえられ、平氏はレイテ沖海戦の後の連合艦隊と同じく、戦闘集団としては二流三流のものとなってしまいます。壇ノ浦で義経を追いかけ回したとされる能登守教経なども実際はここで戦死しています。
さて、ここから北上して一宮神社(洋館に向かう途中にあります)、二宮神社を拝し、再び南下してJRなどの線路を越えると目的地の三宮神社です。
三宮神社は「神戸事件」がおこったところでもあり、生田森の戦いで源氏方の先陣をきって平氏方に突撃して戦死した武蔵の国の住人河原兄弟の墓もあります。目の前に大丸が見えています。ここから海の方に歩けば、旧居留地の史跡を幾つか見ることができます。何より神戸ビールを飲ませる店が近い。
整理しますと、三宮で酒を飲もうという参拝以外の不純な計画を持つ者には、七宮→六宮・八宮→五宮→四宮→一宮→二宮→三宮と巡るのがよく、これらの神社はさすがに都市の中のお宮さんだけに氏子の減少などの悩みも少なく、各地域の人たちに大切にされて栄えているという感じです。この巡拝は神戸では結構知られているようで、スタンプラリーなどもできるようです。お社自体は殆どが震災以後に復興されたものです。
(09年2月記)
三宮は、神戸の表玄関です。JRには神戸という駅もありますが、人通りも商業施設も到底三宮には及びません。「三宮」というからには「一宮」も「二宮」もあるかも知れぬと調べてみますと、実際は「八宮」まであり、三宮には、その中の一社である「三宮神社」がある訳です。
八つの神社(六宮は八宮と合祀されているので実際は七つ)は、いずれも生田神社の摂社(というと怒る宮さんもあり-後述)、或いは関連神社で、天照大神と須佐之男大神の誓約によって誕生した八柱の神々が配置されています。古事記と日本書紀では話が異なるのですが、古事記によれば、アマテラスが着けていた宝玉をスサノオがかみ砕いて吐き出した息の中から五柱の男神が、スサノオが佩いていた剣をアマテラスがかみ砕いて吐き出した息の中から三柱の女神が誕生したということです。男神の一柱である天忍穂耳命は天孫降臨の邇邇芸命の父親で、女神三柱は所謂宗像三神です。生田神社の御祭神は稚日女尊で、本来は太陽神を祀っていた巫女が神格化したものでしょうが、八つの宮に祀られている神々から、稚日女尊=アマテラスであると推し量ることができそうです。
さて、本来は一宮から順に巡るべきでありましょうが、なかなかそうはいかない。後ほどの酒の絡みで、三宮を終点にしたい。ということで新開地から歩き始めて、先ず七宮にお参りします。入り口の石碑、「縣社七宮神社」とある「縣社」の部分が埋め込まれています。この七宮神社は早くより生田神社からの独立を望んでいた神社で、「縣社」であることから「兵庫大神宮」を名乗っていました。これも独立志向の表れでしょう。
1871年の太政官布告に始まる神社の格付けは1946年まで行われましたが、現在でも旧官幣社は神社本庁などでは別格の扱いを受けているようです。本宮である生田神社は官幣中社、七宮は縣社ということでかねがね面白くなく思っていたところ、敗戦により社格というものが無くなった。これはいいわということで縣社の部分を埋めたのかも知れませんが、埋めたことが歴然である以上、そういうことにこだわる人の愚かしさのみが感じられます。けど、そうであるとするとこの標柱は阪神大震災を乗り越えたことになります。
七宮の次は湊川神社を抜けて六宮・八宮神社、ここも郷社の部分が埋められています。神はそんなことを全く気にもされないのに。五宮神社は古い集落を抜けきった高台にあり、その横には本当に清らかとしかいいようのない禅寺があります。祥福寺というこの寺は、妙心寺の管長だった山田無文老師が指導者を務められた修行道場だった寺で、道理で禅寺の持つ清らかさを極みまで高めたものになっているのです。この五宮神社のある五宮町には震災に堪えた国宝もののアパートなどもあるのですが、住民は殆どおらず、風前の灯です。
四宮神社は市杵島姫命、本地垂迹における弁財天=弁天さんを祀っています。厳島神社のイツクシマの語源となった女神でもあります。女神のお社らしく小振りで美しく彩色されています。
四宮神社からは、本店の長田神社、繁華街のすぐ近くにあるからか参拝する人はかなり多くいます。そんな中で罰当たりですが、やはり一ノ谷の戦いが頭に思い浮かびます。この戦いは鵯越の逆落としばかりが有名になっていますが、源範頼が率いた主力軍は、この生田の森で平氏の主力軍と激突しました。源頼朝に義経のことを讒言したと人気のない梶原景時ですが、ここでは鎌倉武士として勇敢な戦いを見せています(平家物語)。景時が水を汲んだという井戸があり、景時の嫡男景季(宇治川の先陣で有名)が箙に梅を指して戦ったという話も残っています(源平盛衰記)。この一ノ谷の戦いでは平家の主立った武将が殆ど討たれるか捕らえられ、平氏はレイテ沖海戦の後の連合艦隊と同じく、戦闘集団としては二流三流のものとなってしまいます。壇ノ浦で義経を追いかけ回したとされる能登守教経なども実際はここで戦死しています。
さて、ここから北上して一宮神社(洋館に向かう途中にあります)、二宮神社を拝し、再び南下してJRなどの線路を越えると目的地の三宮神社です。
三宮神社は「神戸事件」がおこったところでもあり、生田森の戦いで源氏方の先陣をきって平氏方に突撃して戦死した武蔵の国の住人河原兄弟の墓もあります。目の前に大丸が見えています。ここから海の方に歩けば、旧居留地の史跡を幾つか見ることができます。何より神戸ビールを飲ませる店が近い。
整理しますと、三宮で酒を飲もうという参拝以外の不純な計画を持つ者には、七宮→六宮・八宮→五宮→四宮→一宮→二宮→三宮と巡るのがよく、これらの神社はさすがに都市の中のお宮さんだけに氏子の減少などの悩みも少なく、各地域の人たちに大切にされて栄えているという感じです。この巡拝は神戸では結構知られているようで、スタンプラリーなどもできるようです。お社自体は殆どが震災以後に復興されたものです。
(09年2月記)
神戸の酒といえばやはり灘一本槍ですか。平家で思い出しましたが小学生の頃歌った「青葉の笛」(大和田建樹作詞)を思い出します。今はこんな歌は酒の場でも歌わないのでしようが。
一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛