九郎判官を贔屓にし、浅野家家来を持て囃す世間の感覚で行くと、南朝の哀話も袖を絞り得るということで、南北朝については多くの歴史少年、歴史中年、歴史婦人、歴史爺さんが南朝に同情しています。古くは徳川光圀より頼山陽、明治の南北朝正閏論、いずれも南朝の立場に立っていましたし、楠木正成や名和長年の南朝への忠義については、戦前の反動で派手な顕彰こそ無くなりましたが、それでも好きな人物の上位には入ってくるようです。(かく言う小生も大楠公のファンです。)奈良県吉野郡では今なお現在の皇室を正系と認めず、南朝の復活を願う祭祀が行われているとも聞きます。
これら南朝正統論のそもそもの起源は水戸学にあるように思われます。では水戸学大日本史に於いて吉野を正統としたのは何故かと考えると、これはもう徳川氏が南朝の忠臣であった新田氏の子孫を称していたからで、話は一挙に何ぢゃいと言うことになるのです。光圀爺さんとその取り巻きの茶話が後に大問題を惹き起こしたと言うことですね。
小生の如きも、久しく南朝の無念を思い、足利氏を貶める話をしてきたものですが、その際、北朝の皇族方のことは全く視野には入っていませんでした。この時期の皇族といえば先ずは後醍醐天皇、次いで護良親王、さらに九州に覇を唱えた懐良親王、そして金ヶ崎の悲運に沈んだ尊良・成良両親王など、後醍醐一系の人たちばかりが思い浮かんできていました。作家の海音寺潮五郎氏はどうも後醍醐天皇が嫌いであるようだ等と知っても、若いころは寧ろ氏のことを「変な奴」と思ったことでした。
昔日の小生には吉野はまさに聖地であり、毎年この地の北面せる後醍醐陵前で帝の無念を思ったものです。如意輪寺に小楠公の覚悟を知り、蔵王堂に村上義光の忠義を見んと出かけたものであります。この地の民宿では、とにかく義経と後醍醐天皇を褒め称え宿の主を喜ばせ、一杯のただ酒を得るという卑しい行いも寧ろ日常のことでありました。そういう話の時も、北朝側の尊氏・直義兄弟や高師直、佐々木道誉等の名は出ても、これらに推戴された北朝の方たちの名は殆ど出ることがありませんでした。
ところが、幸か不幸か、その後の勉強や徘徊に於いて寧ろ大きく絡んできたのは北朝の方たちでありました。京都でも個人的に好きな寺である妙心寺は花園上皇の発願によるものですし、有名な金閣・竜安寺、さらに天竜寺は足利氏とその一類絡みです。そういうところを(といっても観光寺院には殆ど入りませんが)ぶらぶらして、また改めて北朝の方々について知ることがあり、考えがすっかりと改まったのであります。足利氏に擁立されたという立場もあるでしょうが、北朝の方々は総じて「ゆかしい」のであります。これは、持明院統の祖である後深草天皇が大変に大人しい方であったことも関係があるかも知れません。
花園上皇は、大覚寺統の後醍醐天皇のことを花園天皇宸記に於いて「稀代の聖主」と称えていますが、その逆はあり得たでしょうか。つまり、南朝の天皇が北朝の天皇を誉めるということです。南朝の方々の心理状態を慮れば、そのようなことはまず無かったであろうと思われます。そう、後醍醐天皇に代表される南朝の方々は何や生臭いのであります。大覚寺統の祖である亀山天皇が大変に活発な方で、常に兄の後深草院を凌いだのも遠因かと。後醍醐天皇自身、自らの野心のために多くの皇子を失い、楠木正成ら多くの忠臣をを無為に死なせ、太平記に依れば自分自身も悟りには程遠い悪念を持ったまま崩御しています。その後の南朝の行動も、これはどうも北畠親房という奴が悪いようですが、「貧すれば貪す」を絵にしたようなことが多くあります。約束破りや北朝方皇族の拉致などは朝飯前で、この南朝の生臭さに比べると北朝は断然爽やかなのです。
後醍醐天皇が吉野に籠もったのは本意ではなく、朝に夕に無念の歯ぎしりをしていたことは先にも述べた悪念=臨終の偈「玉骨は、たとい南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん。」でも解ります。言い換えれば、「恨んだるー、恨んだるー」ということですから。御陵ではただ1例、北向きに造られているのも哀れです。
而るに、光厳上皇(北朝初代天皇)は自ら望まれて山国(固有地名です)に入られたのです。その光厳上皇の御廟所のある寺、勿論法体の上皇が日頃に看経された寺が常照皇寺です。この地で上皇が崩御されたときの心根も全ての恩讐を超えて平安そのものであったろうと推察できます。清浄な山中で、それは穏やかな晩年を過ごされたという口碑も残っています。また、大日本史料所引「常照寺記録」に残る光厳上皇の御遺言「」初めて、この寺を訪れたとき、何とも清々しい風が吹く寺だという印象を持ったことを覚えています。予て京都三山を巡った印象は、「恨みの東山、迷いの西山、悟りの北山」といったものでありましたが、その悟りの淵源はこの寺であったのかも知れません。
写真は常照皇寺本堂を西から撮ったものです。本堂は珍しい茅葺きです。
これら南朝正統論のそもそもの起源は水戸学にあるように思われます。では水戸学大日本史に於いて吉野を正統としたのは何故かと考えると、これはもう徳川氏が南朝の忠臣であった新田氏の子孫を称していたからで、話は一挙に何ぢゃいと言うことになるのです。光圀爺さんとその取り巻きの茶話が後に大問題を惹き起こしたと言うことですね。
小生の如きも、久しく南朝の無念を思い、足利氏を貶める話をしてきたものですが、その際、北朝の皇族方のことは全く視野には入っていませんでした。この時期の皇族といえば先ずは後醍醐天皇、次いで護良親王、さらに九州に覇を唱えた懐良親王、そして金ヶ崎の悲運に沈んだ尊良・成良両親王など、後醍醐一系の人たちばかりが思い浮かんできていました。作家の海音寺潮五郎氏はどうも後醍醐天皇が嫌いであるようだ等と知っても、若いころは寧ろ氏のことを「変な奴」と思ったことでした。
昔日の小生には吉野はまさに聖地であり、毎年この地の北面せる後醍醐陵前で帝の無念を思ったものです。如意輪寺に小楠公の覚悟を知り、蔵王堂に村上義光の忠義を見んと出かけたものであります。この地の民宿では、とにかく義経と後醍醐天皇を褒め称え宿の主を喜ばせ、一杯のただ酒を得るという卑しい行いも寧ろ日常のことでありました。そういう話の時も、北朝側の尊氏・直義兄弟や高師直、佐々木道誉等の名は出ても、これらに推戴された北朝の方たちの名は殆ど出ることがありませんでした。
ところが、幸か不幸か、その後の勉強や徘徊に於いて寧ろ大きく絡んできたのは北朝の方たちでありました。京都でも個人的に好きな寺である妙心寺は花園上皇の発願によるものですし、有名な金閣・竜安寺、さらに天竜寺は足利氏とその一類絡みです。そういうところを(といっても観光寺院には殆ど入りませんが)ぶらぶらして、また改めて北朝の方々について知ることがあり、考えがすっかりと改まったのであります。足利氏に擁立されたという立場もあるでしょうが、北朝の方々は総じて「ゆかしい」のであります。これは、持明院統の祖である後深草天皇が大変に大人しい方であったことも関係があるかも知れません。
花園上皇は、大覚寺統の後醍醐天皇のことを花園天皇宸記に於いて「稀代の聖主」と称えていますが、その逆はあり得たでしょうか。つまり、南朝の天皇が北朝の天皇を誉めるということです。南朝の方々の心理状態を慮れば、そのようなことはまず無かったであろうと思われます。そう、後醍醐天皇に代表される南朝の方々は何や生臭いのであります。大覚寺統の祖である亀山天皇が大変に活発な方で、常に兄の後深草院を凌いだのも遠因かと。後醍醐天皇自身、自らの野心のために多くの皇子を失い、楠木正成ら多くの忠臣をを無為に死なせ、太平記に依れば自分自身も悟りには程遠い悪念を持ったまま崩御しています。その後の南朝の行動も、これはどうも北畠親房という奴が悪いようですが、「貧すれば貪す」を絵にしたようなことが多くあります。約束破りや北朝方皇族の拉致などは朝飯前で、この南朝の生臭さに比べると北朝は断然爽やかなのです。
後醍醐天皇が吉野に籠もったのは本意ではなく、朝に夕に無念の歯ぎしりをしていたことは先にも述べた悪念=臨終の偈「玉骨は、たとい南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん。」でも解ります。言い換えれば、「恨んだるー、恨んだるー」ということですから。御陵ではただ1例、北向きに造られているのも哀れです。
而るに、光厳上皇(北朝初代天皇)は自ら望まれて山国(固有地名です)に入られたのです。その光厳上皇の御廟所のある寺、勿論法体の上皇が日頃に看経された寺が常照皇寺です。この地で上皇が崩御されたときの心根も全ての恩讐を超えて平安そのものであったろうと推察できます。清浄な山中で、それは穏やかな晩年を過ごされたという口碑も残っています。また、大日本史料所引「常照寺記録」に残る光厳上皇の御遺言「」初めて、この寺を訪れたとき、何とも清々しい風が吹く寺だという印象を持ったことを覚えています。予て京都三山を巡った印象は、「恨みの東山、迷いの西山、悟りの北山」といったものでありましたが、その悟りの淵源はこの寺であったのかも知れません。
写真は常照皇寺本堂を西から撮ったものです。本堂は珍しい茅葺きです。