花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

山科本願寺跡を巡る

2011年08月29日 | 徘徊情報・洛中洛外
 本日は、師匠の解説付きで、知られざる(知っている人は知っているけど)大城塞=山科本願寺の跡を巡ります。
 山科本願寺は1479年、それまで河内の出口(光善寺)にいた蓮如が建立した寺で、以後1532年に六角氏や法華宗徒等によって焼き討ちされるまで、蓮如・実如・証如の三世の門主の根拠地となり、「寺」というよりは寧ろ「城郭」として、その偉容を誇りました。
 1536年、証如はこの地に伽藍を再建しようとしたようですが、この計画は頓挫したようで、結局、この地に本願寺の山科別院が建てられるのは江戸時代のことです。
 さてさて、前置きはこのくらいにして、先ずは何故か仏光寺跡から巡っていきます。浄土真宗には蓮如の本願寺派の他に、有力なものとして仏光寺派と高田派があります。京都の通りに仏光寺通りがある如く、現在の仏光寺は下京区にありますが、これは豊臣秀吉以後のことで、その前は京都国立博物館の辺り、渋谷と言われる地にあったそうです。

          
          仏光寺跡

 さらにその前は、山科にあったということですが、この現在の仏光寺跡が渋谷移転以前の仏光寺なのか、それとも仏光寺の門主たることを約束されていた蓮教が蓮如に帰依した後に建立した山科興正寺の跡なのかは宿題として残りました。それにしても、堂々と一派を為すボスを自らの門弟にしてしまう蓮如の教化力には感心させられます。現在も多くの門徒が「蓮如さん」と慕ってやまないのは、その教化の力の記憶が受け継がれているのでしょう。
 三ノ宮神社は、少し珍しいお社で御祭神は「鵜鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」、神話で有名な「山幸彦」の子で、神武天皇のお父さんとされる方です。そのお名前の由来にもおもしろい話があります。九州の鵜戸神宮に祀られている神ですが、何故この山科に…、というのも宿題。宿題ついでに申せば、この三ノ宮の称、神戸の如く一宮から二宮、三宮とくるものなのか、それとも山科に於いては四ノ宮伝承があまりにも濃密であるために、そこから来たものであるのかも今後調べていかねばなりません。

          

          

 山科本願寺跡に向かって、山科川を遡ります。近年急速に都市化が進み、川の生物も住みにくいように思うのですが、同行していただいた方によると「かわせみ」が姿を見せるそうです。確かに水は思っているよりも奇麗であるようで、水面に小魚の腹が時折銀色に光ります。
 山科本願寺南西角に立つ碑です。ここから西には「今熊野道」が続いています。少し西に行ったところには道標がありますが、師匠、よくここまで来て見つけたものですね。

                

 見つけたといえば、ガソリンスタンドの横にすまなさそうに立っている「山科本願寺跡」の碑(トップの写真)、しかも少しいがんでいるし、ゴミもあるし。
 このご近所の旧家の敷地になっているのが土塁跡です。山科本願寺の土塁といえば中央公園のものしか知りませんでした。こちらの方が、何か圧迫感があって本願寺が城塞であったことをよく分からせてくれます。

          

          

          
          途次斯様な清流も

 蓮如上人往生地とする西宗寺は、山科本願寺遺構の西端に当たります。蓮如の平生の住まいは本願寺の東端からまだ少し行かねばならぬ南殿(これも城塞)ですが、蓮如のそば近くに仕えた空善によれば、往生が近いと考えた蓮如は大坂から山科に戻り、御影堂を拝し、居間から御亭(ぎょちん?)に居を移してその時を待ちます。
 阿弥陀さんのいる極楽浄土に最も近い、つまり西端の建物を死に場所としたのだと明快に言い切ることができたら良いのですが、何せ本願寺自体が丸焼けになって、その後の様相はガラリと変わってしまっているでしょうから、ちょっと言葉を濁しておきましょう。

          

          

 病中の蓮如に空善が献上した鶯、蓮如さんは随分と慰められたそうですが、往生前に放鳥し、「このうぐひすは、法ほききょとなく也。されば鳥類だにも法を聞けとなくに、まして人間にて聖人のお弟子也、法をきかではあさましきぞ。」と述べたそうで、85歳、死ぬ直前の親父ギャグ、なかなかにおもしろい人であったに違いありません。

          
          西宗寺正面

 往生地を示す立派な道標もあるところを見れば、大坂から戻ってきた蓮如は、山科で起居していた南殿には遂に帰ることがなかったのかも知れません。

          

 蓮如の往生は1495年3月25日の正午、遺骸を数万人拝み奉ると空善聞書にあるのは決して誇張ではないでしょう。荼毘は4月2日と発表しておいて、3月26日に急に実施とあります。これは、後継者の実如が骨揚げをした後、人々が火屋に乱入して土や灰をことごとく持ち帰ったということと無縁ではないでしょう。後になればなるほど、こういう混乱がもっと激しくなるという判断があったのでしょう。
 山科中央公園には、やはり土塁が残っています。この土塁を越えて攻めようとはちょっと思わないだろうという規模です。ここで、同行の方からスイカを差し入れていただきました。干天に慈雨というところです。自販機のジュースなどでは味わえぬ気分です。体力・気力共に回復します。師匠はこれ以上、元気になって早足になったらダメですよー。

          

          

          

 蓮如さんの御廟を経て、両本願寺の山科別院へ。御廟の前は藪蚊だらけでした。蓮如さん、歓迎してくれてないのかなー。そうやろなあ。真面目に念仏を称えたことなど、生まれてから一度もないからなあ(詠嘆)。あっ、勿論「南無妙法蓮華経」も「アーメン」もそうですよ。だから、熱心な門徒ではないけれども念仏を排除するものでもないから、大目に見てチョ。

          
          蓮如廟

          
          西本願寺山科別院

          
          東本願寺山科別院長福寺

          
          文久2年の灯籠

                
                南殿への道標

 蓮如の隠居所であった南殿、どちらかというと東殿という方が良いのではとも思われますが、現在は光照寺という寺があります。その入り口に「妙好人さと女生家」の碑、「おさとさん」は熱心な念仏者だったのですね。ここには、若々しい蓮如さんもおられました。

          

          

 南殿跡は近年史跡に指定されました。このときについでに中央公園の土塁も指定したようです。道標の文字は読めたり読めなかったり、皆でワイワイ言いながら何と書いてあるのかを考えるのは楽しいものです。

          

          
          御塚道道標

          
          同じく

 さて、山科本願寺の亡滅には、予てからこの場に於いてその非を責めている細川晴元(通称六郎君)が大きく絡んでいます。
 大物崩れにより、積年の敵であった細川高国が滅んだのは1531年7月、強大な敵を滅ぼした後は必ずと言っていいほど、それまでの味方の間で内紛が起こります。細川晴元の家臣団では、三好元長と木沢長政の仲が険悪となります。この内紛に本願寺を巻き込んだのが晴元でした。
 晴元は家臣でしかも強大な勢力を誇る三好元長を倒すために本願寺に援助を求めました。木沢長政の籠もる飯盛山城を攻めていた三好元長の背後から突然一向宗の門徒が襲いかかったのです。三好元長は急いで根拠地としている堺に戻りましたが、その堺でも何十万(と史料にある)もの門徒が元長のいる寺を取り囲み、遂に元長は切腹します。これが1532年の6月。
 本願寺の動員力に恐怖を抱いたのでしょう。この後すぐに本願寺は晴元にとっては「倒すべき敵」となるのです。そして、最初に述べたように1532年の8月末には山科本願寺は焼亡します。
 晴元のえげつなさは、ここでは留まりません。本願寺攻めに功のあった法華の衆も1536年には京内の法華寺院21ヶ寺すべてが壊滅し、多くの法華信者が虐殺されましたが、実行役は比叡山、六角氏等といっても背後には六郎がいました。
 山科本願寺の壊滅は、畿内の争いに介入した証如にも非があります。けれども、この証如自身も幾度も晴元に命をねらわれることになります。よっぽと、懲りたのでしょうね。大日本史料では、この後延々と証如がこの時期の武将達と仲良くしようとする記事が続きます。
 さてさて、山科本願寺絡みの徘徊はココで終了。南殿から北上した若宮八幡には、大津皇子と、その子と思われる粟津王の供養塔がありました。??でありますが、また調べましょう。

          
          若宮八幡宮

          

 知る人ぞ知る徳林庵(山科地蔵)、その門前には元禄の道標(これは古い)、車石がありました。そう、徳林庵は東海道に面しています。京中のH氏夫妻、大和のO氏、三島のT氏、河内のM氏、周防のA氏、蝦夷島のI氏、奥州のK氏、その他の方々、行ったかえー。以上私信です。

          

          

          

 最後は四ノ宮諸羽神社です。仁明天皇の第4皇子、人康(さねやす)親王や蝉丸に絡む伝承がありますが、もはやここまでくると、本日の夜、大文字を見ながら飲むビールのことしか頭になく、日本後紀の記事を思い出そうとしても、浮かんでくるのは「びぃる」だけ。そろそろ、頭がショートしかかっているのでしょう。

          
           諸羽神社

 蓮如さんの遺跡は各地にあります。畿内のちょっとした本願寺系の寺ならば「蓮如上人御旧跡」の碑が門前に建っています。美山の山奥には「蓮如の滝」なるものもあります。この蓮如さんの後を慕う徘徊は、この先も何回もすることになるでしょうし、現に今回同行していただいた方の中には既に加賀の国にまで足を延ばしておられる方がおられます。         

                   





6 コメント

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炎熱もまた素晴らしき。 (道草)
2011-08-29 14:12:53
かつて勤務していた会社の別館が山科にあって、仕事でよく往き来しました。その節に大塚に京都一のラーメン屋があって、それが楽しみでもありました。従いまして、道標も「右大塚」などと憶測してしまい、本当は「右大津」が正解だったとか。
いずれにしましても、近くにも拘わらず山科にかくも雄大な寺々が散在していると知ったのは、今回の炎天下にご同道して初めてのことでした。

蓮如は、日本史などでほんの概要は聞いておりました。また、真継伸彦に『私の蓮如』と称する作品があります。この作家は先日も話していました如く、U村の出身で幼児期まで住んでいたとのことです。生家は、中地の三叉路の左手にある道路から少し低くなった旧家です。『鮫』『光る聲』『無明』など面白い作品が多々あり、私はファンでした。
晩年は『親鸞』『仏教のこころ』『無明の世界』など宗教に造詣のある作品が多くなっています。最後の方は、何処かの女子大の学長をしていました。まだ生存とは思いますが、詳しくは分かりません。
話は横道へ外れましたが、そんな経緯(お粗末ながら)があって、宗教家でも蓮如には何か親しみ(勝手に)を覚えており、先日の炎暑の中でも最後まで皆様に着いて行けた次第です。途中で差し入れのあった、冷たい西瓜のお蔭も大ですが。
詳しくは徘徊記録に述べられている通りで、素人の私に感想も何も無く、ただ全てが感嘆と刺激の時間でありました。おまけに、夜は悠然と送り火を遠望しながらの冷たい飲み物に、昼間の酷暑は完全に消え去った一日でした。

朝の散歩で山科川の上流までは、なかなか遡れません。ただ、下流では青鷺・五位鷺・鴛鴦などを見掛けますが、翡翠はまだ一度も目撃をしておりません。今後の楽しみが増えました。
様々な未知の世界(私だけかも知れませんが)や珍しい場所へご案内戴き(ほとんどが右から左とは言え)、有り難うございました。山科はまだまだ広い様です。また続編を期待しております。
「炎天の徘徊ありてビールあり」道草
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山科も広いですね。 (gunkanatago)
2011-08-29 16:28:22
 道草様、コメントをありがとうございます。そしてまた、山科徘徊におつき合い下さり、本当にありがとうございました。
 「炎天の徘徊ありてビールあり」の句、身に染み込みます。昨日は「ビールありて徘徊あり」をやりましたところ、藪蚊に刺されまくりました(笑)。また、けじめがついていないので、その後もどれだけ飲んだやらわかりません。
 山科川に沿っての散歩、なかなかいいコースですね。述べておられますように、なかなかあの辺りまで遡ることは難しいとは思います。というのも醍醐の辺りまで含めると、山科もまた大変広い感じがするからです。いつかヒスイ色の宝石を見たいですね。
 真継氏、何とU村の出身だったのですね。小田実とつるんでいたというあたりは許せませんが、機会があったら「親鸞」を読んでみます。
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蓮如さんを思う複雑な心 (mfujino)
2011-08-30 02:08:25
gunkanatagoさま、さすがさすが、上手くまとめられていますね。gunkanatago節に益々惚れ直しております。

私は綺麗に剃髪されていないと坊主とは見えない、というかその様に教育されたが故でしょう。それと座禅を組むでなく、修行の匂いのしない真宗というか浄土宗などはどうもねえ、という考えが染みついている様です。しかしツルツル頭でしっかり修行をしていそうな坊主でもやっていることは、何じゃいこれは、ってことが多々ありまして、人は外形で判断してはいけないのでしょうね。とは言いつつ、髪黒々の葬式坊主には拒否反応を隠せません。

とは言いつつ蓮如さんって凄い人なんだろうと薄々感じましておりまして、はるばる吉崎まで行ってきました。あそこには蓮如さんの大きな銅像が建っているのですが、何と若々しこと。吉崎の地は何故地元大名があそこに城を築かなかったのかと不思議です。海の交通を利用した交易がもたらす利益、城塞としての堅固さ、まあ当時は防御の思想だけで繁盛という思考はもう少し世の中が治まってからでないと生まれなかったのかもしれませんが。

山科本願寺の徘徊を実現して頂き感謝感謝です。石標も師匠の解説ありで良かったですし、何よりも土塁を見てその城塞(^_・)の規模にも感心しました。蓮如さんが今の日本に生きていたら間違いなく総理大臣でしょう。西宗寺で見た放鶯の像、その説明文は楽しいもので、凄いタレントの持ち主との印象であります。ああ、こうして布教して来たんかしら。難しい理屈を述べるでなく、心にすっと入り込む話をされたんだろう、しかもその話をする坊さんは心から佛の道を歩んでおられるという雰囲気を醸し出して、という人だったのかしら、蓮如さんは。

でもね、何かロマンを感じないんだなあ、、、南殿みたいな城塞で晩年を迎える生き方に何か引っかかるものがあるんだなあ。法華宗は城塞を築いたのかしら?こんな感想を書いている様では、甘い甘いと言われてもしょうがないんでしょうね。
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取り込まれるのでしょうね。 (gunkanatago)
2011-08-30 14:09:14
 mfujino様、コメントをありがとうございます。また、山科の徘徊におつき合いいただき、ありがとうございました。
 小生も、頭黒々坊主を見るたびに「この葬式はハズレ」という気分がどうしても消せません。どうしても高尚なことを期待してしまいます。
 ただ、禪坊主の言う難しいことを小生も含めて庶人がどれくらい理解するかということを考えると、蓮如さんの平易な教えが人々に喜んで受け入れられてきたということは理解できます。門徒の葬式では蓮如さんの手紙(お文)なども読み上げられることが多く、無条件で信じるならば、こんなに分かりやすいものはないと思います。
 何にしても、会ってみたらものすごく人好きのする人だったのでしょうね。だから、気がついたらみんなが蓮如さんのペースにはまっているという感じではないでしょうか。空善に言っている小言など、書いたものだけを読んでいたら、「何を偉そうに」とも思うのですが、実際に耳にしたら又違って聞こえるのかなと思っています。
 法華宗の寺も要塞化していたと思います。織田信長などが法華宗の寺を宿所にしていたのは、その為だと思います。といっても1万人を超える軍勢に攻められたらイチコロですね。
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清らかな徘徊 (ささ舟)
2011-09-01 11:50:05
炎天下の山科徘徊はT先生の名解説付き、麗しき同行人付き、何故か熱意の感じられるmfさん、粋人のUさん、そしてまろやかなKさんと常日頃行いのいい方達が成功んのうちにことの他楽しく終わられたようで何よりでした。幾つかの宿題は次のお愉しみですね。
蓮如については10年ほど前にアニメーション「蓮如物語」を観ました。師走に生母との別れのシーンが目に焼きついています。立ち去る前に幼いわが子の姿を絵師に頼んで描かせ、その絵を抱えて寺を去る所も涙が止まりませんでした。そのナレーションが吉永小百合なのです。切ない声で・・・。私が蓮如の時代に居ればころっとその教えに入っていきそうです。

山科東西本願寺は新幹線近くで中央公園をはさんであるのでしたか?一度通りかかりましたが境内に入らずでした。御土塁ってあまり見ないので(北野天神さんのもそうですか?)どの程度が立派なのかよくわかりません。ごく最近では先だって立ち寄った掛川城で見ました。
門徒さんの声明を初めて聴いたとき高低の流れがすごーく綺麗でした。母校はその系列でした。


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本願寺別院 (gunkanatago)
2011-09-01 14:06:15
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。小生の常日頃の行いがいいかどうかは別にして(笑)、確かに皆さん向学心に富む素晴らしい方々ばかりだなあと思います。今回は徘徊には参加されてはいませんが、勿論ささ舟様もですよ。
 東西の本願寺の山科別院は、中央公園の東にあって、その距離はごくわずかです。かつての山科本願寺の境内ではなくて、蓮如さんのいた南殿との間にあるようです。
 土塁は、その幅や高さで大きさを感じることができます。山科本願寺の土塁はやはりすばらしいもので、焼き討ちされたときも土塁を越えての侵入はなかったようです。太閤さんの土塁は、また機会があれば京都市中徘徊の折に見学しましょう。
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