本日の出発点はJR加古川駅、「あれぇ?随分変わったなあ!」、駅前にデパートて昔からあったのだろうか、あったのでしょう。と最初から何を書いているのや分かりませんが、駅前を寺家町(じけまち)まで南下します。途中に1軒、あるのですが、ここは先を急ぎます。
寺家町商店街
寺家町の通りは旧山陽道です。この通りに入ったら西に向かいます。ここにもあるのですが、ここはハッキリと「豚肉」使用ですからパスします。ここでは2回、同じ失敗をしています。
ここは黙ってやり過ごす
辿り着いたのは「旭食堂」、そう、加古川名物の「かつめし」を食いに来たのです。「かつめし」は本来は料理店の「まかない飯」から出発したもののようですが、この食堂の「かつめし」が、その発祥店の伝統を最も忠実に受け継いでいるそうです。
途中の商店街が殆ど盆休みで休んでいましたから、ちょっと心配でした。けれども、しっかりと開けておられました。
「しのだ」の名も懐かしく
「かつめし」はご飯の上にビフカツを載せ、デミグラスソースをかけたもので、生のキャベツが盛り合わされています。この店のデミグラスソースは本当に絶品で、一流ホテルの料理長といえども、ことソースに関しては脱帽するのでは。
「かつめし」じょー
昼飯時に来ると座れないこともありますが、少し時間をずらしてきたので、本日はゆっくりとできました。また近いうちに来て、今度は「しのだ」も食おう。
食堂を出て少し西に行くと加古川の流れに出ます。途中にある理髪店は以前は山陽道の案内をしておられたのですが、代替わりしたのでしょうか?山陽道の石の宝殿~姫路間は何年か前から宿題になっています。本日は山陽道はここまで。宿題はまたいずれ。
加古川の河川敷を海の方、つまり高砂に向かって歩きます。暑い日中、食堂で飲んだビールはすぐに蒸発してしまいました。他に歩いている人どころか自転車も通りません。河川敷には日陰がない、「もはや、これは苦行やな。」、カンカン照りの下を歩いていると何故か思い出されるのは「クリスマスカロル」に出てくるマーリンの幽霊、生きているときにあちこちを見聞し、勉強しておかないと死後に「永遠の放浪」という罰を受けるのだと云々、既にして妄想の域に到達しています。
石の宝殿方面
古新堰堤は高砂の水道に塩気が入らぬように造られたもので、満潮時には随分と潮が川を遡るようです。「なるほど、河口に近い堰堤には、そういう効果もあるのか。」と感心させられます。
古新堰堤(1930竣工・1960改修完了)
山陽新幹線の鉄橋です。何せ新幹線ですから、「おっ!来た。」とカメラを用意するころには通り過ぎてしまっていて撮れません。カメラを構えてじっとしていたらいいのですが、それはようしません。どうも小生は「撮りテツ」になる根性は無いようです。
山陽新幹線
山陽電車の鉄橋は一つの「風景」です。暑いけれども見ていて飽きません。さすがにこちらの方は電車が来てからカメラを構えても間に合います。この鉄橋の下をくぐったら、そろそろ加古川の流れと一時のお別れです。
岸辺に姫路藩の米蔵が建っていた運河を渡り、高砂神社までの道は、何か懐かしい感じのする建物が多く残っています。そういえば、「合名会社」の看板を見つけて感動したのも高砂でした。
近年は結婚披露宴に出ても、あまり聴かなくなりましたが、昔は必ずどこかのおっちゃん(おじいちゃん)が謡曲「高砂」を呻ったものです(謡うのではなく(笑))。その謡の中の尉と姥が出現したというお社が高砂神社です。この伝承は、これから向かう尾上神社にもあり、この辺り一帯に濃厚に伝えられています。それでも「うちが御本家!」という下世話な争いが無いのは誠にすがすがしいことです。
御神木「いぶき」
御本殿
小生がまだ小学校の5年生か6年生であったころ、宮司さん(多分先代、もしかしたら先々代)が「高砂神社を訪ねて」という小冊子を出版されました。そのことを知って、早速に送っていただいたところ、こちらの歳を御存じでありながら本当に丁寧な手紙を書いて下さいました。末尾には「必ず近いうちに御参拝下さい」とあったように覚えていますが、ガキンチョの身で、大人扱いをしてもらえるというのは大変嬉しいことでした。けれども、その日から初めての参拝までには四半世紀の年が流れました。
ここはまた、高砂城の跡でもあります。豊臣秀吉の三木城攻めの時には三木城の枝城として秀吉の軍と戦いました。その後、池田輝政が播磨に入封すると姫路城防御の城となったようですが、間もなく廃されたということです。
秩父宮妃殿下お手植えの相生の松(5代目)
絵馬
算額もあるでー
「帆」を改良した工楽松右衛門
東宮殿の方に歩いていくと大きな橋が架かっています。おや、これで加古川の対岸に渡れるのかな、確か相生橋が最も河口の橋のはずなのですが、その後にできたのかな。
神輿庫でしょう
これを登れとな
結局この「高砂大橋」は加古川右岸の運河を跨いだだけで、加古川を渡ることはできませんでした。それでも橋の上に立つと高砂神社から石の宝殿方面までをずっと見通すことができます。
手前の森が高砂神社
播磨灘
やや北上して予定通り相生橋を東へ渡ります。何年か前には、この橋を渡って尾上神社、鶴林寺に行ってから「かつめし」を食べたものですが、今は「かつめし」が第一番になりました。
相生橋の上から
尾上神社は住吉四神を祀るお社です。今までの「尾上の松」は昨年に枯れてしまい、今は新しい松が植えられています。「尾上の鐘」の伝承でも知られています。
御本殿
尾上の松
神功皇后を慕う片枝の松
この辺りの浜から舟に乗れば、流石に航海神の加護も厚く飛ぶように住吉の浜まで行けるはずですが、今はこの神社も海からは遠くなってしまいました。
東門
道標
この尾上神社からは、まっすぐ東に道が通っています。着いたところは天神さんを祀る浜の宮でした。付近にはやはり謡曲高砂に出てくる阿蘇宮司友成所縁の寺もあるはずなのですが、分かりませんでした。やはり地図というものを持って歩かねばなりません。まあ、辿り着けても既に閉門の時間を過ぎているでしょうけど。この辺りは、海沿いに住吉神社が連なっています。住吉さん連珠徘徊は次回のこととして、浜の宮から山陽電車に乗ります。
浜の宮
山陽明石駅で降りて、油臭い「玉子焼き」を食う予定でしたが、車掌のアナウンスが全く聞こえず、乗り過ごしてしまいました。アッという間に淡路の島影は去り、鳴尾(西宮)も過ぎて、梅田。このまま住吉まで行くかと思いましたが、駅前第三ビル内の串カツ屋に捕まりました。何と大瓶(スーパードライ)1本380円、支払いの時に「エッ!」と感動しました。今までに知っている最も安いところは京橋の居酒屋で390円(黒ラベル)、一挙に記録更新です。住吉明神の冥助は誠にあらたかであります。
寺家町商店街
寺家町の通りは旧山陽道です。この通りに入ったら西に向かいます。ここにもあるのですが、ここはハッキリと「豚肉」使用ですからパスします。ここでは2回、同じ失敗をしています。
ここは黙ってやり過ごす
辿り着いたのは「旭食堂」、そう、加古川名物の「かつめし」を食いに来たのです。「かつめし」は本来は料理店の「まかない飯」から出発したもののようですが、この食堂の「かつめし」が、その発祥店の伝統を最も忠実に受け継いでいるそうです。
途中の商店街が殆ど盆休みで休んでいましたから、ちょっと心配でした。けれども、しっかりと開けておられました。
「しのだ」の名も懐かしく
「かつめし」はご飯の上にビフカツを載せ、デミグラスソースをかけたもので、生のキャベツが盛り合わされています。この店のデミグラスソースは本当に絶品で、一流ホテルの料理長といえども、ことソースに関しては脱帽するのでは。
「かつめし」じょー
昼飯時に来ると座れないこともありますが、少し時間をずらしてきたので、本日はゆっくりとできました。また近いうちに来て、今度は「しのだ」も食おう。
食堂を出て少し西に行くと加古川の流れに出ます。途中にある理髪店は以前は山陽道の案内をしておられたのですが、代替わりしたのでしょうか?山陽道の石の宝殿~姫路間は何年か前から宿題になっています。本日は山陽道はここまで。宿題はまたいずれ。
加古川の河川敷を海の方、つまり高砂に向かって歩きます。暑い日中、食堂で飲んだビールはすぐに蒸発してしまいました。他に歩いている人どころか自転車も通りません。河川敷には日陰がない、「もはや、これは苦行やな。」、カンカン照りの下を歩いていると何故か思い出されるのは「クリスマスカロル」に出てくるマーリンの幽霊、生きているときにあちこちを見聞し、勉強しておかないと死後に「永遠の放浪」という罰を受けるのだと云々、既にして妄想の域に到達しています。
石の宝殿方面
古新堰堤は高砂の水道に塩気が入らぬように造られたもので、満潮時には随分と潮が川を遡るようです。「なるほど、河口に近い堰堤には、そういう効果もあるのか。」と感心させられます。
古新堰堤(1930竣工・1960改修完了)
山陽新幹線の鉄橋です。何せ新幹線ですから、「おっ!来た。」とカメラを用意するころには通り過ぎてしまっていて撮れません。カメラを構えてじっとしていたらいいのですが、それはようしません。どうも小生は「撮りテツ」になる根性は無いようです。
山陽新幹線
山陽電車の鉄橋は一つの「風景」です。暑いけれども見ていて飽きません。さすがにこちらの方は電車が来てからカメラを構えても間に合います。この鉄橋の下をくぐったら、そろそろ加古川の流れと一時のお別れです。
岸辺に姫路藩の米蔵が建っていた運河を渡り、高砂神社までの道は、何か懐かしい感じのする建物が多く残っています。そういえば、「合名会社」の看板を見つけて感動したのも高砂でした。
近年は結婚披露宴に出ても、あまり聴かなくなりましたが、昔は必ずどこかのおっちゃん(おじいちゃん)が謡曲「高砂」を呻ったものです(謡うのではなく(笑))。その謡の中の尉と姥が出現したというお社が高砂神社です。この伝承は、これから向かう尾上神社にもあり、この辺り一帯に濃厚に伝えられています。それでも「うちが御本家!」という下世話な争いが無いのは誠にすがすがしいことです。
御神木「いぶき」
御本殿
小生がまだ小学校の5年生か6年生であったころ、宮司さん(多分先代、もしかしたら先々代)が「高砂神社を訪ねて」という小冊子を出版されました。そのことを知って、早速に送っていただいたところ、こちらの歳を御存じでありながら本当に丁寧な手紙を書いて下さいました。末尾には「必ず近いうちに御参拝下さい」とあったように覚えていますが、ガキンチョの身で、大人扱いをしてもらえるというのは大変嬉しいことでした。けれども、その日から初めての参拝までには四半世紀の年が流れました。
ここはまた、高砂城の跡でもあります。豊臣秀吉の三木城攻めの時には三木城の枝城として秀吉の軍と戦いました。その後、池田輝政が播磨に入封すると姫路城防御の城となったようですが、間もなく廃されたということです。
秩父宮妃殿下お手植えの相生の松(5代目)
絵馬
算額もあるでー
「帆」を改良した工楽松右衛門
東宮殿の方に歩いていくと大きな橋が架かっています。おや、これで加古川の対岸に渡れるのかな、確か相生橋が最も河口の橋のはずなのですが、その後にできたのかな。
神輿庫でしょう
これを登れとな
結局この「高砂大橋」は加古川右岸の運河を跨いだだけで、加古川を渡ることはできませんでした。それでも橋の上に立つと高砂神社から石の宝殿方面までをずっと見通すことができます。
手前の森が高砂神社
播磨灘
やや北上して予定通り相生橋を東へ渡ります。何年か前には、この橋を渡って尾上神社、鶴林寺に行ってから「かつめし」を食べたものですが、今は「かつめし」が第一番になりました。
相生橋の上から
尾上神社は住吉四神を祀るお社です。今までの「尾上の松」は昨年に枯れてしまい、今は新しい松が植えられています。「尾上の鐘」の伝承でも知られています。
御本殿
尾上の松
神功皇后を慕う片枝の松
この辺りの浜から舟に乗れば、流石に航海神の加護も厚く飛ぶように住吉の浜まで行けるはずですが、今はこの神社も海からは遠くなってしまいました。
東門
道標
この尾上神社からは、まっすぐ東に道が通っています。着いたところは天神さんを祀る浜の宮でした。付近にはやはり謡曲高砂に出てくる阿蘇宮司友成所縁の寺もあるはずなのですが、分かりませんでした。やはり地図というものを持って歩かねばなりません。まあ、辿り着けても既に閉門の時間を過ぎているでしょうけど。この辺りは、海沿いに住吉神社が連なっています。住吉さん連珠徘徊は次回のこととして、浜の宮から山陽電車に乗ります。
浜の宮
山陽明石駅で降りて、油臭い「玉子焼き」を食う予定でしたが、車掌のアナウンスが全く聞こえず、乗り過ごしてしまいました。アッという間に淡路の島影は去り、鳴尾(西宮)も過ぎて、梅田。このまま住吉まで行くかと思いましたが、駅前第三ビル内の串カツ屋に捕まりました。何と大瓶(スーパードライ)1本380円、支払いの時に「エッ!」と感動しました。今までに知っている最も安いところは京橋の居酒屋で390円(黒ラベル)、一挙に記録更新です。住吉明神の冥助は誠にあらたかであります。
私にはこの辺りは未知の世界です。大昔、室津港へ行ったことがありますけど、もっと西になるのでしょうか。土地勘がまるで欠如していて、笑われそうな質問です。
それにしても、実に良心的なうどん屋ではないですか。「しのだ」も懐かしい名称ながら、「うどん」が堂々としていて、つい注文してしまいそうです。「かしわうどん」も手頃な(手頃過ぎる)値段ですから、かなり人気があることでしょう。「かつめし」の肉は、かしわではないのですか?絶品のデミグラスソースと合いそうに思えますが・・・。
「宝殿」駅は何だか面白そうな地名ですが、遺跡がそのまま名称になったのでしょうか。ここは徘徊堂さんの縄張りでしょうし、未踏とは信じられません。
加古川の河川敷はさすがに広としていますねぇ。ただ、人影がまるで見られないなどとは信じられません。徘徊堂さんは生きている今に(昔からでしょうけど)これだけ見聞を広め知識を集積しておられるのですから、死後は安楽椅子で日々ビールや銘酒の飲み放題!だと確信いたします。私などは放浪どころか、地獄へ追放でしよう。
それにしても、「古新堰堤」が固有名詞ですか。由緒が有りそうで無さそうな、それでいて如何にも明確な名称に思えますが。余談ですが、淀川には鮎が遡上する水道が設けられたそうです。鴨川で鮎釣りが出来るようにする計画とか。ああ、上桂川の鮎の塩焼きで一杯やりたい!
そう言えば、「高砂」の謡曲は遠くなりました。若い者の結婚式に出ますと、最近はAKBが本命みたいです。「高砂」を唸られますと、一生添い遂げならんのか、と負担に感じられるからかも・・・。それにしましても、高砂橋とか相生橋などどのくらいの距離があるのでしょうか。渡橋だけでも相当な歩数になるのでしょう。
明石駅の「油臭玉子焼き」がなぜ人気があるのか分かりませんけど、駅前第三ビルに日本新のビールがありましたか。敬遠した徘徊堂さんに、御利益を与えてくれる住吉明神は日本一の神様ではないですか。本日も、未知の東播徘徊録を有り難うございました。
「かつめしを食べて仰ぐか夏の雲」道草。
工場地帯の加古川はさすが無いでしょうが、ここ播磨灘は牡蠣の一大産地なんですね。坂越の牡蠣を食べに車を走らせたことを思い出します。かつめしで出てきたデミグラスソース、都島のある食堂でハイシライスを食した時、シェフが手間の掛かるデミグラスソースを自分でこつこつとつくっている所が少なくなったと嘆いていましたが、美味なるソースに巡り会えた様で良うございました。ビフカツも最近は目にするのが少なくなりましたね。
そうか明石焼きはgunkanatagoさんにとっては油くさい玉子焼きなんだ。ふむふむ。美味い蛸を求めて走りたくなるではないですか。
私は生ビール中瓶を\250で呑ませる立呑屋を船場につくれば儲かるやろうなあ、って思っていましたが、梅田の一等地で大瓶\380ですか。デフレの威力は猛威を振るっていますね。串カツね~、串カツ屋に捕まりたい。
ついつい庶民グルメの話になってしまいました。播磨灘も昔の海岸線はずいぶん陸地に入っていますね。秀吉の水攻めで落城した高松城、その清水氏の一族が京都は和知の近くに移って開墾をして住んでおられる集落があります。また、大昔の山陽道は立派な国道が走っていたとのテレビ番組を思い出しました。
御本家争いはあちこちにありますね。自分に関係のない喧嘩って見物するのは楽しいものでありますが、それぞれが自己の正当性を、お~い皆の衆聞いてくれと公に向かって主張するのが裁判の源。浪華の呑み屋さんの競争の如く、両陣営が切磋琢磨してその論拠を示す努力をするならこれはこれで意味があり大歓迎なのですが。
よく知られている石の宝殿は登ったことがありますが、JR宝殿駅から姫路までの山陽道は未だ歩いていません。石の宝殿のふもとには高砂名物の「にくてん」を食わせるお好み焼き屋があります。
旭食堂は、ご主人も奥さんも気持ちのよい人で、店全体からお書きいただいたように「良心」が滲み出ています。他に何ヶ所か「かつめし」を食いましたが、ここのが一番ウマイと思います。鶴林寺門前の和菓子屋のモナカも絶品です。と食い物のことを言いだすとキリがありませんね(笑)。
播磨灘と聞くと、どうしても黒田如水ということになり、司馬遼太郎の小説の影響の大きさを感ぜずにはいられませんが、牡蠣の一大産地であるとは知りませんでした。高砂より西に行ったところでしょうね。
明石の玉子焼きは、多くの店で食べましたが、どこも似たか寄ったかで油のニオイがツンとします。玉子焼きが周辺の町で明石焼きと言われるようになり、それなりにアレンジされてウマクなっていっているように思われます。
先だっても東京に住む友人が言ってましたが、東京は安い店=×だが、関西は安い店でもウマイということです。この駅前第3ビルの串カツや、串カツも冷や奴もムチャクチャ良心的でした。
東播磨の徘徊楽しく見せて頂きました。
私は徘徊堂さまと違ってテツちゃんですから、加古川行きは福知山からJR福知山線谷川駅で加古川線に乗り換えて日本へそ公園駅や西脇を通過してJR加古川駅に着きました。そこからまだ懲りずにテッちゃんのまんま三宮経由家までのコースでした。加古川でふらりと徘徊していたら名物「かつめし」か「しのだ」で満腹できましたのに・・・惜しいことしました(笑)
別の時、山陽電鉄は舞子公園までしか乗っていませんが、それ以西の明石や播磨灘沿いは全く
分かりません。私は何時の場合も内容のないべったらな旅で、こちら様の徘徊にすごーく感心ばかりしています。ありがとうございました。
今度、こちら方面にお出かけの際には、是非とも明石まで足を延ばして下さい。駅を出てすぐに2号線を渡り、魚の棚商店街です。「玉子焼き」の店も何軒かありますし、瀬戸内海の幸がたくさん待っています。きっと気に入っていただけるところだと思います。
「かつめし」の旭食堂もいつでも御案内します。その後は加古川を下らずに石の宝殿がおもしろいかも知れません。