本日は、山に行くには大きく出遅れてしまったために、思いつきでブラブラと文字通りの「徘徊」であります。
先ず最初は何となく梅田、トップの写真はキリンケラーヤマト、次の写真は旭屋書店です。ヤマトが入る梅田第一ビルと隣接する旭屋書店ビルは年内で営業を終了し、建て替えに入ります。こういう景色が見られるのも後数ヶ月。
阪神百貨店の裏手にあった旧旭屋本店は既に無くなって久しく、今の旭屋本店もまもなく姿を消す。両店共に以前は中に喫茶部があり、多くの時間をそこで過ごしていただけに、少し残念。昔は、本屋はこの大きさで十分すぎるほど十分だったのですが。本屋が規模を誇るようになったのは八重洲ブックセンターあたりからでしょうか。その開店を聞いて、ハスッパにも東京まで出かけていった記憶があります。今ならば完全に無視してしまうことです。
梅田からは池田に移動。「なんぢゃいな、またかいな!」と思われるでしょうが、そう、たこ焼きです。「盆に来る言うておいて、きゃはれへんから、何かあったんかと心配しますがな。」とチョット怒られてしまいました。
たこ焼きとビールの後は、能勢街道をちょっとブラブラ、街道沿いの趣のある商家も随分と少なくなりました。さらに中橋なる橋を渡って川西市へ。
中橋から五月山
小戸(おうべ)集落に入るとクレハ紡績女工寮跡、寮は確か2階建てだったと思います。多くの少女が中学・高校を卒業後、婚姻までの間、女工さんとして過ごしたところです。その隣の、木村友禅の社長のテカケさんの洋館も今は何軒かの住宅になってしまいました。
川西市の名物の一つに「いちじく」があります。わずかに残った狭い畑にも植えられています。いちじくワインというのを一度飲んでみたいと思っているのですが、未だ機会がありません。
一条通を歩いて、市役所跡までやって来ました。現在の市役所は、このすぐ近くの市民病院跡に移転しています。ウー、ややこしい。
一条通
市役所跡
川西市役所
以前に述べさせていただいた釣鐘山、本日は何故か白いドームが大きく見えます。それに吸い寄せられるように釣鐘山の方に向かっていきます。それでも随分と道を忘れていて、最初に登ったこの階段は行き止まり。
釣鐘山程度の山ならば、今から登っても暗くなる前に悠々下りてくることができる。本日は大阪方面まで眺望もあります。
いざ感謝坂の入り口まで来たときに、慈光會の講堂、ここで前に来たときのことを思い出しました。前は入り口が開いていたのですが、大声で「こんにちわー」と呼びかけてもだれもおられませんでした。
現在、釣鐘山を管理されている慈光會、その教主であったエスパー空覚尼、かねがね空覚さんのことをもっと知りたいと思っていました。それは、空覚さんのことを話して下さった小戸集落の古老の思い出にもつながります。
前には気がつかなかったけれども、チャイムがあります。
「パンポーン」、しーーーーーーーーーん。しばらくして「はい。」
ゲッ、返事があった。半分驚きながら来意を告げました。
「チョットお待ち下さい。今、詳しい者が出ていきます。」
ということで、唐突な訪問(しかも酒を飲んで)にも関わらず、大変丁寧に応対していただき、空覚尼さんのことも色々と教えて下さいました。といっても門前のベンチに座ってのこと(冷たいお茶をありがとうございます)、藪蚊の攻勢に堪えきれず(しかも酒を飲んでいる小生の方にばかり来る)、自分の方で「オヤ、もうこんな時間。」等と言って立ち上がってしまいました。
自由律俳句の種田山頭火、その山頭火が亡くなる直前の日記に、彼の庇護者であった高橋一洵に仏法の教えを説いた空覚聖尼の記述があります。この話については、御存じありませんでしたが、松山の湯築城祉にある空覚尼さん建立の石碑については御存じでしたから、昭和35年に亡くなった空覚尼さんについては、伝わっていること、いないことが色々とあるようです。
帰りに、空覚尼さんの法話集を30冊ほどいただきました。この法話集には一代記が抄出されていますから、今後の空覚尼さん学習の根本資料となります。
8月15日に山全体に火を灯す行事、小生は小戸集落の古老が死に絶えたため、既に行われていないと書いたのですが、細々とではあるが続いているとのことです。この山は空覚尼さんが買い取る前は小戸集落の持ち山でした。今は猪名川の畔にある集落ですが、昔は釣鐘山の麓(今は高級住宅地になっている)にありました。
法話集を読むと空覚尼さんは、やはりかなりの超能力者だったことが分かりますし、言っておられることも素晴らしい。それよりも何よりも、これは横からの見方で、怒られるかも知れませんが、戦前の大阪の暮らしや言葉の宝庫です。「ねき(=横・そば)に来て」等の言葉はもうこの何十年も忘れていました。ちょっと金持ちのお婆さんは「御家(おいえ)はん」、これは未だ通じるでしょうが、そのように呼ばれている人はもういないでしょう。
本日は時間的に釣鐘山に登ることはできなくなりましたが(本当は手足が痒すぎて登る気力が維持できなかった)、大きな土産を抱えて帰る徘徊となりました。せめて、釣鐘山に登る3つの坂の入り口ぐらいは、と麓を廻ります。精進坂に至る道には花屋敷荘園開拓者の記念碑がありました。
感謝坂
懺悔坂
精進坂に至る道
満願寺方面に至る豆坂口のバス停には現役の赤いポスト。豆坂口という名前に騙されたらエライ目に遭います。ここからは、ディエーという坂道になります。が、本日は登らずに下ります。あーよかった。
ヤンマーの花屋敷寮、日本サッカー黎明期の名選手であった釜本氏が住んでいたところです。この近辺で育った女の子が、いつの間にかお母さんとなり、その子はなでしこジャパンのレギュラーに。近辺にはサッカーの気が充満しているのかな。
その名も長き「雲雀丘花屋敷」駅から電車に乗りました。
このところ沖縄づいていますが、本日もゴーヤの天ぷら等で一杯。ただし、店は沖縄料理店ではありません。するめの天ぷらもある普通の居酒屋です。
まことに罰当たりですが、ここで法話集を10冊ばかり読んでしまいました。空覚尼さん、ムチャクチャ怖い話も多々語っておられます。本日訪れた講堂の壁に男の幽霊が張り付いていた話などなど。また、ボチボチと紹介していきますね。集中して命がけで読んでいるのに、酒を飲むことだけは忘れていないようで、ビールも何杯お代わりしたのか覚えていません。何か「お代わりどうですか?」と聞かれる度に「うん」と返事をしていたような(笑)。
先ず最初は何となく梅田、トップの写真はキリンケラーヤマト、次の写真は旭屋書店です。ヤマトが入る梅田第一ビルと隣接する旭屋書店ビルは年内で営業を終了し、建て替えに入ります。こういう景色が見られるのも後数ヶ月。
阪神百貨店の裏手にあった旧旭屋本店は既に無くなって久しく、今の旭屋本店もまもなく姿を消す。両店共に以前は中に喫茶部があり、多くの時間をそこで過ごしていただけに、少し残念。昔は、本屋はこの大きさで十分すぎるほど十分だったのですが。本屋が規模を誇るようになったのは八重洲ブックセンターあたりからでしょうか。その開店を聞いて、ハスッパにも東京まで出かけていった記憶があります。今ならば完全に無視してしまうことです。
梅田からは池田に移動。「なんぢゃいな、またかいな!」と思われるでしょうが、そう、たこ焼きです。「盆に来る言うておいて、きゃはれへんから、何かあったんかと心配しますがな。」とチョット怒られてしまいました。
たこ焼きとビールの後は、能勢街道をちょっとブラブラ、街道沿いの趣のある商家も随分と少なくなりました。さらに中橋なる橋を渡って川西市へ。
中橋から五月山
小戸(おうべ)集落に入るとクレハ紡績女工寮跡、寮は確か2階建てだったと思います。多くの少女が中学・高校を卒業後、婚姻までの間、女工さんとして過ごしたところです。その隣の、木村友禅の社長のテカケさんの洋館も今は何軒かの住宅になってしまいました。
川西市の名物の一つに「いちじく」があります。わずかに残った狭い畑にも植えられています。いちじくワインというのを一度飲んでみたいと思っているのですが、未だ機会がありません。
一条通を歩いて、市役所跡までやって来ました。現在の市役所は、このすぐ近くの市民病院跡に移転しています。ウー、ややこしい。
一条通
市役所跡
川西市役所
以前に述べさせていただいた釣鐘山、本日は何故か白いドームが大きく見えます。それに吸い寄せられるように釣鐘山の方に向かっていきます。それでも随分と道を忘れていて、最初に登ったこの階段は行き止まり。
釣鐘山程度の山ならば、今から登っても暗くなる前に悠々下りてくることができる。本日は大阪方面まで眺望もあります。
いざ感謝坂の入り口まで来たときに、慈光會の講堂、ここで前に来たときのことを思い出しました。前は入り口が開いていたのですが、大声で「こんにちわー」と呼びかけてもだれもおられませんでした。
現在、釣鐘山を管理されている慈光會、その教主であったエスパー空覚尼、かねがね空覚さんのことをもっと知りたいと思っていました。それは、空覚さんのことを話して下さった小戸集落の古老の思い出にもつながります。
前には気がつかなかったけれども、チャイムがあります。
「パンポーン」、しーーーーーーーーーん。しばらくして「はい。」
ゲッ、返事があった。半分驚きながら来意を告げました。
「チョットお待ち下さい。今、詳しい者が出ていきます。」
ということで、唐突な訪問(しかも酒を飲んで)にも関わらず、大変丁寧に応対していただき、空覚尼さんのことも色々と教えて下さいました。といっても門前のベンチに座ってのこと(冷たいお茶をありがとうございます)、藪蚊の攻勢に堪えきれず(しかも酒を飲んでいる小生の方にばかり来る)、自分の方で「オヤ、もうこんな時間。」等と言って立ち上がってしまいました。
自由律俳句の種田山頭火、その山頭火が亡くなる直前の日記に、彼の庇護者であった高橋一洵に仏法の教えを説いた空覚聖尼の記述があります。この話については、御存じありませんでしたが、松山の湯築城祉にある空覚尼さん建立の石碑については御存じでしたから、昭和35年に亡くなった空覚尼さんについては、伝わっていること、いないことが色々とあるようです。
帰りに、空覚尼さんの法話集を30冊ほどいただきました。この法話集には一代記が抄出されていますから、今後の空覚尼さん学習の根本資料となります。
8月15日に山全体に火を灯す行事、小生は小戸集落の古老が死に絶えたため、既に行われていないと書いたのですが、細々とではあるが続いているとのことです。この山は空覚尼さんが買い取る前は小戸集落の持ち山でした。今は猪名川の畔にある集落ですが、昔は釣鐘山の麓(今は高級住宅地になっている)にありました。
法話集を読むと空覚尼さんは、やはりかなりの超能力者だったことが分かりますし、言っておられることも素晴らしい。それよりも何よりも、これは横からの見方で、怒られるかも知れませんが、戦前の大阪の暮らしや言葉の宝庫です。「ねき(=横・そば)に来て」等の言葉はもうこの何十年も忘れていました。ちょっと金持ちのお婆さんは「御家(おいえ)はん」、これは未だ通じるでしょうが、そのように呼ばれている人はもういないでしょう。
本日は時間的に釣鐘山に登ることはできなくなりましたが(本当は手足が痒すぎて登る気力が維持できなかった)、大きな土産を抱えて帰る徘徊となりました。せめて、釣鐘山に登る3つの坂の入り口ぐらいは、と麓を廻ります。精進坂に至る道には花屋敷荘園開拓者の記念碑がありました。
感謝坂
懺悔坂
精進坂に至る道
満願寺方面に至る豆坂口のバス停には現役の赤いポスト。豆坂口という名前に騙されたらエライ目に遭います。ここからは、ディエーという坂道になります。が、本日は登らずに下ります。あーよかった。
ヤンマーの花屋敷寮、日本サッカー黎明期の名選手であった釜本氏が住んでいたところです。この近辺で育った女の子が、いつの間にかお母さんとなり、その子はなでしこジャパンのレギュラーに。近辺にはサッカーの気が充満しているのかな。
その名も長き「雲雀丘花屋敷」駅から電車に乗りました。
このところ沖縄づいていますが、本日もゴーヤの天ぷら等で一杯。ただし、店は沖縄料理店ではありません。するめの天ぷらもある普通の居酒屋です。
まことに罰当たりですが、ここで法話集を10冊ばかり読んでしまいました。空覚尼さん、ムチャクチャ怖い話も多々語っておられます。本日訪れた講堂の壁に男の幽霊が張り付いていた話などなど。また、ボチボチと紹介していきますね。集中して命がけで読んでいるのに、酒を飲むことだけは忘れていないようで、ビールも何杯お代わりしたのか覚えていません。何か「お代わりどうですか?」と聞かれる度に「うん」と返事をしていたような(笑)。
小遣いが無いのでそんなに買う訳がないのに、見て歩く楽しみがありました。今は大型店になり、大抵の本は並んでいます。茶屋町のMARUZEN & ジュンク堂書店梅田店などどうですか。行かれましたか?
大阪駅前ビル前にジュンク堂が出来た時、社長が「無い本はない」と豪語していましたので早速昼休みに行きましたら、「無い本もありました」。当時は大阪一とのことで、テレビ局から取材に来ており、私もインタビューを受けました。翌日、「テレビ見たデ」と友人から電話が架かって来たものです。
本屋の梯子となりますと、やはり東西の古本屋へはよく足を運びました。仕事のある日は昼休みに駆け足で回ったものです。帰宅途中に電車を下車したり・・・アホでした。ただ、幸か不幸か、娘の所で「道草図書館」を開設する計画があり、かつてのコレクションが役立ちそうです。お暇があれば(無いでしょうが)いつの日かお出向きください。
ところでイチジクワインですか。イチジクでもワインとは、イカでもタコヤキと言うが如し、でしょうか。そんなもんありませんでしたか・・・。近くの小さな日本料理屋にオレンジ・レモン・ユズなどの酒があって、家内が飲んで美味しい!と言うてました。ワインではなく酒とのことでしたけど。アルコールは7%らしいので、もしかしてビールかも。
徘徊堂さんお気に入りの釣鐘山は、これで3度目の登場ですか。空覚尼のことは私は文盲ですが、山頭火と高橋一洵の句碑が長建寺(松山)にあるそうです。句碑と言えば、山頭火の句碑徘徊も面白そうですが・・・。
「御家はん」の呼称はどうでしょうか。細雪には「御寮はん」の名称が出てきますけど。どちらも阪神間の言葉でしょうか。京都では聞きません(多分)。
それにしても、感謝坂に懺悔坂に精進坂ですか。手足が痒すぎて、と言うのは飲み過ぎが原因とか?豆坂口の「豆」は小さいの意味ではなくて、マメで(真面目で)ないと登れない、の意味でしょう(多分)。せめて、懺悔坂は登っておく必要・・・はないですネ。
最後は行き着く所へ行き突いて、今回は特に法話の勉学までされて、実に意義深い徘徊だったのではないですか。「お代わりどうですか?」は、相手を見て言うている、と思います。
もりもりもりあがる雲へあゆむ 山頭火
母と行くこの細径のたんぽぽの花 一洵
茶屋町の巨大書店は、未だ足を運んでいません。とにかく、人が多い。ロフトができたときもそうでしたが、ちょっと落ち着くまでは行く気がしません。堂島アバンザ店ぐらいがちょうど良かったように思います。
旭屋本店が閉まったら、ニュー旭屋を待ってもいいのですが、考えてみたら旭屋に恩義があるわけでもないので、京都の書店にいる知人を通じて1割引で買う方がいいかなと思っています。今まで旭屋を贔屓にしていたのは大昔に抱いた紀伊国屋(社長の田辺茂一がテレビにしゃしゃり出てきてどうもスカンかったので)に負けるなという勝手な思い入れですから(笑)。
釣鐘山、色々と勉強できました。未だ空覚尼さんについてはイメージは茫洋としていますが、来年の8月15日は、釣鐘山の行事を見に行こうと思います。その翌日は大文字集会です。
釣鐘山、以前読んだ様な記憶も無きにしもあらずという頼りない記憶でしたが、2年前の記事をちゃんとリンクして頂いたのでちょっと飛んでいきましたら、そうだ何やら超能力の云々を思い出しました。平和平和と叫んでいる輩が、、もね。人間そう断定的に言える程自分は修行したんかいな、って言いたいなんて思ったことも。「ねきに来て」、これは懐かしい響きです。残念ながらもう何年聞いていないことやら。
空覚尼はんの本を30冊も買わはったんですか。それを酒を呑みながら10冊読まはるとは。しかしこのスタイルは我が阿倍野の明治屋での風景そのものであります。ユーゴー書店で買うた本を帰り道の明治屋でチビチビやりながら読むのは心地よい土曜の夕方でありました。お代わりどうどすかと勧めるだけで命がけの読書が出来る店って憧れるなあ~。
酒を飲みながらの読書、本当に幸せだと思います。小生は競馬や麻雀の類はやりませんので、殆どの場合、カウンター越しの会話にはついていけませんし、「三好元長がー」等とやったら場がしらけますから、まあ本を読んでいるのが一番です。
釣鐘山関係の書物、ただで頂きました。本来は1冊200円の小冊子なのですが、価格がついていることは後で気がつきましたので、今度、饅頭などをお礼に持っていこうと思っています。
この居酒屋は、最近気に入っています。価格は十三並み、店員はお姉ちゃんばかり(但しカウンター越しの会話は無し)、するめの天ぷらがあると言うところでしょうか。大阪でお泊まりの御用があるときは、梅田から電車で25分ほどですから、御案内しますよー。
空覚=そら覚え、しか出ません。「ダメだこれは」でしたわ(笑)
その空覚尼の法話集30冊は同じ物かな、(誰かに配る)と思っていましたら
>集中して命がけで読んでいるのに、酒を飲むことだけは忘れていないようで、ビールも何杯お代わりしたのか覚えていません。
の、ごとく全巻続きものの一代記でしたんですか。それは読みかけたらビールと同じく止まりませんでしょうね(笑)
「ねき」は今でもたまに使います。テレビを観るとき息子が近くに居ると「そんなねきに近といて暑いやないの」なんてボヤキますけど。
もう10年以上前に雲雀丘花屋敷駅近くに知人といきました。住宅街の階段を上がった上に駅があったかしら?
本屋を覗くのはダイダイ好きです。飲みながらでもコーヒーですからまだまだ大人の域でないですが、、、昨日は3軒目の高島屋6階の本屋で目指す本がありました。
法話集は、1冊について2~4の法話、これは世間話を聞いているようですが、締めるところは締めて、人間の生活に「感謝・懺悔・精進」が大切なことを説いています。昭和30年頃までの人間模様の宝庫です。一代記は、毎回チョットずつですから、30冊程度では未だ人生の序の口です。完結するのは、随分先のことになりそうです。
本屋散歩、されていますね。京都の高島屋は近年どの階にも知り合いがいるので、逆に足が遠のいています。6階に本屋があるのですね。地下の食料品売り場はよく行きましたが(笑)。