本日は京都。先ずはお花のお師匠さんの発表会を見に行きます。四条通の祇園の御旅には17日の夕刻に八坂神社を出た御神輿が祀られています。24日に神社に還幸されるまでここに留まるのですが、師匠の言葉を借りると「アトラクション」である山鉾巡行は来年からは17日と24日の2回に分けて行われる可能性が強く、平たく言えば神輿の移動こそが祇園祭の中心たることを改めて示しています。よく見ると(よく見なくても)、神輿は左の二つは鳳凰を屋根に載せていて、右の櫛稲田姫の神輿だけが擬宝珠を載せています。この界隈はまだまだ祭のモードです。
花の展示は盛況でした。邪魔になってもいけないので、すぐに立ち去りましたが、小生が出たすぐ後にささ舟様がいらっしゃったようで、もう少しゆっくりすればよかったなあと思いました。
といいながら会場を出たら気が焦る(爆)。最近はすぐに水の際に行きたくなります。先だってmfujino様より「現在の鴨川は改修工事の結果今の位置を流れることになった。堀川の流れこそが元の鴨川の流れの跡なのだ。」という旨のご連絡をいただきました[これは、そういう説があったと言うことで、現在は否定されている旨、mfujino様よりコメントをいただいています。↓]。小生もどこかでそういうことを読んだように記憶していて、大いに興味があるのですが、まあその本を探すのも大変なので、差し当たりいただいた宿題の中では現実的な方である「堀川の水はどこから?」というのを果たそうと思います。
錦の市塲を抜けていきます。知り合いのおっちゃんに見られぬようにコソーと歩きますが、今日は人出がさほどでもないのでヤバイヤバイ。
大丸の北西角に浅見絅斎の住居跡、赤穂の浪人の乱暴を激賞した悪いヤツです。
四条通に出て、長刀鉾の格納庫。テキパキと解体されて今は来年の出番を待つ身です。巡行を終えた山鉾は即座に解体されるというのは、ここ数年祇園祭徘徊をやって師匠に教えてもらうまでは知りませんでした。「町中の厄を拾ってきているからはよ解体せなあかんは口実、はよ一杯飲みたいんや。」、まことに説得力のある意見です。まあ山鉾連合会の偉いさんもそう言ってるみたいだから傍証は十分。
烏丸通を少し北上、御手洗井は本日は未だ開いていました。あれ?ずっと開いているのかな。
蛸薬師通を西に向かいます。烏丸からずっとなだらかな下りになっているのも大きな流れが西にあった証左なり等と思っていましたが、下りは堀川を超えてなお続いていますから、これを以て堀川を大河の跡とは言えぬようです。この緩やかな傾斜はどこまで続いているのでしょう。
本能寺跡、空也堂を経て、堀川通に出ました。空也堂が堅く門を閉ざしているのは、まあいろいろあるでしょうが、空也上人の為されたことから考えると何か残念な感じです。
空也堂
空也堂の隣のお稲荷さんにお参りして、しばらく行くと堀川通です。ただ、この辺りでは堀川は地表を流れてはいません。
北上して、御池通を渡り、押小路まで来ると、つまり二条城が見えてくると堀川の地上を流れる姿を確認できます。
堀川御池橋記念碑
御池橋の欄干か?
今は押小路橋の下で堀川は暗渠に入っていきます。ここからは新しく川底につくられたプロムナードを北上します。
いろいろな意見はあるでしょうが、このプロムナード、造られる以前よりは今の方が遥かに快適であると思います。ただ、ここを歩くのは車に例えれば「高速」に入ったようなもので、畔に何があっても気付かないという点ではちょっともったいない感じもします。プロムナードでもここいらでは二条城外堀の石垣を楽しむことが出来ます。今日はそういうのは無視してどんどんと北に歩いてしまいました。やっぱり「高速」。
中立売通に架かる堀川第一橋は今も美しい姿を残しています。考えてみたら、この角度から見るのは初めてです。この上を市電が通っていたし、秀吉の聚楽第があったころは京のメインストリートです。(道草様のコメントによりこの橋の上を市電が通っていたのでは無いことを教えていただきました。感謝いたします。)
安倍晴明が橋の下に式神を隠していたという一条戻り橋、見る人が見たら今も怪しげなものが橋の下に見えるかも。京都では渡辺綱が鬼に出会ったのはここということになっています。千利休の首もここに晒されたことになっていますが、聚楽第との位置関係からいくと首が晒されたのは堀川第一橋の方が可能性が高いと師匠に聞いたような。
三好長慶の家臣であった和田親五郎が不義密通の罪でノコギリ引きにされたのはここですね。大日本史料のデータベースでは天文13年8月11日のこととして、次のように出ています。「細川晴元、三好範長の臣和田親五郎を一條戻橋に鋸殺し、又菊幢丸(義藤)の保姆の侍女を六條河原に刑殺す」。ネタ元は山科言継の日記にあるようですが、この事件などは三好長慶が細川晴元を見限っていく遠因を為しているように思えます。まあとにかく往時は堀川も普通の河原を持っていて、そこでは随分と処刑が行われたものと思われます。
戻り橋の下をくぐってすぐにプロムナードは終わりになります。久々にシャバに復帰した気分で辺りを眺めると堀川の向こう側に晴明神社。本日も盛況です。
鴨川の流れと市電の線路について師匠よりメールを戴きました。ありがとうございます。なお1と2は別メールであります。
1 花洛読んだ。鴨川付け替え説は昔の定説。横山なにがしという地質の専門家が足で稼いで賀茂川と鴨川の間に地質的に不連続がないことを証明した。以後歴史学の方から異論が出ない。文献があることではないので理科の勝ちや。烏丸から西へ行くと下がっていくのは西洞院川があるからで、過ぎると堀川へ向かって上がっていく。中立売の堀川第一橋の南に市電の橋脚が残っている。両岸注意や。ただし、堀川にかかる橋ができる前 市電開通当時は転車台を使っていたので そのときは第一橋を渡ってから転車台で回したかもしれん。これについてはよく知らん。
2 堀川第一橋を市電は通ったことがない。これは俺も調べるまで謎だったがおかげで氷解した。第一橋のすぐ下流に元々の市電専用の橋があった。これは現在は水道の橋になっている。両岸に橋台が残りそこに水道管がとりつけられている。元々はこれを東へ渡り転車台で堀川へ入ったようだ。転車台は人力で動かしたそうだ。
そのさらに下流に後からできた市電の鉄橋の橋脚が両岸に残っている。こっちの方は斜めになっている。転車台を使わずに中立売から堀川へ曲がるためだ。
したがって堀川中立売には市電の橋脚が計4つ残っていることになる。ほな。
堀川の流れも暗渠から流れてくるようになり快適な散策は終了です。今出川通を越えてさらに行くべきかどうかというところでしたが、本日はここまでにしました。「小川(こがわ)」の跡も抑えておこうと思ったからです。けれども通りを間違えて慶長天主堂の跡の方に出てしまいました。まあ本日は小川の名があちこちに残ると言うことでお茶を濁します。
本日はオヤジの九十の賀ということで、徘徊も早々に切り上げました。遅く帰るとエサをもらえません。この後、寿司とケーキを買ってゴーヤの天麩羅とハムカツで一杯やって(いや二杯)、真っ直ぐ家に帰りましたとさ(爆)。
花の展示は盛況でした。邪魔になってもいけないので、すぐに立ち去りましたが、小生が出たすぐ後にささ舟様がいらっしゃったようで、もう少しゆっくりすればよかったなあと思いました。
といいながら会場を出たら気が焦る(爆)。最近はすぐに水の際に行きたくなります。先だってmfujino様より「現在の鴨川は改修工事の結果今の位置を流れることになった。堀川の流れこそが元の鴨川の流れの跡なのだ。」という旨のご連絡をいただきました[これは、そういう説があったと言うことで、現在は否定されている旨、mfujino様よりコメントをいただいています。↓]。小生もどこかでそういうことを読んだように記憶していて、大いに興味があるのですが、まあその本を探すのも大変なので、差し当たりいただいた宿題の中では現実的な方である「堀川の水はどこから?」というのを果たそうと思います。
錦の市塲を抜けていきます。知り合いのおっちゃんに見られぬようにコソーと歩きますが、今日は人出がさほどでもないのでヤバイヤバイ。
大丸の北西角に浅見絅斎の住居跡、赤穂の浪人の乱暴を激賞した悪いヤツです。
四条通に出て、長刀鉾の格納庫。テキパキと解体されて今は来年の出番を待つ身です。巡行を終えた山鉾は即座に解体されるというのは、ここ数年祇園祭徘徊をやって師匠に教えてもらうまでは知りませんでした。「町中の厄を拾ってきているからはよ解体せなあかんは口実、はよ一杯飲みたいんや。」、まことに説得力のある意見です。まあ山鉾連合会の偉いさんもそう言ってるみたいだから傍証は十分。
烏丸通を少し北上、御手洗井は本日は未だ開いていました。あれ?ずっと開いているのかな。
蛸薬師通を西に向かいます。烏丸からずっとなだらかな下りになっているのも大きな流れが西にあった証左なり等と思っていましたが、下りは堀川を超えてなお続いていますから、これを以て堀川を大河の跡とは言えぬようです。この緩やかな傾斜はどこまで続いているのでしょう。
本能寺跡、空也堂を経て、堀川通に出ました。空也堂が堅く門を閉ざしているのは、まあいろいろあるでしょうが、空也上人の為されたことから考えると何か残念な感じです。
空也堂
空也堂の隣のお稲荷さんにお参りして、しばらく行くと堀川通です。ただ、この辺りでは堀川は地表を流れてはいません。
北上して、御池通を渡り、押小路まで来ると、つまり二条城が見えてくると堀川の地上を流れる姿を確認できます。
堀川御池橋記念碑
御池橋の欄干か?
今は押小路橋の下で堀川は暗渠に入っていきます。ここからは新しく川底につくられたプロムナードを北上します。
いろいろな意見はあるでしょうが、このプロムナード、造られる以前よりは今の方が遥かに快適であると思います。ただ、ここを歩くのは車に例えれば「高速」に入ったようなもので、畔に何があっても気付かないという点ではちょっともったいない感じもします。プロムナードでもここいらでは二条城外堀の石垣を楽しむことが出来ます。今日はそういうのは無視してどんどんと北に歩いてしまいました。やっぱり「高速」。
中立売通に架かる堀川第一橋は今も美しい姿を残しています。考えてみたら、この角度から見るのは初めてです。この上を市電が通っていたし、秀吉の聚楽第があったころは京のメインストリートです。(道草様のコメントによりこの橋の上を市電が通っていたのでは無いことを教えていただきました。感謝いたします。)
安倍晴明が橋の下に式神を隠していたという一条戻り橋、見る人が見たら今も怪しげなものが橋の下に見えるかも。京都では渡辺綱が鬼に出会ったのはここということになっています。千利休の首もここに晒されたことになっていますが、聚楽第との位置関係からいくと首が晒されたのは堀川第一橋の方が可能性が高いと師匠に聞いたような。
三好長慶の家臣であった和田親五郎が不義密通の罪でノコギリ引きにされたのはここですね。大日本史料のデータベースでは天文13年8月11日のこととして、次のように出ています。「細川晴元、三好範長の臣和田親五郎を一條戻橋に鋸殺し、又菊幢丸(義藤)の保姆の侍女を六條河原に刑殺す」。ネタ元は山科言継の日記にあるようですが、この事件などは三好長慶が細川晴元を見限っていく遠因を為しているように思えます。まあとにかく往時は堀川も普通の河原を持っていて、そこでは随分と処刑が行われたものと思われます。
戻り橋の下をくぐってすぐにプロムナードは終わりになります。久々にシャバに復帰した気分で辺りを眺めると堀川の向こう側に晴明神社。本日も盛況です。
鴨川の流れと市電の線路について師匠よりメールを戴きました。ありがとうございます。なお1と2は別メールであります。
1 花洛読んだ。鴨川付け替え説は昔の定説。横山なにがしという地質の専門家が足で稼いで賀茂川と鴨川の間に地質的に不連続がないことを証明した。以後歴史学の方から異論が出ない。文献があることではないので理科の勝ちや。烏丸から西へ行くと下がっていくのは西洞院川があるからで、過ぎると堀川へ向かって上がっていく。中立売の堀川第一橋の南に市電の橋脚が残っている。両岸注意や。ただし、堀川にかかる橋ができる前 市電開通当時は転車台を使っていたので そのときは第一橋を渡ってから転車台で回したかもしれん。これについてはよく知らん。
2 堀川第一橋を市電は通ったことがない。これは俺も調べるまで謎だったがおかげで氷解した。第一橋のすぐ下流に元々の市電専用の橋があった。これは現在は水道の橋になっている。両岸に橋台が残りそこに水道管がとりつけられている。元々はこれを東へ渡り転車台で堀川へ入ったようだ。転車台は人力で動かしたそうだ。
そのさらに下流に後からできた市電の鉄橋の橋脚が両岸に残っている。こっちの方は斜めになっている。転車台を使わずに中立売から堀川へ曲がるためだ。
したがって堀川中立売には市電の橋脚が計4つ残っていることになる。ほな。
堀川の流れも暗渠から流れてくるようになり快適な散策は終了です。今出川通を越えてさらに行くべきかどうかというところでしたが、本日はここまでにしました。「小川(こがわ)」の跡も抑えておこうと思ったからです。けれども通りを間違えて慶長天主堂の跡の方に出てしまいました。まあ本日は小川の名があちこちに残ると言うことでお茶を濁します。
本日はオヤジの九十の賀ということで、徘徊も早々に切り上げました。遅く帰るとエサをもらえません。この後、寿司とケーキを買ってゴーヤの天麩羅とハムカツで一杯やって(いや二杯)、真っ直ぐ家に帰りましたとさ(爆)。
二度に分けると一日の見物人は減るでしょうけど、結果としては観光客は増えることになるのでしょう。
堀川は西陣織(染色)が衰退してからも、長らく放置されたままでした。水量は殆ど無かったので溝川と呼んだかどうかは知りませんが、とにかく現在の姿に生まれ変わって人々の関心と親しみを集めていることは確かです。
昔は染屋から流れだした赤黒い水がそのまま流れていて、子供でも川へ入りたいとは思いませんでした。生物はおそらく棲んでいなかったのでは、と思います。
川端の柳の木はありました。同級生の腕白坊主が木に登っていて川へ落ちて、やっと上へ這い上がって、汚れた格好で泣いている姿を見掛けたことがあります。周辺は、近所の子供の遊び場所ではありました。
堀川通りは集団疎開で西側の家並みが撤去されて広くなったもので、昔は車が1
台通れる程度の広さでした。
堀川第一橋の西側には「堀川京極」があって、いつも食べ物の匂いに溢れ、私の好きな場所でした(小遣いなど貰えないので何も買えませんでしたが)。
それと、この第一橋の上を市電が通っていた、とあるのは間違いです。この橋(真っ直ぐです)に並行して市電の鉄橋が作られていました。
かなりの急カーブ(右へ曲がる)のため、線路の軋む音がまだ寝ている早朝には家の中まで聞こえて来たものです。
一条戻り橋は渡辺綱の伝説で有名ですが、この橋もかつては木製の欄干(コンクリートになったのは戦後?)で、橋の幅は一条通りと同じの狭いものでした。
出征兵士は、この橋を渡って護国神社へ参拝したものです。花嫁は絶対に渡ってはイケナイ、とされていました。
ただ、18歳の時に渡って応召した私の叔父は、戦死して還って来ませんでしたが。
この橋の下で、昨年頃から蛍が飛ぶようになったそうです。まだまだ少ない様ですが、いつかは蛍の名所になるかも知れません。
それにしましても、堀川がかつての鴨川の流れの跡だとは知りませんでした。両者(川?)はかなり離れていますが。
堀川の源流は船岡山だと聞いた事がありますが、gunkanatagoさん(長命の血統!おめでとうございます)また探ってください。
「戻橋」 相馬 大
婚礼の輿入この橋を通る事嫌ふは橋の名によりてなり。
又旅人にものを貸時通るはこれに反すとや…(都名所図会)
――こんな橋に、
立て札なんか、
なんで立ってるんやろ。
おまえが手まりをついて歌っている、
「一条の戻橋」とはこの橋のことなんだよ。
母はこの戻橋を渡っていったのに、
おまえの母は、
おまえのところへ帰ってはこなかった。
――この橋を渡って、
どこかへ、
なんで いってしもたんや。
父にも それは わからない。
母も おまえの ところへだけは、
帰ろうと 思って
この戻橋を、
重たい こころで
渡って いったんだろうよ。
むかし 戦争があって
ロシヤという 大きな国へ、
攻めていった ことがあった。
そのときも、西陣の兵士は、
この橋を 渡っていった。
こんどの フィリピンやビルマという国へ、
日本が 攻めていったときも、
西陣の兵士は、
この橋を 渡っていった。
――それで みんな、
戻って きゃはったんか。
娘よ 戻橋を 渡っていったからって、
戻って くるとは、
決まって いるものではない。
人間には どうにもならないとき、
人間は 暗い風の吹く向うに、
ひかっている 何かを見たいから、
そうする だけなのだよ。
――みんな、
みんな、
かなしい のんやなあ。
そうだとも みんな かなしいものだから、
戻橋を みんな 暗く重たいころろで、
渡って いくんだよ。
みてごらん この染物の水の色を。
むかし この水のうえに、
鬼の 顔が うつって、
さむらいが 鬼の腕を、
きりおとした こともあった。
いまは この染物の 水のうえには、
真黒に 空が うつっているだけだよな。
つつがなくお父上様の卒寿おめでとうございます。
gunkanatagさんがはじめてご家族のことを書かれてなぜかほのぼのといたしました。
さすがに、徘徊の賢者さま、「水」に惚れて今回は堀川ですね。
学生時代は京染の堀川をぶらつきました。そのもっと昔の堀川は、川でなく、堀川は現在の小川通りを流れていたように聞いたことがあります。小川通りは地名どおり小川だったとか。
その小川も今の紫明通り辺りで二股に分かれて一方は鴨川に。他の一方は西加茂の尺八池の以北の山からの水が水源になっていたようです。
主がいる時分の話ではなかったかな、今も通用するか判りませんが、何となくの記憶です。
昔、紫竹にいたころは久我神社あたりから田圃ばかりでレンゲソウや菜の花がいちめんに咲いていたことを鮮明に覚えています。
確かに堀川の水は賀茂川から取水してますし、そういう説がでるのも当然でしょう。そしてそれは一時主流の考えだったそうです。ところが地質学者が地下の構造を見てみると、賀茂川と高野川が合流して鴨川となって流れるというのは自然の流れだということになったそうです。この辺りの事情は師匠に詳しい返事をいただきました。
鷹峯で、紙屋川をきれいにする活動をされているお爺ちゃんに、若狭川ってのがあるよと教えられました。鷹峯は長坂口から丹波を経由して若狭への道の口であり、此の名前はそれと関係があるのか、などと仰ってました。ネットで調べてみたら殆どが暗渠のようですね。賀茂川から取水して暗渠を流れ堀川になっているそうですが、若狭川といい、京都には暗渠というか地下トンネルを流れている川はかなりあるのではと睨みました。賀茂川・高野川・鴨川と桂川を除き、京都の街中の川はコンクリートの川になりはてて風情の面ではどうもいただけないですね。これを少し改修して川底の両端にでも石を取り入れたらカワニナも育ち初夏には螢舞う街になるかもしれませんね。ことはそう簡単なことではないでしょうが。
「賀茂川ー堀川」説は今は否定されています
堀川の源流=船岡山というのも興味深いですね。どんどんと知識が広がります。また、戻り橋の名称から人々はいろいろな習慣を作り出していたのだなあということもよく分かりました。
蛍が大量に発生するためには、流れの横に草が生えていなければいけないのではと思います。今は逆にきれいすぎて少ししか飛ばないのかも知れませんね。
昔の堀川、小川の様子を教えていただきありがとうございます。ポイントは紫明通ですね。今度行ってみます。
オヤジ、無茶苦茶な大酒飲みです。若いころは午前様大好き人間でした。煙草も80前まで吸っていました。なぜ長生きできているのか母なども不思議がっています(笑)。
若狭川、何かもう「若狭」と聞くだけで憧憬というか何というか「いいなあ」という感情が起こってきますね。紙屋川とは別にあったと言うことですが、いっぺん紙屋川の徘徊もやらんとあきませんね。
けれども紙屋川と聞くと、もう気持ちは沢山の方にいってしまいそうな漢字です。
お父様90歳でお元気なのですね。羨ましいです。私の母は、大正15年生まれでした。元気で居ればまだ90歳前なのですが。
堀川は昨年12月に久し振りに歩きました。一条戻り橋に行きたくて。
広くてきれいになってしまった橋の下で暫らくの時間を過ごしましたが、だあれも会いに来てくれませんでした。小金沢昇司の「願・一条戻り橋」の世界は、絶対に訪れることの無いことを唄っていると言うことを解っていても、「もしかして」の世界に迷い込んでしまうものなのですね。
徘徊堂さんと逆のコースを流れに沿って歩きましたが、散歩をしたりして堀川を楽しんでいるらしい人には会いませんでした。緑が欲しいと思いました。コンクリートで囲いすぎです。
戻り橋、我々には見えないだけで、鎌倉街道様が会いたいと思われる方も来ておられたかも知れませんよ。長い時間をそこで過ごされたこと自体が魅き止める何かがあったのかも知れません。小生など5秒で通過しました。
花は弘原未生流です。お褒めいただき、お師匠さんも喜ぶと思います。機会があれば、また御一緒しましょう。