写真は、高槻市の富田にある普門寺です。普門寺城という城跡でもあるそうで、現在は近くの富田御坊本照寺の寺内町の域内に静かに佇んでいます。本照寺が現在の形になったのは江戸時代の前半のようですから、或いは普門寺城跡の大部分は本照寺の寺域になっているかも知れません。普門寺自体は臨済宗の寺です。1654年に帰化した隠元禅師がしばらく滞在したとのことですから、本照寺と同地域で並立しているわけで、本照寺は既に一向宗が牙を抜かれてからの存在だと推し量ることができます。まあ、幕府の「なかようせえよ。」に対して両寺とも「はーい。」と応じてきたのでしょう。
この寺は三好長慶との長い戦いに疲れ果てた細川晴元が、管領家の勢いを回復することがかなわず、長慶の許しにより隠棲した場所だと言われています。それが1561年、桶狭間の翌年で、このところ有名になった山本勘助が戦死したと言われる年であります。そのころには「富田荘」といっても荘園は有名無実化していたでしょうが、一時期は幕府を支配した細川氏本家の最後の拠り所として、この地に隠棲したのかも知れません。ただ、摂津の国は三好長慶が実効支配していますから、この地でも領主として振る舞うことは全くできなかったでしょう。晴元は1563年にここで死んでいます。
1467年におこった応仁の乱の東軍の大将が管領細川勝元、以後管領は細川氏(右京大夫家)にのみ受け継がれますから、以後の幕府政治の有様を京兆(右京大夫の唐名)専制体制というそうです。有名な竜安寺を建立したこの人物、16歳で管領となり、44歳で亡くなっています。
その子が細川政元で、日本の歴史において実際に天下の覇権を握った人物で、この人物ほど知られていない人物はいないのではないでしょうか。勿論、世は既に戦国時代に入っていて、威権全国に及ぶとはいかないのですが、第11代将軍足利義澄を擁立し、畠山氏を没落させ先に述べた京兆専制体制を確立させた人物です。父の勝元が死の床において、「我が細川の家は聡明丸(政元の幼名)がいるから何の心配もない」と言ったという話も伝わっています。この時の政元はわずかに8つですから、余程に目立つ子であったのでしょう。それにしても名前もすごいですね。その聡明な政元は武道執心により女色を遠ざけたという点では、後の上杉謙信と同じなのですが、跡目争いから家臣に暗殺されたために、その後の歴史では殆ど無視されることとなってしまいました。
けれども、今川義元なども大変な名将であった(一時期妙心寺の僧侶であったとかで、ちょっと親近感もあるため。)のに、その死に方がよくなかったことと、織田信長に絡んでいるということで多くの映画やドラマなどで「間抜けなアホぼん」として描かれていることを考えると、まあまだ無視されている方が政元にとってはよかったのかなとも思えます。
女色を断った政元は、九条家から澄之、一族から澄元、高国の3名を養子に迎えました。高国は、後に管領の地位に就いたために「養子」とされただけで、家督争いの時には、年上であるにもかかわらず澄元を援助していますから、政元が認めた養子は澄之と澄元の2名であった可能性が高いと考えられます。こういうことをやると家が乱れる基になります。毛利元就(弟及び兄の子を殺す)、今川義元(兄を殺す)、織田信長(弟を殺す)、大友義鎮(父及び弟を殺す)、伊達政宗(弟を殺す)等々実の兄弟であっても(母が違う場合もありますが)家督をめぐって争うのに、養子どうしならばなおさらでしょう。澄元を正式の後継者に据える可能性が高くなった段階で、澄之派の家臣によって政元は暗殺されてしまいます。政元については、いずれ愛宕山について記すときにまた触れることもあろうかと思います。
雪の愛宕神社
上杉謙信なども同じで、養子として北条氏から景虎、一族の景勝と二人の養子をとりましたが、幸運にも謙信は大酒飲みで、耄碌する前に頭の血管がブチッと切れて49歳で死んでしまったため政元のような目には遭いませんでしたが、あともう少し生きていれば、同じようなことになったかも知れません。謙信に上杉の跡目を譲った上杉憲政は、景勝と景虎の家督争いの中で殺されています。もし謙信がそういう目に遭っていたら、「天と地と」等のような小説は生まれなかったでしょうね。「天地人」等では殆ど半神的英雄として扱われていますが、信濃問題、関東進出等謙信の目論見はことごとく失敗に終わっています。それから、謙信の幼名は猿松君という話も伝わっているのですが(常山紀談)、これなども英雄にそぐわぬということで、殆ど無視されています。豊臣秀吉が猿と呼ばれ続けているのと好対照です。
同じような間抜けな死に方をした織田信長には世間は甘いのですが、他の武将はそうはいかない。突発的な死の後に家督を家臣に取られてしまうということでは、龍造寺氏などもそうですが、幸い龍造寺隆信はそう間抜けな扱いを受けてはいません。けれども殆ど無視されています。織田信長の何が劇的で、他の武将の何がマヌケなのか、ここは織田信長研究ではなくて、現代織田信長論研究をやらなくてはいけませんね。(次回ようやく三好氏登場です。)
(08年1月に記したものに加筆して再録)
この寺は三好長慶との長い戦いに疲れ果てた細川晴元が、管領家の勢いを回復することがかなわず、長慶の許しにより隠棲した場所だと言われています。それが1561年、桶狭間の翌年で、このところ有名になった山本勘助が戦死したと言われる年であります。そのころには「富田荘」といっても荘園は有名無実化していたでしょうが、一時期は幕府を支配した細川氏本家の最後の拠り所として、この地に隠棲したのかも知れません。ただ、摂津の国は三好長慶が実効支配していますから、この地でも領主として振る舞うことは全くできなかったでしょう。晴元は1563年にここで死んでいます。
1467年におこった応仁の乱の東軍の大将が管領細川勝元、以後管領は細川氏(右京大夫家)にのみ受け継がれますから、以後の幕府政治の有様を京兆(右京大夫の唐名)専制体制というそうです。有名な竜安寺を建立したこの人物、16歳で管領となり、44歳で亡くなっています。
その子が細川政元で、日本の歴史において実際に天下の覇権を握った人物で、この人物ほど知られていない人物はいないのではないでしょうか。勿論、世は既に戦国時代に入っていて、威権全国に及ぶとはいかないのですが、第11代将軍足利義澄を擁立し、畠山氏を没落させ先に述べた京兆専制体制を確立させた人物です。父の勝元が死の床において、「我が細川の家は聡明丸(政元の幼名)がいるから何の心配もない」と言ったという話も伝わっています。この時の政元はわずかに8つですから、余程に目立つ子であったのでしょう。それにしても名前もすごいですね。その聡明な政元は武道執心により女色を遠ざけたという点では、後の上杉謙信と同じなのですが、跡目争いから家臣に暗殺されたために、その後の歴史では殆ど無視されることとなってしまいました。
けれども、今川義元なども大変な名将であった(一時期妙心寺の僧侶であったとかで、ちょっと親近感もあるため。)のに、その死に方がよくなかったことと、織田信長に絡んでいるということで多くの映画やドラマなどで「間抜けなアホぼん」として描かれていることを考えると、まあまだ無視されている方が政元にとってはよかったのかなとも思えます。
女色を断った政元は、九条家から澄之、一族から澄元、高国の3名を養子に迎えました。高国は、後に管領の地位に就いたために「養子」とされただけで、家督争いの時には、年上であるにもかかわらず澄元を援助していますから、政元が認めた養子は澄之と澄元の2名であった可能性が高いと考えられます。こういうことをやると家が乱れる基になります。毛利元就(弟及び兄の子を殺す)、今川義元(兄を殺す)、織田信長(弟を殺す)、大友義鎮(父及び弟を殺す)、伊達政宗(弟を殺す)等々実の兄弟であっても(母が違う場合もありますが)家督をめぐって争うのに、養子どうしならばなおさらでしょう。澄元を正式の後継者に据える可能性が高くなった段階で、澄之派の家臣によって政元は暗殺されてしまいます。政元については、いずれ愛宕山について記すときにまた触れることもあろうかと思います。
雪の愛宕神社
上杉謙信なども同じで、養子として北条氏から景虎、一族の景勝と二人の養子をとりましたが、幸運にも謙信は大酒飲みで、耄碌する前に頭の血管がブチッと切れて49歳で死んでしまったため政元のような目には遭いませんでしたが、あともう少し生きていれば、同じようなことになったかも知れません。謙信に上杉の跡目を譲った上杉憲政は、景勝と景虎の家督争いの中で殺されています。もし謙信がそういう目に遭っていたら、「天と地と」等のような小説は生まれなかったでしょうね。「天地人」等では殆ど半神的英雄として扱われていますが、信濃問題、関東進出等謙信の目論見はことごとく失敗に終わっています。それから、謙信の幼名は猿松君という話も伝わっているのですが(常山紀談)、これなども英雄にそぐわぬということで、殆ど無視されています。豊臣秀吉が猿と呼ばれ続けているのと好対照です。
同じような間抜けな死に方をした織田信長には世間は甘いのですが、他の武将はそうはいかない。突発的な死の後に家督を家臣に取られてしまうということでは、龍造寺氏などもそうですが、幸い龍造寺隆信はそう間抜けな扱いを受けてはいません。けれども殆ど無視されています。織田信長の何が劇的で、他の武将の何がマヌケなのか、ここは織田信長研究ではなくて、現代織田信長論研究をやらなくてはいけませんね。(次回ようやく三好氏登場です。)
(08年1月に記したものに加筆して再録)
一乗谷、大昔に越美北線か何かに乗って行ったような記憶があるのですが、きちんと覚えているのは谷の奥にあった佐々木小次郎が修行としたという滝だけです。その折に「朝倉始末記」の復刻を買っているのですが、どこで売っていたのかも覚えていません。けれども、その地域に行かないとなかなか手に入らぬ本もあるということは、その時に初めて知ったように思います。買うだけで読まないという悪い癖もその時からついたようなついたような気がします。
戦国時代は身内までも気をつけなければならない大変な時代だったのですね。昨年福井の一乗谷、朝倉遺跡を訪れたとき広大な屋敷跡でガイドさんがなぜこんなに広いかというとこの敷地内に自分の子の屋敷もつくっていていつも監視できる体制にしていたと言っておられたのを思い出しました。
為政者の記録などは、本人の都合の良い様に書き直させていることもあるようですし、大名の家系図なども、金を払って作成させたこともあるとか。信長の子孫とかのスケート選手が交通事故を犯しましたが、やはり本当の子孫なのでしょうか?