池田市室町にある呉服神社は日本書紀に謂う応神天皇37年に「呉」より渡来した織女「呉織(くれはとり)」を祀る神社です。この時に同じくやってきた「穴織(あやはとり)」は、この神社の北北東およそ1キロにある五月山山麓の居古太神社に祀られています。この呉織と穴織を祀る神社は京都から北摂に至る老ノ坂山脈に沿って広く分布しており、渡来系氏族の秦氏の勢力圏にほぼ合致しているようです。
しかしながら、居古太神社境内にある猪名津彦神社は、本来この地域の地主神を祀ったものと考えられますが、現在では猪名津彦=阿知使主という説明が為されており、倭漢氏の祖がここに鎮まるようになったのは、日本書紀の応神37年の記事「阿知使主が織女らを呉から連れてきた」という記述によるものでしょう。阿知使主は、渡来氏族の共通の先祖として認識された人物ですから、猪名川河畔に居住した氏族が倭漢氏の同族連合(必ずしも血縁関係があるとは限らない)に入り、阿知使主を先祖として祀るようになったのかも知れません。
すると、後に養蚕・織物で名を為した秦氏が古い勢力圏に漸次浸透してきたのかなとも考えられますが、倭漢氏からは平安時代初期に大納言にまで昇った坂上田村麻呂などもいますから、その時期に既に古い氏族となっていた秦氏が浸透し得た或いは浸透し得たままであったと考えるのも難しいようです。それとも、秦氏をも含む渡来系氏族大連合がどこかの時点で成立したのでしょうか。或いは旧来の秦氏の勢力地に平安期の坂上氏が移り住み、辺り一帯の祭神をすり替えていったのか。などと解ったようなことを言ってますが、実は何も解らぬままに徘徊しているのです。
室町の名の由来は、神社境内にある「姫室」に由来するものと思われますが、居古太神社境内には「梅室」が存在し、やはり好一対となっています。居古太神社から真っ直ぐ西に崖を下り猪名川に達したところ(現実には道もなくそういう下り方は不可能ですが)には、唐船ヶ淵と謂い、渡来織女達がこの地で下船したとの伝承が残っています。
呉服神社はまた謡曲「呉服(くれは)」の舞台でもあります。呉織は137歳の高齢で亡くなったとの伝説がありますが、時代は下り霊的存在としての呉織は穴織とともに美しい天女として、この社で機を織っている。そして天子の使いに対して舞を披露して天に昇っていくというような筋書きだったように思います。神社の近くには、二人の織り姫が糸を染めたとかいう井戸も残っています。また、1月10日には摂社であるえべっさんが賑わいます。下の写真が「姫室」です。
西鶴諸国ばなしの第2巻に、寛永2年(1625)の話として次のような怪異が記されています。呉服神社の近くの衣掛松(これがあるというのも羽衣伝説などが入り込んでいるのでしょう)辺りに女駕籠がぽつりと置かれていて、中には22、3歳に見える美人が乗っている。駕籠をかく者もいない状態なので近隣の人が怪しんで女に話しかけるが、女は全く返事をしない。そのまま差し置いたところ、駕籠は次の日には箕面の瀬川に移動していた。さらに松尾の方にも現れたというのが意味深長で、この女性はかつて天女として現れた神の没落した姿かも知れません。圧巻は、この駕籠が空を飛ぶところで、駕籠の下からは蛇が首を出しています。この女性に戯れかかった男は全て重病になったとありますから、我々も注意しましょう。
この室町は、逸翁小林一三氏によってなされた日本最初の郊外型分譲地でもあります。何年か前までは、洋館といってもいいような戦前の文化住宅が残っていましたが、今現在は殆ど立て替えられてしまっています。阪急電車の高架化が完成し、その下に児童公園などもできたため、しっとりと落ち着いた町でなくなったのは残念です。小林氏のコレクションを継承したのが山の手にある逸翁美術館です。ここは、またいずれご紹介しますが、旧邸「雅俗山荘」における展示は、2007年12月までで、以後は山荘そのものは一三翁個人を顕彰する記念館になるようです。一三翁の蔵書を元に作られた阪急池田文庫(下の写真)には、歌舞伎や宝塚歌劇の資料がわんさかとあります。また、両方に興味のない小生でも何か調べものをする時、「さすがに、この本は無いだろう」と思いながら、尋ねてみるとちゃんとある。司書の方の応対も誠に親切ですが、何もかも阪急がサービスとしてやっています。他の私鉄も見習えよー。けど、今は室町に戻りましょう。
この室町を猪名川に突き当たるまで西に歩き、川に沿って少し北上すると、呉服座跡です。呉服座は、現在は犬山の明治村に移築されています。旅役者の一座が回ってきたときには、ここにたくさんののぼりが立ちました。呉服座最終期で入場料は150円ぐらいだったのでは。今この呉服座がここに健在で、呉服橋を渡ったところにあった川西座もあれば、近年開館した落語ミュージアムと併せて一つの文化拠点となるのになあというところです。
室町界隈、ちょいと歩きでも池田は奥が深い。江戸時代の一時期、池田学派なる学問グループも存在したそうです。まだまだ色々と掘り起こせそうですが、そろそろ猪名川の土手沿いに少し南下して「魚清」で清酒「緑一」をいただくことといたしましょう。(注 池田酒、呉春に比べて緑一は辛口です。呉春を買うときには池田まで来て買う方が絶対に得です。緑一の4合瓶は最近「春団治」という名で売られています。)
(07年10月に記したものに加筆して再録)
しかしながら、居古太神社境内にある猪名津彦神社は、本来この地域の地主神を祀ったものと考えられますが、現在では猪名津彦=阿知使主という説明が為されており、倭漢氏の祖がここに鎮まるようになったのは、日本書紀の応神37年の記事「阿知使主が織女らを呉から連れてきた」という記述によるものでしょう。阿知使主は、渡来氏族の共通の先祖として認識された人物ですから、猪名川河畔に居住した氏族が倭漢氏の同族連合(必ずしも血縁関係があるとは限らない)に入り、阿知使主を先祖として祀るようになったのかも知れません。
すると、後に養蚕・織物で名を為した秦氏が古い勢力圏に漸次浸透してきたのかなとも考えられますが、倭漢氏からは平安時代初期に大納言にまで昇った坂上田村麻呂などもいますから、その時期に既に古い氏族となっていた秦氏が浸透し得た或いは浸透し得たままであったと考えるのも難しいようです。それとも、秦氏をも含む渡来系氏族大連合がどこかの時点で成立したのでしょうか。或いは旧来の秦氏の勢力地に平安期の坂上氏が移り住み、辺り一帯の祭神をすり替えていったのか。などと解ったようなことを言ってますが、実は何も解らぬままに徘徊しているのです。
室町の名の由来は、神社境内にある「姫室」に由来するものと思われますが、居古太神社境内には「梅室」が存在し、やはり好一対となっています。居古太神社から真っ直ぐ西に崖を下り猪名川に達したところ(現実には道もなくそういう下り方は不可能ですが)には、唐船ヶ淵と謂い、渡来織女達がこの地で下船したとの伝承が残っています。
呉服神社はまた謡曲「呉服(くれは)」の舞台でもあります。呉織は137歳の高齢で亡くなったとの伝説がありますが、時代は下り霊的存在としての呉織は穴織とともに美しい天女として、この社で機を織っている。そして天子の使いに対して舞を披露して天に昇っていくというような筋書きだったように思います。神社の近くには、二人の織り姫が糸を染めたとかいう井戸も残っています。また、1月10日には摂社であるえべっさんが賑わいます。下の写真が「姫室」です。
西鶴諸国ばなしの第2巻に、寛永2年(1625)の話として次のような怪異が記されています。呉服神社の近くの衣掛松(これがあるというのも羽衣伝説などが入り込んでいるのでしょう)辺りに女駕籠がぽつりと置かれていて、中には22、3歳に見える美人が乗っている。駕籠をかく者もいない状態なので近隣の人が怪しんで女に話しかけるが、女は全く返事をしない。そのまま差し置いたところ、駕籠は次の日には箕面の瀬川に移動していた。さらに松尾の方にも現れたというのが意味深長で、この女性はかつて天女として現れた神の没落した姿かも知れません。圧巻は、この駕籠が空を飛ぶところで、駕籠の下からは蛇が首を出しています。この女性に戯れかかった男は全て重病になったとありますから、我々も注意しましょう。
この室町は、逸翁小林一三氏によってなされた日本最初の郊外型分譲地でもあります。何年か前までは、洋館といってもいいような戦前の文化住宅が残っていましたが、今現在は殆ど立て替えられてしまっています。阪急電車の高架化が完成し、その下に児童公園などもできたため、しっとりと落ち着いた町でなくなったのは残念です。小林氏のコレクションを継承したのが山の手にある逸翁美術館です。ここは、またいずれご紹介しますが、旧邸「雅俗山荘」における展示は、2007年12月までで、以後は山荘そのものは一三翁個人を顕彰する記念館になるようです。一三翁の蔵書を元に作られた阪急池田文庫(下の写真)には、歌舞伎や宝塚歌劇の資料がわんさかとあります。また、両方に興味のない小生でも何か調べものをする時、「さすがに、この本は無いだろう」と思いながら、尋ねてみるとちゃんとある。司書の方の応対も誠に親切ですが、何もかも阪急がサービスとしてやっています。他の私鉄も見習えよー。けど、今は室町に戻りましょう。
この室町を猪名川に突き当たるまで西に歩き、川に沿って少し北上すると、呉服座跡です。呉服座は、現在は犬山の明治村に移築されています。旅役者の一座が回ってきたときには、ここにたくさんののぼりが立ちました。呉服座最終期で入場料は150円ぐらいだったのでは。今この呉服座がここに健在で、呉服橋を渡ったところにあった川西座もあれば、近年開館した落語ミュージアムと併せて一つの文化拠点となるのになあというところです。
室町界隈、ちょいと歩きでも池田は奥が深い。江戸時代の一時期、池田学派なる学問グループも存在したそうです。まだまだ色々と掘り起こせそうですが、そろそろ猪名川の土手沿いに少し南下して「魚清」で清酒「緑一」をいただくことといたしましょう。(注 池田酒、呉春に比べて緑一は辛口です。呉春を買うときには池田まで来て買う方が絶対に得です。緑一の4合瓶は最近「春団治」という名で売られています。)
(07年10月に記したものに加筆して再録)
いずれにしましても、女性に気をつけよとのご忠告は守らなければ(もう遅いですが)。最後はやはり銘酒で落ち着くのが好いですねえ。大阪に勤務している頃は。時々呉春を飲みました。何でも最近ではこの酒にもプレミアの付く品種があるとか。緑一は未知の世界です。