「おう!次は古堤をやるぞぃ。」という師匠からの連絡、正直に言って(小生は何時も正直だけど・爆)「古鼓?どこやそれ?」という状態でした。今でこそ、世の中におもろくない土地は無いということを経験的に学んできて、何となく解ったような顔をしていますが、一昔前に「大東」などと言われたら「ああ、あの水害の…」程度にしか反応できなかったのは確かです。
古堤街道とは大坂の高麗橋を起点とし、京橋で京街道から分岐、ほぼ寝屋川の線に沿って進み、大東で山に入って大和に抜ける街道で、今日の阪奈道路は概ねその街道に沿って山越えをするというところで良いと思います。本日は街道の風情が多く残っているところを歩くということで住道を起点とし、京橋のいか焼きを目指します(笑)。先ずは住道駅前の「大東市」というモニュメントの前でパチリ、ただしこれはアップしていません。
住道の駅前で南から流れてきた恩智川と北から流れてきた寝屋川が合流します。この合流点というところが水防上の要地。大東=洪水のイメージがありますから、今日ではかなりしっかりと護岸が為されています。逆にそれだけに川の風情は台無しになっている感じです。
恩智川
二つの川が合うところに住吉神社、水運の神様です。このお堂が角の堂と言われていたことが「住道(すみのどう)」の由来とか。ここが角堂浜といわれていたことに鎌倉から来ておられた方が怪訝な顔をされました。「海も遠いのに」、当然の疑問ですね。実は大阪では北浜や堂島浜という名に代表されるように河岸も「浜」と言います。
ここから寝屋川を渡って街道に入り、先ずは行者堂。役行者を祀るお堂ですが、現在も大峰山に上られる方々によって管理されています。今回はここ以外には立ち寄っていませんが、地図を見ているとこの付近にはあちこちに行者堂があることが分かります。入り口には道標が立っていますね。思っていたよりもはるかに街道はよく残っています。鴻池新田までずっと両側の白線が導いてくれます。
行者堂からすぐのところに泉勝寺、立派な門が目立ちますが、そのすぐ横には八坂神社。その昔の神仏混淆の様子がはっきりと残っています。原理主義者は見たくない景色かも知れませんが、小生なんかはグニャグニャの折衷論者だから何かうれしいです。
さらに進んで樋門建設記念碑。今歩いている街道が本来は堤防であったことがよく解ります。
大神社はお伊勢さんです。ここでだったか、もう少し後だったか忘れましたが。江戸時代の伊勢参りというのは基本的には外宮に参ることであるということを師匠に教わりました。我々はとにかく伊勢神宮と言うことで一括りにしてしまいますが、考えてみたら外宮と内宮は随分と離れているし、伊勢神宮の門前町というのは外宮に近い宇治山田だし、なるほどなあと思います。最近は内宮の門前が元気ですが。
そして、このお宮さんの隣にもしっかりと太子堂があります。この辺りはのんびりしたところで、明治維新の時にも急進的な原理主義者は現れなかったのでしょう。太子堂はこのあたりの地名である太子田(たしでん)の語源にもなっています。後ほども出て参りますが、この辺りは難読地名の宝庫でもあります。「住道」も初めてだったら普通には読めませんね。
大神社
太子堂
八尾への分岐点に道標、文久3年(1863)のものです。そうか、ここから八尾へ歩くのもおもしろいかも。
左が八尾
諸福(もろふく・これは読めますね)に入り天満宮。力石は刈り込みの中に埋没していました。この辺りも街道の雰囲気が良く残っています。昔から水害に悩んできた地らしく、蔵も水屋になっています(他の建物より基礎を高くして建築)。
諸福天満宮
街道
水屋
歴史的なことには関係ありませんが、道沿いにスーモの刈り込み、なかなかにユニークです。
地蔵堂を拝し、勿入渕跡(ないりそのふちあと)。枕草子の第15段に「淵はかしこ淵、いかなる底の心を見えて、さる名をつけけんと、いとをかし。ないりその淵、誰にいかなる人の教へしならん。青色の淵こそまたをかしけれ。藏人などの身にしつべくて。いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。玉淵」と出てくる渕だそうです。今は完全に干上がっています。
地蔵堂
勿入渕跡
白竜社を拝したところは、既に鴻池新田駅のすぐ近く、これで一駅歩いたことになります。ここで街道を外れて鴻池新田会所に向かいます。
白竜社
宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事は、旧河道に沿って広大な新田を生み出しました。このうち豪商鴻池家が請け負って開発されたのが鴻池新田です。所謂町人請負新田というやつですね。生み出された新田は全て鴻池家の所有で小作人を雇い大規模な農場経営が行われました。会所はいわばその管理事務所です。同じようなところでは八尾の安中新田会所に前に行きましたね。この鴻池新田会所は以前から行きたいと思っていたのですが、なかなかに御縁が無く、今回が初めてです。
広い台所では、午後から注連縄造りがあるとかで釜で湯を沸かして部屋を暖めています。
庭も見事ですが、これでも鴻池家の筆頭クラスの番頭が支配人としてやって来るという訳では無かったのでしょうから、「知るべし、鴻池の富を」というところですね。大坂の今橋の御本宅から当主がここに足を運ぶということは年に何回会ったのでしょうか。
裏長屋門
文書蔵
会所見学の後は駅近くの蕎麦屋で昼食、「機械打ちも馬鹿にできんなあ」と師匠に言わせるほどの店でしたが、如何せん待たせる。大将が一人で作っている店はどうしてもこうなりますね。京都のかね井などは座るまで30分、注文を聞きに来るまで30分、蕎麦が出てくるまで30分ですが、この店の場合は座るのに1分、注文を聞きに来るまで5分、蕎麦がボチボチと出てくるので、最後の人に蕎麦がくるころには最初の人はとっくに食べ終わっているという感じでモタモタと1時間というところです。
鴻池新田駅から一駅、徳庵駅までは電車を利用します。徳庵駅からは街道を外れたみたいですが、どこをどう歩いたやら。もはや師匠のみぞ知る世界。駅にほど近いところに明治時代の道標。「京徳庵きしゃ道」とはっきりと読めますね。京都に行くなら徳庵から汽車に乗れというところでしょう。
徳庵駅
川の跡というのを見て、稲田八幡に。ここの日露戦争の従軍碑は回りを砲弾でかためてありました。仲哀天皇も祀られているというのは珍しいように思います。
川の跡
稲田八幡
従軍碑
御本殿
その近くには愛宕神社。本日は神さんの方もオンパレードであります。進んで観音禅寺、仏さんにも良く出会います。
愛宕神社
観音禅寺
すぐ近くにはまたまた道標。これははっきりと読めますね。下の方が焼けているのは痛々しい。
片町線(学研都市線)と大阪東線が合流する辺り、引き込み線の管理事務所の敷地内に省電始源の碑、JRは旧国鉄、旧国鉄は鉄道省が運営する省線電車。小生が子供のころに近隣の老人は特に環状線を指して省線電車と言っていたものです。近隣の爺さんや婆さんには大阪から省線に乗って鶴橋、近鉄で生駒や信貴山によく連れて行ってもらいました。参道の食堂の食べ物に釣られてのことです。爺さん婆さんも、「あれ食べえー、これ食べえー」とニコニコとしながら食べさせてくれたものです。
地蔵堂を経て、諏訪神社(境内には春日神社もありました)、その門前には珍しい支那事変を記念した旗立ての石柱。暴戻なる支那を断固として膺懲しなくてはなりません。
放出(はなてん)駅が近づくと阿遅速雄神社(あぢはやお)、御祭神は阿遅鉏高日子根神、鴨氏です。神話の中には大国主命と宗像三神の多紀理毘売命との間に生まれた神というように取り入れられています。この神社には「放出」の由来となった話が伝わっています。名古屋の熱田神宮から神剣を盗み出した新羅の国の坊主がここで暴風雨にあって神の祟りとして神剣を放り出した(はなちで)が訛って「はなてん」になったという話です。
この話もさることながら江戸時代の国学者並河誠所が延喜式神名帳を精査し、この神社が確かに神名帳に記載された神社であることを示した石標がおもしろい。他にも幾つか比定された神社があるみたいで、大阪市内に20基建てられたもののうち4基が残っていると言うことですから、おー、徘徊の新しいテーマかな。
外には立派な「おかげ灯籠」、おかげ参りの流行を示すものですね。このお宮さんを全く知らなんだということは不覚であります。
御神木の楠、新田会所の楠もそうでしたが、樹医が治療しています。枯死させる側の樹皮は完全に剥いでしまうようですね。
南に下って、またまた諏訪神社。ここには日露戦争の凱旋記念碑の他に戊辰戦争で使用された大砲が置いてありました。大宰府に流されることになった菅原道真が、九州に行く前に世話になった叔母をこの地に訪ねたということで菅公の腰かけ石などもありました。
諏訪神社
凱旋記念碑
横からー
前からー
腰掛石
この近くのお堂、左専堂というのは菅公が左遷されたということから来ているそうです。ほんまかいな。ここは小学校の跡でもあるようです。
珍しい運河の交差を見て、八坂神社。かつては四ツ橋がそうでしたが、今では東横堀川も長堀も埋め立てられて、ただの交差点。坂神社では、忘れ物・失せ物が必ず出てくるという狛犬が主人(御祭神)を食う人気でした。狛犬にちゃんと供え物がしてありますね。
ちょっと分かりにくい?
鴫野駅に近づくと八剱神社。熱田神宮系の神さんですが、八坂さんなども合祀されています。神社の説明では主祭神の八劔大明神は須佐之男命と同体とあります。先の放出の由来といい、この付近には熱田神宮にかかわるものがあるみたいです。
大坂の陣・鴫野の戦いの碑
鴫野から再びJRで京橋。碑の位置は動いていますが、京街道の碑の「大和」へと記された道は古堤街道であったわけです。今回は間にうまく電車を利用しました。何とJRの初乗り運賃て120円だったのですね。何かエライ良心的やん。JRは高いというイメージがありましたが、見直しました。
今回は大東や放出周辺も十分に「河内」であることが良く分かりました。あの、何か法事の度に町内会に対してお金を包むという習慣も八尾や富田林ほどでは無いにせよ確認できました。寝屋川辺りより北になるとそういう習慣は消えてしまっているようです。
それにしてもたくさんの神社を巡ったものです。多くの神さんがおられることも知りました。
右に行っても大和には行けまへん
本日もいか焼きの「やまげん」で打ち上げであります。みなさん、「いか焼き」というものはお気に召しましたでしょうか?「しまらっきょう」はちょっとイメージが異なったようですが、「これはこれでウマイ」と言ってもらえました(小生が作っている訳ではありませんが・笑)。
最後に京街道の碑を見て解散。さらに進んで野江の処刑場跡を探すという提案は却下されました(爆)。
古堤街道とは大坂の高麗橋を起点とし、京橋で京街道から分岐、ほぼ寝屋川の線に沿って進み、大東で山に入って大和に抜ける街道で、今日の阪奈道路は概ねその街道に沿って山越えをするというところで良いと思います。本日は街道の風情が多く残っているところを歩くということで住道を起点とし、京橋のいか焼きを目指します(笑)。先ずは住道駅前の「大東市」というモニュメントの前でパチリ、ただしこれはアップしていません。
住道の駅前で南から流れてきた恩智川と北から流れてきた寝屋川が合流します。この合流点というところが水防上の要地。大東=洪水のイメージがありますから、今日ではかなりしっかりと護岸が為されています。逆にそれだけに川の風情は台無しになっている感じです。
恩智川
二つの川が合うところに住吉神社、水運の神様です。このお堂が角の堂と言われていたことが「住道(すみのどう)」の由来とか。ここが角堂浜といわれていたことに鎌倉から来ておられた方が怪訝な顔をされました。「海も遠いのに」、当然の疑問ですね。実は大阪では北浜や堂島浜という名に代表されるように河岸も「浜」と言います。
ここから寝屋川を渡って街道に入り、先ずは行者堂。役行者を祀るお堂ですが、現在も大峰山に上られる方々によって管理されています。今回はここ以外には立ち寄っていませんが、地図を見ているとこの付近にはあちこちに行者堂があることが分かります。入り口には道標が立っていますね。思っていたよりもはるかに街道はよく残っています。鴻池新田までずっと両側の白線が導いてくれます。
行者堂からすぐのところに泉勝寺、立派な門が目立ちますが、そのすぐ横には八坂神社。その昔の神仏混淆の様子がはっきりと残っています。原理主義者は見たくない景色かも知れませんが、小生なんかはグニャグニャの折衷論者だから何かうれしいです。
さらに進んで樋門建設記念碑。今歩いている街道が本来は堤防であったことがよく解ります。
大神社はお伊勢さんです。ここでだったか、もう少し後だったか忘れましたが。江戸時代の伊勢参りというのは基本的には外宮に参ることであるということを師匠に教わりました。我々はとにかく伊勢神宮と言うことで一括りにしてしまいますが、考えてみたら外宮と内宮は随分と離れているし、伊勢神宮の門前町というのは外宮に近い宇治山田だし、なるほどなあと思います。最近は内宮の門前が元気ですが。
そして、このお宮さんの隣にもしっかりと太子堂があります。この辺りはのんびりしたところで、明治維新の時にも急進的な原理主義者は現れなかったのでしょう。太子堂はこのあたりの地名である太子田(たしでん)の語源にもなっています。後ほども出て参りますが、この辺りは難読地名の宝庫でもあります。「住道」も初めてだったら普通には読めませんね。
大神社
太子堂
八尾への分岐点に道標、文久3年(1863)のものです。そうか、ここから八尾へ歩くのもおもしろいかも。
左が八尾
諸福(もろふく・これは読めますね)に入り天満宮。力石は刈り込みの中に埋没していました。この辺りも街道の雰囲気が良く残っています。昔から水害に悩んできた地らしく、蔵も水屋になっています(他の建物より基礎を高くして建築)。
諸福天満宮
街道
水屋
歴史的なことには関係ありませんが、道沿いにスーモの刈り込み、なかなかにユニークです。
地蔵堂を拝し、勿入渕跡(ないりそのふちあと)。枕草子の第15段に「淵はかしこ淵、いかなる底の心を見えて、さる名をつけけんと、いとをかし。ないりその淵、誰にいかなる人の教へしならん。青色の淵こそまたをかしけれ。藏人などの身にしつべくて。いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。玉淵」と出てくる渕だそうです。今は完全に干上がっています。
地蔵堂
勿入渕跡
白竜社を拝したところは、既に鴻池新田駅のすぐ近く、これで一駅歩いたことになります。ここで街道を外れて鴻池新田会所に向かいます。
白竜社
宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事は、旧河道に沿って広大な新田を生み出しました。このうち豪商鴻池家が請け負って開発されたのが鴻池新田です。所謂町人請負新田というやつですね。生み出された新田は全て鴻池家の所有で小作人を雇い大規模な農場経営が行われました。会所はいわばその管理事務所です。同じようなところでは八尾の安中新田会所に前に行きましたね。この鴻池新田会所は以前から行きたいと思っていたのですが、なかなかに御縁が無く、今回が初めてです。
広い台所では、午後から注連縄造りがあるとかで釜で湯を沸かして部屋を暖めています。
庭も見事ですが、これでも鴻池家の筆頭クラスの番頭が支配人としてやって来るという訳では無かったのでしょうから、「知るべし、鴻池の富を」というところですね。大坂の今橋の御本宅から当主がここに足を運ぶということは年に何回会ったのでしょうか。
裏長屋門
文書蔵
会所見学の後は駅近くの蕎麦屋で昼食、「機械打ちも馬鹿にできんなあ」と師匠に言わせるほどの店でしたが、如何せん待たせる。大将が一人で作っている店はどうしてもこうなりますね。京都のかね井などは座るまで30分、注文を聞きに来るまで30分、蕎麦が出てくるまで30分ですが、この店の場合は座るのに1分、注文を聞きに来るまで5分、蕎麦がボチボチと出てくるので、最後の人に蕎麦がくるころには最初の人はとっくに食べ終わっているという感じでモタモタと1時間というところです。
鴻池新田駅から一駅、徳庵駅までは電車を利用します。徳庵駅からは街道を外れたみたいですが、どこをどう歩いたやら。もはや師匠のみぞ知る世界。駅にほど近いところに明治時代の道標。「京徳庵きしゃ道」とはっきりと読めますね。京都に行くなら徳庵から汽車に乗れというところでしょう。
徳庵駅
川の跡というのを見て、稲田八幡に。ここの日露戦争の従軍碑は回りを砲弾でかためてありました。仲哀天皇も祀られているというのは珍しいように思います。
川の跡
稲田八幡
従軍碑
御本殿
その近くには愛宕神社。本日は神さんの方もオンパレードであります。進んで観音禅寺、仏さんにも良く出会います。
愛宕神社
観音禅寺
すぐ近くにはまたまた道標。これははっきりと読めますね。下の方が焼けているのは痛々しい。
片町線(学研都市線)と大阪東線が合流する辺り、引き込み線の管理事務所の敷地内に省電始源の碑、JRは旧国鉄、旧国鉄は鉄道省が運営する省線電車。小生が子供のころに近隣の老人は特に環状線を指して省線電車と言っていたものです。近隣の爺さんや婆さんには大阪から省線に乗って鶴橋、近鉄で生駒や信貴山によく連れて行ってもらいました。参道の食堂の食べ物に釣られてのことです。爺さん婆さんも、「あれ食べえー、これ食べえー」とニコニコとしながら食べさせてくれたものです。
地蔵堂を経て、諏訪神社(境内には春日神社もありました)、その門前には珍しい支那事変を記念した旗立ての石柱。暴戻なる支那を断固として膺懲しなくてはなりません。
放出(はなてん)駅が近づくと阿遅速雄神社(あぢはやお)、御祭神は阿遅鉏高日子根神、鴨氏です。神話の中には大国主命と宗像三神の多紀理毘売命との間に生まれた神というように取り入れられています。この神社には「放出」の由来となった話が伝わっています。名古屋の熱田神宮から神剣を盗み出した新羅の国の坊主がここで暴風雨にあって神の祟りとして神剣を放り出した(はなちで)が訛って「はなてん」になったという話です。
この話もさることながら江戸時代の国学者並河誠所が延喜式神名帳を精査し、この神社が確かに神名帳に記載された神社であることを示した石標がおもしろい。他にも幾つか比定された神社があるみたいで、大阪市内に20基建てられたもののうち4基が残っていると言うことですから、おー、徘徊の新しいテーマかな。
外には立派な「おかげ灯籠」、おかげ参りの流行を示すものですね。このお宮さんを全く知らなんだということは不覚であります。
御神木の楠、新田会所の楠もそうでしたが、樹医が治療しています。枯死させる側の樹皮は完全に剥いでしまうようですね。
南に下って、またまた諏訪神社。ここには日露戦争の凱旋記念碑の他に戊辰戦争で使用された大砲が置いてありました。大宰府に流されることになった菅原道真が、九州に行く前に世話になった叔母をこの地に訪ねたということで菅公の腰かけ石などもありました。
諏訪神社
凱旋記念碑
横からー
前からー
腰掛石
この近くのお堂、左専堂というのは菅公が左遷されたということから来ているそうです。ほんまかいな。ここは小学校の跡でもあるようです。
珍しい運河の交差を見て、八坂神社。かつては四ツ橋がそうでしたが、今では東横堀川も長堀も埋め立てられて、ただの交差点。坂神社では、忘れ物・失せ物が必ず出てくるという狛犬が主人(御祭神)を食う人気でした。狛犬にちゃんと供え物がしてありますね。
ちょっと分かりにくい?
鴫野駅に近づくと八剱神社。熱田神宮系の神さんですが、八坂さんなども合祀されています。神社の説明では主祭神の八劔大明神は須佐之男命と同体とあります。先の放出の由来といい、この付近には熱田神宮にかかわるものがあるみたいです。
大坂の陣・鴫野の戦いの碑
鴫野から再びJRで京橋。碑の位置は動いていますが、京街道の碑の「大和」へと記された道は古堤街道であったわけです。今回は間にうまく電車を利用しました。何とJRの初乗り運賃て120円だったのですね。何かエライ良心的やん。JRは高いというイメージがありましたが、見直しました。
今回は大東や放出周辺も十分に「河内」であることが良く分かりました。あの、何か法事の度に町内会に対してお金を包むという習慣も八尾や富田林ほどでは無いにせよ確認できました。寝屋川辺りより北になるとそういう習慣は消えてしまっているようです。
それにしてもたくさんの神社を巡ったものです。多くの神さんがおられることも知りました。
右に行っても大和には行けまへん
本日もいか焼きの「やまげん」で打ち上げであります。みなさん、「いか焼き」というものはお気に召しましたでしょうか?「しまらっきょう」はちょっとイメージが異なったようですが、「これはこれでウマイ」と言ってもらえました(小生が作っている訳ではありませんが・笑)。
最後に京街道の碑を見て解散。さらに進んで野江の処刑場跡を探すという提案は却下されました(爆)。
安中新田会所もそうでしたが、鴻池新田といい、大和川の付け替えがものすごい富を生み出したことがよく分かりますね。
小生も東海林太郎の野崎小唄の雰囲気が好きです。東海林太郎は1度だけフェスティバルホールで歌を聴きました。何故か中2の時で、しかも一人で行ってます。その時に聴いた歌が野崎小唄かどうかは分からないのですが、いろんな記憶がごっちゃになって耳には野崎小唄が残っています。
落語の野崎参りもおもしろいですね。土手を行く人と船で行く人が口げんかをしもって行くのですが、昔の古堤街道にはそういう声が響いていたと思います。
鴻池家もの凄いですね。八尾の安中新田会所思い出しました。あの時もチラッと鴻池新田のお話が出ましたね。地図を見ましたら野崎から石切生駒と続くのですね(地図を見ないとわからないのです)河内って広範囲ということがわかりました。40代の頃、民謡舞踊に凝っていました。野崎小唄も好きでした。
この大東市界隈も未だに「ああ、あの水害の」という会話が為されるように、かなり強い記憶として刷り込まれています。野崎参りののんびりとした光景を楽しみたいとは思いますが、現実はやはり災害対策優先となるようですね。
徘徊は明年は播磨の方にも足を延ばせたらいいなと思っております。また、昔、関ヶ原から醒ヶ井まで歩いた道も懐かしいので、また歩いてみたいと思っています。それより東や西になると日帰りはしんどいですね。また、ご都合が良いときにご参加ください。
実際は師匠にいただく予定表と資料が便りです。写真はあるが何だったのか解らないということもあります。
山科の追分から大坂の高麗橋までは、「京街道」と呼ばれています。またこちらに来られる時に「今回は、京街道を歩く。」とおっしゃって頂けたらセッティングしますね。小生はぶつ切りでしか歩いていませんが、師匠は完歩されていますから、途中で道が怪しくなっているところも大丈夫です。橋本の遊郭跡や枚方の鍵屋など、ところどころ見どころもあります。
2日目の竹田城に登られたら運動量もちょうどで、ダイエットになったかなと思いますが、雪で残念でしたね。
大東がかつて水害に遭った様に、大堰川畔の八木町も堤防が決壊して大きな被害を被りました。
我が家も床上浸水で何もかも水没しましたが、当時の私には蒐集した映画のパンフレット(今ならン万円の物もあります・・・)数百冊が水泡に帰した事が泣くにも泣けませんでした(かと申して、笑っていたわけではありません)。
そんな河畔も今は護岸工事で安全になりましたけど、周囲の景観は壊滅状態です。上流の宇津地域もダムの護岸で、かつての風景は消え失せました。護るべき物が何を優先するか、となれば当然の流れでしょうけど、ある意味では淋しくもあります。
話は反れましたが、日曜日の歴史徘徊は他の予定と重複して中々参加出来ず、残念に思っております。トシを顧みませず、色んな事(色事ではございません)に手を出しており、呆れられております。この徘徊は未だ未だ(未来永劫に)続くでしょうから、また、その内に都合が付けば、是非参加させて戴きます。アシとノム方も鍛えておきます。
本年最後の徘徊は、ユニークで面白く拝見させて戴きました。折衷論者のgunkanatagoさん以上(以下ですが)の無神論者の小生ですが、これからも後ろからふらふらと着いて行くことになるでしょう。宜しくお願い申し上げます。
私も二日間お蕎麦をいただきましたが、7泊京都に居りまして帰宅しましたら、なんと2キロも体重が増えていました。 増えた体重を元に戻すのは大変なことです。 狭い空間で食べるだけ、大して動かない日々でしたので、それが体重増加の原因かもしれません。
京街道の終点まで、京都発で大阪まで歩かないといけないかしら、と考えております。 東海道53次は終わったのですが、東海道57次が完了しませんので。
あの辺りは、小生も通過するのみのところでじっくりと歩いたのは今回が初めてでした。野崎辺りから山沿いに石切へは頻繁に訪れたものですが、本当に最初から「何もない」等と言う偏見を持ったらあかんなあと強く反省させられます。
言葉としては学研都市線というのはいつまでもなじめませんね。片町は無くなってもやはり片町線のほうがしっくりときます。ただ、走っている電車を見るとやはり学研都市線ですね。
やまげん、気に入っていただいてよかったです。あの店が出来た時に初めて入って、「いか焼きて、うまかったんや。」と思いました。メニューがだんだんと増えていく中で、するめの天麩羅が加わった時には驚喜しました。呉春を置いているというのも嬉しいです。近くの丸一屋もいいのですが、人の声がガンガンと響きます。みんなで集まって…というのには不向きかも知れません。次回の大阪は「串カツ」ですね(笑)。場末でうまい店を探しておきます。
柏原でも蕎麦(笑)!二日連続ですね。師匠の蕎麦の食べ方、発見されましたね。鋭い!あれは蕎麦の香りを楽しむとともに(一応そう言う)、良いわさびならば、チョビチョビとなめて酒のアテにするためです。酒盗などと同じ扱いですね。酒を飲まない時でもその習慣が染みついている。おー、ばらしちゃった。
昔の街道の筋がかくあらんと想像させてくれる道の曲線はなかなかのものでした。周囲は家ばっかしですが、いざ奈良へと昔の人が南に広がる河内湖の水を眺めながら生駒山系の山を目指して歩いておられた姿が想像出来ました。確かにこれは堤だったというのが分かる箇所もあり、想像力が益々膨らんで来たものです。
沢山の神社やお寺があり明らかに現役で地元の方の信仰を集めている姿をみて、ここら辺の人は信仰心が厚いんやねぇ、なんて言いながら歩いたものです。又立派な木も沢山見ました。樹木医の手術跡が生々しい姿もありましたが、それで益々長寿になって何時までもその姿を見せていてくれそうなのは素晴らしい姿だとも思いました。それに大砲の弾丸も登場したり、寺院と仲良く寄り添っていたりする神社の姿も大らかでした。憲法守って国家滅びるじゃないですが、gunkanatagoさんも書いておられる様に原理主義者の神学論争なんか勝手にしてろという大らかさ力強さが逞しくも思えました。
片町線に乗って、おっと学研都市線でしたね、さてこの地名が読めるかテストしましょう、なんて楽しんで住道駅へと向かいました。駅を出たらなんとそこは2階だったんですね。陸橋を下りて角の堂からのスタートもよかったです。二番目の写真に見える橋の姿、水面にすごく近く、堤防?を割った様にして掛かっている姿が印象に残っています。歩いた古堤街道が丁度寝屋川の水位と同じ位ではないかと思いますね。
水路の交差点、これは面白かったです。あそこは何回か歩いたはずですが師匠に教えて貰うまで知りませんでした。
すぐものを忘れる歳になってしまいましたが、記事や写真が当日をいろいろ思い出させてくれました。ありがとうございました。
おっと、匍匐前進の店、なかなかユニークでした。島ラッキョウは一見普通のラッキョウと同じ姿が普通ですが、今回のは口に入れるとぬめりが少しありこれはこれで味わい深いものでした。gunkanatagoさんの嫌いなものばかりを目の前で食していた様でもありご免ね、と言いたいのですが、好き嫌いはいけんよ、とも言いたい(^_*)まあ、もう変われないお歳になられてますし、幸いなことに食材の種類も豊富な時代になってますしいろいろとお試し下さい。昔フランス人とステーキハウスで夕食したとき、いわゆる付きだしを美味い美味いと食した後、コックさんが、今食べたの何だか分かりますか?鳥のささみやろ?、答はカエルでした。私はふ~んと平然でしたが、彼はゲ~というジェスチャーで答えていました。何やお前、フランス人と中国人は四つ足なら全て食べるんとちゃうんか、と皮肉ってやったのを思い出しました。gunkanatagoさんも今度イカがですか、阿倍野で紹介しますよ(^_・)
翌日、柏原で蕎麦を食していると、師匠がワサビをつけられないのに気がつきました。食材そのものを味わうには邪魔ものだと妙に納得しました。