先だって、昔とはうって変わった新世界の盛況ぶりをお知らせしましたが(知らなかったのは吾一人かもしれませんが)、人々が歩いているのは本当におきまりのコースだけで、本来はこちらがメインであったと考えられる商店街や路地を歩くと昔のままの新世界に出会うことができます。通天閣のお膝元を「表通り」と言いたくはないのですが、まあそうだとすると表通りと裏通りの明暗はこの新世界において最も明確だと言えそうです。
頑張れ「たこ焼き」店!
新世界稲荷福永大神は明治の勧請のようですが、手水舍には「ここで身体を洗わないで下さい」の張り紙、場所柄とは言え神様も大変です。
通天閣に登楼せんと列ぶ人々、ここで列んだ後中二階でもう一度列ばねばならぬようですから、我が友人曰く「展望台まで2時間はかかるで」と。オッチャン連中はこの先の飛田で登楼したらどおですか?
名の知られたる串カツ屋の前でも列んでいます。昔は何かを食うためとかもらうために列ぶということは恥ずかしいことだったように思うのですが、ここで列んでいるオッサンはネエチャンの電車の中での化粧にモンクをいう資格はおまへん。
勿論小生は列びません。本通りの方にくると店の前で引き子が呼び込んでくれます。ここで串カツを食うと、もう京都では食えんなあ。同じ大阪の梅田ですら食えん。梅田の「おおえす」は安いけど小さいしなあ。趣向という点では「鳥の巣」が対抗できるかも知れんが、名前が焼鳥屋を思い出させるのであきまへん。その余はもう勝負になりまへん。
串カツの後は当然ながら飛田の散策、遣り手バアサンの声は今日も元気です。おやまはん(女郎)は以前と比べて何となく平均年齢が10歳ぐらい上がっているように思われます。目が合うとニコッと笑って深く頷く様子は変わりませんが、この辺りもデフレの波に呑まれているようです。付近には古い形態の喫茶店も何軒か残っています。ボーイは白いカッターシャツに黒ズボン。カフェなどという気色悪い言い方は全く似合わない(このあたり小生にとって大正のにおいがするカフェーは許せるけど近年の軽薄なイメージのつきまとうカフェはあかんと微妙です。何がカフェぢゃ。喫茶店、せめてサテンと言えというところ。)。注文するのは勿論「レーコ」です。
旧妓楼「飛田百番」。
頑張れ「たこ焼き」店!
新世界稲荷福永大神は明治の勧請のようですが、手水舍には「ここで身体を洗わないで下さい」の張り紙、場所柄とは言え神様も大変です。
通天閣に登楼せんと列ぶ人々、ここで列んだ後中二階でもう一度列ばねばならぬようですから、我が友人曰く「展望台まで2時間はかかるで」と。オッチャン連中はこの先の飛田で登楼したらどおですか?
名の知られたる串カツ屋の前でも列んでいます。昔は何かを食うためとかもらうために列ぶということは恥ずかしいことだったように思うのですが、ここで列んでいるオッサンはネエチャンの電車の中での化粧にモンクをいう資格はおまへん。
勿論小生は列びません。本通りの方にくると店の前で引き子が呼び込んでくれます。ここで串カツを食うと、もう京都では食えんなあ。同じ大阪の梅田ですら食えん。梅田の「おおえす」は安いけど小さいしなあ。趣向という点では「鳥の巣」が対抗できるかも知れんが、名前が焼鳥屋を思い出させるのであきまへん。その余はもう勝負になりまへん。
串カツの後は当然ながら飛田の散策、遣り手バアサンの声は今日も元気です。おやまはん(女郎)は以前と比べて何となく平均年齢が10歳ぐらい上がっているように思われます。目が合うとニコッと笑って深く頷く様子は変わりませんが、この辺りもデフレの波に呑まれているようです。付近には古い形態の喫茶店も何軒か残っています。ボーイは白いカッターシャツに黒ズボン。カフェなどという気色悪い言い方は全く似合わない(このあたり小生にとって大正のにおいがするカフェーは許せるけど近年の軽薄なイメージのつきまとうカフェはあかんと微妙です。何がカフェぢゃ。喫茶店、せめてサテンと言えというところ。)。注文するのは勿論「レーコ」です。
旧妓楼「飛田百番」。
ベトナムは小生にとっては好ましい国の一つです。アメリカとの戦争に勝ったというのも痛快なら、ディエンビエンフーの戦いは戦史に燦然と輝いていますし、ホーチミンは社会主義者では珍しく腐敗と無縁でしたし、何よりも中越戦争にも勝っているというのが素晴らしいです。よいところに住んでおられますね。
それからベトナムではないのですが、東南アジアといえば「快傑ハリマオ」の世界、ヒロインが歌う「南十字星の歌」も素晴らしい。
小生も浮舟様と同じく、この大阪のディープサウスがいつまでも変わらなければいいのになあと強く願っています。特に飛田遊郭(笑)。
通天閣の辺りは劇的に変わりました。今は若い女性の2人連れなどが堂々と串カツ店に入っています。小生が初めて新世界で牛すじ定食80円也を食べたころはヤクザとアル中が闊歩する町でした。ダフ屋が馬券を80円(何でも80円[笑])で売っていました。もうそういう懐かしい感じは表通りからは消えているように思います。それでも、昔からの酒場に入れば何となく昭和のニオイが残っているような気がします。
昔、あいりん地区で暴動があった時、国会議員風にいえば視察、毛沢東風にいえば労働者の実態調査、庶民風にいえば、野次馬として見物に行きました。酒場を通して(酒場かいな!だってコネクションないもの!)見た、むきだしの、裸の、本音の、ストレートの、アホの、意志薄弱の、しかし、愛すべき人間の姿でした。そういう人間があいりん地区にたくさんいるというのではなく、人間は皆一人残らず、そうではないか、という強く思いました。以後、萩之茶屋、今池などに月、2回程度で神戸の垂水から通いました。癒されましたね。また今週もへこたれずに仕事しようと、なぜか思えるのです。
昔、新聞で、ある社長が、休みの日に浮浪者の格好に変装して一日過ごすとストレス解消になるという記事を読んだ時、これはわかるなあと思いました。また「乞食と王子」という話がありますが、あれは深層心理レベルのひとつの願望の話であるように考えます。乞食は王子になって、贅沢をしてみたいだろうが、王子は乞食を経験して人間とは何か、人生とは何かをつきつめて考えてみたかったのでしょう。「新世界とは何か」自己紹介を兼ねた序章です。これをぬきに新世界は語れない気持ちです。
島原は、角屋が博物館となり、輪違屋は今も現役で太夫がいるとのことです。その他はすっかりと変わりました。大門の近くには大型の公衆浴場などができています。ですから、今やあのあたりには怪しい雰囲気が全くありません(より深く知らないだけかも知れませんが)。
「レーコ」は現役のバリバリです。けれどもちょっと油断すると解らないウェイターやウエイトレスが出てきそうですね。楠葉のたこ焼き屋で「むっつ=6つ」が通じないバイトがいましたが、どの地域の出身なのでしょうね。
誰もがしていたように、ビリケン像の足の裏を撫ぜましたが、果たして幸福になったかは今だ判らずであります。降りてまん前の喫茶店で休んでから、新世界界隈をすぞろ歩きでもすればよかったのですが、夕闇も迫るし、田舎者の婆さんがうろつく所ではないだろうと、半分の好奇心を抑えてそそくさと帰ってきました。
娘のころ、島原校区の園に勤めていました。残業などで陽が落ちてから帰るころ、簾でくるっと囲った遊郭の前には赤いおべべのおねえさんたちが客引きしている姿を見かけました。法令が出る寸前のころです。あの建物は今はどうなっているのか、一度訪ねたいと思いつつ半世紀以上経ってしまいました。
「レーコ」今もそう言うのですか?むかし私も
そう言っていました。
「もと遊郭だ!どうだ!」とデーンと見せているのは島原でしょうが、ここにしてももう街としての遊郭の名残はありません。飛田はある意味現役ですので昔の雰囲気がよく残っていますが、同じく現役といっても松島はもうだめだという感じです。小生が朽ちていくばかりでもったいないなあとおもうのは橋本の遊郭です。うまくやれば、関のような町並再現も可能なのになあ鞆の浦みたいになれるのになあといつも思います。京都の五番町界隈も壊滅状態ですが、遊郭だったことを恥じているから「そんなものは残さんでもええ!」ということになるのでしょうか。何処も盛時にはそれこさ金が空中を飛んでいたと思いますから、それは豪勢なこともたくさんあったのでしょうね。
小生の大叔父なども妹の着物を持ち出しては新地のおやまはんにプレゼントしていたという話が残っています。結局松島新地で死にましたが、小生などは「あっぱれ」と思うのですが。
「飛田百番」では阿倍野のソフトボールチームの忘年会で利用したことがあります。我が知り合いがそこの一番良い部屋を利用した時の写真をみせて貰ったことがありますが、立派な欄間や装飾品などそれはそれは立派な部屋の雰囲気でした。一度行こうと言い合っていましたが行けずじまいです。
福永大神、ちょつと言葉が足りませんでしたね。参拝のために手水を使うことは勿論OKなのですが、場所的にホームレスのおっさんが多く、神前でフリチンになって身体を洗うやからがいるので、そういう注意書きがなされています。
新世界串カツツアー、近いうちに計画致します。折角ですから、織田作の口縄坂辺りも見学しましょう。
「新世界」の命名は、そもそも何処から来たのでしょうか。地下鉄の動物園前にも(新世界)と書かれている様ですが。京都ではせいぜい「新地」程度です(そのはずです)。
徘徊堂さんは、行き付け(割引券などあるのでしょうか)の飛田の高齢化を悲嘆されていますが、昔、難波の某キャバレーが火事で30名ばかりのホステスが焼死した事件がありました。当時でも、地方から出稼ぎに来ている中年(所帯持ち)のホステスが多勢を占めていて話題になったものです。
忘れもしません、あの夜は近くで麻雀をしていて、窓から煙が侵入して来るのを「火事やろか?」と言いながらも卓を離れようとはしませんでした。翌朝の新聞で事件を知って愕然としたものです。罰当たりでした。
それにしても福永大神ですか、手水舍で身体を洗うな、とは何と狭量な神様。小神に宗旨代えですねぇ。それより、一度串カツ屋へ連れてください。