以前、ささ舟様が丹波の豪族(戦国大名と言っても良いと思う)である宇津氏について記載された記事をわざわざコピーして送って下さったことがありました。多分北桑田郡誌であろうと思うのですが、知らないことばっかりだったので、本当にありがたく読ませていただきました。
先日、再び取り出して読んでいたところ、宇津氏最後の当主である宇津頼重が船枝城にいたという記述がありました。以前にも読んでいるはずなのですが、やはり地名などは自分が現実に知っていると知らぬのとでは関心の度合いも異なるようで、今更ながらに驚いてしまいました。
浅学を恥じ入る次第でありますが、この船枝城というのは、昨年に初めて知った新庄城のことで、丹波八木の舩井神社近くにある城のことです。文覚池という溜池でも知られる地で、今までも何度も通った土地なのですが、神社に車を停め、宮司様の話をうかがうまでは、ただの一風景に過ぎぬ小山でありました。また、書物の中の船枝城は、どこかよく知らぬ土地ということで茫漠たる景色すら浮かんでこない文字的な知識に過ぎぬ城でした。
新庄城祉
その後、能勢氏のことを調べるうちに明智光秀の幕下に入った能勢頼次の妻が新庄城主井上氏から嫁いでいることや、新庄城が丹波守護所でもあった八木城の枝城であったこと等を知りました。多分井上氏は守護代の内藤氏の有力な家臣であったのでしょう。内藤氏衰微の後は、やはり相当に苦労しているばかりか、新興の実力者である宇津氏の風下に立たねばならぬこともあったようです。
ついこの間まで、全く知らなかったことが何時の間にか自分の関心の的になっている。人間関係のみならず、学問(といえるほど深いものではありませんが)にも合縁奇縁というか、そのようなものが確かに存在するようです。
さて、前置きが長くなりましたが(爆)、お送りいただいた北桑田郡誌の中に「一原文書」というのが記載されていて、船枝城にいた宇津頼重が明智の丹波平定戦の進行に慌てて宇津城に帰る途中に細川(京都市右京区京北細野)の武士たちに襲われて重傷を負ったという記事があります。勿論、知られているところでは知られているのでしょうが、宇津氏について、よくまとめられている書物などの中にも見ない記事ですので、その部分を読み下してみました。よく意味が取れぬところもあり、読み方が間違っているところも多いと思いますので、お気づきの点をご教示いただければ嬉しいです。西暦年号は後で入れたもので、旧字体は新字に改めました。一原文書につきましては今のところ知識がありません。
天正五(1577)丁丑の歳冬十月、余部円岡山城惟任瀧川織田信澄等の為に陥されおわんぬ。宇津右近太夫、折節舟枝城に在り。城の上の火を見、急ぎ駿馬に策(むちうち)て一騎蒐(がけ)に馳せ来たる。内藤三郎右衛門同源兵衛嚮(むか)い導く。 而して瀧川、細川の者共、瀧川武助等をして伏兵を設け半途に於いて宇津を撃たしむ。半途に於いて右近不意にして出ずる所を知らず。自ら鋒を提げて力戦し重く疵(きず)せらる。
宗徒一族郎党を始め、宇津出雲守、同信濃、同左衛門、一原内記、原外記、同小十郎、一原主水、加治兵庫、友柳小十郎、船越馬右助、達入兵部、笹江民部、山田市十郎等数輩の兵士等、討ち死にを遂げるの間、加々山帯刀、友柳小隼人、互いに相(あい)易して右近をその肩に繋けて漸(ようや)く宇津城に入る。
嘗て聞く、井上加賀守卒して後、其の嫡子伊賀守久しく其の家督を相続す。然れども其の舅、偽り欺きを為し宇津城に招き入れて之を誅す。其の子熊之助、其の甥萬五郎、及び郎徒等、安土城に至りて信長卿に嘆き訴え、父の仇を報いんと欲し、丹波の嚮導為らんとす。寛宥を垂れて以て光秀に属さしむ。右近之を聞きて畏怖し、国の興るを与え、亡滅を好むなり。
亀岡市余部の円岡城祉にある説明では、この城の落城は天正6年の6月となっています。宇津城の落城は天正7年の7月ですから、その1年前です。一原文書では天正5年10月となっていますが、今はそれを決めるすべがありませんので、このまま話を進めます。
文書によると明智光秀と滝川一益、織田信澄等が丸岡城を陥した時、宇津頼重は船枝城にいました。丸岡城が炎上する様子は船枝からも見えたのでしょう。頼重は急いで本拠地たる宇津城に戻ろうとします。一騎がけと言いながら随分と多数の家来を従えていますが、昔の記録者の多くは話を記録することが重要で、整合性というものには無頓着な感じです。まあ、大急ぎで宇津城に戻ったということです。
流石に忍者出身とも言われる滝川一益、このことを察知して細川の武士たちと身内でしょうね、瀧川武助に命じてこれを襲わせます。今、船枝と宇津という地を考えた時にやはり紅葉峠越えが最短ルートと思われます。紅葉峠、神吉どのあたりでしょうか、待ち伏せをしたのでしょうね。
頼重は不意打ちをくらって「出るところを知らず」というのは、どう逃げればよいかわからなかったということでしょう。自らも闘うハメになりました。そして「重く疵せらる」ですから重傷です。多くの家来を討ち死にさせ、自身は両肩を抱きかかえられながら辛うじて宇津城に帰り着いたとあります。戦死者のリストには宇津出雲守や信濃などもありますから、これは重臣でしょう。また、一原姓、原姓、船越姓、笹江姓の者なども興味が引かれます。この辺りの地侍をたくさん家臣に組み込んでいたということでしょうね。
頼重と船枝城の関係については、井上加賀守が亡くなった後、後を継いだ伊賀守が頼重の娘婿であったのですが、これを宇津城で謀殺し自身が城を乗っ取ったようです。武田信玄が諏訪を奪った時に似て、娘に子が出来ていたら、その子すなわち自身の孫に井上氏の家督を継がせて自分はその後見になっていたのかも知れません。
こういう場合、当然乗っ取られた側には反対勢力が存在します。それが伊賀守の息子の熊之助であり甥の萬五郎であったのでしょう。このことを織田信長に訴え、信長は両名を光秀に属させたとあります。この頼重襲撃に際しては、土地をよく知る両名は待ち伏せ場所など色々と進言したでしょうね。
最後の文はなかなか理解できないのですが、右近(頼重)がこのことを怖れたまでが事実(と記録者が認識していたこと)で、最後の最後は「折角維持していた領国を信長に与え、自ら滅亡を招いたのである」という記録者の感想でしょう。
郡誌は、このことが天正7年7月にいよいよ明智の軍が宇津に迫った時に一戦も交えずに開城した主たる理由と位置づけています。整理すると、1宇津頼重の刀創未だ癒えず籠城戦の采配ができなかった。2既に勢力圏の細川の者が離反していたわけだから明智の軍が迫るとそれまで属していた各地域の豪族達が一斉に背いたということになるでしょうか。
かの武田氏すら天目山の最後では勝頼に従う者は40名余であったとのことですから、宇津氏も戦いたくても戦えぬ状態になっていたのかも知れません。となると小生は似ても焼いても食えぬ頼重という人物、その後は上手に生きのびたのではないか等と思っていたのですが、案外あっさりと討ち取られていたかも知れません。
記述の多くが「~でしょう」とか「知れません」でしか結べないのですが、今、宇津城祉の麓の八幡宮に立って往時を偲ぶ時に血まみれになった宇津頼重を抱えて、加々山帯刀と友柳小隼人が「開門!開門!」と叫ぶ姿が見えるような気がします。主立った家来だけでも13名を討ち死にさせて帰り着いた宇津城、もはや小競り合いの域を超えて細野の郷士達と宇津氏の合戦であったと評してもよいと思います(キッパリ)。
宇津城祉
ところで、宇津と言えば、乙山師匠から「宇津村の道路元標があるはずや-。」と教えていただき、探す間もなく、「エー?」という感じで見つかりました。師匠、ひょっとしたら夜中にコッソリと置きに来たんとちゃう?もう、これこそ師匠の言われる「見れども見えず」の典型。日常の景色の中で、見ていたはずなのに目に入っていませんでした。或いは、小生が意識して見に行く時だけ地湧の菩薩の如く地べたから出てきていたりして。
となると道路元標の前の建物はかつての宇津村の村役場の跡?
今ひとつ、「神吉村の道路元標があるはずやー。」との知らせもいただいているのですが、この間に通った時は夜中でしたから、未だ見つけていません。懐中電灯を持ってあの辺りをウロウロしていたら不審者以外には見えませんし。
先日、再び取り出して読んでいたところ、宇津氏最後の当主である宇津頼重が船枝城にいたという記述がありました。以前にも読んでいるはずなのですが、やはり地名などは自分が現実に知っていると知らぬのとでは関心の度合いも異なるようで、今更ながらに驚いてしまいました。
浅学を恥じ入る次第でありますが、この船枝城というのは、昨年に初めて知った新庄城のことで、丹波八木の舩井神社近くにある城のことです。文覚池という溜池でも知られる地で、今までも何度も通った土地なのですが、神社に車を停め、宮司様の話をうかがうまでは、ただの一風景に過ぎぬ小山でありました。また、書物の中の船枝城は、どこかよく知らぬ土地ということで茫漠たる景色すら浮かんでこない文字的な知識に過ぎぬ城でした。
新庄城祉
その後、能勢氏のことを調べるうちに明智光秀の幕下に入った能勢頼次の妻が新庄城主井上氏から嫁いでいることや、新庄城が丹波守護所でもあった八木城の枝城であったこと等を知りました。多分井上氏は守護代の内藤氏の有力な家臣であったのでしょう。内藤氏衰微の後は、やはり相当に苦労しているばかりか、新興の実力者である宇津氏の風下に立たねばならぬこともあったようです。
ついこの間まで、全く知らなかったことが何時の間にか自分の関心の的になっている。人間関係のみならず、学問(といえるほど深いものではありませんが)にも合縁奇縁というか、そのようなものが確かに存在するようです。
さて、前置きが長くなりましたが(爆)、お送りいただいた北桑田郡誌の中に「一原文書」というのが記載されていて、船枝城にいた宇津頼重が明智の丹波平定戦の進行に慌てて宇津城に帰る途中に細川(京都市右京区京北細野)の武士たちに襲われて重傷を負ったという記事があります。勿論、知られているところでは知られているのでしょうが、宇津氏について、よくまとめられている書物などの中にも見ない記事ですので、その部分を読み下してみました。よく意味が取れぬところもあり、読み方が間違っているところも多いと思いますので、お気づきの点をご教示いただければ嬉しいです。西暦年号は後で入れたもので、旧字体は新字に改めました。一原文書につきましては今のところ知識がありません。
天正五(1577)丁丑の歳冬十月、余部円岡山城惟任瀧川織田信澄等の為に陥されおわんぬ。宇津右近太夫、折節舟枝城に在り。城の上の火を見、急ぎ駿馬に策(むちうち)て一騎蒐(がけ)に馳せ来たる。内藤三郎右衛門同源兵衛嚮(むか)い導く。 而して瀧川、細川の者共、瀧川武助等をして伏兵を設け半途に於いて宇津を撃たしむ。半途に於いて右近不意にして出ずる所を知らず。自ら鋒を提げて力戦し重く疵(きず)せらる。
宗徒一族郎党を始め、宇津出雲守、同信濃、同左衛門、一原内記、原外記、同小十郎、一原主水、加治兵庫、友柳小十郎、船越馬右助、達入兵部、笹江民部、山田市十郎等数輩の兵士等、討ち死にを遂げるの間、加々山帯刀、友柳小隼人、互いに相(あい)易して右近をその肩に繋けて漸(ようや)く宇津城に入る。
嘗て聞く、井上加賀守卒して後、其の嫡子伊賀守久しく其の家督を相続す。然れども其の舅、偽り欺きを為し宇津城に招き入れて之を誅す。其の子熊之助、其の甥萬五郎、及び郎徒等、安土城に至りて信長卿に嘆き訴え、父の仇を報いんと欲し、丹波の嚮導為らんとす。寛宥を垂れて以て光秀に属さしむ。右近之を聞きて畏怖し、国の興るを与え、亡滅を好むなり。
亀岡市余部の円岡城祉にある説明では、この城の落城は天正6年の6月となっています。宇津城の落城は天正7年の7月ですから、その1年前です。一原文書では天正5年10月となっていますが、今はそれを決めるすべがありませんので、このまま話を進めます。
文書によると明智光秀と滝川一益、織田信澄等が丸岡城を陥した時、宇津頼重は船枝城にいました。丸岡城が炎上する様子は船枝からも見えたのでしょう。頼重は急いで本拠地たる宇津城に戻ろうとします。一騎がけと言いながら随分と多数の家来を従えていますが、昔の記録者の多くは話を記録することが重要で、整合性というものには無頓着な感じです。まあ、大急ぎで宇津城に戻ったということです。
流石に忍者出身とも言われる滝川一益、このことを察知して細川の武士たちと身内でしょうね、瀧川武助に命じてこれを襲わせます。今、船枝と宇津という地を考えた時にやはり紅葉峠越えが最短ルートと思われます。紅葉峠、神吉どのあたりでしょうか、待ち伏せをしたのでしょうね。
頼重は不意打ちをくらって「出るところを知らず」というのは、どう逃げればよいかわからなかったということでしょう。自らも闘うハメになりました。そして「重く疵せらる」ですから重傷です。多くの家来を討ち死にさせ、自身は両肩を抱きかかえられながら辛うじて宇津城に帰り着いたとあります。戦死者のリストには宇津出雲守や信濃などもありますから、これは重臣でしょう。また、一原姓、原姓、船越姓、笹江姓の者なども興味が引かれます。この辺りの地侍をたくさん家臣に組み込んでいたということでしょうね。
頼重と船枝城の関係については、井上加賀守が亡くなった後、後を継いだ伊賀守が頼重の娘婿であったのですが、これを宇津城で謀殺し自身が城を乗っ取ったようです。武田信玄が諏訪を奪った時に似て、娘に子が出来ていたら、その子すなわち自身の孫に井上氏の家督を継がせて自分はその後見になっていたのかも知れません。
こういう場合、当然乗っ取られた側には反対勢力が存在します。それが伊賀守の息子の熊之助であり甥の萬五郎であったのでしょう。このことを織田信長に訴え、信長は両名を光秀に属させたとあります。この頼重襲撃に際しては、土地をよく知る両名は待ち伏せ場所など色々と進言したでしょうね。
最後の文はなかなか理解できないのですが、右近(頼重)がこのことを怖れたまでが事実(と記録者が認識していたこと)で、最後の最後は「折角維持していた領国を信長に与え、自ら滅亡を招いたのである」という記録者の感想でしょう。
郡誌は、このことが天正7年7月にいよいよ明智の軍が宇津に迫った時に一戦も交えずに開城した主たる理由と位置づけています。整理すると、1宇津頼重の刀創未だ癒えず籠城戦の采配ができなかった。2既に勢力圏の細川の者が離反していたわけだから明智の軍が迫るとそれまで属していた各地域の豪族達が一斉に背いたということになるでしょうか。
かの武田氏すら天目山の最後では勝頼に従う者は40名余であったとのことですから、宇津氏も戦いたくても戦えぬ状態になっていたのかも知れません。となると小生は似ても焼いても食えぬ頼重という人物、その後は上手に生きのびたのではないか等と思っていたのですが、案外あっさりと討ち取られていたかも知れません。
記述の多くが「~でしょう」とか「知れません」でしか結べないのですが、今、宇津城祉の麓の八幡宮に立って往時を偲ぶ時に血まみれになった宇津頼重を抱えて、加々山帯刀と友柳小隼人が「開門!開門!」と叫ぶ姿が見えるような気がします。主立った家来だけでも13名を討ち死にさせて帰り着いた宇津城、もはや小競り合いの域を超えて細野の郷士達と宇津氏の合戦であったと評してもよいと思います(キッパリ)。
宇津城祉
ところで、宇津と言えば、乙山師匠から「宇津村の道路元標があるはずや-。」と教えていただき、探す間もなく、「エー?」という感じで見つかりました。師匠、ひょっとしたら夜中にコッソリと置きに来たんとちゃう?もう、これこそ師匠の言われる「見れども見えず」の典型。日常の景色の中で、見ていたはずなのに目に入っていませんでした。或いは、小生が意識して見に行く時だけ地湧の菩薩の如く地べたから出てきていたりして。
となると道路元標の前の建物はかつての宇津村の村役場の跡?
今ひとつ、「神吉村の道路元標があるはずやー。」との知らせもいただいているのですが、この間に通った時は夜中でしたから、未だ見つけていません。懐中電灯を持ってあの辺りをウロウロしていたら不審者以外には見えませんし。
神吉村の道路元標は、私も全く知りません。ささ舟さんはどうでしようか。懐中電灯で探していても、最近は人も通らないでしょうから、大丈夫ではないですか。
今の季節は雪女が出るかも知れませんが、それならお望みでしょうし・・・。
余談ですが、先日電車の中で高校の先生に出会った時に聞いた話です。
明智の追求から逃れるために、苗字を変えた有力者が居るそうです。例えば、塩見→塩貝・真継・まつぎ→真継・まつぐ、などとのことです。
塩見は福知山で塩貝は園部。まつぎは宇津村でまつぐは福知山とのことです。効果のほどは知りませんが・・・。
幾年や歴史の眠る雪の里(道草)
先日、漆谷をブラブラしていたときに、この宇津氏家臣団の一人であったろう人の子孫が、大きな看板を揚げていて、思わずニヤリとしました。宇津氏亡滅後の苦労を乗り越えて、たくましくも生き残り今もその地で頑張っている。こういった方々が、過疎と言うことで土地を離れねばならなくなっている現状は考えてみれば戦国時代よりもヒドイではないか等とも思います。
道路元標の設置は多分大正9年ですが、宇津村は昭和30年まで存続したみたいですから、どれが役場であったか、また調べてみますね。
余談になりますが、縄野坂の戦いの後、光秀が山国荘を廃墟となるまで破壊したといろいろな文書が出てくるのですが、これも由緒書きのたぐいの物が多いようです。これは信用ならんでしょうね。山城研究家の高橋さんも果たして縄野坂の戦い自体に疑問を投げかけておられますし、他にも、山国荘の奪回を命ぜられた光秀が破壊する事はあり得ないといわれます。
宇津氏の活動範囲は、吉富荘(八木から宇津、周山の一部)、北は佐々江方面、東は山国荘(鳥井氏を通じての間接支配)小野郷界隈、京見峠近くの堂ノ庭城を拠点にしての京都市街地、という範囲に及んでいたと思います。今の美山は川勝氏、京北は宇津氏という棲み分けが当時の勢力図だった様ですね。
山国荘はよく登場するのですが、細川(細野)が登場する今回の話は面白く読ませて頂きました。高橋さんは光秀侵攻に際して宇津氏はそのゲリラ的活動の習性から、さっと逃亡したであろうといわれますね。大正郡誌には昔の原文もわりと多く引用されていますが、私はその部分とじっくり対決したことはなく、いつも飛ばし読みであります。さすが歴史家gunkanatagoさまでございます。
道路原標ですか。宇津のそれは中地の三叉路ですね。旧山国村と旧弓削村のは残っているが、黒田、周山、細野は道路拡幅で行方不明になったとふるさと再発見Ⅱには書かれていますね。石の道しるべについてはこの本に載っていないものについては河原林塾長に報告はしています。神吉のも是非調べて下さい。でも懐中電灯ではしない方が良いでしょう(^_')黒田百年桜の子供を作るべく前・現佐野籐右衛門親子が暗くなっても作業をしていて警察官に怪しまれたという話もありますし。
美山の川勝氏との関係で考えると神楽坂と漆谷峠の間が両氏の緩衝地帯ですね。以前に嶽山・宇津両城址にお供させていただいた時に、日吉方面の小林氏の文書の話も出ていましたが、一原文書に従えば人尾峠を越えることはできなかったが紅葉峠は越えていたことになりますね。
縄野坂の戦いはやはり無かったのですね。1580年の10月に「信長の将惟任光秀、御料所丹波山国荘の貢租を伝献す、尋で、之を誠仁親王等に頒ち賜ふ。[御湯殿上日記] 」という記事もあり、この貢租徴収へのムカツキが伝説を生んだのでは(笑)。細野の郷士達と光秀の結び付きは強く、本能寺の変・山崎の合戦が済んだ後、入ってきた秀吉勢に反抗しているようです。
道路元標、大切な文化遺産なのにアッケなく消え去ってしまうのは惜しいですね。神吉村、探してみますね。
こうして素養のある人に我が郷土のことに関心を持って貰う事を嬉しく思い感謝します。一見なんの変哲もないふるさとではありますが、一つのことに興味を持ち出すとそれは国の中央や世界情勢まで考えないと、局地的現象を理解しなえないのでとても大変な作業になります。
今回この記事を読ませて頂いたきっかけ作りというか火付け役はささ舟さんでございますね。何かを調べておられて気になった史料に目が行ったら、あ、これはこの人にと情報を与えて下さるということです。よし、おいらもどんどん渡そうっと(^_*) この情報交換というか提供は、資料館の門を叩くのとはちょっと違った、「情報」という観点から興味あることと思っています。
我が高校の同級生が美山の川勝氏のことを調べているのですが、同窓会でそれを聞き、何らかの発表をしろよ、とけしかけたのですがどうも乗ってこない。発表するとそれはよりナマの史料に近づけるきっかけを作ってくれるかもしれないのに、どうもその気になってくれません。
あるきっかけから京北の史跡などに興味を抱き始めていただいていろいろ調べたいという人と交流が出来はじめました。これはどうもかなりのオタク集団の様です。私自身は横で、ほ~っと聞いているだけかもしれませんが、案内したり資料提供をしたいと思っています。
あちこちを調べ廻っておられるgunkanatagoさま、もう少し、いやもっともっと愛猫のふるさとにも拘って頂けます様お願いします。フィールドとしてはその価値有りと思います故。
今日は生臭坊主と酒のあてにした上司・恩師を見送りに大阪へ行きます。振り返るにスルメの様な言葉をいっぱい残してくれました人でした。私事お許しを。
歴史に就きましても、発展的史観であるとかを言いだしたら面白くないので、あくまで「話」として楽しめたらと思っています。論文を読む=苦行ではあってはならないと気付くまでに随分と時間がかかりました。
美山の川勝氏、全く全く未知の世界です。どこを本拠にしていたのかとか、どのようなエピソードが伝わっているのかとか、ご友人を大いに煽って下さいね。
勿論、どこの土地にも面白い話はあるのでしょうが、やはり京北や美山、亀岡は特別です。なじんだ山があり、何といっても景色が美しいですから。
大阪行き、お疲れ様です。
今回の記事の内容はちんぷんかんぷんです、が、余部岡山城は手持ちの本『亀岡百景』の36景に地図とともに15行ほど載っていました。
K村道路元標はあたしも探してみます。
実は私事ですが、2週間前から利き手の右手首から指先までが麻痺して(使い痛み)毎日治療に通っています。まだ充分でないのですが、ぼちぼち動かそうかなと思っています。
資料、ありがとうございました。送っていただいた時も嬉しく読ませていただいたのですが、今回、船枝城が目の中に入ってきましたので、取り上げさせていただきました。
神吉、絶対に城があるだろうなと思っていたら、やはりあったのですね。道路元標は、日吉神社の近く(何と)、小学校の前ぐらいと聞いています。ささ舟様のお祖母さんが駕籠で越えられた紅葉峠、はるか昔に宇津頼重が命がけで越えていったと考えると頼重には申し訳ないけど、何か楽しいですね。
右手、大変ですが、お大事になさって下さい。