花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

宮川筋・松原通

2011年01月17日 | 徘徊情報・洛中洛外
 前回の徘徊の殆どが下水処理場やゴミ焼却場の横を通るものでありました。それはそれなりに面白いと言っても殺風景この上ない。今回は少々艶やかに行こうと宮川筋を抜けてみました。今回歩いたコースは、昨夏に師匠の案内で徘徊したところと重なるのでありますが、あの時は行った場所、撮った写真の数が多すぎて、未だに整理もつかず、この花洛にもアップできない状態が続いておりますので、今回は宮川筋と松原通の徘徊にとどめました。
 宮川筋は、どちらかというと「宮川町」という名の方が良く通っています。「宮川町の舞妓」と聞くと、あのだらりの帯が目に浮かびますが、「宮川筋の舞妓」等というと、何かイカモノのような響きがありますね。住居表示の方は今でも「宮川筋」を使うようですが、花街全体の呼称としては「宮川町」が使われていますし、通りの名も「宮川町通」等と言うようにもなっています。
 この宮川筋は、四条通からは直接入ることは出来ません。南座の辺りから川端通か大和通を南下し、一筋目の道を斜め横に入っていきます。先ずその前に。

          

 近くにある「興雲庵・陀枳尼尊天」です。本来はヒンドゥーの神でありますが、仏教に取り入れられ、我が国に於いては稲荷神と習合したものです。大変威力のある神で、徳川家康なども篤く信仰したということです。伏見稲荷が近い近いのに豊川稲荷を勧請してあることで、三河の神様=家康のふるさとの神様ということで納得です。けれども、その雰囲気は、お稲荷さんにお参りしているというよりも、やはりインド神話の女神に見参という感じが強くします。第一、豊川稲荷はお寺であります。

          

 その近くには、建仁寺があります。ここらをウロチョロとしているといつまでたつても本題に入れませんので、宮川筋に戻りましょう。この宮川筋の「宮川」とは、どこを流れてんねんと思いますが、これは鴨川の別称だそうです。けれども、本当に極めて狭い範囲でしか通じないことです。未だ鴨川を宮川と呼ぶ者に会いしことなしと申す処。

          
          建仁寺

 雨に濡れた石畳も美しい通りです。またまた話は脱線しますが、後ろを振り返ると「蛸長」、京おでんの店です。ここのおでんをアテにチロリで温められた酒を飲むときは本当に幸せです。織田作の「夫婦善哉」に書き残された大阪のおでんの老舗が完全に名前負けしている感があるのに対して、ここのはウマイ。最近は、若い女性が一人で来て、おでんをアテに燗酒をチビリチビリとやる姿も見られます。けど店が開くまで未だ半日あるので待つわけにはいきません。

          

          
          蛸長

             

 勿論、この辺りには御茶屋と置屋がたくさんあります。けれども今回目についたのは、ニセ舞妓を仕立てる店が増えていることでした。何か花街の命取りになるような気もしますが、空いた町家を利用して商売を始められても組合は強く出られないのでしょう。変な風俗店が増えるよりはマシということでしょう。真っ昼間、白川沿いなどを正装で歩いている舞妓などは殆どがニセ舞妓なので、諸兄だまされぬように。

          
          舞妓はんの名がならぶ

          
          お茶屋さん

          
          検番と女紅場

 また、この辺りは昔からの路地と京町家が多く残っているところでもあります。今回、昔からの井戸が未だ使用されていることに初めて気づきました。京は奥が深おすえー。

          

             

          
          ポンプ1号

          
          ポンプ2号 この機能美を見よ

 舞妓さんの名刺は「お金がマイコむゆうて、縁起よろしいんどっせ。」ということで縁起物です。

          

 宮川筋は、松原通で再びクランクのように曲がっていかねばならぬのですが、気がついたらいつの間にか五条通(現在の)に出ています。師匠曰く「五条通から南は伏見稲荷の縄張りや」と。本日は、豊川稲荷にお参りしましたので伏見さんは失礼させてもらいます。「とりーかーじ」、「よーそろー」。けれども全然歩き足らぬいうことで大和通から松原通を西に進むことにしました。

          
          五条通からの宮川筋

 本来ならば、松原通ならば清水寺の門前から歩き始めるのが良いのですが、まあ原則にはこだわらずということで、先ずは松原橋を渡ります。これが本来の五条橋です。清水~五条天神間を「牛若丸と弁慶の道」と称してウロウロするのもいいかなと思います。けれども、基本的には清水寺の坊主は嫌いだし、門衛にはかつて恋路を邪魔されたからなあ。

             

 松原橋を渡ってすぐの処に趣のある焼き芋屋さん。

          

 しばらく行くと、南岩倉、松原不動です。桓武天皇が平安建都の際に四方の岩倉の下に経文を埋納したという伝承があります。宝ヶ池以北、同志社高校がある辺りを岩倉というのは、このうちの北岩倉が語源となっています。
 さらに進むと菓子の材料屋さんや金箔屋さんなど、なかなか趣の深い店が見られます。新撰組隊士の色恋話を残す因幡薬師を右手に眺め、さらに西に進みます。

          

          

          

          
          因幡薬師

 烏丸通まで来ました。この辺りは藤原俊成の屋敷のあったところです。薩摩守平忠度が都落ちの前に俊成の屋敷を訪ねて歌を託した話はよく知られています。今は道路の端に小さな俊成社が残るのみです。

          
          俊成社

 新玉津島神社は北村季吟が神職を務めたところ、国学の聖地でもあります。ここも俊成つながりかと思われます。最近読んだ本で知ったのですが、江戸時代に人々は何で「源氏物語」を読んでいたのかというと、季吟の「源氏物語湖月抄」で読んでいたとのことです。芭蕉翁の師匠ということでもよく知られた人です。かつて近江を徘徊していたときに北村という集落があり、季吟がそこの出身で「北村の北村さんだった」と知ってちょっとびっくりしたことがありました。
 丹波亀山藩京屋敷の跡には小さな祠があります。いつもは鍵がかかっているのですが、本日は開いていました。

             
             新玉津島神社
 
             

 さらにしばらく行くと、親鸞聖人寂滅地を経て五条天神です。このお社、今は随分と境内も狭くなったそうです。義経記にある義経と弁慶の話は、この松原通を軸に描かれています。話は五条天神から清水寺までの線からはみ出ていません。

             

          
          五条天神

 このあたりの漬物屋で赤カブを買いました。随分と流行っていて、「日野菜がうまいんやけどなあ、売り切れてん。」といいながら赤カブを包んでくれました。この赤カブ、なかなか美味でありました。
 さて堀川通りを越えると、人々に大事にされている地蔵さんがあり、それより西はもはやこれというものはありません。大宮通を越えると、寺町の感がしてきました。多くの寺の中では京都所司代の板倉勝重が建立したという長圓寺が目を引くぐらいです。江戸時代初期の行政・司法家としての名声は高いものがあります。けれども難波合戦の後はちょっと寝覚めが悪かったのかな。

          
          長圓寺

 松原通を西大路まで歩きましたが、本日はここまで。「するめのテンプラ」を食いに西院から阪急に乗って高槻に向かうべきや、ここで「くし八」の開店を待つべきや、河原町に引き返して一杯やるべきや、平成22年の悩み納めでもありました。           


6 コメント

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舞妓の贈り物・・・? (道草)
2011-01-06 17:17:13
若かりし頃の薄給の我々は、こうした通りは横目で掠めながら、もう少し上の通りを出没したものです。御茶屋などまるで御縁がありませんでしたが、いつでしたか、テレビで茶屋遊びを放映する場面があって、我が社の重役が映っていたことがありました。この一族は遊び人で通っていましたので、さもありなんと納得して観てましたけど、その割りに、社員の給料は低かったと思われます。
昨今は女装の男がテレビを席巻していますので、舞妓姿で遊ぶ男が近い内に出現しそうです。それにしても、徘徊堂さんは舞妓の名刺を沢山持っておられますけど、御茶屋へ上って、そのたびに貰われたのですか?御利益は必ずあると思いますヨ(根拠はありませんけど)。

「最後の舞子ちゃん」   白川 淑

おちょぼから 仕込みさん
なにもかも辛抱どした
一本立ちになるまでは……
そらァ しんどぅおしたえ
おこぼの歩き初めは ほんまにこわおしたえ
「水揚げしとおくれやした旦那はんのお蔭どっせ……
きっぱりと 好きなぼんのこと忘れますぅ
しゃらんしゃらん 鈴振って
辰巳のお稲荷さんに誓いました

町と 里と
ちょびっとしか離れてしまへん
そやのに ここは もう
遠いとおい 余所のくにどす

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最近は (gunkanatago)
2011-01-17 14:42:09
 道草様、超特急のコメントをありがとうございました。また、アップが遅くなりすみませんでした。
 とてもとても、お茶屋遊びなど出来る身分ではありませんよ。最近は、社用族という種が概ね絶滅して、舞妓さんもあちらこちらに出かけなくてはならないようです。もしよろしければ、6月ぐらいに「名刺ちょーだい」と参りましょうか?
 舞妓さんの髷は地毛ですので、正装をしていないとき、ちょっと買い物などのときもすぐに分かりますが、やはり厳しく仕込まれているためか動作が上品です。
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懐かしい所 (ささ舟)
2011-01-18 13:44:17
こんにちは。烏丸から東の松原通りはわりに通りますのに、(富小路松原の西南角が我が家の本籍地です)知らないお寺や神社ばかりです。因幡薬師が新撰組と関係あるとは知らずに毎月8日に広くない境内で「手作り市」やライブが開かれるので、ついでがあるときは冷やかしに行くぐらいです。
丹波亀山藩京屋敷の跡もあるのですね。次は気をつけて歩きます。
松原橋近くの「鮒鶴」は丁度50年前に挙式「お嫁さん」になった所です。
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婚儀 (gunkanatago)
2011-01-18 15:15:47
ささ舟様、コメントをありがとうございます。本籍地、京都の中の京都ですね。「鮒鶴」での挙式、本当によき日本ですね。お祖母さんが駕籠で紅葉峠を越えて嫁いでこられた話もじわーと「いいなあ」と思いますが、あの町中での宴もいいですね。やはりどなたかが高砂などを謡われたのでしょうか?朗々とした声が鴨川にまで聞こえてきたりして。今のホテルでの披露宴は、演出過多でいやらしいときすらあります。
 因幡薬師、新撰組の芹沢鴨が乱暴した話は有名なのですが、色恋ごとは何が典拠なのか、また師匠に聞いておきます。
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宮川の由来は? (mfujino)
2011-01-20 21:16:23
gunkanatagoさま、今回もどんなルートを歩かれたんやろうかと地図を見てました。私はここらへんは全く歩いたことはないです。祇園界隈はちょっとだけ歩きましたけど。それにしても京の町はもう全体が寺町ですね。祇園の夜の上得意はお寺さんというのも頷けます。
あの狭い路地を歩くとポンプが残っているのですね。何とか跡もいっぱいですし。鴨川が宮川というのも面白い。何で宮川なんやろうかと気になります。宮というからには神社ですよね。それとも宮中の宮かしら。
ただちょっと気になったのが、神戸みたいな地震が来たらこりゃ京の街は焼け野原やなあああと思いました。松原通でしたか、都市計画で昔の通りとは違うとか、、NHKの番組で見た様な気がするのですが。
蛸長のおでん食べたくなりました。京都はおでん屋さんが少ない様に思いますけど。
雪が凍ってなかなか溶けなくて気が滅入っています。昨日の雪掻きでまだ筋肉が張っています(*_*)
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地震が来たら (gunkanatago)
2011-01-21 13:44:15
 mfujino様、コメントをありがとうございます。雪かき、お疲れ様です。小生も真夜中に、何とか車を駐車場に入れられるようにしました。今は、10センチぐらいまでに減っています。夜は窓の外が異様に明るくて、雪灯りというのが本当にあるんやなあと思いました。
 宮川の由来は、鴨川の四条大橋を下ったところで祇園祭の神輿(鉾や山ではないのでしょう)を洗ったところからだというのが一般的な説明になっています。普通は何かお宮さんがあって、その横を流れる川とか、そういう風に思いますが、どうもそうみたいです。
 松原通は、本当の五条通で、今の五条通は秀吉が方広寺参詣道として本来小さな道であったものを整備したみたいです。秀吉は思っている以上に京都をいじくっていますね。
 蛸長のおでん、一度食べに行きましょう。ただ、最近は日曜日は休みかも知れません。開店と同時に行かないと8席ぐらいしかありませんので、入れません。
 地震はおっしゃる通りで、神戸級のものがきたら壊滅ですね。京都が上に乗っている大きな岩盤と免震ゴムの代わりを果たす莫大な地下水に期待しなくては仕方がありませんね。
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