以前に尼崎の戸の内をウロウロしたとき、猪名川と藻川の合流するところで、行基菩薩が鯉に乗って川を渡る伝説、それがためにこの辺りの人は鯉を食わぬという習慣を知りました。そのときは十三の方に向かってしまったので、その鯉を食わないということの大本の言い伝えが豊中の椋橋総社に伝わるものだということは、帰宅後に知りました。その後、やはり鯉に関する禁忌を伝える亀岡の大井神社に参拝しましたが、となるとやはり椋橋総社にも参拝せねばならぬとの意を強くしました。
本日は庄内駅からぶらぶらと歩いていきます。電車から見ている限り、駅前の商店街は随分と栄えているように見えるのですが、実際に歩いてみると何か閑散としています。
商店街を抜けたところで、家の前に出ておられたお婆さんに椋橋総社への道を尋ねましたが、「そんなん、聞いたことも無い。」との返事。近いはずなのに「???」という感じでしたが、「庄内神社なら近くにある。」と教えてくれたので、先ずは庄内神社にお参りすることにしました。
お婆さんが「小学校の横を抜けていけ。」と教えてくれた庄内小学校、知る人ぞ知る庄内式土器の出土地です。弥生式土器と土師器をつなぐもので、大和朝廷の形成史にも随分と出てくる名前ですが、これについては知識を咀嚼して自分のものとは為し得ていませんので、ボロを出す前に次に進みます。
庄内神社は明治39年にこの辺り一帯の神社を一つにまとめて創始されたお社です。ですから、お伊勢さん、八幡さん、八坂さんと多くの神さんが祭られています。合祀前の各神社について記したパンフレットをいただきましたが、これはこれでおもしろそうです。本日は末社のえべっさんの初戎の準備で多くの方が境内におられました。
そのまま南下して広い道路に出て、それを西に進み、阪神高速と阪急神戸線を越えた辺りが「庄本」、椋橋庄の中心地域で、ここに椋橋総社が鎮座されています。
こちらのほうも「えべっさん」の準備が為されていました。庄内ゑびすに対してこちらは庄本ゑびすというそうです。後鳥羽上皇の寵姫であった白拍子「亀菊」の名にちなむ亀菊天満宮に天神さんとえべっさんが祀られています。この時期、ゑべっさんは神社の経済にも大いに福をもたらしてくれるようです。今の時代にあっては、各神社は何としてでも勧請したい神様でしょう。
この近辺の戎社には事代主命と蛭子神の両方が祀られています。ちなみに全国のえべっさんの元締めである西宮神社は蛭子神、京都のえべっさんは事代主命、福娘で知られる大阪の今宮ゑびす社も事代主命です。それぞれが他の神々も合祀していますが、えべっさんそのものはこの二柱のいずれかです。してみると、この辺りは大阪の勢力圏と西宮のそれとが融合し合う地域ですから、「ややこしいし、両方祀っとこ。」ということになったのかも知れません。小生の大好きな折衷主義であります。
1221年、後鳥羽上皇は亀菊に与えた椋橋荘(24ヶ村からなるといいますから広大です)の地頭の罷免を幕府に要求しました。幕府がこれを拒否したことが上皇が倒幕の挙兵に踏み切る直接のきっかけとなりました。この亀菊さん(伊賀局)は後鳥羽上皇が流された隠岐にまで付いていったそうです。おそらく最終的に上皇を看取ったのもこの女性でしょう。
さて、素戔嗚尊は高天原からこの地まで鯉に乗って猪名川を遡上してこられたということで、その鯉がここで力尽きて死んだので、埋めたところが鯉塚になっています。
行基の時代には勿論椋橋庄は成立していませんが、伝承的には行基を鯉が渡したのは、このお社の神意と言うことになると思います。現在にまでこの禁忌が残っているのは行基に関係の深い尼崎の戸の内で、かつての椋橋庄全域の人々がこれを守っているということはありません。ただその戸の内も、現在では別に神社を建てているとのことです。素盞鳴神社がそのお社でしょうね。神社が管轄する地域(師匠などはこれを縄張りと言われる(笑))、かつては広大な椋橋庄全域であったので総社と言うのでしょう。今はその中の庄本一か村だけになっているようです。
また、より古い伝承(といっても時代設定が古いということで伝承そのものが生まれたのが古いかどうかは分からない)としては、神功皇后が三韓征伐の前に神々を集めたという「神前松原(かんざきのまつばら)」の碑も建てられていました。神功皇后は素戔嗚尊と並んでこのお社の祭神となっておられます。
さらに詳しいことを知ることが出来ないかと宮司さんにもお伺いしたのですが、「なんちゃらという本があって…。」とおっしゃり、こちらも「なんちゃらですか?調べてみます。」とええかげんな会話です。宮司さんのお母さんが社務所の中で探して下さいましたが、見つかりませんでした。ここで暦を授与して頂きました。神社の暦を見るのは本当に久しぶりです。
鯉池は上空にもネットが張られ、カラスなどの襲撃から幼魚を守っています。並河といい戸の内といい素晴らしい習慣が続いているものです。小生も一生鯉を食わないと宣言できます。
天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に反したときには、このお社も兵火に罹ったと言うことです。池田筑後守(勝正?)なるものが獅子頭を奉納したというのは、これより前でしょうか、後でしょうか?その後、大正5年にも火災があり、現在の社殿は大正6年(1917)の再建です。それでも100年近くなりますね。大正も遠くなりにけり。
池田氏の名前が出てきたので、池田を思い出しました(笑)。そういえば、このところたこ焼きを焼いていません。ということで本日の徘徊はここで打ち切り、池田市に向かいました。
久方ぶりのたこ焼き、今日は上手に焼けませんでした。日々これ精進、少し怠ると技量は下がる。たこ焼きと云えども侮ることなかれ。お店は昨年の暮れに無銭飲食の被害にあったそうです。犯人は未だ捕まっていませんが、見つけ次第射殺すべきです。
池田の商店街も閑散としています。入ったことはありませんが昔からの化粧品店兼小間物屋も3月で店じまいとのことです。小生はなるべく量販店ではものを買わずに個人商店を利用するようにしていますが、本当に蟷螂の斧。けれども化粧品店には用事はありませんわなぁ。
本日は庄内駅からぶらぶらと歩いていきます。電車から見ている限り、駅前の商店街は随分と栄えているように見えるのですが、実際に歩いてみると何か閑散としています。
商店街を抜けたところで、家の前に出ておられたお婆さんに椋橋総社への道を尋ねましたが、「そんなん、聞いたことも無い。」との返事。近いはずなのに「???」という感じでしたが、「庄内神社なら近くにある。」と教えてくれたので、先ずは庄内神社にお参りすることにしました。
お婆さんが「小学校の横を抜けていけ。」と教えてくれた庄内小学校、知る人ぞ知る庄内式土器の出土地です。弥生式土器と土師器をつなぐもので、大和朝廷の形成史にも随分と出てくる名前ですが、これについては知識を咀嚼して自分のものとは為し得ていませんので、ボロを出す前に次に進みます。
庄内神社は明治39年にこの辺り一帯の神社を一つにまとめて創始されたお社です。ですから、お伊勢さん、八幡さん、八坂さんと多くの神さんが祭られています。合祀前の各神社について記したパンフレットをいただきましたが、これはこれでおもしろそうです。本日は末社のえべっさんの初戎の準備で多くの方が境内におられました。
そのまま南下して広い道路に出て、それを西に進み、阪神高速と阪急神戸線を越えた辺りが「庄本」、椋橋庄の中心地域で、ここに椋橋総社が鎮座されています。
こちらのほうも「えべっさん」の準備が為されていました。庄内ゑびすに対してこちらは庄本ゑびすというそうです。後鳥羽上皇の寵姫であった白拍子「亀菊」の名にちなむ亀菊天満宮に天神さんとえべっさんが祀られています。この時期、ゑべっさんは神社の経済にも大いに福をもたらしてくれるようです。今の時代にあっては、各神社は何としてでも勧請したい神様でしょう。
この近辺の戎社には事代主命と蛭子神の両方が祀られています。ちなみに全国のえべっさんの元締めである西宮神社は蛭子神、京都のえべっさんは事代主命、福娘で知られる大阪の今宮ゑびす社も事代主命です。それぞれが他の神々も合祀していますが、えべっさんそのものはこの二柱のいずれかです。してみると、この辺りは大阪の勢力圏と西宮のそれとが融合し合う地域ですから、「ややこしいし、両方祀っとこ。」ということになったのかも知れません。小生の大好きな折衷主義であります。
1221年、後鳥羽上皇は亀菊に与えた椋橋荘(24ヶ村からなるといいますから広大です)の地頭の罷免を幕府に要求しました。幕府がこれを拒否したことが上皇が倒幕の挙兵に踏み切る直接のきっかけとなりました。この亀菊さん(伊賀局)は後鳥羽上皇が流された隠岐にまで付いていったそうです。おそらく最終的に上皇を看取ったのもこの女性でしょう。
さて、素戔嗚尊は高天原からこの地まで鯉に乗って猪名川を遡上してこられたということで、その鯉がここで力尽きて死んだので、埋めたところが鯉塚になっています。
行基の時代には勿論椋橋庄は成立していませんが、伝承的には行基を鯉が渡したのは、このお社の神意と言うことになると思います。現在にまでこの禁忌が残っているのは行基に関係の深い尼崎の戸の内で、かつての椋橋庄全域の人々がこれを守っているということはありません。ただその戸の内も、現在では別に神社を建てているとのことです。素盞鳴神社がそのお社でしょうね。神社が管轄する地域(師匠などはこれを縄張りと言われる(笑))、かつては広大な椋橋庄全域であったので総社と言うのでしょう。今はその中の庄本一か村だけになっているようです。
また、より古い伝承(といっても時代設定が古いということで伝承そのものが生まれたのが古いかどうかは分からない)としては、神功皇后が三韓征伐の前に神々を集めたという「神前松原(かんざきのまつばら)」の碑も建てられていました。神功皇后は素戔嗚尊と並んでこのお社の祭神となっておられます。
さらに詳しいことを知ることが出来ないかと宮司さんにもお伺いしたのですが、「なんちゃらという本があって…。」とおっしゃり、こちらも「なんちゃらですか?調べてみます。」とええかげんな会話です。宮司さんのお母さんが社務所の中で探して下さいましたが、見つかりませんでした。ここで暦を授与して頂きました。神社の暦を見るのは本当に久しぶりです。
鯉池は上空にもネットが張られ、カラスなどの襲撃から幼魚を守っています。並河といい戸の内といい素晴らしい習慣が続いているものです。小生も一生鯉を食わないと宣言できます。
天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に反したときには、このお社も兵火に罹ったと言うことです。池田筑後守(勝正?)なるものが獅子頭を奉納したというのは、これより前でしょうか、後でしょうか?その後、大正5年にも火災があり、現在の社殿は大正6年(1917)の再建です。それでも100年近くなりますね。大正も遠くなりにけり。
池田氏の名前が出てきたので、池田を思い出しました(笑)。そういえば、このところたこ焼きを焼いていません。ということで本日の徘徊はここで打ち切り、池田市に向かいました。
久方ぶりのたこ焼き、今日は上手に焼けませんでした。日々これ精進、少し怠ると技量は下がる。たこ焼きと云えども侮ることなかれ。お店は昨年の暮れに無銭飲食の被害にあったそうです。犯人は未だ捕まっていませんが、見つけ次第射殺すべきです。
池田の商店街も閑散としています。入ったことはありませんが昔からの化粧品店兼小間物屋も3月で店じまいとのことです。小生はなるべく量販店ではものを買わずに個人商店を利用するようにしていますが、本当に蟷螂の斧。けれども化粧品店には用事はありませんわなぁ。
色んな神様が登場しますけど、あちこちよく似ているなあとも思いますね。
その中で共通性と独自性に目を懲らしてその地方を浮かび上がらせるのがgunkanatago流というものなのでしょうが、ここでは鯉ですか。思えばこの辺り大昔は、というかそう遠く無い昔まではあちこちに川が流れるまさにデルタ地帯だったのでしょうね。そういう意味ではもっと水やら魚を祀ったり、それに関する言い伝えがあると思うのですが。国造りの大国主命は登場しないのでしょうか。行基さんの時代まで待たないといけないのかしら。大国主さんはせいぜい京都盆地あたりまでしか登場しないのでしょうか。
鯉ねえ、先日奥飛騨の宿の夕食に鯉の洗いが3枚出てきましたので、余り好きではないのですが懐かしさで我が口の中に入ってしまいました。山国では鯉は贅沢な食材だったと思いますね。ナマズなら、、。まあ天然の鰻を食って栄養補給をしていたんでしょうね。
昔、信州にスキー旅行に行った時、佐久のサービスエリアで鯉の洗いを酢味噌で、、。鯉の洗いを食べた数日後、松本の飲み屋で、蜂の子やイナゴの佃煮もいただきました。私は00を食べたという事実を作りたい人間なんですね。だから旅先で食堂などに入ると、まずその土地にしかない、珍しいものをお品書きからさがします。うまい、まずいに関係なく、食べてみることに意義があると考えるわけであります。私に食のタブーはありません。好き嫌いがあるだけです。
私は今、ベトナムの田舎で永住生活の途上ですが、この性格のために、いろいろ助かっている面もあります。上品な日本のご婦人からすれば、ゲテモノといわれるような食べ物でも、尻込みしたことが、いまだありません。村人たちから酒の強さとともに、「ん、やるな、この日本人」と思われています。(笑)
村の肉料理はアヒル、鶏、豚、牛、犬、猫、山羊、蛇、鯉、川蟹、タニシなどです。みんな食べましたよ、しかもにこやかに。(笑)犬、猫の肉はペットを飼っている人にはきびしいかも知れませんね。
ハードルの高いものとしては、アヒルの血のスープがあります。新鮮な血に、砕いた内臓を混ぜ、ゼリー状になったものに落花生(豆)を砕き入れて食べます。すっぽんの生き血と変わらず、臭みなしです。さらにハードルが高いのが、チュン。ビッ・ロンというもの。アヒルの卵で、雛が孵化する寸前を熱湯に入れて煮殺して食べるというもの。ゆで卵の雛入りです。フィリピン、カンボジア、タイにもある精のつく料理です。食べる際の留意事項は、死んだ雛の顔をまじまじと見ないことです。 異文化交流をたやすそうに言ういう輩には、「あっ、そう。じゃちょっと、このチュン。ビッ・ロン食べてみません?」と言いたくなります。
人間の味覚というのはたいへん保守的で、小さい頃からなじんできた食べ物を美味しいと感じる。新奇なものは受けつけにくいです。日本にいる外国人で日本の納豆、梅干などを食べる人はえらいと思います、臭い発酵食品やすっぱい食品はとくに食べつらいと思うからです。ベトナムにも食のタブーはあります。聖なる日、すなわち先祖の供養をする毎月1日、20日、そして正月5日間はアヒル、犬、猫、山羊の肉は食べません。品目ではなく時期のタブーです。(いずれも旧暦です)。
鯉、たべたらダメですよー。大井神社に行かれて急にお腹が痛くなったりしたら絶対にそれです(爆)。基本的には食べ物に限らず「自分にとって嫌なことはしない」というのが元気に生きるコツだと思います。
おやー、庄内のお好み焼き屋さん。もしかしたら入ろうと思ったところかも知れませんね。実は池田に行くべきか、ここで食うべきか真剣に悩んだところです。前にスイスとかいう喫茶店がありました。ひそかに店の名を教えて下さいね。
ちなみに、たまに亀が釣れることもありますが、その時は針を外して川へ逃がしてやります。ただ、先輩の悪童が、亀を川原で焼いて食べているのを見たことがあります。ただ、アジはどうなのかは聞き漏らしましたけど。
大人達が深い淵へ潜って〝引っ掛け〟で鯉を獲るのが羨ましくて仕方ありませんでした。我が家の大人はそんな手腕がありませんでしたので、遂に鯉を食する機会が無く、過ぎてしまいました。当時(今も?)の村では、鯉は最上の部類に走るオカズではなかつたでしょうか。
自分が大人になって、何処かの料理屋で鯉濃や鯉の洗いを食べた経験は何度かあります。中々のモノでしたが。
gunkanatagoさんは死ぬまで(死んでも)鯉は食わないとご宣告されていますが、まあ、鯉を食べなくても死にませんし。
鯉を禁忌としたのは、やはり神聖な魚としての謂れがあるのか、或いは食物として不都合な性質を持っているのか、なのでしょうか。鯉に関する禁忌を調べて見ましたら、下記のものが散見されました。
鯉の頭に毒あり、又脊の両の筋の黒血毒也
鯉と紫蘇と同食すへからす/鯉と小豆と同食すへからす/鯉と蕎麦と同食すへからす 又麦醤も也
五月 鹿 韮 肥濃 煎餅 端午日 一切の菜 并鯉魚を食すへからす
ついでに酒との禁忌は下記の如しです。
麪(ムギ)を食して後に酒をのむへからす のめは麪しかたし 若のむへくは先に山枡の粉を酒に入れ一盞のめは客をなさゞる也
白酒飲みては諸の甘物を忌也/白酒を飲みては韮を食すへからす/白酒と牛肉を同食すへからす/酒後に紅柿(ジュクシカキ)同食すへからす/灰酒と蟹と同食すへからす/酒後にくるみ食すへからす/酒後に からし食すへからす
これらは、一体何なのでしょう?尚、たこ焼きは、いついかなる時に食べても同時に酒を飲んでも大丈夫の様です。
そうか、ベトナムの田舎と言われるので、ものすごく牧歌的なものを想像していましたが、なかなかに悲愴ですね。浮舟様の如くタフな精神の持ち主でなければ、なかなかやっていけませんね。定年後、東南アジアに移住した人が結局は帰ってくる人が多いということがよく分かりました。それはお書きいただいたように、納豆を食わされる在日外国人も同じかも知れませんね。下手物を用意して、それを招かれた人が食えるかどうかを楽しむというのは卑陋な精神だと思います。
小生は基本的には「嫌いなものを食うのは身体に悪い」と考えています。子供の好き嫌いを無くそうとして、結局子供の寿命を縮めていることに世の人は気付くべきだと思っています。まあ、食糧事情が良いということが前提にはなりますが。食うものがたくさんある時は無理して嫌なものを食うことは無いと言うところですね(笑)。
鯉はいろいろとタブーの多い魚なのですね。鯉と蕎麦がアカンというのは、信州辺りでは「ヒェー」という蕎麦屋もあるのではないかと思います。
酒の禁忌、誰だ!こんなことを考えたヤツは。と言う感じですね。「うどんと酒」もアカンことになるし、おでんに芥子もダメですね。小生などはパンでも饅頭でも酒を飲みますから、麦はアカンと言われてもーと言う感じです。たこ焼きも原料は小麦粉。
こちらからは阪急電車に乗る機会が少なく、今回の庄内も地図を見て、ああ、ここだなと確かめましたが、全く未知のところです。この春は久方振りに宝塚歌劇に誘われています。ウキウキです。
大井神社とよく似た謂れがあるのですね。鯉、地元の方は他所で食べてもお腹痛おこすそうですね。
私は釣りそのものが余り好きでないです。もちろん釣りはしませんが。子どものころ戻りの付いた針から鮒をはずすのを見て気持ちが悪くなりましたから。
歳とともに淡白になりました。お造りなどの生ものも強いて欲しいとは思いません。好きなものを好きなように頂くのが何よりのご馳走で滋養になると信じています。
大井神社の氏子の方達は徹底していますね。やはり神様が見ているということでしょうか。うちの氏神様は情のこわい方で、ここから嫁入りした女の子は必ず帰ってくるといわれています。そういえば、夫君を連れてにせよ、離婚してにせよ多くの人が戻ってきています。うちの母もだんな付きですが、戻ってきたクチです。
宝塚歌劇、いいですね。宝塚近辺の事情に疎くて、良い情報がないのが残念です。先日、久しぶりに炭酸煎餅を食べました。昔は劇場までの道で売っていましたが、今はどうなのでしょうか。あっ!観劇後、有馬温泉まで足を伸ばされるのもいいかも知れませんね。意外に近いです。駅前からバスが出ています。
阪急電車、ささ舟様が乗られるとしたらJR嵯峨嵐山から阪急嵐山まで歩いてというのが一番近いように思います。途中でおいしいネギ焼きも食べることが出来ますし(笑)。