本日の徘徊の出発点はJR奈良線の玉水駅、何と何と快速が停まるのですが、駅周辺は開いている店が全くありません。閉まっている食料品店の前でボーとしていると、お婆さんが3人、「何か欲しいんか?声かけてみぃ。」等と心配してくれます。別に用は無かったのですが、待ち合わせの時間までだいぶありますので、うまそうなものがあれば食おうかなと思っていた程度です。なかなか親切な人たちで、町の第一印象は「大いに良し」であります。
駅の西にある道標
最初のスポットは蛙塚、長い引用で恐縮ですが、鴨長明の無名抄に「井手の川づと申す事こそ様ある事にて侍れ。世の人の思ひて侍るは、たゞかへるをば皆かはづと云ふぞと思へり。それも違ひ侍らね共、かはづと申すかへるは、外にはさらに侍らず、只井手の川にのみ侍るなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず、世の常のかへるのやうにあらはに跳り歩くこともいとせず、常に水のみ棲みて、夜更る程にかれが鳴きたるは、いみじく心澄み、物哀なる声にてなん侍る。春夏の此必ずおはして聞き給へ。」とあるやつです。この地域のキーワードは「蛙と山吹とサクラ」であります。
蛙塚
残念なことに、この色黒きようで大層大きくもない「かはづ」は昭和28年の水害以後姿を消し、絶滅したと考えられています。この蛙塚のあるところでは、難しいでしょうが、少し離れたところにある玉川でなら十分棲息できるのではと思います。
橘諸兄(684~757)は、この辺りを根拠地としていたようで、諸兄についての多くの伝承が残されています。井手左大臣とも呼ばれる諸兄が建立した井提寺は大部分が田圃の下でしょうが、説明板が設けられている一画があります。当時氏寺の建立は一つのステイタスシンボルでありました。母が賜った「橘」の姓、これを強く意識した造寺でしたから、ものすごく立派な寺が建てられていたに違いありません。
井提寺跡
寺はこの下に眠る
玉津岡神社に向かう途中には小野小町塚、塚石の形状は如何にも奇怪で、小町のイメージには程遠い。石柱には「墓」とあります。
小野小町がどこで死んだかと言うことについては分からないのですが、そこはそれ、自分の所を贔屓したいところ、説明には「小野小町終焉の地は諸説ありますが、「冷泉家記」に「小町69歳井手寺において死す」と、また、「百人一首抄」に「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」とあるので、信憑性は高い」とあります。
その場はそれで納得したのですが、「ちょっと待てー」。…先ず「冷泉家記」というのが何であるのかはっきりしません。藤原定家の「明月記」を指すのかも知れませんが、仮にそうであっても小町の時代からは400年ほどが過ぎています。「百人一首抄」に至っては世間で知られる「応永抄」なのか「宗祇抄」なのか「幽斎抄」なのか、はたまた自分で勝手に抄出したものなのか、とっても怪しいのであります。最も古いといわれる「応永抄」に記述があっても、小町の時代からは550年ばかり経っています。したがって、仮に明月記、応永抄に説明板の如き記載があっても小町の死から400年~550年後の京都の貴族社会に「小町は井手で死んだ」という認識があったということは言えても、はっきりと小町が井手で死んだという根拠にはならない。
ということで、古典を引用して「わが町の小町塚こそホンモノ」と主張しようとした目論見は見事に潰え、まあ小町塚も他の地域のものとそうは変わらんということになります。けれども、それを別に非難しようとかいう気持ちは全くありません。地元の人には厳然これは「小町の墓」なのであります。
小町塚前の坂を登り詰めると玉津岡神社、境内は綺麗に掃き清められています。社殿は最近檜皮が吹き替えられて、本当に美しいお宮さんです。下照姫という女神を主神とするにふさわしき宮といえます。
手水場も蛙
社殿のかえるまたに当たるところにはレリーフが施されていますし、隅には蛙が座っています。正面は「松に鶴」フンフン、こちらから見て右手は「竹に亀」フーン、左手は「梅にコウモリ」ナニー!これは大きな宿題となっています。御由緒を知る方は手を挙げて下さい。
梅にコウモリ
神社の少し下手にしだれ桜が有名であるという地蔵院、ここから見える景色は確かに過ぎし日、畠山義就と政長がひつこく戦いを繰り広げた南山城の大地です。こやつらに比べたら、アカンと見たらすぐに腹を切る戦国時代後期の武将はヒョッコちゃん。その代表は織田信忠や遂に戦場に出ることの無かった豊臣秀頼などです。城兵のために腹を切るというのも自殺したい自分に理由を付けているみたいで線が細い、こやつらはそんなことは絶対にしません。「えーか、わしは逃げるからお前らも逃げろ、みんなでワーと出たら奴らは追いかけては来ん!」という感じ。十重二十重に囲まれて「シャーナイなぁ」と腹を切るときでも息子は逃がします。
玉津岡神社から玉川を越えて橘諸兄旧宅址に向かいます。途中、下調べにはなかった「大安寺瓦窯跡」、これだから徘徊はおもしろい。大安寺は官寺ナンバー1であった大官大寺の後身、井提寺との関係はどうなるのでしょう。同行者は桑の実をめざとに見つけて口に入れ始めます。さすがに欠食児童集団。口がムラサキになるまで食べるんやーと悪童のころに戻っています。
桑の実
諸兄の旧宅は竹藪の中にあります。3年ぶりですが、3年前と全く変わっていません。藪蚊に刺されるところまで全く同じ。
諸兄邸から1㎞ほどのところに玉井頓宮址の六角井戸、この付近にも諸兄の邸宅があり(というより諸兄旧宅ちゅうのは墓でこちらのほうが邸宅、多分旧宅の辺りは発掘調査をしたわけでもないでしょう。)、聖武天皇が行幸されたので頓宮と名づけられています。
さて、ここからは地福寺を探してちょっとウロウロ、古い集落の中だから分かりにくい。このところ、このウロウロは毎度のことになっています。
地福寺境内
南行して木津川市に入ります。高倉神社は平家追討の令旨を出し、源三位頼政と宇治で戦い、敗北後に興福寺に向かわんとして、この地で討たれた以仁王を祭神とし、本殿入り口に宮内庁管轄の御陵があります。多分日本一小さな御陵でしょう。丁度境内では宮参りの赤ちゃん、両親、祖父母が訪れていて和やかな雰囲気でした。お婆さんはしきりに恐縮がって「どうぞお参りをして下さい。」と言って下さいます。こちらこそオッサン集団の闖入は随分とご迷惑だったでしょう。
高倉神社の南には筒井浄妙の墓、これが一応は以仁王墓陪冢ということになっています。宮内庁もしょうむない小手先の技を使うものです。が、そのおかげで小さな墓が残っています。
筒井浄妙は先ほどの宇治の戦いにおいて、一来法師と先陣争いをした僧兵、一来は宇治で戦死しますが、浄妙もここで以仁王に殉じたのでしょうか。先陣争いの有様は祇園祭の浄妙山となっているということを師匠に教わって初めて知りました。そうか、ここで来月の徘徊である祇園祭と結びつくか(詠嘆)。浄妙山見ざるべからず。
綺原神社、その横に今回の徘徊では最もメジャーな蟹満寺、ただ蟹満寺は全面的に立て直されていて、たまにしか来ない者の身勝手な感想ですが、興趣を削がれたので拝観せずに去ります。「遠目には梅雨の晴れ間の里の寺(羅休)」。
蟹満寺遠望
山城古道とやらを歩き、不動川を渡ります。最近、何テツというのでしょうね。車体や時刻表は無視、鉄路とその周辺環境テツとなっている師匠が不動川トンネルを褒めます。草創期の鉄道事業は、各所で良い仕事をしています。不動川は完全な天井川、堤防に上がり水路を見てズッコケました。
不動川
棚倉の駅前に一夜にして神苑が地より現れたという涌出宮、何か法華経の一節を思い起こさせます。「延喜式社」という言い方は恥ずかしいからやめましょうね。ご本殿の前で、師匠の邪馬台国概説(特殊講義かな?)を拝聴します。本当にこういう時間がいいですね。ついでに志賀島出土の金印の怪しい話も、小生は亀井南冥(金印偽作事件の首謀者とされる)の名前がいつも出てこないのですが、即座に出てくる師匠、立派です。
ご本殿
邪馬台国云々の話が出てきたのは、椿井大塚山古墳が近いからです。その昔、三角縁神獣鏡が32面も出たことと、小林行雄氏の研究によって一挙に有名になり、考古学・歴史学の徒に椿井大塚山詣でを為さしめた前方後円墳ですが、今はだれもいません。三角縁神獣鏡もその後ワンサカ出土しましたね。この古墳から奈良線を見るときには何故かいつも旅情が湧きます。
椿井大塚山古墳後円部
同前方部・民家が建っている
古墳を切断して走る奈良線
すぐ近くの松尾神社には全国一古い塀が残っているということ。ただ、最近になって神社の横にラジコンカーを走らせるサーキットが作られ、お参りの間もものすごい音がしています。ありゃいつか神さんが怒らはるでー。平成のころ、里人の顔に謎のブツブツが…というような話が生まれるのでは。杞憂であればよいのですが。
鎌倉時代の塀という
上狛の環濠集落に入ってきました。お約束の井戸を見学します。先ほど少し触れた両畠山氏の争い、狛氏や椿井氏などこの地域の国人達も巻き込まれていきました。そういう中で戦いに倦んだ国人が結束して両畠山氏を追い出すという山城の国一揆がおこりました(1485)。環濠集落はそういう武装独立集落の名残、今もこの環濠内で多くの人が暮らしておられます。ここにきて、何時も思うのは何か「一揆」というと階級闘争と考える人が未だ世の中には棲息しているようですが(殆ど絶滅)、国人層が抱える人的経済的な資源の豊かさはどうだということです。国一揆は、食うや食わずの貧農が立ち上がったものではない。というより、貧農が立ち上がった一揆なんか本当にあるのだろうか。
応仁の乱後の南山城の国人層の戦い、実におもしろいのですが例によって錯綜しています。こいつを整理して書くとなると大変なので、本日はご容赦願います。
予定では高麗寺跡までということでしたが、そろそろビールが恋しくなってきました。次回ここに来るときには高麗寺から始めます。飲むも何も、この辺りには何もありませんから、伏見に行って地ビールを飲むことにします。ウー、ここから伏見まで小一時間もかかるということは知らなんだー。奈良線遅すぎる、と思ったら単線でしたね。おかげで、ピールはメチャメチャウマイものに感じられました。
駅の西にある道標
最初のスポットは蛙塚、長い引用で恐縮ですが、鴨長明の無名抄に「井手の川づと申す事こそ様ある事にて侍れ。世の人の思ひて侍るは、たゞかへるをば皆かはづと云ふぞと思へり。それも違ひ侍らね共、かはづと申すかへるは、外にはさらに侍らず、只井手の川にのみ侍るなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず、世の常のかへるのやうにあらはに跳り歩くこともいとせず、常に水のみ棲みて、夜更る程にかれが鳴きたるは、いみじく心澄み、物哀なる声にてなん侍る。春夏の此必ずおはして聞き給へ。」とあるやつです。この地域のキーワードは「蛙と山吹とサクラ」であります。
蛙塚
残念なことに、この色黒きようで大層大きくもない「かはづ」は昭和28年の水害以後姿を消し、絶滅したと考えられています。この蛙塚のあるところでは、難しいでしょうが、少し離れたところにある玉川でなら十分棲息できるのではと思います。
橘諸兄(684~757)は、この辺りを根拠地としていたようで、諸兄についての多くの伝承が残されています。井手左大臣とも呼ばれる諸兄が建立した井提寺は大部分が田圃の下でしょうが、説明板が設けられている一画があります。当時氏寺の建立は一つのステイタスシンボルでありました。母が賜った「橘」の姓、これを強く意識した造寺でしたから、ものすごく立派な寺が建てられていたに違いありません。
井提寺跡
寺はこの下に眠る
玉津岡神社に向かう途中には小野小町塚、塚石の形状は如何にも奇怪で、小町のイメージには程遠い。石柱には「墓」とあります。
小野小町がどこで死んだかと言うことについては分からないのですが、そこはそれ、自分の所を贔屓したいところ、説明には「小野小町終焉の地は諸説ありますが、「冷泉家記」に「小町69歳井手寺において死す」と、また、「百人一首抄」に「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」とあるので、信憑性は高い」とあります。
その場はそれで納得したのですが、「ちょっと待てー」。…先ず「冷泉家記」というのが何であるのかはっきりしません。藤原定家の「明月記」を指すのかも知れませんが、仮にそうであっても小町の時代からは400年ほどが過ぎています。「百人一首抄」に至っては世間で知られる「応永抄」なのか「宗祇抄」なのか「幽斎抄」なのか、はたまた自分で勝手に抄出したものなのか、とっても怪しいのであります。最も古いといわれる「応永抄」に記述があっても、小町の時代からは550年ばかり経っています。したがって、仮に明月記、応永抄に説明板の如き記載があっても小町の死から400年~550年後の京都の貴族社会に「小町は井手で死んだ」という認識があったということは言えても、はっきりと小町が井手で死んだという根拠にはならない。
ということで、古典を引用して「わが町の小町塚こそホンモノ」と主張しようとした目論見は見事に潰え、まあ小町塚も他の地域のものとそうは変わらんということになります。けれども、それを別に非難しようとかいう気持ちは全くありません。地元の人には厳然これは「小町の墓」なのであります。
小町塚前の坂を登り詰めると玉津岡神社、境内は綺麗に掃き清められています。社殿は最近檜皮が吹き替えられて、本当に美しいお宮さんです。下照姫という女神を主神とするにふさわしき宮といえます。
手水場も蛙
社殿のかえるまたに当たるところにはレリーフが施されていますし、隅には蛙が座っています。正面は「松に鶴」フンフン、こちらから見て右手は「竹に亀」フーン、左手は「梅にコウモリ」ナニー!これは大きな宿題となっています。御由緒を知る方は手を挙げて下さい。
梅にコウモリ
神社の少し下手にしだれ桜が有名であるという地蔵院、ここから見える景色は確かに過ぎし日、畠山義就と政長がひつこく戦いを繰り広げた南山城の大地です。こやつらに比べたら、アカンと見たらすぐに腹を切る戦国時代後期の武将はヒョッコちゃん。その代表は織田信忠や遂に戦場に出ることの無かった豊臣秀頼などです。城兵のために腹を切るというのも自殺したい自分に理由を付けているみたいで線が細い、こやつらはそんなことは絶対にしません。「えーか、わしは逃げるからお前らも逃げろ、みんなでワーと出たら奴らは追いかけては来ん!」という感じ。十重二十重に囲まれて「シャーナイなぁ」と腹を切るときでも息子は逃がします。
玉津岡神社から玉川を越えて橘諸兄旧宅址に向かいます。途中、下調べにはなかった「大安寺瓦窯跡」、これだから徘徊はおもしろい。大安寺は官寺ナンバー1であった大官大寺の後身、井提寺との関係はどうなるのでしょう。同行者は桑の実をめざとに見つけて口に入れ始めます。さすがに欠食児童集団。口がムラサキになるまで食べるんやーと悪童のころに戻っています。
桑の実
諸兄の旧宅は竹藪の中にあります。3年ぶりですが、3年前と全く変わっていません。藪蚊に刺されるところまで全く同じ。
諸兄邸から1㎞ほどのところに玉井頓宮址の六角井戸、この付近にも諸兄の邸宅があり(というより諸兄旧宅ちゅうのは墓でこちらのほうが邸宅、多分旧宅の辺りは発掘調査をしたわけでもないでしょう。)、聖武天皇が行幸されたので頓宮と名づけられています。
さて、ここからは地福寺を探してちょっとウロウロ、古い集落の中だから分かりにくい。このところ、このウロウロは毎度のことになっています。
地福寺境内
南行して木津川市に入ります。高倉神社は平家追討の令旨を出し、源三位頼政と宇治で戦い、敗北後に興福寺に向かわんとして、この地で討たれた以仁王を祭神とし、本殿入り口に宮内庁管轄の御陵があります。多分日本一小さな御陵でしょう。丁度境内では宮参りの赤ちゃん、両親、祖父母が訪れていて和やかな雰囲気でした。お婆さんはしきりに恐縮がって「どうぞお参りをして下さい。」と言って下さいます。こちらこそオッサン集団の闖入は随分とご迷惑だったでしょう。
高倉神社の南には筒井浄妙の墓、これが一応は以仁王墓陪冢ということになっています。宮内庁もしょうむない小手先の技を使うものです。が、そのおかげで小さな墓が残っています。
筒井浄妙は先ほどの宇治の戦いにおいて、一来法師と先陣争いをした僧兵、一来は宇治で戦死しますが、浄妙もここで以仁王に殉じたのでしょうか。先陣争いの有様は祇園祭の浄妙山となっているということを師匠に教わって初めて知りました。そうか、ここで来月の徘徊である祇園祭と結びつくか(詠嘆)。浄妙山見ざるべからず。
綺原神社、その横に今回の徘徊では最もメジャーな蟹満寺、ただ蟹満寺は全面的に立て直されていて、たまにしか来ない者の身勝手な感想ですが、興趣を削がれたので拝観せずに去ります。「遠目には梅雨の晴れ間の里の寺(羅休)」。
蟹満寺遠望
山城古道とやらを歩き、不動川を渡ります。最近、何テツというのでしょうね。車体や時刻表は無視、鉄路とその周辺環境テツとなっている師匠が不動川トンネルを褒めます。草創期の鉄道事業は、各所で良い仕事をしています。不動川は完全な天井川、堤防に上がり水路を見てズッコケました。
不動川
棚倉の駅前に一夜にして神苑が地より現れたという涌出宮、何か法華経の一節を思い起こさせます。「延喜式社」という言い方は恥ずかしいからやめましょうね。ご本殿の前で、師匠の邪馬台国概説(特殊講義かな?)を拝聴します。本当にこういう時間がいいですね。ついでに志賀島出土の金印の怪しい話も、小生は亀井南冥(金印偽作事件の首謀者とされる)の名前がいつも出てこないのですが、即座に出てくる師匠、立派です。
ご本殿
邪馬台国云々の話が出てきたのは、椿井大塚山古墳が近いからです。その昔、三角縁神獣鏡が32面も出たことと、小林行雄氏の研究によって一挙に有名になり、考古学・歴史学の徒に椿井大塚山詣でを為さしめた前方後円墳ですが、今はだれもいません。三角縁神獣鏡もその後ワンサカ出土しましたね。この古墳から奈良線を見るときには何故かいつも旅情が湧きます。
椿井大塚山古墳後円部
同前方部・民家が建っている
古墳を切断して走る奈良線
すぐ近くの松尾神社には全国一古い塀が残っているということ。ただ、最近になって神社の横にラジコンカーを走らせるサーキットが作られ、お参りの間もものすごい音がしています。ありゃいつか神さんが怒らはるでー。平成のころ、里人の顔に謎のブツブツが…というような話が生まれるのでは。杞憂であればよいのですが。
鎌倉時代の塀という
上狛の環濠集落に入ってきました。お約束の井戸を見学します。先ほど少し触れた両畠山氏の争い、狛氏や椿井氏などこの地域の国人達も巻き込まれていきました。そういう中で戦いに倦んだ国人が結束して両畠山氏を追い出すという山城の国一揆がおこりました(1485)。環濠集落はそういう武装独立集落の名残、今もこの環濠内で多くの人が暮らしておられます。ここにきて、何時も思うのは何か「一揆」というと階級闘争と考える人が未だ世の中には棲息しているようですが(殆ど絶滅)、国人層が抱える人的経済的な資源の豊かさはどうだということです。国一揆は、食うや食わずの貧農が立ち上がったものではない。というより、貧農が立ち上がった一揆なんか本当にあるのだろうか。
応仁の乱後の南山城の国人層の戦い、実におもしろいのですが例によって錯綜しています。こいつを整理して書くとなると大変なので、本日はご容赦願います。
予定では高麗寺跡までということでしたが、そろそろビールが恋しくなってきました。次回ここに来るときには高麗寺から始めます。飲むも何も、この辺りには何もありませんから、伏見に行って地ビールを飲むことにします。ウー、ここから伏見まで小一時間もかかるということは知らなんだー。奈良線遅すぎる、と思ったら単線でしたね。おかげで、ピールはメチャメチャウマイものに感じられました。
南山城、のんびりしていていいところです。今度は田辺の一休寺辺りを中心に組み立ててみようかなと思っています。また、宜しくお願いします。
環濠集落は、比較的多いのですが、環濠が残っているかどうかがポイントです。大阪の平野や奈良の稗田などは有名です。上狛は1485年に始まる山城国一揆で大きな役割を果たしているのでよく知られていますし、集落内の道などが多分そのままで残っています。
今回いちばん見たいなと思ったのは環濠集落という場所で、興味深々であります。
折角お誘い下さいましたのに都合が付かず失礼しました。
蟹満寺、これは一方的にお寺さんが気の毒です。我々は南山城の朽ち果てようとするような鄙びた寺を求めていく。けれども村の人たちからすれば、先祖さんから大切にしてきた寺が少しでも立派になれば嬉しい。基本的には、我々の方がもう何百年か経ってから訪ねればいいのですが、それは無理ですね。
ですから、まあ我々としては、自分が好むような寺を自分の努力で探していけばいいわけで、ポッと訪ねた我々が蟹満寺にモンクを連ねるのは向こうからすれば「別に来て欲しいとも言ってないのに…」と言うところでしょうか。
弓削の寺が勅願所というのはムチャクチャ無理がありますね。ちょっとしたことがきっかけで、話は膨らんでいきますね。
蟹満寺は金満寺でしたか。なんか司馬遼太郎が永平寺を避け宝慶寺にページを割いていることを思い出しましたね。それでも蟹満寺の逸話は面白いですね。あの話の蛇って誰やろう?蟹は?なんで蟹なんやろう?
小野小町の墓はたしか丹後半島にもありましたね。山口県には楊貴妃の墓がありますし。
地元の歴史を勉強されている山村さんと話していたのですが、弓削の福徳寺、なんで弓削道鏡が来たとか書いてるけど、とか、孝謙天皇の勅願寺なんてどう思う、社伝にとか由緒書とか、ええ加減なもんやでととか仰っていました。第一教科書に書いてあることも全部信用したらあかんでと言われていましたが、成る程と頷いていました。山村さんは最近弓削の歴史年表を自費出版されたのですが、僅か100年もならない過去のことが何年に、というのに資料を調べたら3件それぞれが違った年を書いている。これを何年の出来事かと載せるのに調べ直したり時間がとられたと言っておられましたね。
JR奈良線、桜井線沿線は歴史ファンにはしょっちゅうお世話になる線ではないでしょうかね。この沿線の社寺はJRと組んで宣伝したらもっと参拝者が増えるのに(^_・)
今回もgunkanatago節を楽しませて頂きました。
大規模古墳は、我々から見たら古墳ですが、歴史時代の大部分の時間を通じて近隣では「山」と認識されたようで、民家になったり、城として利用されたり、墓地になったりしています。そういう意味では、宮内庁の御陵指定は意味があるのかも知れません。安閑天皇陵でしたか、中世には高屋城として畠山氏の根拠地にもなりました。
湧出宮、お宮さんは異体字にこだわっているようですが、何か意味があるのかなと思います。それならば、徹底して新字体を使わないなどの信念を持っているのかなというところですね。戦前から研究をされていた支那学の先生方(概ね亡くなられましたが)などは、戦後の字体の改訂に随分と腹を立てられていたようで、新字体を書くと、「そんな字はない!」とか言って、怒られたりしました。当然なども當然と書かねばならないのですが、医を醫、声を聲などとするのは本当に面倒くさいですね。
蛙塚は半世紀前の水害で河鹿は絶滅したとの説明ながら、何故この由緒ある場所を外観だけの復活に留めているのか。50年間もあれば、何とか河鹿の棲息復活に漕ぎ着けられたのではないか、と今回の徘徊の最初にして最大の疑問でした。
蛍の復活は各地で見られますのに、むしろそれより生命力の強そうな河鹿ではないのか、と思われます。何かが誰かが怠慢なのでしょう。玉津岡神社を含め、井手の象徴の一つはやはり蛙だと強く思いましたのに・・・。この神社の蝙蝠の飾り彫刻が、今回の最大の謎なのは酒目の一致するところとなったようです。是非、解明して下さい。
小町終焉の場所であるのは、墓石は奇妙ながら(晩年の老衰を象徴している?)説明を読んで何と無く信じようと思う気持ちになりました。ただ、あれからの途中にあった桑の実は、昔食べた実に比べると小さくて、それ程甘くはありませんでした。今は桑の実など食べる人も居なくて、自ら身(実)を細めているのかも知れません。
諸兄の旧宅跡は静かで、もっと時間を潰したい様な場所でした。尤も、何処もかも静かで、日曜日なのに、六角井戸の近くで1組の夫婦に出会った切りでしたが。
由緒ある蟹満寺は改装中で残念でした。ただ、今でも全体に派手で造りで金満寺の印象を受けてしまいました。それより、邪馬台国の夢は、計りしれないものがあります。いつかは全貌が分かる時が来るのか、それとも永久に歴史の中に埋没したままなのか。発掘の可能性はどうなのでしょう。
この「湧出宮」の宮の字は、ウ冠の中は「呂」ではなくて口が2つですか。これは明治神宮の宮も口が2つだけど、そんな漢字が無いので、宮の字を使用している、と聞いたことがあります。この事情は、歴史博士にお任せ致します。
それにしても、椿井大塚山古墳に立つ民家は、何とかならないものでしょうか。家が建った経緯は知りませんけど、あの下を掘ればかなりの秘密が眠っている気もするのですが。住んで居るのが自分ではないから、気楽に言いますけど。
松尾神社は、如何にも古式ある神社らしい神社に見えました。横の騒音屋は無許可でしようか?町全体に騒音が響き渉っていましたが。放置されているのが不思議です。それにしても、大里環濠の井戸にも驚きました。民家の駐車場になり果てていますが、以前の徘徊でも、入り口が露地になった民家の奥にある祠を見たことがありました。こうした遺物はいつか埋没する運命にあるのではないですか。
当日は3万歩弱の手(足ですが)頃な徘徊となり、仕上げの一献(百献?)で満足したことでした。有り難うございました。