花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

呉服(くれは)座の復活

2010年10月18日 | 徘徊情報・摂津国
 二階建て映画館(スクリーンが2面ある)の嚆矢とも言えた池田中央映劇、地方の映画館として随分と頑張っていたのですが、とうとう閉鎖となりました。思えば遥かな昔、1階でキングギドラ云々という東宝の怪獣映画を上映、健康的な小学生であった小生なども喜んで見に行ったのですが、入り口でガキどもがずっと列んでいる(自分もガキでしたが)。列ぶことが大嫌いな小生は、ためらわずに2階に上がり「コマンド戦略」なるB級戦争映画を見て帰りました。それ以後、映画は戦争映画と西部劇以外は見なくなりましたから、わがアイデンティティ(そんなものがあるならば)を作ってくれた大切な映画館でした。
 さて、その跡地はどうなるのやらと思っていたら芝居小屋の呉服座が復活するとのことです。40年ほど前まで、猪名川畔にあった呉服座、今は愛知県犬山市の博物館明治村に移築されています。映画館の改装ですから、あのような形での復活はできませんが、その名を受け継ぎ、こけら落としには大衆演劇を呼んでくるようです。向かいは落語ミュージアムですから、時には寄席も開かれることでしょう。大衆演劇には全く興味のない小生ですが、近隣のお年寄りは喜ぶのではないかなとは思います。

          
          呉服座跡

 呉服座跡から呉服橋を渡ったところには川西座がありました。今は呉服橋の説明碑が建っている辺りです。この川西座は阪鶴鉄道の池田駅跡に建てられたそうなのですが、ちょっと詳しいことは判りません。この川西座は何と3階席まである映画館でした。但し、3階は座敷になっていました。それがいつの間にかピンク映画専門になり、そしていつの間にか消えていきました。

          
          川西座跡

 この川西座から西に百メートルほどの処には新町映劇というのもありました(今のみつなかホール付近)。ディズニーの作品はここが封切館だったように思います。川西市の映画館は遥か昔に無くなり、池田からもまた消え去りました。今般復活する呉服座には何としてでも頑張ってもらわねばなりません。つり提げられた提灯、その期待を現すが如くこの近辺の商店の名が連なっています。

          
          五月山、手前は中橋。

 中橋まで北上し、少し西に入ると小戸(おうべ)という集落があります。何ということもないのですが、ここらにある長屋も築100年は超しているのではと思われます。老朽化しても潰すには惜しい段階に入りつつあります。今は、下にうどん屋が入るこういった長屋の住民たちもかつての呉服座の客だったし、狭い道にも旅芸人たちが幟を立てて音曲を響かせながら入ってきたのでしょう。村はずれでバクチをうっているバアサンたちは何かソワソワとし始め、嫁かず後家のおばちゃん等は舞台に投げるテープを急いで買いに行く。親は子供に「アトついていったらアカンでー」と注意する。オッサンどもは「うちのかあちゃん、また役者の袖を引きにいきよる。」と渋い顔。昔は呉服座で芝居を観て、創業元治元年の吾妻でうどんを食べることが何よりの贅沢だったようです。そういったささやかなことを喜べぬ社会にはいつ頃からなっていったのでしょうか?

          
          中橋の近く、川西市小戸のうどん屋。きつね390円。

 呉服座閉鎖時の木戸賃は大人150円だったように覚えています(うそかも知れませんが)。新・呉服坐、開館は11月で木戸賃は1900円、大衆演劇とやらは好みの点からは気が進みません(ダイラケの漫才にしてくれ)が、1度や2度は見に行かねばなるまいと思っています。ほんで大衆演劇にはまったりして。


8 コメント

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そうみたいですね。 (gunkanatago)
2013-12-29 16:12:50
 Unknown様、コメントをありがとうございます。以前に川端にあった芝居小屋(現在明治村に移築)は「くれはざ」でしたから、絶対にこれだと思っていましたが、どうも「ごふくざ」であるようだというのは最近知りました。「えー?」という感想です。「くれはざ」の復活ではなくて「ごふくざ」の創設になってしまいますね。
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最近知りました (Unknown)
2013-12-29 12:56:02
新しい芝居の呉服座の名前はは、ずーっとくれはざだと思ってたら、実は「ごふくざ」だったんですね~
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消え去る映画館 (ginkanatago)
2010-10-25 13:46:57
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。足の方のご快癒まで今少しかと思います。この秋の五月山は難しいでしょうが、明年は御案内したいと思います。
 池田には、他にも駅前に1館、さらに明治座という映画館もありました。本当に消え去るときは一瞬でバタバタバタと閉館した印象がありますが、じっくり思い出してみると1館が消えた後も他の映画館は5年10年と頑張っていたように思えます。
 それにしても、芝居小屋で産気づかれた話はそのまま物語にできそうですね。瞼の母、中山道番場宿の寺に「番場の忠太郎」の墓まで造られているのに驚いたことがあります。
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Unknown (Unknown)
2010-10-24 16:43:34
池田のシンボル五月山にご案内して頂いたころはハクレンや紅梅のキレイな時でした。晩秋の五月山もそれは見事な彩りであろうと、想像いたします。池田は夫とそれこそサツキの苗木を買いに貴田農園に行きました。45年前のことです。
昔有ったものが再び蘇るというのは、其れなりの理由があり、地域の意気込みも大変なものでしょう。永く続きますことを願うばかりです。
当地も東京オリンピック位までは、映画館以外に商店街の真ん中に芝居小屋が2箇所ありました。
「国定忠治」「一本刀土俵入り」「瞼の母」などの幟がパタパタなびいていました。それにタマに駅前の空き地にサーカスやプロレス、相撲まで、何でも来いの時代でした。
恥ずかしいことに、私は地元の朝日座で「一本刀土俵入り」を、芝居好きの親戚のお婆ちゃんと観ていて産気づきました^^お笑いですよね!
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池田のこと (gunkanatago)
2010-10-20 14:00:21
 mfujino様、コメントをありがとうございます。池田は戦後すぐの時期に五月山の麓に団地が造られました。それ以後はニュータウンの造成は殆どなくて、隣の川西市がどんどんと人口が増えていくのに対して、常に10万人程度で推移してきました。20年ほど前に伏尾台が造成されましたが、阪急バスの乗り場を見ても伏尾台行のバスが満員ということもありませんので、それほど大きな規模のニュータウンではないようです。
 商店街の様相を見るとゆっくりゆっくりと衰退している感じで、ホンモノの呉服座があったころは商店街の飲食店は午前1時頃まで店を開けていても客があったということです。それだけに商店街の人々は呉服座の復活に大きな期待をかけているようです。天神橋筋商店街の1丁目2丁目辺りは繁昌亭のおかげで明らかに通る人が増えています。巷ではB級グルメに期待する人も多いようですが、池田を代表する食い物、小生にとってはたこ焼きですが、ちょっと思い浮かびません。
 隣の川西市ですが、林業が栄えていた頃は京北の方がはるかに都会だったと思います。役者と逃げた奥さんの話や、おこし1枚の姿で賭博の容疑で引っ張られていくバアサン連中の話などが残っています。
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何を求めて人は動く (mfujino)
2010-10-20 04:57:10
gunkanatagoさま、 本拠地池田のレポートですね。呉服座をクレハとは普通読めないですよね。ただ、、呉春が入ったのでみんなで呑もうと言われてクレハルオフと呼んだり、呉春くれはる?なんて駄洒落を言ったりしておりました私には懐かしい響きであります。
池田といえば人口は増えているのでは?とも考えますが、町の様相は変わっていますよね。池田は人の流れが変わってきているのですよね。人口が増えたといってもそれはニュータウンが出来、お父ちゃんはバスや電車で大阪市内の職場へ通う、買い物は駅前などのショッピングモールやスーパーに出かける、というスタイルですね。大きな建物の中は賑わっていても、昔の様に街が賑わうという流れではないと思います。ニュータウンが出来て統計数字は増えてもて賑わっている様に見えても、そこは安息の場所だけでしょう。人がどこからともなく集まってきてカオスというか混沌として次に何が?というわくわく感のある状態は、ショッピングモールなどの近代的な建物の中では感じられないですよね。
映画館は我が小学生時代には京北の周山にもありました。あちこちを巡る劇団が臨時の芝居小屋で興行をしたこともありました。その時は村人は夜を楽しみに出かけて行きました。
村おこし、町おこし、商店街の活性化、、、これが叫ばれるのは地方の問題と思われがちですが、大都会のど真ん中や、昔のニュータウンでも進んでいますね。千里などは典型例でしょう。ちょっと上空に上がって俯瞰すればこれもカオスなのかもしれませんが。これは人口の問題でもありますが、人が何を求めて何処へ移動するのかということではないのかしら。今回の西の鯖街道講座に参加された人の反応を見ながら、何で金を払ってまでこの講座に参加されるのかしら?それを紐解かないと、などと思いながら、呉服座閉館と復活のことなどを読ませて頂きました。
支離滅裂なコメントお許し下さい。
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映画のことなど (gunkanatago)
2010-10-18 20:20:21
道草様、コメントをありがとうございます。ベータのテープが3千本?、すごいライブラリーです。今やVHSですら見ることが少なくなりましたが、小生など「トラトラトラ!」や「空軍大戦略」など数本の映画しか持っていないのに、それが見られなくなったと文句を言っております。DVDにおとせばいいのかも知れませんが、それもまた何時までのことやらというところで、結局書物がいちばん良いのかも知れません。ただ、古い本でボチボチ活字が消えかかっているのもありますから、ことは厄介ですね。
 千本通はお書きになっているように寂しくなる一方です。千中ミュージックの復活など余程にダイナミックな改革が為されない限り凋落傾向からは逃げられないのではと思います。新世界の繁栄など参考になるのではとも思います。
 ダイラケ、いとこい、精緻なしゃべくり漫才が今は懐かしいです。呉服座では、落語会も行われると思いますから、その時には見に行こうと思います。
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幻の劇場復活。 (道草)
2010-10-18 18:06:13
池田の呉服座跡へ案内してもらって、もうずいぶん経ちました。その呉服座が復活するのは嬉しいにニュースではないですか。京都も前回の虱潰紀行に書いておられました如く、千本通~西陣京極の凋落は目を覆いたくなります。最近は、二条駅周辺に映画館が復活しているようですが。
私達の餓鬼の頃の最大の娯楽は映画でした。西陣京極で初めて観た「猛進ロイド」は、無声映画でしたが、腹が痛くなるほど笑いました。大衆演劇は、京極に花月劇場があって、終戦直後に漫才を見に連れてもらった記憶があります。荒川芳博・芳坊(若き日のいとし・こいし)が出ていました。
疎開した宇津村では、3カ月に一度くらいの間隔で、青年団が小学校の行動で映画を上映しました。子供は20円でしたが、何とかしてタダで・・・と苦心惨憺したものです。先日亡くなった池部良の「暁の脱走」は、2度も観ました。山口淑子が出ていましたから赦せますけど。
八木へ引っ越してから、園部小学校で浪曲の出し物があり、梅中軒鶯童が真打となっていましたのに、直前に、急用で来られなくなった、とあまり知らない曲師が代打で出るなど、ずいぶんいい加減なものでした。今でも腹が立ちます。八木映劇へは、高校生になっても、帽子の徽章を中学に付け替えて、子供料金で入るのに艱難辛苦したものです。
学生時代は3本立て100円の5番館くらいの所を一日に2軒梯子するなど(市電に乗って九条辺りまで行きました)、落第生でした。
今は録画したテープ3千本東西の名画を網羅していまいすけど、如何せんベーターです。死ぬまでに到底見切れません。もう、諦めました。別に漫才も何本かあって、ダイラケもあります。呉服座復活から、余計な方向へ反れてしまいました。申し訳あれりません。削除して下さい。
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